他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

deponentia

人に何かを教える時、自分という存在を解体して、中身を全て開け広げにして、まるまま覗き込まれているような気がする。エロ漫画のシチュエーションに、×××を広げて「ここが(ピー)、ここが(ピー)」と教えていく保健実習みたいなやつがあるが、あれをやった事は幸か不幸かないけれども、もしもあれを義務的に、あるいは相手の知的態度に対して真摯に向き合ってやっているのであれば、こういう気持ちになるのではないかと考えてしまうほどである。大真面目な事をした後、こんな大いに不真面目な事へ還元しようとする阿呆はいないだろうが、ここに残念ながら一人いる。あのシチュエーションを、「教授」で終わらせ、その向こうの行為へ及ばなかったら、そのpara prosdokianな感じと、空気中に充満した生物的前のめりのやるせなさが相まって、相当面白くなるのではないかと思わなくはない。あれのどこがいいのか、私は終ぞよく分からないままなので、あれについて一家言ある方は教えていただきたい。読む本はまだあったのだが、読む本がもうなかったので、本屋に買い足しに行った。この命題は、背反しながらも成立しうる、厄介なものである。ついでに、本棚と言わず、実動スペースに置き場所がすでにないにもかかわらず本を必要としている、も同じ類のものである。社会・人文コーナーを気まぐれで見てみたが、フケほども面白さを感じなかったので、すぐに文芸文庫のところに降りてしまった。フィクションに耽り、自らを虚しゅうする事が究極動詞なのではないかと思えてきた。新刊をぐるりと見て回ると、開高健の『オーパ!』が、当時の体裁で復刻出版されていた。まさかこの元号になってこの装丁を見ようとは、という、大型の、ボール紙みたいな箱入りで、体内で熱量が荒れ狂わんばかりであったのだが、値段が8000円+税だったのでちょっと考えている。明日の帰りに買うかもしれない。文庫の新刊にも、開高健のものが2冊出ていて、詳しい潮流は知らないのだが、もしかすると、現代文芸の世界で再評価というか再発見というか、あるいは評価の形成が起こっているのかもしれない。うち一冊の表紙が若かりし頃のその人であったのだが、思わず目を剥くほどの美青年であった。でありながら、芥川龍之介とか、太宰治と同じような、陰と言いたい存在の色合いがあった。晩年の、経験と思惟が詰まったような姿しか知らなかったので、あれほど「きっ」としていたとは。人を綺麗だと思ったのは、いつぶりかしらん。