他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ぎしぎし軋む布団

道を歩きながら、斜め上の方とか、上の方とか、ぽ〜っとあらぬ方を見ながら、どうでもいい事ばかり考えていた。頭を空っぽにすると、というか現象の記述的には頭が空っぽになると、それだけで他にどう言いようもない、完結した命題が浮かんでくる。本屋に寄って、見るべきところがあったので見て、さて行くかとエスカレーターに乗っていると、向かいの、反対側の車線(車線?)にいる人が、『立ち読みしなさい』というタイトルの本を買うためにレジに足を運んでいた。いや、そんなタイトルの本を買うなら、まずその本を立ち読みしなさいよと思った。立ち読みはよくないが。そのタイトルに何か思うところがあって買うのであれば、まずその心意気から盗むべきではないのか。知らん、全く知らん、人生でもう一度擦れ違う事があるだろうかという人に、そんな事を思った。手の平にあるそのナンセンスに気付かない時点で食い物にされとるようなもんじゃないかね。なあ。それから、割と核心的な話をされて、ちょうど二人きりだったので、私としてはできるだけ正直に話そうとしたつもりだったのだが、それでもやっぱり、核心そのものを、味噌をとって汁に溶かすみたいにはできなくて、ギリギリのところで、やっぱやめた、つって、身を躱しているような感覚があった。肌は擦れているのだが、ぶつかり損ねている、みたいな。本心の源泉から汲み出した水、の水蒸気くらいを相手に向けられた時点で、私としてはだいぶまともにやった方だと思うのだが、しかし、思い返すに、あんな事言われてもあっちとしてはしょうがないわなぁ、という返答であって、なんやけったいなやっちゃなあ。人の目を見て話しているからと言って、じゃあそれが対話たり得ているのかというと、そうでもないのではないか。必要条件ではないのではないか。告解とか、まさにそうだろう。自白剤を打って、私が話をしたら、一体何を言うのだろうな。一冊しか見つからなかったが、一冊見つかった事をまずは喜ぶべきであって、野坂昭如エロ事師たち』を読んでいる。事の部分を何と読んだればいいのか分からない。これが、めっぽう面白く、すごい面白い。形容詞はひとつしかいらんのではないか。文章が文章の形を成していないのだが、それは現代のSNSでたまに見る、言語として破綻している救いようのないそれではなくて、内面の口述的描写として素晴らしいのびやかさを持っている。あと、題材的にも面白い。エロを生業にする男たちの話なのだが、開高健のそういうのとか、ああいう血の通った生らしさがある。関西弁というのは、こういう時にいきいきしますね。