他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

feeling the outside turning in

コンビニで買った、120円は超えないだろうという安いアイスを食べながら歩いているカップルがいた。信号待ちをしながら、カップにコーンが入ったソフトと、カプリコみたいなタイプの、コーンの円錐がそのまま延長されたような断面が二等辺三角形のアイスを食べていて、昼の陽だまりの中で網膜に光を反射してくるその光景を、とてもいいなと思った。そういう、何物もついてきていない、安価な粗雑さが好きなのだ。商品名もメーカー名も検討がさっぱりつかない、ジェネリックの塊みたいなものを介して関係性がそこに横たわっている事を、すごくいいなと思った。死ぬまでに、一回でいいから、肉まんを食べながら歩くカップも見たい。ピンサロ屋の前に、おしぼりリース業者のトラックが停まっていた。考える所がある。店舗内の洗濯機で洗って済ませてるんじゃなくて、ちゃんと専門の業者に委託してるんだなあ、とか。そこで使ったおしぼりって、他の、飲食店とかで使われるおしぼりと一緒くたにして業者のリリースを回っているのかなあ、とか。それとも、そういう所で使うおしぼりは、別のサイクルを組んで回されているのかしら、とか。近くに飲食店もいっぱいあるから、もしかしなくてもおしぼり業者が用があるのはそっちかもしれないけれど、メリットのないボーナスステージに突入したような、ここにも土管あるんだな、という感覚がした。電車の中でぼーっとしようとしたら、プレミアムモルツの車内広告が目に入った。神泡か、神泡じゃないか、ビールって、今そこだよね。というずるい二元論を矢沢永吉に言わせて、リッチなブラックにビールの黄金色が綺麗に映えていて、ものすごく、非をストレートに3ストライクアウトにしてしまうような広告だな、と思った。これを作った人間は、楽しいと言うか、これはハマったなという、快楽をだだ漏れにする感覚を確かに味わったのではないか。私が上司だったら、ボーナスめっちゃ出す。それを出されてしまうと、「はい、じゃあ、もう終わりっ!」と切り上げたくなるような隙の無さだった。90点を超えた安心感というのは、多分こんな感じのやつである。隣に座った中国人が、スマホで会話しながら、何かを食っていた。こちとら本を読んでいるので視線をやらなかったが、電車の中で自然状態では絶対にするはずのない匂いがした。ニンニクの匂いがした。何食ってんだ、と思って視認した。おつまみ用の、形容はともかく非膨張時の男性器サイズの、酒屋の壁にかかっているああいうカルパスを食っていた。日本人は、電車内でカルパスを食うだろうか?

シースルーの寝具セット

ゴミ収集車が来る前に起きたのに、ゴミを捨てるのを忘れていた。だいたい、3週間くらいはゴミを捨てるのを忘れている、ような感覚があるが、そんな前の事は覚えていないので分からない。使い終わって空っぽの、ただかさばるだけの洗剤の箱も2つ、洗濯機のそばに安置されたままになっているが、早急に手を下し引導を渡してやらねばならないと思う事がないのでずっとそこにある。洗剤の顆粒に埋もれたスプーンは、小さい頃はお風呂場でのおもちゃになっていたものだが、成長してしまうとただの計量スプーンである。洗剤の箱の中に洗剤が入っていて、そこまでは自然な状態だが、この調和の中にあるプラスチックの無愛想な計量スプーンって、よくよく考えるとかなりイレギュラーな物体なのではないかと思う。異物である。洗剤の箱をあらしめているあの厚紙はけっこう丈夫そうだし、ペーパー製の計量スプーンを作って中に放り込んだ方が安上がりな気もするが、そうでもないのだろうか。濡れた手で触っても、プラスチックなら大丈夫じゃろがい、という事なのだろうか。分からないけれど。今日も用事があって外に出た。昨日もあった。明日もある。こんな、3日も連続して外出の用があるなんて珍しい。今日の要件も、想定の半分はおろか三分の一で終わった。正直こんなもんなら足運ばんでええやんけと思ったものの、Dasein(そこにある事)の意味は両の腕で抱えきれないほどに広い。わざわざ外に出た意味はあったのだと言い聞かせておく。帰りに、ラーメン屋に行った。人に「あそこに人気の店があるらしいっすよ」と吹き込んだものの、自分がその店について全くなんにも知らない事を悔い改め、情報を流すにはまずこちらが確たる手触りを心得ておかねばならぬと自戒したからだ。昼時ど真ん中だったので多少並んでいた。ラーメン屋なのに、店のそばに立っていてもスープの脂の匂いが漂ってこない。そっち系ではないのだろうか。あるらしいっすよインフォメーションを吹き込んでしまったその人に、今度はきちんと中身のある情報を伝えられるよう、看板メニューと定番トッピングみたいなのと、一揃い注文したら1000円を超えた。500円で食えるラーメンがあり、袋麺に至っては60円くらいだが、店舗に行って直接体験する事が重要な事もあるのだ。人生の取材費だと自分に言い聞かせる。粉っぽさを残してくにくにと歯で押しつぶせる麺で、面白かった。昨日再確認したはずの、初めて行った店で大盛りを頼むべからずという経験則を本日もガン無視したので、夜はお腹が減らなかった。

お茶とか温泉も濁るじゃん?

経験則がなぜ重要かと言えば、経験値を積み重ねた末に得られるひとつの凝集結晶だからである。中に綺麗な「異物」が入っている琥珀の方が値段が高いとか聞いた事があるが、マニュアルやハウツー本に載っている方法論というのは、純粋なだけで異物が入っていない琥珀である。きれいではあるが、綺麗ではない。自分の経験や、直接経験者からのありがたいお言葉、それらの異物を取り入れていって初めて、綺麗な琥珀になり、価値が出てくるのである。いつか琥珀から琥珀成分を追い出せた時、その不純物が身体に同化し、血肉となる。だが、経験則は意識的に起動するものではなく、無意識下でオペレーションされているものなので、もし不具合が無意識の検閲を素通りしてしまったが最後、いつもなら避けられる簡単な小石にさえつまづいてしまうのだ。よって、今日、無意識が有効に機能しなかった私は、経験則をほっぽらかすという大きなミスを犯し、大きなダメージを負った。ある試験を受ける用があったので、午前中に家を出た。筆記用具は会場で貸与されるとの事で、もし安っぽいシャーペンだったら絶対許さねえぞと思っていたものの、必死になってメモ書きをする際に、書き味など不要であった。必要なのは、なんとなく握れてなんとなく書ける、ちょうどいいチープさだったのだ。最近はこの感覚を忘れていたような気がするので、あの100円くらいで売ってそうなシャープペンシルに思いを馳せ、面取りのしっかりしたグリップが握りやすかったなあという思い出を大切にしていきたい。試験が終わった。思ったより早く終わった。想定の3倍くらい早く終わってしまった。向こうの人生でそれなりに重要性を持ってくるかもしれない試験だが、多分よくできたので大丈夫だと思いたい。多少肩の荷が降りたので、会場近くで「ここ行ってみたいな〜いつかな〜」と秘めていたカレー屋に行った。うなぎの寝床みたいな、ほっそい店内で、券売機で食券を買ってテーブルに案内され、落ち着いて店内を見回すと、すげえ汚かった。手入れの行き届いてない民家みたいだった。きったねえ水差しに、「紀州備長炭のミネラル水」と書かれても説得力がない。カレーが来た。想定の4倍くらいボリュームがあった。一番でかいカレーに、日替わりトッピングをつけて、サービスのカツ追加をしたら、揚げ物5:カレー3みたいな、頭の悪いプレートができた。朝ごはんを食べてから3時間しか経っていない状況で圧倒的な物量と対峙せざるを得なくなり、頑張って食べて、トッピングの唐揚げは食べきれなかったのでこっそりナプキンに包んで、店を出た瞬間に、私が持っている経験則のひとつを思い出した。「初めて行った店で大盛りを頼むべからず」これまっこと真である。

ただの通路にアヴェニューと名付ける厚かましさ

あったかいんだか寒いんだか、天候がどちらに与そうとしているのかさっぱり分からない。朝、起き抜けはまだ寒い。日中は、部屋が日陰になるせいもあるだろうが、微妙に寒い。印刷しなければいけない紙ペラがあったので、コンビニに行くために外に出ると、やはり羽織りものがないとまだ寒い。プリントついでにコンビニの中を軽く見て回ったが、どうにもコンビニは好きになれない。スーパーで買った方が絶対安いじゃん、と思うからである。町にあるコンビニの諸店舗を、料金払込所かプリンターのある場所くらいにしか思えない。人生にコンビニが浸潤してくる機会は、おそらくないだろう。深夜に外に出たくない。寒いから。歩いて数分もないくらいなので、外出というよりは離れに足を延ばす程度のもので、しかしそれも寂しいというか、きっかけを見つけてはルーチンを逸脱しないと、永遠に山手線を続ける事になるぞと思ったので、適当に歩いてから帰る事にした。ここ一週間でよく行く方。特に面白いものはない。高田馬場ヴィレヴァンみたく、路上に(たぶん適法ではなく)商品がはみ出しまくったリサイクルショップがあった。リユース品のスマホケースが箱に投げ込まれて200円とか500円とかで売られていたが、他人が使い込んだスマホケースは使いたくないなあと思うのだが、どんなもんなんだろうか。密着と、体液の染み込み具合は、他のアイテムがそうそう比肩できるものではないはずだが、中古市場は存在するのかしら。というか、どこから仕入れてきたのだろう。ぶらぶら歩いて、ちょうどいい交差点に突き当たったので、少し戻って路地に入った。住宅街のしんとした感じ、雑多に建物が散らばって生活音が響いてくるだけの、知らない区画に立ち尽くした感覚は嫌いではない。洗濯物の干し方や、ゴミの捨てられ方から、なんとなく住民がどんな感じなのか察せるアパートがある。何が貼られていたのか分からないが、汚く跡が残ったまま使い続けられているドアがある。知らなかったが、学校もあった。普通、歩き回ればあるのかな? しょっぱい公園もあった。手洗い場の蛇口は、ハンドルが取り去られてただの排水溝と化していた。大層な遊具がなくても子供達は遊んでいるのだから、最小で必要なのは場所だけなのかもしれない。心に思うところありそうな、翳りのある顔の少年とすれ違ったりして、いつの間にか自宅付近に道が接続した。知らない場所を歩き回りながら、独り言を垂れ流している時間は楽しかった気がする。

アツアツのリアクション芸はあるが、冷たいものへのそれは知らない

爽はたいへん美味しいアイスだが、どうしても爽ばかり食べるようになってしまい、手数のバリエーションが収束してしまうきらいがある。そこで、一念発起すると言うとあまりにも大袈裟で、「たまにはなんか違うアイスでも食うか」と思って箱アイスをふたつ買ってきた。赤城のチョコミントと、Doleのバナナアイスである。チョコミントは、単純にあのケミカル感が好きだから。バナナアイスは、Doleって書いてあったので美味しいのかなと思ったからである。チョコミントなんて、どう論じ分けようにも一様の感想しかなく、わざわざ差別化する意味が薄い。いつだったか、帰省中に録画を観たマツコの知らない世界に出ていたチョコミントマニアには向ける顔もない。香料調味料で立ち上るミントではない、葉っぱのミントと、マジモンのチョコレートで構成されたチョコミントは一線を画した味がするかもしれないが、そんな高級なチョコミントがどこで提供されているのかを知らない。スイパラのハーゲンダッツ食べ放題プランにも、サーティワンのショウケースの中にも、この答えはなかった気がする。Doleのバナナアイスは、悲しいかな、バナナの香りはしたが、それはバナナ香料の味であり、バナナの味ではなかった。なんとなく似せられた形と色と香りから、「バナナ」のアイスを導き出さなければならないのはなかなかの苦痛である。一房300円のバナナを買ってきて、皮を剥いて、竹串を突き刺し、冷凍庫にぶち込んで、文字通りのアイスバナナを作った方が美味しいかもしれなかった。ただ、安物のレモンシャーベットやバニラアイスと同じく、まがい物からしか得られない経験というのもまた確かに存在するのだ。500円くらいなんだろうなあと推察できる、箱のバニラアイスを、淀んだ水から取り上げたスコップで掘らんとする時、そこにはハーゲンダッツでは醸せない生活の香りがある。臭いがある。でも、美味しいに越した事はないので、許されるならば、フリータイムハーゲンダッツアイスバイキングエントリーパスポートは欲しい。レディボーデンでもいい。100円を下回る価格で販売される有象無象を眼下に見下ろしながら、棚に規則正しく陳列されるという特権に浴す、あの辺のいい感じのアイスを享受したいのである。安くていっぱいあるアイスを食べていると、イギリスのスーパーで買った、ヴィヴィッドでベタベタしていて、胸焼けがするような甘さのキャンディポップとか、マグナムとか(商品名である)を思い出す。

風呂場は安寧の地

昨日は、目とまぶたが間断なくピクピクしていた。9割叩き潰した蚊の足が微かに揺れ続ける、あの時間を永遠に繰り返すかのようにピクピクしていたが、今日はそれほど症状が発現する事はなかった。薬局にティッシュを買いに行く時も、特に何も感じなかった。晴れてるなあ、と思ったくらいである。薬局の入り口で洗剤が安売りされていた。なくなりそうだと気づいてから一月くらい経過していたが、都度丁寧に忘れていたため、これを好機と取って買う。レジそばのワゴンにポッキーが積まれていたので、抹茶のやつを買う。店にもよるが、レジ周りは最後の(客の)落とし所である。ヴィレヴァンはレジ周りも店内もさほど変わらないが、スーパーのレジ脇にグリーンガムが売られていると、ああ、スーパーのレジ脇だなと思う。袋はいらないと言ったのに、袋に詰められた。レジ袋は、消費するペースに対して流入するペースの方が圧倒的に早いから、できるだけもらいたくないのである。5年くらい前からの堆積が、レジ袋一つ分の中にぱんっぱんで詰め込まれている。口頭で伝えるのではなく、「袋はいりません! ありますから!」とエコバッグを見せつけてやるくらいしないと、つい手癖で入れてしまうのだろう。杉並区に行くとレジ袋は有償配布だが、金を払って袋に入れてもらう店はまだまだ少ない。正直、レジ袋なんてゴミ袋にする以外の使い道が思い当たらないし、地域によってはレジ袋でゴミを出せない場合もあるので、そんなにいらねえよと思うのだが、袋いりませんと伝える手間とか、いちいち意識的にエコバッグを持っていく精神的なリソースとか、そういうものに重きを置かないならば、ストレスフリーで消費行動を通過できるわけで、強くナシと言い切れるものでもない。毎回レジ袋をもらって行く人は、一体どう処分しているのか気になるところではあるが。いつだったかに買ってきたイカ姿フライを食べ終わった。「折れ」と書いてあったので、細切れでバキバキで、それはもう不遇な傷身で放り込まれているのだろうなと思っていたら、破損しているのはせいぜい2割程度、他は完全体を保ったままで、正規品が輸送途中で多少の衝撃を被った程度のものだった。よい意味でのパッケージに偽りあり、である。折れせんべいとか割れせんべいとか、訳あり商品はお徳用として売り出されて価値を見出され、結果として買われるわけだが、「GACKTが割ったせんべい」とか「棚橋弘至が割ったせんべい」があったら、どうなるんだろうと考えた。着地点はない。

人間の目は邪眼じゃなくても疼く

起きた時から、世界の異変を感じた。世界が私に向ける敵意を、薄ぼんやりとではあるが感じ取ったのである。文明の箱入り娘として育ったとて、人間の動物的直感は完全に衰えてしまうものではない。確実に、何かがあると思った。ご飯を食べた。洗濯機を回した。洗濯物を干した。窓を開けた瞬間、7割程度の陽光を直接肌に受ける。陽の光で色づいた向かいの壁が、うっすら黄色くなっていた。黄色? 黄色……? 耐えられないほど悪質なものではないが、無視できるほど軽微でもない痒みが、双眸を襲った。この感覚には覚えがあった。しばらく忘れていた。優しく嬲られるようなこの掻痒感は……。花粉症だった。布団から身体を起こしてすぐ、ティッシュで鼻をかんだ。昨日までと、なんだか鼻水の質感が著しく異なる気がした。こんなにさらさらしていなかったし、ティッシュに訴えかける周期が目に見えて短くなっている。めちゃくちゃ目が痒い。眼精疲労から来る、バシバシと筋肉がパルスを放つようなあの感覚ではなく、シーズンに準じた、真っ当な花粉由来のオーセンティックな痒みだった。目がグラグラする。鼻水が、常に1割だけ開いた蛇口のようにちろちろと湧き出続けている。去年のこの季節は、花粉とは無縁の場所にいたから完全に忘れていたのだ。高校生の時分、自転車通学がゆえ、屋外を乱舞する花粉を大量に吸い込み、別世界のものだったはずの花粉症の領域に踏み込んでしまって以来、一度ポーズを置いてしまったがために、身体がリアクションを起こすのを忘れていたのである。静電気が走るように、突然スイッチが入った。夜、寝ている間に。毎秒継続的に与えられるスリップダメージがしんどいものだという事をすっかり忘れていた。忘れているわけにはいかないのだ、人間も自然界の一部なのだから。牛乳を買いに家を出る時、門のすぐそばに植えられている金木犀の木を、縋るように眺めてしまった。季節を外しているので、「がく」の残骸みたいな、ヘンテコな形の組織が葉とともにくっついているだけだった。金木犀を見ると、妹がタッパに集めて持って帰ってきた金木犀の花が、数日後腐り果てて絶後の悪臭を発した事象を伴って思い出す。美しいバラにも棘があるというか、物事に限度はあるのだと、あの時少しだけ知ったのだ。猛烈な勢いの消費に供給が追いつかず、明日は箱ティッシュを買いに行かなければならない。屋外とはそれすなわち敵陣ど真ん中であり、四方八方から一髪の間さえなく集中砲火を食らっているに等しい。

中華まんの表面がデッサン石膏像に似ていると思う瞬間がある

たまにイカしたカバンを見かける事があって(イカレたカバンの事もあるが)、電車で向かいの席に座ったおばさんが背負っているのが、サクラのクーピーをモチーフにした、ポスターカラー感満載のクーピーのリュックだった。文房具屋の店頭で半ばジョーク商品のように吊り下げられているのを見たような記憶があるけれど、実用している人もいるのだなと知った。テレビのカラーバーが断続的に連続しているようにも思えるビビッドな色彩で、視界のどこかに存在しているだけでそちらに視線を向けてしまうような、極めて自己主張の強いプロダクトだった。あれを商品開発会議で出した人は、一体何をきっかけにあんなもんを売り出そうと思ったのだろう。原宿でしか見ないものかと見くびっていたが、こちらの想像力が足りなかったのだ。MONO消しゴムやシャープペンシルの替え芯ケースバージョンも展開できそうな気がする。畳んだ状態が色鉛筆に似ている傘を発売し、折り紙の金色銀色をしたスカーフを提案するのである。折り紙のメタリックカラーというか、金色銀色からは、リッチな印象を受けない。ただ、子供の頃に感じていた金色銀色への特別なスペシャル感だけが掻き起こされる。もし世界に存在する折り紙の束が、金銀9:その他の色1という割合で構成されていたなら、私たちはここまで金色銀色で折った紙飛行機に羨望を覚える事もなかったかもしれない。ステーショナリーがモチーフの商品は、意外と色々生み出せそうな気もする。個人的には、Radar消しゴムのリュックが欲しい。あったとて、買ったとて、ぜぇったいに普段使いはしないしお出かけ用の特別な身装具としても扱わないが、向こう一生この消しゴムしか使わないという不滅の誓いを立てた手前、家のどこかに飾っておき、神棚のように一家相伝の宝としたいのである。昔も言ったが、Radarはすごくいい消しゴムである。これを使ったが最後、少なくともMONOを使おうという気は二度と起きない。もしかすると、文房具帝国ドイツにはもっとイレイザーイレイザーがあるかもしれないけれど、日本で売られている消しゴムの中では、Radarが最強である。これをオフィス規格として導入している会社があったら、多分いい会社である。たぶん。サインしてください、とSARASAを差し出してくる人はいい人である。帰り道、近所のおばちゃんズ弁当屋で、タコライスを買って帰った。タコライスが何なのか分かっていないので、何を食べたのか自覚できていない。一緒に買った大根の葉の卵とじはすげぇ美味しかった。

全ての信号機LEDをパプリカで置換する

台所に置いてある調味料の中で、擬人化して一番可愛いのはめんつゆだろうなと思う。醤油はプライドが高くて棘があってきつそうである。料理酒は、一歩下がった感じで大人しく、あまりひねたところがない。豆板醤はカラムーチョや蒙古タンメンばっかり食ってそうだし、とんかつソースはハマるところにしかハマらない局所的なやつだと思う。めんつゆは一番クセがなく(ストレートタイプなので)、交流の中で飽きが来ず(濃縮タイプなので)、いつの間にか長い時間を一緒に過ごしていそうである(入れても入れても味が決まらず満足しないから)。めんつゆの甘さとだしの匂いを嗅ぎながら考えた。私はめんつゆと結婚する。新聞を一週間だけ頼んでみたので、ぺらぺらめくって読んだ。めっきり活字情報メディアに触れる事がなかったので紙面を見るのが限りなく久しぶりだったが、情報媒体は情報を得るためのものであって文章を味読するものではないという、当たり前というか何というか、その辺の事実に気が付いた。文学作品と同列に置いて考える事がそもそも論外なのだ。論外ではあるのだが、『天声人語』を担当していた人の新書を読んだものだから(それでも1980年代くらいのものだったはずだが)、深みと旨味のある文章が載ってないかなあ、と目が皿になってしまう。なかった。各紙一面の左下にあるあそこが、こういう望みをかけてもいい最後の砦なのだが、「こりゃあすげえぜ」と思う文章を最後に読んだのはいつだったかさっぱり思い出せない。地元で中国新聞を読んでいた時は、ある時急に文章と内容の質がガクッと落ち、数日続けて観察すると、どうやら中の人が変わったらしいと推察できた。私はあそここそが新聞の顔、一番大事なよそ行きのパーツだと思うのだが、文章に何かしら審美的価値を見出す事はもう重要ではない潮に流されているのかもしれない。それでもなぁ……。綺麗な字は活字に居座られているのだから、こちらから文字に干渉できる最後の手段は文字の配列組み合わせを支配する事だけなのだ。最後の主権を譲ってたまるかと思わないでもない。グリーンランドだか、あちらの方にある自称独立主権国家よろしく、謳い掲げるのは自由である。流れるプール沿いに設置されている監視員用の席によじ登って、流れるもの浮いているものを眺めているつもりである。存在を失念していたトマト缶があったので、香草タイムと英国岩塩で煮込みを作った。この2つはとても相性がよろしい。

よく観察するとポストの大きさは新聞紙に合わせてある

寝る時に「おやすみなさい」とは言う。誰に言うわけではないが、一応おやすみなさいと言う。睡眠導入剤的な効果を発揮してくれる事を期待して、言った後はすぐそこにある寝られなさを自覚して腕で顔を覆ってしまう。これは無理だと思う。おはようは言っていない気がする。目が覚めると、「うああ」と思う。目が覚めてしまい、起きなければいけないからだ。「……あーー」が一日の第一声であり、おはようとは言っていないような気がする。苦し紛れに、嫌味混じりにおはようとは言っているかもしれない。朝というか、午前中の記憶がない。スーパーに並んでいるもので、よほどの事がない限り絶対に買わないようなものがたくさんある。あんこう鍋のパックとか、棒たくあんとか。そういうアイテムの中に、「ニシンの昆布巻き」があった。えらく太い棒状の昆布が調味液漬けにされていて、北海道産のご立派なものだと千円弱くらいする。魚は嫌いじゃないし、昆布は好きだし、気になっていたカップリングではあるのだけれど、しかし値段がものを言う。こんなに些細な好奇心に払える金額ではなかった。ポスティングでぎちぎちパンパンになり、それでも次のチラシがぎゅうぎゅうと押し込められているポストの中を数ヶ月ぶりにさらい、しばらく足が遠のいていた業務用スーパーに行った。牛乳とヨーグルトがなくなった。入ったところすぐ目の前に、アクエリアスの缶が安売りされていた。そして、知らない間に、アクエリアスのロゴがものすごくダサくなっていた。都心私立大学生から、ド地方大学生に転身を遂げたのと同じくらいの落差がそこにはあった。人はこういう現象を改悪と呼ぶのだろう。かっぱ寿司のロゴからかっぱが消えた、あの事件のように。あまりにかっこ悪く、数日後に見返して鼻で笑いたかったので買った。パウチ食品のエリアに、ニシンの昆布巻きがあった。ついでに、子持ち昆布巻きもあった。両方かねてから気になっていたものだ。とりあえず買う。冷凍エリアの隅で展開されていた、ご飯のお供ビン詰めシリーズが安かったのでいっぱい買う。帰ってニシンの昆布巻きを皿に開けて食べてみた。やっすいやつだったからかもしれないが、ひとつずつが親指くらいしかない。ニシンってこんなに身細だったかしら、と思う。一個目はまるまる口に放り込んで、どこにもニシンを感じられなかったので、二個目以降は半分に噛み切って中身を確認した。確かに、鉛筆の芯みたいなニシンが簀巻きにされていた。満たされなくてもよかった好奇心だと分かった。

焼けた線香の束を握る

ぺらっぺらにダイエットしてしまったチューブをつまんで、歯磨き粉がなくなりそうだな、と思ってから2週間くらい経つが、なくならないまま歯磨きの機会を提供し続けてくれている。そろそろなくなりそうかな、危ないかな、と察知して歯磨き粉を買って来たのが嘘のよう、いや徒労のようである。もうダメかな、と首根っこを引っ掴んで絞り出し、そろそろ終わりかな、と思ってはチューブ末端からしごき上げてひねり出している。意外と出続けるものだ。母方の実家では、これらのプロセスに加えて「チューブをかっさばいて中身をこそぐ」という俄かには信じがたいシメの手段があるのだが、そこまでしてもったいない道を爆走したくはない。洗濯物を取り込もうかと思って窓から半身を乗り出すと、一面に綿埃を敷き詰めたような、黒い紫色だった。降るな、と思ったが、ご飯を作るために室内に引っ込んだ。換気のために窓を開けていると、ほどなくしとしとと水滴が染みを作る音が聞こえてくる。案の定であり、どうして降ると思った瞬間に行動を起こさないのか自分の行動原理が理解できないが、身体の準備はできているのでさっと動いてさっと室内に避難させた。半分湿気ていた。干した時間が遅かったせいか、それとも。事あるごとに、頭が鈍いなと感じる。タオルばかり敷き詰めたダンボールの中で、脳味噌が乾いて静かに横たえられているようだ。脳漿がなく、有機的な神経もなく、ただそこにあるだけで眠い。首を伸ばして、工事現場のフェンスを越した景色を見ると、ショベルカーが土を掘り起こしている。正面を掘って、脇に土を置く作業をしているショベルカーは正気なのかと思うが、あれはきっと何かしらの手続きなのだろう。掘って、土を盛るという。土をショベルというかスコップというか、あれらの道具でほじくったのは果たして何年前になるだろうかというほど地面を掘り返す作業に長年従事していないけれど、土は概して硬いものだという記憶は手先に残っている。だから、漫画で死体を埋めるための穴を掘っている時にも、ちまちまとしか土が飛び交わないのである。ショベルカーは、機械の力を存分に振り回して、土塊をかき回している。もしかして、土はとても柔らかいんじゃないかと錯覚できるほどで、地面ってチョコプリンなんじゃないかと思った。人間は、死んだらチョコプリンに還るのだ。死んだら白無垢の生クリームにくるまれて、チョコプリンのカカオ粉になるために焼かれに行く。

性善説からの悪徳教育

定期的に、罫線のない真っ白なノートが欲しくなる。罫線に行を意識させられるのが嫌になる、そう言ってオーバーなら気になる瞬間があって、ザラ紙の沈んだ灰色や、大学ノートの踏みしめられた雪のような白ではなくて、スリーブを外した消しゴムのような、嘘みたいな白を欲する。パソコンの画面から飛び出してくる、色値を指定した白ではなくて、手に取って目で見て「白い」と思う白に手が伸びる。迷い込んだどこかの大学生協で、白いノートを探した。白いノートは、断続的に使って来た。数学の問題を解くのに、図を書く時に余計な横線が入るのが嫌で百均の無罫ノートを濫費した。デザインの素案が浮かぶまで、適当に文章を書きなぐり、四角や丸を頼りに頭の中で構成を散々弄くり回した。何かを思い付いてもすぐに書きとめられるよう、心理的な保険として、カバンの中に白無垢の紙束を潜ませておいた。さすが学生生協と言うべきか、いい感じのホワイトノートがあった。ツバメノートとかいう会社の製品のもので、極厚タイプの表紙裏には「私たちはこんなにノート作りに精魂捧げてるんです!」なる旨の、暑苦しくなるくらいの売り文句が書いてあった。ソノラマ文庫というレーベルがあったが、その時代のエネルギーを、その時代の粘りを持ったフォントで刻み込んだようだった。まだ全然使ってないし、私の頭の中がノートと同じくらい真っ白けなのだが、いちページ目には今の所こう書いてある。「but the quotation cannot be left to speak for itself」「見なかったふりをするのも難しいが、見たふりをするのもまた難しい」前者は、本を読んでいる時に「逆立ちしても一生書けっこないなこんな英語」と思った一節であり、後者は西尾維新が伝説シリーズの各章冒頭で書いていたエピグラムみたいなやつを思い付いたものだ。よいノートを綺麗な肌のまま腐らせるのも勿体無いので、書き込むべき事を発想すべく脳味噌のお尻をぺちぺちしていきたい。私は自意識過剰なので、大型書店と言うのか、普通の本屋に行くとものすごく恥ずかしい。どの棚のどの本を見ているのかを見られていると思うと顔を真っ赤にして凝集してその場から消滅したくなる。エロ漫画を買いに行く時は、ああいうお店では私含め自分の世界で領域が隔絶されているので、ただ孤と孤が共時存在しているだけなので全然気にならない。一冊の本をレジに持って行くだけなのに、ものすごく疲れた。そして、恐ろしく不毛で非効率的なレジシステムだった。あれを発想し定着させる手腕が恐ろしい。

イングリッシュマフィンが綺麗に割れない時の苛立ちは割り箸のそれと同じ

壺漬けカルビという言葉には、魔が宿っている。壺漬けカルビと聞くだけで、心の中が涎で湿気るのが分かる。焼肉が好きなのではなく、わざわざ壺に漬ける工程を経て調味するその手間暇に涎が出る。パックから菜箸で肉をつまみ、フライパンにぽとぽと落としていく作業とは違うのだ。壺の中に肉を入れ、きっと秘伝で門外不出、代々継ぎ足されてきた歴史と伝統あるタレを流し込み、もみもみしてしばらく置いておく。ここまで書いて、壺漬けカルビを食べた実感のある記憶がない事に気が付くが、おそらく壺漬けカルビの作り方はこんな感じだろう。プロセスまで門外不出で一子相伝だったら、安いバイキング形式の店に「濃厚味噌壺漬けカルビ」のようなメニューが採用されるはずないからである。内密にしてこしょこしょ耳打ちしなければいけないような情報は、タレの配合と肉の下拵えの仕方くらいだろう。もしかすると「どういう土・焼き方の壺がいいのか」「壺の内側にあらかじめ塗っておくべき調味料は何か」というこだわりまで存在するかもしれないが、その辺は壺漬けカルビを扱ったグルメ系新書に譲りたい。図書館でホコリを被ってカビで真っ茶色になって、カバーが擦り切れ背表紙がテープで補強されているような古い新書のタイトルを見ると、現今本屋に並んでいる新書タイトルのなんと軟派な事よと思うが、新書というものの立ち位置が時流とともに変化しているのだと考えて胸を収めているが、「しかし、なあ……?」と思う事もある。古い岩波新書は面白い。買って来たはいいものの、消費ペースと暦の進むスピードが釣り合わず、あえなく牛肉が残ってしまい、明日には変色を始めドリッピングから異臭がせんという段階になったので、頭の中に閃いた壺漬けカルビというイメージに則り、口径が広めのマグカップに肉を入れ、醤油料理酒味醂砂糖を長年の自炊経験に基づいて適当に投入した。同じ調味液を作ってゆで卵を入れておくと、味玉ができる。醤油の塩分にすがって、肉が痛むのを堰き止めようという決死の抵抗だった。「漬け」という言葉の持つ重みを無視するわけにはいかず、3日ほど冷蔵庫の中で安置した。今朝、マグカップを取り出して中を覗き込むと、ひたひただったはずの調味液が全て肉に吸われ、肉の威容が少し膨らんでいた。さっき弱火で焼いた。非の打ち所なく美味しかった。柔らかいし、味が染みている。焼いているうちに滲み出してくる調味液が、一緒に炒めている野菜に味をつけてくれていた。期限が迫って肉の処理に困ったら、向こうしばらくは漬けてみたいと思う。私が食べ物の話ばかりするのは、食べ物くらいしか日常で変化のある局面がないからである。

実体を持った濡れ煎餅みたいなおにぎりを食べた

舗装された道路を歩いていると、変な箇所にくぼみがある。往来の真ん中にあったり、道の端っこに空いていたりする。その多くは何かしらによる損壊で、硬いものがぶつかって部分的に欠け飛んだり、抉り取られたりしたものなのだと思う。アスファルトが傷を負った理由はいくらでも想像できるが、想像したモデルが現実に存在するかどうかについては、実現の具体例を探さなければ分からない。一度引っかかるとなかなか色の変わらない信号を待っていた。雨が降っているので、普段は発生しないノイズが互いに何十倍にも膨れ上がって聴覚を刺激してくる。道路と歩道の境界に視線を落とすと、小さな、小指の先でくり抜いたくらいの穴があって、どこかから垂れてくる水滴が飛沫を散らしていた。首を上げると、高架の補強板みたいなところから、秒速2滴くらいの速度で雨水が垂れ続けていた。落下点は浅く、しかし確実に凹み、押し寄せる水滴の軍勢にわずかずつではあるが押し負けていた。滴穿というのは、石の上にも三年垂れ続ければ、本当に石を穿つのだなと思った。五劫の擦り切れも似たようなものか。木材にヤスリをかけ続けていると、いつのまにか一回り小さくなってしまっている事がある。なってしまっている、と言うか、小さくしたのだが、一度の研磨でフケくらいの分量しか削りカスが出ないものだから、小の積み重ねを大いに軽んじていたのだ。確かに、塵も積もる状況さえ用意すれば山となる。1円募金のように。パンを買いに行ったら、いつもの肉まん・ピザまんコンビがまたまたまたまた売れ残っていたので買ってきてしまった。こいつらがおつとめ品ワゴンに乗っていると、どうしても家に連れて帰ってしまう。そろそろ中華まんの季節も終わる。四季の中で、どのタイミングで「中華まん」が季語になるのかは確定しようとした事もないが、一番似合うのは冬だろう。お花見をする時、広げられたブルーシートの上に中華まんはないだろうし、夏の海の家で中華まんがメニューに載っている事はないだろうし、秋は微妙だが、団子にその席を譲る事だろう。そろそろ、売れ残るほどの量入荷される季節が終わるのだ。残り少ない交流の時間を、大切に過ごさねばならぬ。雑談をしていて、「そういう事に関心があるならこの本を読めばいいし、その分野ではこれが最高の本で、ついでにこれが絶対に避けては通れない本で……」と目の前に堆くおすすめが積まれていくと、全然知らない事だらけだと思う。本の中だけに真実があるのではないにしても。

同じ理由で黒いゴミ袋もあまり好きじゃない

二週間くらい前の出来事だが、頭にこびりついているので書く。滅多に横断する事のない大通りで、私は信号が変わるのを待っていた。車通りが多く、信号が青に光っている時間が短い。そばの店でジュースとアイスを買って表に出た瞬間に赤になったので、しばらく待ちぼうけだった。暮れようとする空の、微妙な透明度の青を見ながら、ぽうっと視線を上に投げていた。車通りが多いところ特有のデカい信号機がある。その上に、カラスが一羽、止まってどこかを睨みつけている。カラスの輪郭と、その身を覆う黒は、思いつく限りで一番質量の伴った、戦慄を感じさせる力強さを持っている。ゴミ捨て場にうろつくカラスから匂うエネルギーに当てられると、後ろに数歩退きたくなる。硬そうなクチバシが、ぎっしりと締まっていそうな肉が、体毛の中から光る眼光が、脅しつけているような気がする。カラスがいる、と思った。周りにはちらほらと他のカラスも見え、連れ立って食べ物を漁りに行くところだろうか。赤信号の残り時間メモリがひとつくらいになったところで、不意にカラスが飛び立った。足元の機械を踏みしめ、羽を広げて繁華街の方へ向かっていく。踏み切り地点にされた信号機は、カラスが出立する瞬間、その体重に踊らされて、目に見えるほど揺れた。ぐっ、ぐわんぐわん、という音が聞こえるかのようだった。青信号に変わり、横断歩道を渡りながらなお、あの黒い鳥の体重が残した物理現象に目を奪われていた。以上。私も、カラスに蹴っ飛ばされたらよろめくと思う。被害妄想的に感じたあの質量は、間違いなくカラスが持っているそれだったのだ。家の前の集合住宅入り口に、突如として台所用品が置かれたままになっている。ゴミ捨て場は数十メートル横手にあるのに、これはどうした事か、と思って品々を見てみた。蓋つきフライパン。茶碗。皿。炊飯器。エトセトラエトセトラ。えっと、けーてら。雨に打たれてよれよれになった段ボール箱には何も書かれていないが、これは恐らく、おばあちゃんがいる家で稀に開催されている「ご自由にお持ちください」コーナーなのだと推察できた。風雨にさらされる前から染み付いているのであろう生活の跡を茶碗の色合いなどに見て取ると、あんまり持って帰る気は起きない。きわめつけは炊飯器で、私はtake for freeの炊飯器を未だかつて見た事がなかった。操作盤に残るホコリと水垢を見ると、確かに人が使ったものなのだなと思われた。こういう品が不要になる事態に思い及ぶには、想像力が乏しすぎる。