他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

【短編】桜色の乳首の桜の樹の下で

 春先某日、俺はある大きな桜の樹の下にいた。この桜の樹は学校の中では「愛し守りの樹」と呼ばれていて、この樹の下で告白すると必ず恋愛が成就する、という触れ込みだった。
 なぜ俺がこんなそんな場所にいるのかって?
 それは――憧れの同級生、壬生野さんにここへ呼び出されたからだった。今朝登校して靴箱に手を入れると、乾いた感触が上履きの中に潜んでいた。その表には『成道くんへ』の文字、裏面には『壬生野』の署名。達筆とも丸文字とも言い難い、独特の筆跡は彼女のものに間違いなかった。都市伝説だと思っていたラブレターなるものの存在を、この身に初めて突きつけられた瞬間だった。幸い、他のクラスメイトは脱靴場に居合わせず、人目に触れずに直ちに懐に滑り込ませることに成功した。
 その書簡を朝のホームルーム前にお手洗いでこっそり開封してからこの方、俺の頭の中は「放課後、愛し守りの樹の下に来てください」の文言でいっぱいになっていた。他にも何か書いてあったと思うのだが、この一文で俺諸共舞い上がりどこかへ散逸してしまった。現代文で線を引くべきは、筆者が主張したいことだという。それならば、この一文に線を引いておけばともかく要旨を見失う事はないはずだ。
 今日ばかりは、校内にあまり友達が多い方でないのを感謝せずにはいられなかった。衆多の中で振舞うことになっていたら、決して神経質とは言えない俺は間違いなくボロを出していただろう。一秒が永遠にも感じられる一日を終え、今、来たるべき瞬間に向けて呼吸を整えているところだった。
 耳のすぐ裏に心臓があるかのようだ。どくどくと打つ早鐘は、チャペルの塔で鳴り響いているそれか? もう部活動の終了時刻からはしばらく経っている。下校途中の学生に見咎められて変に詮索されたり囃し立てられたりといったことはないものと思いたいが――。
 気を張って立っていると、どうしても頭の中で考えを巡らせてしまう。事態は相手が来てからでないと始まらない。俺もこういうの慣れてるわけじゃないし、っていうか初めてだし、ちょっと頭を冷やそう。あんまりかっこ悪いところを見せたくないしな。俺は緊張で硬くなった身体を背後の樹に凭せ掛けた。
「――ぁん♡」
「……?」
 今、なんか変な声がしなかったか? 気のせいか? 樹だけにな。なんつって。依然居心地が悪い俺は、行儀が悪いけれど、体重を預けた姿勢のまま体をもぞもぞさせる。
「ふぁ♡」
「っ!」
 今度は確実に聞こえた。幾分か鼻にかかったような甘い声――これは一体?
 体の向きを反転させて、背中を当てていた位置に目を凝らしてみる。すると。
「ん? 何だこのぽっち?」
 ごつごつした樹木らしい茶色の中に特異的に浮かぶ、目立ってピンクの滑らかな突出した部分があった。突起の周囲だけ、異様に滑らかだ。
「つん」
「あふんっ♡」
「!?」
「ちょっとあんた、さっきから何他人のビーチク触ってくれてるわけ!?」
 どこからともなく、されど少なからぬ怒気をはらんだ声が聞こえてきた。
「はあ!? ビーチク!?」
 ビーチク。……乳首?
「これが――乳首?」
「ちょ、やめなさいよ、正面切ってモロに言われると恥ずかしいじゃない」
「いや、ていうか――お前、誰? ないしは、何?」
「私? 私は――」

「愛し守りの樹だけど」

 しれっと返答された。
 まあ、木霊とかあるものな。八百万の神々がおわすこの日本で、校内の桜の樹ひとつ取っても、そこに神様が宿っていたって不思議じゃない。そこは俺も百歩譲って納得しよう。腑に落とそう。
 だが。
「桜の樹に乳首があるかあああああ!」
「あるんだから仕方がないでしょおおおおお!」
 双方共に絶叫していた。
「なんだよ樹木に乳首って! 必要なの?」
「私に聞かれても知らないわよ! 気がついたら付いてたんだもん、ビーチク!」
 傍目から見れば、今の俺は虚空に向かって「乳首」と連呼している怪しい男だ。だが、それでも止まらない。やめられない。だって。
「こんなに綺麗な桜色って……。え? どうして?」
「まあ桜の樹だし? そこは仕方ないって言うか? やっぱ生まれ持ったもんってあるじゃん?」
 桜の樹の態度が鼻につくのは置いておいて(樹で鼻を括ったような性格でなかったのがせめてもの救いか)、俺は目の前の双子の突起をまじまじと見つめていた。俺だって聖人君子ではないので、そういうものは本や動画で目にしたことはあるけれど……。
「やだ、なに私のビーチクガン見してんの? え、ちょっと、私隠せないんだからやめてよね」
「あ、ご、ごめん」
 慌てて俺は至近距離にまで近づけていた顔を離す。いくら状況が状況とはいえ、さすがに引くべき一線はあるよな。「樹の乳首を仔細に観察して見惚れていました」なんて冗談にならない。
「や、でもすごく綺麗な色だったからさ……。思わず目を取られちゃったよ」
「え、ちょ、そういうのやめろし。濡れるし」
「さっきからちょくちょく気になるけど、お前樹だろうが! どうやって濡れるんだよ!」
「昨日の雨を溜めておいたのがもう、ざぱーっと」
「あ、そう……」
 意外と理に適っていた。樹と会話を交わしている時点で理が捩じ切れている感は否めないが。
「で、あんたさ。全然冴えない顔してるけど、ここに何の用? もしかして友達いなさ過ぎてぼっち花見とか? 私そんな辛気臭いの付き合うほど優しくないよ?」
「勝手に人を品定めしてんじゃねえよ。まあ、その――女の子から手紙貰ったから、ここで待ってる、っつうの?」
「あー、そういえば私の下で告白すると上手くいくとか何とか言ってたねー」
「お前、その伝説の渦中の中心じゃねえか」
「別に他人様の色恋沙汰なんか見ても疲れるだけだしねー。最近はめっきりなくなったかなーと思ったら、なんだそういうことね。あんた、見た目によらず色男なんだねー」
「見た目によらずは余計だ、と言いたいところだが、色男ではないな」
「私のビーチク凝視する色男ではあるけどね」
「色の意味に色を付けるんじゃない」
「そんなに気になった?」
「下心とかなしに、樹の乳首というものには純粋な好奇心がある」
「純粋?」
「すいません。花粉一粒くらいはあります」
「素直でよろしい」
 まあ、このまま悶々とさせておいたら私の方も気が引けるし?
「ちょびっとだけ、ちょびっとだけ触ってみる?」
「は?」
「先っちょだけ、先っちょだけ、触ってみる?」
「なんで含みのある言い方を選ぶ」
「乳首は口に含むものだから」
「まあ、そうだな」
「で、どうすんの? 触るの? 触んないの?」
 俺は考える。乳首を触る機会。滅多にない。触りたい。乳首。思春期。でも。樹? 乳首。いいのか? 乳首。けじめ。乳首。分別。乳首。乳首。乳首。
「触らせてください」
「なんで土下座してんの?」
 様々な葛藤を通り抜けた俺は、気がつけば桜の樹に土下座をかましていた。放課後で、学生のいない時間帯で本当に良かった。
「一瞬、一瞬だけだかんね。あと、いやらしいリアクションとか期待されても無理だから」
「はあ」
「あと、私が身動き取れないからって際限なく触り続けるとかマジでないから。もう、その女の子が来た瞬間に『こいつ乳首こねくり回しマシーンだから!』ってチクるから」
「しないわ!」
「誓約書にサインしとく?」
「どこにそんなもんあるんだよ」
「私の繊維からパルプを作って……」
「そんな手間割けるか!」
「血判押しとく?」
「俺、そんなに信用ない?」
「いいから、さっさと済ませてくんない? 私も暇じゃないんだけど」
「引き延ばしたのお前だろうが! ――では」
 こほん。
 ゆっくりと手を伸ばし――ぷに。軽く手を当ててみる。
 おお、意外と弾力がある。小さいわりに存在感のある感触だな。うん。……。これ、ちょっと摘まんでみても怒られないかな?
「え、コリコリしてる。何これ、さくらなんこつ?」
イラストレーターみたいな名前付けてんじゃないわよ。もう、摘まんだから終わり! これ以上身体を許したら何されるか分かったもんじゃない」
「俺も、お前にこれ以上身体を許されたら何をするか分かったもんじゃないから素直に引こう」
 いくら樹が相手とは言え、情欲は恐ろしいものだ。手がつけられなくなる前に自制しておこう。手つけたけど。
「それにしても壬生野さん遅いな――もしかして俺、日付か時間か間違えたかな?」
「直前で気が変わってほっとかれてるんじゃないの?」
「壬生野さんはお前みたいに適当じゃないんだ」
 多分。
「ま、そんなに不安ならアレよ。あんた、彼女が来る前にアレしていきなさい」
「アレとは?」
「花占いよ」
 目の前にあるのは微動だにしない樹木のはずだが、なぜだか俺には桜の樹のドヤ顔が想像された。俺の足元に、一輪の小さな桜の花が落ちてくる。
「迷信は迷信かもだけど、やって落ち着くなり気が紛れるなりするなら、騙されても損はないんじゃないの?」
 どうやら、こいつなりに俺のことを気遣ってくれているようだった。
「そうだな。ありがとう」
「どういたしまして」
 いたいけな薄桃色の花弁に指をかけた。そうだ、結果がどうあれ、笑って済ませてしまえばいいじゃないか――。
「壬生野さんは俺の事、好き」
 ぷち。
 嫌い。
 ぷち。
 好き。
 ぷち。
 嫌い。
 ぷち。
「乳首は?」
「好き……じゃないわ! 何言わしてくれとんじゃチェリー乳首!」
「やかましいわチェリーボーイ!」
「山形産一箱一万円の高級品だ! なめんな!」
「はっ、寂しく一人で種飛ばし大会にシコシコ忙しいくせによく言いますこと」
「さっきからお前羞恥心とかないの!?」
「正義は私にあるもん! 私の桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみなさい!」
「それは遠山の金さんだろうが!」
「こちとら花も恥じらう乙女よ! 桜がピンクなのは恥じらいの証よ! 恥を知りなさい短小乳首!」
「全然説得力ねえんだよ! 乳首が短小じゃなかったらマジでエロ漫画じゃねえか!」
包茎乳首!」
「乳首に皮被ってなかったら肉も神経も丸出しだろうが! 痛いわ!」
 そう、何度も言ったように、俺は第三者から見れば桜の樹なる無機物に「乳首乳首」と発語している、目撃されれば言い訳の余地が全く残されていない境遇に身を置いていたのだった。その事実を、もっと重く見るべきだったのだ。
 どさっ。
 俺の背後で重い物が落ちる音がした時には、全てが手遅れだった。
 かき集められるだけの勇気を振り絞って振り向くと、手から鞄を取り落とした壬生野さんが呆然と俺(と桜の樹)に虚ろな視線を向けていた。
「み、壬生野さん、遅かったね――?」
 顔面筋をこれでもかと酷使した精一杯の笑顔。冷や汗のスコールが止まらない俺の前で壬生野さんは。
「成道くん、私を差し置いて他の女と乳繰り合ってるなんて――」
 顔面蒼白なまま、踵を返して、鞄とともに走り去っていった。
「不潔だぁぁぁぁ!」
 遠くから悲痛な叫びが微かに聞こえてくる。
 ……終わった。
「はは」
 ははは。
「はははは」
 ははははは。
 桜の乳首に現を抜かしている間に、現実で手抜かりをしたようだった。俺も随分と抜けている。
 さようなら俺の青春。さようなら夢の甘酸っぱい日々。
 俺自身にとって悔やまれるのは勿論だが、壬生野さんにも申し訳ない。期待を果たせるようなタマじゃなくてすまない。俺は乳首二つで己を見失うような、どうしようもない奴だったんだ。
 一度に抱えきれないほどの感情に成す術なく押し潰された俺は、力なく背中の幹に体重を預けた。
「あんた――大丈夫?」
「うん――」
「えっと、なんか、ごめんね、私も楽しくなっちゃって、それで、あの、こんな、ことに……なっちゃって……」
「うん――」
 正直、桜の樹が言う事はほとんど理解できていなかったけれど、誰か何かが傍にいてくれることが今はこれ以上ない救いのように思えた。
「あの、ね?」
「うん」
「あの、よかったら、なんだけど……」
 どこで間違えた。どこでおかしくなった。どこがいけなかった。虚の中であてどもなく自責が響く。
「おっぱい、飲む?」
「うん」
 それら全てを吹き飛ばす救いを目の前にして、俺は何も考えず頷いていた。自棄になって放心状態の俺は、何かに、何でもいいからすがりたかった。
 樹の根元に跪いて乳首に顔の高さを合わせ、感情を頭の中から流し出す。考えることが疲れることだと、久しぶりに実感した。
 ちゅ。ちゅ。
「おいし?」
「はは――うまいよ」
 ちゅ。ちゅ。味なんて分からない。ただ、目の前の存在に全てを委ねて抱き留められて、いつしか頬に感情の結露が伝っていた。少しずつ少しずつ、軽くなっていった。
「涙の塩気がちょうどいいや」
「アンパン持ってればよかったのにね」
「そうだな」
「牛乳も」
「俺は張り込み中の刑事かよ」

 
俺は日が沈んでもしばらく、桜の乳首を吸い続けていた。

 

「今すごくおっぱい張ってるから、いっぱい飲んでも大丈夫だよー、心配ないよー」
「――ありがとな」
 ちゅ。ちゅ。
「雨降って乳が溜まるってね」
 鼻から乳が出そうになった。

 

 ************

 

 後日、校内にこっそり居残っていた幾人かが傷心した俺の振る舞いを目にしていたらしく、俺はチェリーパイという仇名をつけられた。でも、構うものか。
「なあに、また私のビーチクで 悩みを駆逐しに来たの?」
「違うよ、お前と話しに来たんだ」
「あらー、牛乳とアンパン持って、すっかり本気モードじゃない。それならお姉さん、今度は帰さないぞー?」
「はは、お手柔らかに」
「おっぱいは柔らかいよ?」
「お前、おっぱいないじゃん。乳首だけじゃん。論理的に言えば逆ニップレスじゃん。ニップ以外レスじゃん」
「おかたい事言わないの。お姉さんの乳首を固くしちゃう悪い子はどこかなー?」
「お前、本当に羞恥心とかないの?」
「喜ばせてあげようかなーって頑張ったのに」
 一際強い風が吹いた。春の目覚めをけしかける息吹が、新緑に発破をかけていく。桜の花びらが舞い上がり、美しい吹雪を木陰にもたらした。
 そこで、俺はやっと気がついた。
「ああ――お前、前よりずっと、濃い色になったんだな」
「ニブい男はモテないよ?」
「遅くなったけど――綺麗だよ、すごく」
「ふん――ありがと」
「どういたしまして」
「ね、今、桜前線がここまで来てるんだよ」
 樹木だから腕なんかないんだけど――喉に手を当てるジェスチャーが想像された。
「どうすればいい?」
「分かってるくせに。ぎゅっとしてよ」
「御安い御用で」
 幹の周りに優しく腕を回す。こいつって、華奢な方なのかな。他の樹は抱く気にならないから、一生分からないままだろう。
 より一層、桜のピンクが強くなった気がした。
 色々、春真っ只中だった。


 fin.


「やば、乳首びんびん――」
「綺麗に終われや」