他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

砂糖黍ブレード

パウチのカレーやシチューやなんかを食べる時は、貧乏性なのでできる限り、やろうと思える限り捻り出す。平らなところに置いて、平らなスクレイパーで限界までこそぎ出す真似はしない。さすがにそこまでやるのは面倒なので。変換して知ったが、こそぐには漢字が当たるらしい(刮ぐ)。刮目のあれだ。瞼で眼球を、あるいは瞼がこそがれているよう、という事だろうか。なるほどねえ。昨日大家さんからもらった一式に入っていたビーフカレー的な物質を捻り出しながら、最後の方でぽとりぽとりと固まって落ちる、脂のカスみたいなものに微妙な感情を抱いていた。お前がいるから美味いが、お前を食っているかと思うと何とも言えない。食パンをちぎっては浸し、ちぎっては浸しして食べた。パンは、この食べ方が一番好きだ。パンくずがぽろぽろ出るし、ちぎった後のパンの形状によってはとても上品とは言えない迎え方をしなければ口に収まらなかったりするが、この食べ方というのはテーブルマナー的に良しとされるようなものなのだろうか。知らない。ルール無用マナー無用の店にしか行かないので。行けないので? 食事という枠組みの外でも何かを要求されると、意識が逸れて飯を食っている場合ではなくなりそうで。人と食う飯は美味いと言われる。そこに人がいるから美味いのか、そこにいる人と話を交わしながら食うから美味いのか。話を交わしながらだと、意識の焦点が食べ物以外にも結ばれがちになるが、それでも食事に対して向き合えているのか。まあ、でも、人との食事は、少なくとも、殺風景ではない。嫌いではないが、一緒に行く相手は選ぶ必要がある。あるいは、選ばれる必要が。主食となりうる食料が尽きたので、明日は食料の買い出しに行かなければいけない。ただ漂流するだけの意識レベルしか保っていないと、何もしないという目標以外に焦点を合わせるのがなかなか難しくなってくる。昨日の夜、寝付く前に、洗濯物を取り込もうかと一瞬考えて、やっぱりめんどくさいので起きてからにしようと思ったら、寝ている間に通り雨だか何かがあったらしく、屋根からの集中ドリップ砲火を浴びてバスタオル約2名がおじゃんになっていた。プロセスが完了したら、ただちに結果を評価し取り込むべきなのだろうなとは思ったが、この場面における反省はおそらく生かされる機会がないのではないかと思われる。晩飯に、鳥手羽の甘煮を作ったが、これと食パンって合うのだろうか。