他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

筋を通すために道理は道を開けなさい

中学だか高校だかの音楽の時間で、『エーデルワイス』という素敵極まりない曲を、リコーダーで吹いたか歌ったかした記憶が間違いなくあって、ずっとエーデルワイスという、それ以上分解しようもない厳然とした固有名詞か何かと思っていたのだが、ドイツ語をちらちら見ていると、頭の中で「edelweiss」という綴りが閃いた。最後のエス・ツェットはタイプの仕方が分からないのでここでは誤魔化す。エーデルとワイスだったのだ。edel"高貴な"weiss"白"である。あの曲調を高貴高級と言われると、確かに垢にまみれた手で触ってはいけないような、ある種の無垢さを讃えている。同語反復みたいになったな。ともかく、意味の上ではそのような分解操作を許す構造だと分かったので、つっかえていたとは知らなかった胸のつっかえが一つ取れた気分である。さらに言えば、画像検索によればエーデルワイスという花、らしい。検索エンジンが寄越した画像が、画面一面たまたまそうだっただけかもしれないが、微塵も可愛らしさのない花だった。ぜんっぜん可愛くない。白く固着したアメーバみたいだ。曲から受けるイメージとは全く異なる実態だったので、正体を検索するのは控えて、頭の中で勝手な像を結んだままにしておきたかった気がする。しかし、鱒寿司をぺろりぺろりと剥いでいくように、思い込みの皮を丁寧に剥いでいく事が生きるという事なのかもしれないので、もしかするとかなり生物らしい行動が叶ったのかもしれなかった。昨日はコメダ珈琲の雰囲気に当てられて、自分の中に生じた衝動とその火花をカツパンの下に押し込めたが、一夜明けて思い返してもやはり妥当で適っていると思うので書き残しておくと、コメダ珈琲はコーヒー等のドリンクを注文する時、ベット100円を上乗せすると「たっぷりサイズ」なる特典に与れるらしいのだが、この「たっぷり」という字面を見た時、見た瞬間、私の頭の中に一閃閃いたのは、「えっ、たっぷり種付けじゃないのか」だった。大変次元の低い脳味噌をしているが、たっぷりミルクコーヒーなどの文字列に目線が下るその前に、2つある眼球が「たっぷり種付け」を空目した。空目して、その事実を自覚して、ちょっと周りを見回して、この頭の中にある考えが周囲に漏れ出していないか思わず確認するほどにその虚妄は現実にあった。もう一度メニューに視線を戻すと、そこには普通の、シロノワールセットの案内が横たわっているだけだった。

たっぷり〇〇の空欄を脳が勝手に補充するので

3月分の新聞、つまり2ヶ月前の新聞が早くも黄ばみ始めており、物質が劣化する速さをしみじみと感じる今日この頃である。昨日の狂ったような悪天候が嘘のように、ぺろりと晴れて暑いと感じるくらいだった。そろそろ長袖シャツはお役御免となり、衣替えをしなければ、ボックスの下から袖の短い衣類を引きずり出す作業に従事しなければいけないかもしれない。銀行口座の残高と同じくらい、どれくらいのどんな種類の衣類を所持しているかを覚えていない。たまに、あっ、こんなの持ってたなと思い出すようなものが出てくると脳味噌がぞわぞわする。さっきメロン型の容器に入った、あのかの有名なアイスを食べたが、正直容器の容貌しか記憶に残っていないので、ラベルに書いてある「メロンボール」という商品名を見て、そういえばお前はそんな商品名だっ、た、っけ……? となるくらいに詳細を覚えていないので、メロン型の容器に入ったアイスという事象を友達とすれば、その商品名称は友達の友達くらい疎遠なものだった。あれの名前はメロンボールというらしい。まるでそのままだが、正式名称を当てるまで帰れないチャレンジに放り込まれたら、三周くらいしないと思いつけそうにない安直な名前である。悪い意味で言っているのではなくて。いつ食べても、記憶の限りでも、これを食べるとメロン香料がふくよかに口に広がり、メロンを食べているかのような錯覚らしき幻想を抱かせてくれるので、極めて駄菓子的性格を有しており、そのやさしいチープさには安心を覚える。ミカンか何かの類似商品があったような気がするが、あれ、ブドウだったかな……? 兄弟シリーズがある。そちらもやっぱり、香料が馥郁と爆発していたはずだ。原因不明に、突然すっごくとっても食べたくなったので、コメダ珈琲に行ってカツパンを食べた。でっかくてまともな味がするという朧げな記憶しかなかったが、その通りだった。千円近くするのも違わなかった。コーヒーの値段は完全に忘れていたが、600円とか普通にしたので高かった。そんな値段したらもう一食食える。飲み物は金を払うものではなく、家で薬缶を沸かして飲むものだとそれなりに固く信じているから、ちっこいカップに入ったあれしきのコーヒーにあの値段を払おうという気は起きないのだった。ラーメン屋に行ってラーメンを食べないかのごとき振る舞いだが、チャーハンが美味しいラーメン屋だってあるはずなのだ。まともに3食食べたのは久しぶりかもしれない。

グラスファイバーの山から春雨を探し出す

朝ごはんに卵黄だけを乗っけてやろうと思って、殻を用いた分離法、これが最もポピュラーな方法である、によって白身と黄身を別っていたのだが、あと少しだけ、あともう少しで完璧に分離できると色気を出し、左手に握った殻で受ける角度を調整していると、意識から投げやられた右手のチルトが大きくなりすぎ、先に逝った白身の後を追って、黄身も排水溝へと身を投げた。他では聞かない、質量の伴ったどぽんという音がして、そこには自失となった阿呆の姿だけが残された。ごめんなさいごめんなさいとうわごとのように呟きながら、新しい生卵を取り出して分離した。ヒヤリハット理論的なアレがあるが、ヒヤリがないまま事故へとつながってしまった。生卵の分離がここまでナイフエッジな作業だとは意識していなかった。起きて、しばらくすると狂奔が踊り狂う音がした。アドレナリンが止まらなくなったかのように、ヤケクソでやけっぱちで暴力的な降り方で、雨が地上をぶっ叩いていた。窓ガラスに鼻を押し付けるまでもなく、雨滴の輪郭が見え、テグスの流星群が景色を横切っていた。雨が降るとQOLが下がるが、それにしても地に落ちた地に落ちる降り方だった。行儀もマナーもあったものではない。杯盤狼藉、上を下への大騒ぎである。この天候の中を、外に出なければならないのかと思うと、足元がすでに濡れてしまったような気がする。雨が降って嫌なのは足元が濡れる事である。じゃあ、せめて靴の範囲だけでも濡らさないように努力できるのではないかと思い、いっそ用のなかった革靴を引きずり出して外に出た。玄関ドアを開けて外界とこんにちはした時点で、飛沫の残滓が肌を叩く。見渡す限りびちゃびちゃだった。足取りはヘヴィメタルだったが、しばらくしないうちに発見した。革靴だと足元が全然濡れないのである。風向きのせいでふくらはぎや鞄はびっちゃこになったが、さすが革と言うべきか、それが取り柄だろうがと言い立てるべきか、全然不快感がなかった。ただ歩きづらいだけで、爆弾ニギリみたいな光沢しやがってこの野郎と常々革靴にはよからぬ思いを抱いていたけれど、今日の暴風雨の中にあって少しだけ見直した。履物の最低次から、長靴と同じ平面までランクアップした。歩き方とフィットしないせいで足首が痛くなるのはもう仕方がないので、濡れないというその一点だけを過大評価して美点として持ち上げ、その他からは目を逸らす事にした。卵には本当に申し訳ない事をした。

築く労力に比して崩れるのは一瞬

敵の技とか何かで記憶喪失になった仲間を、みんなで手助けしながら元通りに回復していくストーリーラインは少年漫画で珍しくないが、ここで大事なのは記憶が「喪失」ではあれ回復が担保されている事で、むしろ記憶不全くらいに言った方が正しいかもしれない点である。失われて読者をハラハラさせる記憶は、出戻りが決定しているのである。たまに本当に廃人になる展開もあるが、それはそれとして。約11ヵ月の間堆積されたデータが一つ残らず虚無と化し、まっちろな状態でMacBookが返ってきた時、そんな事を考えた。今後も必要だったかもしれないDTPデータが生データ編集データ入稿データ全て吹っ飛んだり、ちまちま集めていた画像フォルダが跡形もなくなったり、快適に設定していた操作周りのもろもろが軒並み初期値に戻ったり、言いようのない、言語化不可能なやるせなさがじわじわ足元から上がってきて、途中からめんどくさくなったのかくるぶし辺りまで這い上がってきたところで重力に負けて地面に染み込んでいった。失われたデータ群を嘆きたいのは山々なのだが、口に糊するような超大事データ以外は、何が入っていたのか実はよく覚えていない。巣に食糧を持ち帰ったらその詳細はすっかり忘れて、ただ「棲家になんか食べ物がある、安心!」と思う動物なので、今堆積している本の山に何があるのかそういえばよく分からないし、冷蔵庫の中や流しの下に何があったのかよく覚えていない。現時点でキノコがないのは一応覚えている。なので、喪失した事による精神的痛打を感じなかったというのは、それすなわち、本心ではそれほど重要に思いなしていなかった事なのだろうかと考えざるを得ない。プロパティを覚えていないので、悼みたくても悼めないだけかもしれないが……。ウィルスバスターやOffice系ソフト、Adobeアプリケーションも再インストールしなければいけないが、ライセンス番号とかどこにやったかなと既に頭が痛い。ビックカメラの店員に、なぜどうしてホワイソフトウェアが不全に陥ったのか聞いたが、なんとなくたまたま偶然時と場合の運によってこうなったらしいので、昨日の唐突なブレイクダウンは、ある面では家族が突然逝った状況に近いかもしれない。物心ついて以来、三親等以内がまだ逝った事がないので実際どうかは分からないが、あると当たり前に思っていたものが突然なくなり、どうにか現状復帰しようとすると税とか遺産とか色々な付随要素が覆いかぶさってくる。ちょっとだけ、似ている。バックアップは大事だという教訓を得たが、今度からおまんまを食っているデータだけはクラウドにでも残しておかないといけない。再設定は数分で終わるが、編集データの完成には何十時間もかかるから。

思わせぶりに一片の責任を感じたい場面もある

何を言っているのか分からないと思うが、普段から何を言っているのか分かられていないような気もするので、やっぱり感じたままを純度99%くらいは保証して書く事にしていると今捏造したから書くと、この間ビルのてっぺんをさらに透かした空の向こうに見える数々の雲の群れを見て、「解像度が紙粘土と大理石だな」と思った。細部まで指先で感じ取れそうな、滑らかに光を反射する雲と、表面が毛羽立ちざらざらした、たった今パン生地の塊から千切り取ったような雲とが同一視界内に観察され、脳味噌がそれを感覚的に処理して理解できるように言語化した結果が、解像度が紙粘土と大理石だったのだ。しかし、メモされたこの文字列を見て、ああそういえば確かにそんな光景を見たしこんな感じの情景だったような気がするなとおぼろげながらシーンをリプレイする事ができたから、主観的にあの眺めを呼び起こすコマンドコードとしては一切間違っていないのだなと思う。余人に関しては分からない。普段あんまり全然歩かない方面をぶらついていると、ビルの高い高いところにネットカフェの看板があって、これに色々なコピーがぎゅうぎゅうに書かれていたので衝動と病理に駆られてそれらを全て読み込んでふむふむと味読し飲み込んだり吐き出していたのだが、手に取った瞬間、あるいはフォークで突き刺して口に運ぼうとした瞬間に感覚がぴくりと胎動する兆しがあって、それはなんぞやと問い質してみると、うぞうぞと敷き詰められた惹句の中に、「お忍びデートや❤︎」と書かれていた。文字化けすると怖いので一応註記しておくと、最後に書かれていたのは赤色のハートである。マンガ読み放題だったり、ドリンク飲み放題だったり、おそらく大学が近くにあったゆえか空き時間でレポートを仕上げようだとか書かれている中で、ほんの少しだけ小さいポイントで、端っこの方に確かに印刷されていたこれらの文字列は、エロ漫画に浸され切って匂いの取れなくなった私の脳味噌を快く貫いた。その、最後に書いてあるハートはなんなんだ。お忍びデートは分かるが、その後に書いてある、最後のそのハートはなんなんだ。私が持ち合わせる答えはひとつしかなかった。本番やっていいって事じゃないの? 違うの? お忍びデートなどという背徳感モリマシのワードの後にはぁとがついてくると、色事を期待して読み込んじゃうものじゃないの? それともお忍びがつかない、大手を振れる堂々としたデートの事をハートという記号に託して表現したの? この問に悶々として眠れそうもない。

時に操縦桿を失うロボットで世界を守れるものか

あまりの質量に押し流されて眠気に屈服しぶっ倒れそうになると、後背に崖を臨みながら、全体重を預けて身体の支配権を放り出したくなる。どこまでも、どこまでも底なく落ちていって、気を失おうとした自覚から滲み出る甘さだけをぼんやりと感じながら背中に猛烈な風を受け、抱き止める痛烈な反作用とは無縁のままフリーフォールしていたい。そろそろ地面が近づいただろうか、と肩の向こうを覗き込んで距離を把握した瞬間の冷や汗と、肉体がある空間のジャーキング現象はほぼ時を同じくして起こる。ただの一瞬も投げやったことを後悔しながら、スプーンの光沢のように鈍った足取りを引きずる事を再開する。眠気はタチの悪いステッカーみたいなものだから、一度張り付かれるとなかなか剥がれないし、無理矢理剥がしたとしても指先にべとつきがねっとりと痕跡を残すしこちらの表皮もいくらかは必ず持って行かれて、より空気に近づいた皮膚の一部分だけがひやりとする。眠気は一秒たりともこちらに近づけるべきではない。朝起きて夜寝るまで、全く無縁のものであるのが望ましいのだ。自覚的意識がない間だけ、その瞬間だけは好きにするがいい。幅を利かせて身体の緊張を抜き取り、ふかし芋のような底なしの手応えのなさでくるんでくれればいい。布団に身体を預けてから3時間、覚醒意識の総フロー量が100から一切減る事なく、しかし眼が冴えるでもなく、ただ100が全き状態で欠けるところなく呼吸を貫いていくだけで、寝ると決めたからには他のアクションが許されないまま刻一刻とドライアイスがごとく無意味に人生の残り時間が蒸発していくのを凝視させられるのにはほとほと参った。程度としてはめちゃくちゃに、しかし状態としては依然と整然と静謐と凍った秩序の中で研ぎ澄ました金属片のようなのだから、意識と思考もどちらに与すればいいのか分からずがむしゃらに腕を振り回すばかりで、発作的に掌底でこめかみをやたらめったら強打したり、生理に唆されて罵詈雑言と悪態が口から垂れ流れるのを指を咥えて眺めながらトイレに立ったりして、それでも全面ささくれ立って針の山のようになった畳の表面で横たわるような感覚は治まらず、ちりちりと脳の端から端まで焼け跡で埋め尽くすような不眠の毒気に抗議の視線を投げかける事しかできなかった。目覚ましが鳴って、ほんの少しだけ眠れた事が分かったが、眠れなかった時間の恨みを枕の上に置き直すと、堪えようがないほどに深く暗い淵がそこに見えるのだった。

想像の許す範囲が広がるのを許し続けるために

洗濯されてよれよれになり生地が伸びて十一分袖くらいになった長袖のシャツを着て大手をぶんぶん振って歩くにはずいぶん暑く感じる大気模様になり、従ってそれ相応の格好をせずして下手な運動をするような日向きではなかったわけだが、いくつかの長尺物をバラして運んで廃棄する行為に従事すると、埃に包まれてじんわりと汗のような薄膜が身体を包み、眠気が手ぐすねを引いているのが見えるようだった。ともかく、いかにそれが長大で広大で手に負えなさそうで重厚だったとしても、小さなところから、重箱の隅にアリンコが穴を食い破るように、ちまちまとしたプロセスを飽く事なく試みる忍耐と少しばかりの頭脳と、あとそれからそれなりの腕力があれば、大体の壁は何かしらの方法で乗り越えられたり、破砕できたり、くり抜いたり、そもそも壁に干渉しないで下に穴を掘って向こう側にトレスパスしたりできる事は経験則上知っている。ここで欠くべからざるは、その経験則を咄嗟の土壇場、火中の急にあって思い出せる理性的な沈着なのだが、悲しむべくはまだ小人物の欠けたお茶碗程度な器量である事で、場所の〆で関取が干す盃くらいのキャパシティは欲しいところである。もし、それを満たすほどの中身がないのだとしても。器量に関しては、大は小を兼ねるものだと思う。大きな器に中身が伴っていなくても、その器質は人の上に立つ事に向いている。いかな珍事瑣事大惨事に直面しようとも、それがよく分からないので笑い飛ばせるからだ。側(はた)で旗色を守る者は、その一見した豪傑さに救われる。顔を青くしているばかりではいけないと、色々な意味で悟らされるからである。何も分かっていないアホは、たとえアホだとしても、守りたくなるアホであればアホではない。アホは周囲を吸着した時点で化学変化を起こすからである。底が抜けていようが間が抜けていようが、そこには中身の詰まった人間には見えない向こう側の景色を提供する余白を持っている。もしかしたら中身がすっぽけて見えるのは、見えるだけで、そこには四次元ポケット的な空間が広がっていて、こちらの想像が許すよりも遥かな深みを抱いているのやもしれない。AfterEffectsのド初級教本を読み終わり、日もいなくなろうかという暗がりをぶらぶらしていると、この表現はああすればできそうだあの表現にはそれが必要そうだと、頭の中で新しいチャネルが開かれた感覚があった。世界が広がる感覚など、本当に久しぶりだった。

それは、刈り取る者の名前

全体的に、甘い匂いがしますよね。突然こう言われた。私は、「はあ?」という顔をした。近くにお菓子の入ったバスケットがあったので、お菓子の話をされているのかと思った。脈絡がゼロの地点からいきなり切り出されると、生理的に生じるリアクションを垂れ流す他ない。なので、徒手空拳で惚けるしかなかった。これ、栗の花なんですよ。栗の花の匂い。その人はそう続けた。栗の花というワードが出た時点で、脳漿がカウパー液と入れ替わってしまった脳味噌は悲しいかな会話の行き着く先を演算して答えを瞬時に導き出してくれたけれど、スパコンの計算結果が必ずしも正しいとは限らないと言う余白があるから紙での計算もまた揺るぎない地位を手放さずに済んでいるわけである。不確定の灰色をそろそろと綱渡りしながら、でもいっぱい一気に嗅がないと栗の匂いだって分かんないですよねと続けてみた。栗の花って、ほら、〇〇の匂いじゃないですかと返ってきた。そっちの話だった。近郊に漂う栗の花の匂いを、私の文章で表現してほしいという、嬉しいが持ちかけられるのも複雑な話であった。考えておくとは言ったが、そこまで精液に強い思い入れがあるわけではない。帰り際、栗の花と思しき植物群がたむろしている一角に足を運んで、胸いっぱい思い出いっぱいに臭気を吸い込んでみようとした。うっすらと、甘やかな匂いが感じられない事もなかったが、それ以上に、曇り空の下でゆっくりと温められた、肌触りのよい空気の清冽さばかりが感じられるだけで、自涜の後ろ暗さなどどこにもなかった。数日前から読んでいる開高健のエッセイ的なそれだが、本当に読んでいて嬉しいし楽しいばかりなのでタイトルを残しておくと、『破れた繭 耳の物語1』(岩波文庫)というものである。酒池肉林の中をバタフライしているような感覚であり、言葉で直感をもたらすにこれ以上の文章が考えられようかと思うほどの異形で、何も知らないが直截的に体験しているような気にさせるほど没入の手ぐすねを引きまくっており、40度の風呂桶に身を沈めていくような、しかしそれは実のところ底なし沼で、イメージの深淵にずぶずぶと取り返しがつかない侵犯を犯しているような気がして、想像上の生命活動を一切の危険なく追体験させる目が眩むほどの羅列が、ページを繰っても繰ってもまだ続いている。しばらく出会っていなかった、ある種の到達点をこの中に見る気がする。カレールーが残っていると思ったらなかった。

心には沸点の特殊なアイテールが詰まっている

見られる事によって興奮する、というのは、ある種の真理である。これは何もMM号的な話ではなくて、というかそちらの話に聞こえたのであれば興奮という言葉の色合いに桃色を強く読み込んでしまったからで、そうではない興奮の話をしている。観客のいないパフォーマンスは空虚への一人語りだが、受け手がいるからこそ反応に一喜一憂するのだ。湧いたり泣いたりしているのを見ると、全身の血液が爆熱を持って狂ったように上への方向性を持って迸る瞬間を、ある人はなんとか冥利だとか表現していたけれど、一度味わうと絶対に完全には忘れられない。生きている事のテンションが重力に打ち勝つ、数少ない瞬間である。事は必ずしも劇場的な場面に限られず、周りに人がいなければものごとが捗らない、という人がいて、それに対する自分なりの消化と吸収を本日の悟りで得た。周りに人がいる事で、彼らと場所を同じくする以外の関係性が存在しようがしまいが、視線が交錯する緊張が主観的に生まれるのだ。くしゃみをすれば共有されるし、通話をしようものなら、こちらの発話だけは全て共有されうる。ともかく痴態を晒すまいという意識が多かれ少なかれ生起するわけで、これを自覚した上で作業に臨むとぽつねんと静寂の中で進捗を重ねていくよりも捗る場合がある。人の話し声がうるさいだろうがと思っていたが、熱中してしまえば、正直、そんな雑音はどうでもよくなる。没入を許すまで、見られているという意識・状態が意識の洗練を手助けする。残念ながら第三者的環境は流動的で刹那的なので、継続的に深度を伴った集中を常に許すわけではないのだが、しかし少しばかりのゾーン体験をもたらすという意味では、「スタバでMac」を頭ごなしに色のついたテンプレートとして振りかざしバカにするものでもないなと思ったのである。たった今『キルドヤ』のスタドヤを思い出したが、あのゲームスタッフ、いやもっと具体的にシナリオライター諸兄は今どこで何をやっているのだろう。いずれにせよ、衆目の中に身を置くと、集中できる精神状態の日もあるのだな、と学習したわけである。スタバではなくて小汚い建物の一室における感得だったが、もしかすると、私が経験しなかった「ファミレスで勉強会」などの特殊な条件を満たすと発生するイベントも、そのような生理的自覚を持って催行されていた効率的な方法だったのかもしれない。いや、それとも、関係性を見せつけていただけ、かも。

二枚も舌があるなら生産力も二倍かと思っていた

キャッチコピーが全然キャッチーじゃなければただのコピーであり、キャッチーじゃないならばそれは虚空を一心に見つめて虚ろな瞳で呟いている呪詛やポエムと一緒なので、ある意味一周してキャッチーだった場合と同じように当事者意識を持って観察する事ができるのだが、今日の車内で見かけたMAZDAの広告はコピーがダメダメだった。暴投もいいところである。キャッチャーのミットに投げなければいけないのに。そもそも分量が過剰だし、読点が異常に多かった。コピーを書く時はできるだけひとまとまりで、一回の嚥下で全てを飲み込ませる必要があるので、わざわざこちらで切り分けてポーションを増やす読点は自殺行為なのだが、小学校のご丁寧な作文くらい文節が腑分けされている文章があり、見ていられなかった。地元のメーカーなので出来る事なら擁護したいのだが、私の家族はトヨタ派なので救いの手はなかった。駅構内でもいくつかただのポエムと化したコピーを散見したが、社内の広報部からNGが出たりしないのだろうか。というか、社内の広報部はどんな気持ちであれらにゴーサインを出したのか。それとも、キャッチャーのミットは私が知らない間にめちゃくちゃデカくなっているのかもしれない。ピッチャーを覆い隠すほどに。昨日見た、見事と言う他ない木彫りのちんこはやっぱりなくなっていた。近くに警察署があるので、ポリスメンに回収されたのかもしれないし、自宅でのお楽しみのために誰かが持って帰って有効利用しているのかもしれない。やっぱり写真を撮っておけばよかったかなと思うのだが、しかし写真が残っていないからこそ記憶の中で美化できるので、そのものを残しておかなくて正解だった。図書館で新しく出た岩波文庫開高健のなにかを見つけたので借りてきて、昨日からちまちま読んでいる。あまり速度を伴って読めない文章だが、しかし感銘と憧憬と、押し流されるようなその文体に感嘆尽きるところがない。うっかりすると、「すげえ……」以外の語彙を失いそうになる。可能な限り微妙の妙を切り分けて、何から構成されているのか叙述を図る事を心がけてはいるものの、そうは言ったってすごいものはすごい、ともかく第一声くらいは第一印象に譲って「すげえ」と言わせてほしい。完全に、徹頭徹尾天衣無縫の文章ではなく、どころか所々に綻びを容易に見つけうるのだが、そんな事は取るに足りない些事だと、先を早く寄越せと脳がせっついてくるものが、文章の中に横溢している。一口一口がいちいち美味しいと、なかなか完食しようという気が起こらない。

神の在所何処なりしや

雑巾の四隅のどこかにほぼ必ずついている、引っ掛ける用の布の輪っかくらいずぶずぶしょぼしょぼの状態だったが、何とか乗り切った。乗り切ったと言うか、乗らなくても良い波に乗ったのだからむしろ自業自得ではあるのだが、乗りかかった船と陸に一本ずつ足をかけてはてさてどちらに命運を投げやらんやと腕組み思案していると股が避けて一兎を追う前に何も得ず終わるから、これも何かの縁と思い、エイヤッと投げ銭してみるのも悪くない。時にはうっかり一万円を投げていた事に気付き愕然とするものだが、それは本当に稀にたまになので、肩が鈍らないようにするためにも乾坤一擲は必要である。無理矢理電源をオンにしたせいでばちばちと音を立てる意識に耳を塞いで駅へと向かおうとすると、途上にあった配電盤ケースの上に、遠目に見ても珍妙な物体が存在していた。落し物が路上に放置されるのを防ぐためにそれなりの高さがあるところに安置されるのはよくある事だが、今日見たオブジェクトはそういう話をどうでもよいものとして片付けたくなる破壊力と説得力と、それから存在感と、その他色々な筆舌で舐め尽くしがたい現実の垢をてらてらと浮かべていた。木彫りのちんこだったのである。もう一回言うが、木彫りのちんこだったのである。現実である事を確かめてもらうために、くどい事は承知でもう一度言うが、木彫りのちんこだったのである。どれくらいちんこだったかと言うと、雄々しいサイズでどっしりとした金玉が2つ、そこから猛々しく伸びゆく怒張した陰茎が芯を通しており、思わず目を奪われるほどに存在感を主張しているカリ高の説得力は他に比べうるものが咄嗟に出てこない。木だからこそ表現される硬さと、木だからこそ表現されるぬくもりとが、不可思議に同居し、朝日に照らされてぎらぎらと精力を訴えていた。ファルスやファッロスではなく、あれはちんこでありペニスであり男性器であり、現実に即したリアリズムだった。見ようと思わずにちんこを見ると、意図せずまじまじと見てしまうし足を止められる。花を恥じらう羞恥心が欠けているせいかもしれないが、それにしたって、精巧で精悍なちんこが突然目の前に現れたら、それもエロ漫画のイデアから抜け落ちてきたようなものだったら、見るだろう。見るだろう? 何かがひっついていたので指で引っ繰り返してみると、バーコードだった。商品なのか。あまりに猥雑だが、玄関に置いておくにはちょうど良さそうだった。帰り道、もう一度拝めるかと思い同じルートで帰宅すると、そこには跡形もなかった。猥褻物だけでは片付けられない魅力を感じていたのに。

里芋を煮っ転がし始めたら鍋から飛び出して坂を下り穴に落ちていったので追いかけるおじいさん

人の心というのは本当に難しいものだなあと思い知った挙句、心が難しくても難しくした状況はただ刻一刻と過ぎ行くばかりで、心の持ち主の方には何らの斟酌がないので、ああ大変だ大変だ、生きていくのは、いこうとするのは大変だと心の中で叫びながら色々やっていたら日が変わるギリギリの帰宅になった。目の前すぐに迫った明日もあまり余裕のある生を送れそうにないので、しかし余白がない故に描画可能領域で死力を尽くさざるを得ないがゆえに、生きているような気かあるいは心地がする。覆水盆に返らずとは言うものの、地面に這いつくばって唇をつけて吸い上げ、盆に吐き出す事は可能である。盆に返った水が、もともと盆の中にあった水と完全に一致するわけではないけれども、しかし覆水盆に返りません絶対にですと高説として垂れるにはいささか人間の恥の下限を見誤っている感がある。が、しかし、人の心は時に取り返しのハウツーが想像できない損なわれ方をする。しんなりしたなら水をかける事もできようし、膨れすぎたのであれば水を抜いてみたりマッサージをしてみたりと対処の仕様があるが、目に見えないほどの破片に崩れて砂漠に散って風にさらわれてしまった時、手の中にどう取り戻してやればいいのか咄嗟には分からない。急に通り魔に襲われたり、自動車が突っ込んできたりしても、まあ動物的本能で何とかなるやろと思っていたのだが、さすが現実は小説より奇なりとはよくぞ言ったもので、それが生起してしばらくは心がいたたまれない状態でむずむずして、脳味噌が演算の答えを出し渋るのだが、しばらくを経た後に突然、ああ、あれはそういう事だったのかと状況証拠や居合わせた周りの人間の反応から何となくそれとなく窺い知る。自覚のタイミングを自覚的に与えられないところが、これ心理という感じがする。風船が割れた時、手元に残ったゴムくずで、たまごアイスをうまく食べ損ねた時、口や服に飛び散ったべとつきで、遡及的にそれが起こった事を知る。突然の災害になど、大丈夫やろという思い込みで対処できるはずなどなかった。震度2でいちいち天を地への大騒ぎをしていたら身体も心も保たないが、揺れた事実だけは確かに感得しておくべきなのであった。錆びた水道栓に体重を乗せて揺すると、完全に枯れたわけなのではなく、まだぽたりぽたりと雫が残っている事に安心する。目の前に水がなくても、地下水があるという安心感に慰められる。日本語が聞き取れない事もあるのだなと、思って飲み込めないままでいる。

布団にするなら500円玉に挟まれて寝たい

明日の朝ごはんのおかずを買ってくるのを完全に忘れていたので、明日の朝は白ご飯を、いや玄米なので茶色ご飯を食べる事になってしまった。同じ事は大体2回くらいやると飽きるのだが、今までご飯を食べた回数をざっくり計算しようと頭の中で立式してみた時点でもういっぱいだなと認識でき、やらなければどうしようもない事に関しては抵抗が薄くなっているのだと分かる。いくら世界が広く地球がでっかいとは言っても、食べ物一種につき2回までしか食べないとなれば、早晩選択肢が枯渇するだろう。最終的には自分を騙して「これは水分含有量24%の米で、前食べたのは水分含有量21%の米だったから別物悪くない悪くない」と言いながら2周目3周目に突入するだろうし、やはり生命の危機を前にしては個人のちっぽけな嗜癖など割と簡単に吹き飛ぶものなのだなと想像できる。想像するだけなので、現実にどうなるかは分からない。今日考えた事は水分含有量が99%以上で中身がないな。帰りに何か食〜べよっ、と思って、こう思う事自体数日前に得た反省を反芻できていないので反面教師経験を増築したわけだが、家の近郊にあるラーメン屋に行った。昼時ど真ん中は近隣の若者でパンパンになっているのを何度か見かけたが、ピークを過ぎるとめちゃくちゃにオフピークになるらしく、カウンターはまっさらで奥のテーブル席にちらほら、くらいの密度だった。前につけ麺を頼んだらめちゃくそいっぱいだったのでちょっと後悔した店である。よく見ると、券売機の隅っこに麺の盛りと対応する重量がはっつけられていた。私が普通だと認識している一般のボリュームより2割くらい多い。道理で前回は辛酸を舐めたわけである。ラーメンは特盛でもびっくりするほどの量ではなかったので、というか数字だけ見てもどれくらいの量なのか未だによく分からないので、食券を渡してテーブルに座った。行く時間が悪いのか録画をずっと流しているのか、その店に行くたびに相棒が流れている。相棒は特にカメラワークが好かんのだが、それ以外にも総合的にちょっと生理的に無理なので、できれば視聴しない方向で生きていきたい。TRICKと同じで、サブキャストのヘタクソさがものすごいのだが、相棒ってかなりビッグネームのタイトルなのにそうなの……? と引っかかるところがある。鶏皮を噛むと出てくる鶏油の味があるが、まさにあの味が爆発した白湯ラーメンだった。自家製らしい食べるラー油が美味しかった。やっと、家の周りの店を知ろうという兆しが芽生え始めた感がある。

常温のところてんでよしよしされているかのような

夜遅くに出歩いても、夜気の寒さに身を震わせる事がなくなった。ぬるいか涼しいか、ボーダーの上で反復横跳びするような気温が知覚ギリギリの存在感で通り抜けて行くので、これくらいの気候の間に、深夜の川原で寝そべって、ぼんやりと空を見たい。夜空を見るのであって、星空を見るのではない。というか、視力が完全に衰え水晶体を引っ張るマッスルが衰亡して久しいので夜の真っ暗なビロードに(漢字で天鵞絨と書くのは知らなかった)散らばる星々が、これっぽっちは見えるがそれっぽっちも見えないのである。一等明るい金星はなんとか分からないでもないが、それ以外は皆無と言ってよい。黒い画用紙を一面に広げて、表面にちょっと埃がついているかしらいないかしら程度の、誤差である。晩御飯を食べた夜遅くに、コーラとピザを持っていって、もくもくと何を考えるでもなく喋るでもなく、虚空に視線をとろかしながら家に帰って寝て起きてからの胃もたれを想像してげんなりしたい。誰もいないと油断したカップルのムーブを帰りに目撃する事ができたら最高である。言う事なしだ。横断歩道を渡ってすぐのコンビニのショーガラスが一面ビニールで覆われて曇っており、どうやら店内改装で営業をお休みしているようだったが、5月◯日「リオープン!」と掲示が出ており、リオープンはないだろうと思った。普通、設備改装なのであればリニューアルオープンである。こちらならば、日本語として、あるいは慣例慣用として引っかかりたい所はゼロである。しかし、リオープンを俎上に載せられると、こちらも黙っていられなくなって半身くらいは乗り出したい欲が出てくる。確かに、それは、再び開くという意味を英語で忠実に転写すれば「re(再び + open(開く)」なのでリオープンかもしれないが、リニューアルオープンという先例が存在する都合上、リオープンというこなれないかつ不自然に聞こえる文言を使う必要はどこにもなかったのではないか。掲示の仕方を見るに、どうやら紙一枚一文字制を採用していたからリソースの節約のために総枚数を減らそうとニューアルの文字列が解雇されたようだった。リオープンとリニューアルオープン、天秤にかければどちらに傾くかは火を見るよりも明らかすぎるほど明らかなのだが、新しい言葉が生まれる時というのは、もしかするとこのような喉越しの違和感を伴うものなのかもしれない。パチンコ屋が、リオープン、するって、言うようになるのだろうか。