他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

collective singular

ファンタってこんな、「ぶどう味」の表面だけをボウリングの投球フォームみたいな感じでコスって投げ出すような、ペラッペラの味してたっけ? ファンタを継続飲用して3日か4日経つが(調子に乗ってでかいペットボトルを買ってきたため)、毎回グレープ味の輪郭を掴み損ねて絶妙な感情が湧く。確かにぶどうを感じる事には感じるのだが、なんというか、実感ではない。これは「実」ではない。電車に乗っていて、対向列車と高速で擦れ違う時に乗客の一人と偶然目があった時に近く、そうだと見受けられるが本当にそうだったかと言われると首が地軸の傾きを再現してしまうと言うか……。ファンタのハードコアに至るには、俺は向いていないのかもしれない。ファンタグレープ味はだいぶハードコアな色をしている。オレンジ味はJ-POPみたいな色をしている。早く起きられるようになって、朝に多少時間の余裕ができたのだが、その余裕を自己研鑽に使うなり、エトセトラエトセトラ(余暇の使い方に関して手元にある選択肢の余りの乏しさに愕然とした)に励むわけでもなく、なんとなーくぼーっとしてぽけーっとして、時間になったりならなかったりして無為と虚無に溶かしてしまうだけだ。毎日、毎日、旅館の鍋が置いてある謎の台に入れ込まれているあれ、トイレの芳香剤みたいな色をした固形燃料、あれがじゅんじゅんと溶けるのをじっと、砂を掴んだり砂を蹴飛ばしたりしながら横目に脇に見ている感じ。なんだかそんな感じ。なんだかね。本の目次に、非常にしばしばcontentsと書くのだけど、それを作るのは、生まれるようにするのは、難しいな。俺は難しい。他は知らねど。夕方くらいに、土器作りてえなという話をしていた。別に土器である必要はないが、泥団子くらいなら久しぶりに作りたいかもしれない。小学校の3年生だか4年生だかくらいまで、泥団子はいっぱい作っていた。ただ泥をこねて、こねてとは言うがただ掻き集めて丸くしただけだが、グラウンドに茫漠と広がる砂をかけて水分を奪い、だんだん綺麗になるのを眺めて静かに喜んでいたような気がするが今から振り返った際のリプレイ用に用意された捏造かもしれない。泥団子作りみたいな、黙々と同じ作業を繰り返して結果がブラッシュアップされる分かりやすいプロセスは、滅多に経る事ができなくなってしまった。カルチャーセンターなんかでは日々色んな催事があるのだろうと推察するが、一度長期計画で泥団子プロジェクトを立ち上げると、現代人の心に空いた穴を泥団子が塞いでくれたりくれなかったりするかもしれない。