他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

アダムとイヴに枝葉末節がくっついたから

別に語らなくてもいい部分を省いて除いて取捨選択する事を、枝葉末節をうんにゃら、という事がある。私の身近にいる、一言ではどうにも表せない人を、「簡潔に説明してください」ともし要求されたとしたら、「あの、あのですよ、枝葉末節を省いて、省いた上で、簡潔に表現しますとですよ」という弱腰で弱気な弱音を吐いた上で、「(ピー)な人です」(あまりに具体的で、明かすとバレるので全部伏せた)と述べる他ないなあと思った。そもそも誰か、ある人を簡潔に説明しろ、と強いるその態度に無理がある。怪人が何面相あろうと構わないが、一人の人間でも一人でトランプのデッキを組めるくらいの人格は持っているはずである。そんなにないかもしれない。でも、七並べのあるマーク一列を埋める分くらいは手持ちがあるはずなのだ。つまり、省くと伝わらない。いらないと判断していた枝葉末節の方が、実は重要な部分だった、という事がありそうな気がした。人間は観葉植物なのだ。観葉植物から、枝と葉っぱを隠します、さ、説明してください、どうぞどうぞ、と言われても、いやいや、今、こいつの一番の特徴を奪い去ったのはお前じゃねえかと言わなければいけない。観葉植物に全然詳しくないが、実家の棚の上で埃を被って長年生きさらばえているいくつかの鉢植えから断片を察するに、概要は全然変わらないが、数ヶ月おきに見ると、茎が伸びていたり葉っぱの模様がなんとなく変わっていたりする。人が変わる速度もそんなもんだ。ドデカミンを注入したからといって、直ちに促成栽培現実ならんやとはならない。なんとなーく、色んなあれこれが微妙な経緯を辿って、何かがそこにあるのである。でも、こんなしち面倒くさい事を考えていると、「〇〇ってどんな人なの?」と聞かれた時に困る。一枚絵で描き出す事はほぼ不可能で、部分的なコラージュを繰り返してやっと全貌が見えてくるような事態になって、だから評伝や自伝は一冊の単行本になりうるのだろう。けれど、こんな事を言っていると、自己紹介が終わらなくなってしまう。やっぱり、ある程度の剪定は必要なのだ。集合住宅の1階部分を覆い隠すように植わっている椿の花が、痛い目を見るあれである。じゃあここで盆栽の考え方を取り入れてみてはどうか、生け花の考え方を取り入れてみてはどうか、庭園づくりの方法ももしかしたら有益かもしれない、と考えが広く及んでいくと、あらゆる角度から見るに耐えうる彫琢が可能になるのかもしれない。ソフィスティケイトされた自己紹介って、どこで使うのか分からないけれど。家に恋人をあげる時は、掃除した部屋を見せたいよな、というところか。