他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

四十九日にて不惑

精神的、内面環境の変質を感じる。感覚が鈍くなったというか、心のアンテナの方向がまたズレたようである。いい事でも悪い事でもなくて、これはただの現象なのだが、過渡期には摂取も出力もできなくなって、風を通すだけの洞穴になるから、手持ち無沙汰になる。これは主観であって全く手持ち無沙汰などいう事は人生において究極的にはありえないのであるが、保有するエネルギーをどこへ方向づけて流し出せばいいのか分からなくて路頭に迷っているというのが近い。四十で不惑になれるらしいが、私はなれそうにない。物質的酒が飲めないのは、抽象的酒に溺れているからなのかもしれない。自分の内面がくたれているかどうかは、自分の書いた文章を読めば分かるので、今はもう手がつけられずに片付けられないまま積み上がっている部屋のようになっているらしい。言葉を、脳内の上流から拾ってきているようである。硬くて形のまだ残ったままの異物を置いて置き続けているというストレスと徒労を感じる。下流の方で、魚釣りでもしながら、すべすべした石をぽいぽい投げている方が楽なのだが。人生で魚釣りは、確実に思い出せるのが2回、ぼんやりしているのが1回だけある。確実な方の片割れでは、私だけ一向に釣れず、確か最後まで釣果ゼロで、横の人の竿にかかったなんかを途中から引き上げさせてもらって誤魔化されたような記憶がある。どれくらいか分からないが小さい頃である。それに付随して思い出す事もあって、そのあたりの原体験のせいで、私の精神は不毛で生産的とは言えない行為に対してよくない抗体があるのではないかという推論が鎌首をもたげてきた。人間、何でできているのか分からんもんだし、どういうはずみでその噛み合わせになったのかも分からんもんである。たまに、遡及的に説明を与えられるような気がする場面もあるが、それが真に正しいのか、それとも主観的に真実たり得るのかは、これもまた分からん。分からんが、私は、あからさまだと思ってしまうようなものもいくつかある。これでどうなるわけでもないが。ただ、自分が、川魚を串に刺して炉縁で焼くあれみたいに、背骨らしき存在を感知できるような気がするだけである。まともな飯に対する想像力も減退しているので、やっぱり正常な状態に腰を落ち着けるまでまだ時間がかかるのだろう。せっかくメールをもらったのに、頭の中でぐちゃぐちゃしたままの生肉みたいな文面で返信してしまった。