いつから桜が咲き始めたのか全く思い出せないが、この頃は咲いている桜を見る事が多かった。桜には色んな種類があるらしくて、片手の指の本数分くらいしか挙げられそうにないが、今が山よと咲き誇る花が陽光を透かしている下に立つと、少しばかり素敵な気持ちになれる。陽の光に温められ、向こう側が見通せそうなピンク色が無数に乱舞していて、あまりに無垢なので、気恥ずかしくなって見ていられなくなる。それに引き換え、葉桜になり始めると、有無を言わせないほど圧倒的な綺麗さを湛える事はなくなるが、見ていて気持ちが楽になる。というか、楽な気持ちで見ていられる。時間と場合によっては荘厳に見えたスポットライトは今や影も形もなく、グリーンピースご飯と同じくらいの異物感を持って、桜の花びらの海に葉っぱという汚染物質が浮いている。でも、やっぱり、白い部屋にずっと閉じ込められたらおかしくなってしまうだろうから、カーテンをかけて家具が置いてある部屋に暮らしている方がいいのだ。桜の葉っぱは、近くで見るとニセモノみたいな緑色をしている。ガヤガヤと街頭を賑やかす選挙カーの演説の断片がぽろりぽろりと耳に入ってきて、でも細切れにしか受け取っていなくて、それも「〇〇候補〇〇〇〇をよろしくお願いします」「〇〇、〇〇でございます」みたいな、よく考えるまでもなく一切の内容がない呼びかけだから、全く意味を成していない意義を果たしていないような気がする。〇〇と書いたのは、ある意味それが生命線、肝要一番大事な核とも言える氏名をひとつも覚えていないからである。雇われて日がな町中を駆けずり回っているカーの乗組員は浮かばれまい。しかし、具体的な政策内容を流せばいいかというと、体系立てて説明しなければいけない(体系になっていないといけないはずだ)てめえの大義名分はパッサーバイが傾聴するには長すぎる。せいぜい3秒くらいなのだ。教育無償化! 税軽減! くらいしか叫ぶ事ができない。が、しかし、タイトルはそれで良くてもこっちが聞きたいのは中身と方法論なのだから、需要と供給の関係とそれを取り巻く環境がそもそも破綻している。だくだくと垂れ流される情報の本流と、その流れの近くを通りがかった時だけ顔に飛沫が飛んだような気がする、この状況が何に似ているのか引っかかっていたが、コンテンツの広告だった。有象と無象の森羅万象をほんの一瞬だけ目にしただけで残像を焼き付けねばならないのだった。