アンドロイドは電気羊の夢を見るか? を読み終わり、次に神林長平の『言葉使い師』を読んだのだが、解説にフィリップ・K・ディックの名前が出てきて、偶然の読書が同一直線上にあるあの感覚を味わった。たまにあるが、たまにしかない。このパルスでしか得られない気持ちがあるが、これが不可欠な無上のものであるかどうかは、まだ判断ができていない。オーバーロードの街と数えて2冊目になり、神林長平の本はもっともっと読んでみてもいいなと考えるようになった。ここ1年かそこら、SFというジャンルに対しての理解が生まれたというのか、こういうのもSFなのか、これはSFなのだな、納得、みたいな事がちらちらある。懐が広い。縦にも横にも。私の魂が彷徨う次の場所は、ハヤカワなのかもしれない。違ったらどこに帰ろうか。本屋で一冊だけ挿さっていた開高健の本を、最初のページの最初の行だけ読んでみたが、それだけで心が満たされた。何度でも思うに違いないが、開高健の文章には、私が理想としている、まだ名前を発見できていない何かたちがほとんど含まれている。あとは、特に言う事がない。頭の中で、考えている事も考えていない事も、煮詰まってものとして触れられるようになるには一人っきりの、生物として孤立した時間が必要なのだが、今はそうではない。精神活動を妨げない他の精神活動体と生活するというのは、よほどの条件適合を見せるか、一方または双方の譲歩がないと無理なのだろう。