他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

この世には進研ゼミが溢れている。

携帯のメモ帳に、いくつか書いていない題材があったので取り上げる事にする。だからどうという事はないが。ドグラ・マグラの下巻だけあった。確か、角川文庫版だったと思う。というか、角川以外から出ているのかしら。上巻がない。ドラマの一話から六話まで観ていないようなものである。私は一話を観逃したら絶対に追わないので、これはクリティカルな事態である。しかも、下巻が2冊あった。という事は、上巻も2冊あったと考えるのが自然だろう。すると、ドグラ・マグラというタイトルに興味はあるが、上下まとめて買って帰るほど自信がないから、とりあえず上巻だけ読んでみて考えよう、という思考の人が2人いて、両者ともに上巻で挫折したのだろうか。私は、昔から時々思い出しはするが、ドグラ・マグラを読んだ事はない。京極夏彦と同じくらい、いつか読もうと思っている。なぜメモしていたのかというと、頭の中に浮かんだ、「ドグラ・マグラの下巻だけある」という字面が、又吉・むねしろの自由律俳句っぽいな、と思ったからだった。メモするほどの事は、大抵動機を覚えている。渋谷付近の、でかい国道を渡る横断歩道を待ちながら、私が同じものを延々摂取できるのは、それを理解し鑑賞しているからではなく、何も考えず感じていないからではないか、と思った。受け取る情報量がゼロなのだから、そこから咀嚼して得られる情報もゼロである。延々と、ゼロを入力して、ゼロを出力しているだけなのではないか、と怯えた。そういえば、昨日はよく寝付けず、ぶつぶつ色々呟きながら、布団の中の暗がりに向かって自省していた。果てしなく虚無だ。あの作業は。出題者も解答者も採点者も自分なのだから、たちどころに全部繋がって、自分ですでに行先の分かっているコースを歩き直す作業に他ならないのだから。こういう不健全作業には不本意ながら慣れてしまった。だからと言ってしんどくないわけないのだが。思い出すと嫌な気分になってきた。いつの間にかできた、新しい韓国料理屋の看板に、「take out 持って帰り」という文字が付いていた。持ち帰り、ではないのだね。ある住宅の前に、大量にゴミが出されていて、それに「燃やすゴミ」という紙が貼っつけてあった。燃えるゴミではない。燃えるかどうかはどうでもよく、燃やすと言ったら燃やすのだ、という感じがあった。実際、この自治体の償却施設は、大変優秀だった覚えがある。12/21(月)燃やすゴミと書いてはあったが、明日燃えるゴミの日じゃないんだよな。なんだったんだろう。