他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

埋め立て予定候補地選考

実家で聞いた、ニラをめんつゆに漬けるタレを作った。ニラを一袋買ってきて、全部細かく切り、めんつゆに漬けるだけだ。それだけだと味が物足りなかったので、ごま油を少し垂らしたりして調整した。なかなかうまい。めんつゆを使うと大概の問題が解決するので、意識して買わないようにしていたが、味が調味料一つでピッと決まるので便利ではある。わかめを水で戻すくらいの気持ちでだばだばニラに注いだが、多分これだと多過ぎて、最終的にめんつゆが余る。ニラが7、8割溺れるくらいでいいのではなかろうか。刻んだ生にんにくも入れておいたが、生のニラに味をつけているだけだから、やり過ぎの感がある。生のニラは、そういえばなかなかの破壊力がある。これが殺菌作用なのかなんなのか分からないけれども。淹れている玄米茶が一時的に別のものになったが、業務用で買ってきた前のものの方がうまい。どういう事なのか理由を考えてみたが、今使っている方は茶葉よりも玄米の方が多い。淹れた後に急須のフタを取って中を見てみると、ポン菓子に海藻が迷い込んだみたいになっている。私は玄米茶はあくまでも茶であって、玄米>茶だとは考えていないため、これに不服なのだと思われる。玄米茶特有の、するりとした掴み所のない苦味みたいなものが、こっちの方が薄い、の、かな? 最近自分でしっくりした味覚についての記述は、「パイタンの濃厚さと匂いが、隠し味に入っているある油のせいで、頂点に達する前にキュッと曲がり面白い事になっている」だが、伝わらんそうだなとも思っている。少し前に会って話をした友人だが、精神をやってまあまあしんどい事になっているようだ。私が地元に帰ったら必ずと言いたいくらい会っている人間の片方であって、どうしてどちらもそこをやっちまったのかと思う。私もあまり人の事は言えないところがあるから、なんともだが、大丈夫かなと心配である。日記を書く事でも勧めてみるか。言語化したら、クソして出すのと同じで、身体の中からなくなって忘れてしまえる。たまに自分のクソを皿に乗っけてナイフで切って、断面を観察するのも悪くはないが、それはたまにでいい。忘れるという行為は然程責められるべき行為ではない。個人のレベルにおいては。これを言って伝わるのかどうか分からないけれども、数少ない、私が自己内翻訳を通さなくても話せる相手なので、希望的観測を抱いていきたい。ほぼ日がな暖房をつけていた。今日は寒かった。