他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

おくたま

悪魔が目の前に現れて、「お前の魂と引き換えに願いをひとつ叶えてやろう」と言われた場合に、私が悪魔にお願いしたい事の筆頭候補に「俺の魂、見せてくんない?」である。自分の魂を、一目見てみたい。私の魂をぶっこ抜くのか投射するのかは知らないけれど、可視化して、「こんなお願いしたから俺の魂お前にあげるけどさ、ほんとにこれでいいの? 俺の魂こんなだけどいいの?」「お前の魂に対するフェチってどんなの? 俺の魂になんか感じる?」などなど、是非に訊いてみたい事がある。男子トイレの小便器の中に吐き捨てられたガムみたいな魂だけど、こんなん貰って悪魔って嬉しいの? とかとか。悪魔が一体どういう点に魂のよさを見出しているのか、一応知ってから引き渡したいものである。そう、この欲求は、石ころを宝石鑑定士に調べてもらう行為に近いものがあるかもしれない。専門家の目から見るとどうなの、実際どうなのよ、と。死んだ時に契約履行、すなわち魂引き渡しのケースが多いので、自分の魂の写真でもチェキして、死ぬまで家に置いておいてもいいだろう。気分が落ち込んだ時、辛くて泣き出しそうな時、自分の魂の姿形を見て強く励まされるという事はまあ十中八九ないだろうが、「あぁ、俺の中にはこれが入っているんだな」と思う事により、ほんの少しだけ苦悩煩瑣に雑念が入り、気が紛れるだろう。この妄想が、あなたの守護霊やら何やらのアレに近い気もするが、こっちは持って行く方、取り扱いのプロが関する事であるから、一応形だけでも悪魔を信じたい。魂……。そんなものを人間から貰って、悪魔たちはどうするのだろう。珍しい形、綺麗な色合いの魂は、サザビーズみたいなところに出品されて、好事家悪魔たちによって大枚叩いてコレクションされていたりするのだろうか。いやー、でも、全部想像だからなあ。さすがに出向かなければいけない用があったので出掛け、そこでの話の内容的に「今日のお昼は外で食べよう、そうしよう」と心が傾いたので、今まで通り過ぎるだけで一度も訪いを入れた事のなかった店に入った。初めて行く店に入るときは、全くの他人の家に這入るようでものすごく、こう、どういう面構えと心持ちをすればいいのか全然分からない。一応、それなりに有名なところらしかった。人生で初めて汁なし坦々麺をきちんとした店で食べた。めっちゃくちゃにしょっぱかったので、これからの人生で再び口にする事はよほどの事がない限りあるまい。厨房でアルバイトらしき店員が作り方の指導を受けるのを、私が持つラーメン屋アルバイターの経験に照らしながら観察していた。店によって色々違うもんだ。

コーヒーの匂いは、離れて嗅ぐと靴下の匂いだ

数日前、ヤカンでお湯を沸かそうとして気が付いた。お茶のパックを切らしていたのである。お茶のパック、トイレットペーパー、ラップ、この辺りは、一人暮らしをしている上でほとんど資源として枯渇する事がなく、買い溜めしておくほどでもないくせに、いざ切れてしまうと喫緊に困るアイテムたちである。お茶のパックは、私のような家から水筒を持って出かけるようなこすっからい人間にはなくてはならないものだし、尻拭き紙については言わずもがな、ラップは朝炊いたご飯を夜に取り置いておくためだったりお肉を包んで冷凍したりと色々である。で、この中の、お茶パックがなくなっていた。家に常備されている水分が牛乳とお茶しかないので、お茶を切らしてしまうと牛乳しか飲むものがないが、寝る前に牛乳を飲みたいかと言われると私はノーであるから、健全な食生活奪還のためにも、危急で鶴瓶のお茶パックを買ってこなければならなかった。そうなのだが、外出すると一瞬で頭から用件が吹き飛ぶタチであるから、今日に至るまで忘れすっぽかしていたとこういうわけである。手の届くところに飲料があるというのは、大変にありがたい事だ。さっき沸かしたばかりなので飲めないが。買った時に一緒にクーポン券というか、クーポン冊子みたいなのを渡されたが、すかいらーく系列のものだったのでゴミ箱に直行する予定である。近くにないのだから仕方がない。北海道に住んでいる人間がフタバ図書のギフトカードを渡されても意味がないのである。クーポン自体の中身もしょぼかったので、あれなら、あれなら、……。代替としてどこに行くだろうか。候補がすぐに出てこないので、家で飯を作って食べているかもしれない。昨日買ってきたあんまんであるが、電子レンジを通過する儀礼を経て朝ごはんとして登場願ったところ、一口食みついて中身を見て仰天した。黒いのである。イカスミパスタのイカスミの部分だけをおにぎりにして目の前に出されたのではないかと思うくらいに黒いのである。しかし、ここで私の鈍麻な頭脳が閃いた。この黒さ、私は知っている。間違いなく知っている。アレである、アレ。確信を持って噛み付いた。確信を持ってフルスイングしたのち、ものすごい勘違いだった時に内面で吹き荒れる恥ずかしさの嵐ったらないが、今回は正解していた。黒ごまが入っていたのだ。包装もきちんと確認して裏を取ったので間違いない。高いあんまんには、ごまが入っている。新しい教訓だ。あんこの甘さを黒ごまの香ばしさが抑えていて、意外と合っていた。

全裸の王様に衣類をプロジェクションマッピングする仕立て屋

さすがにカレンダーを盛大に見間違える過ちの後には翌日の予定をなんとなく意識的に整合するもので、今日は用事があったので早く起きた。早く起きたところで神様から三文のおこづかいをもらえるわけでもなく、一日の始めには大体やっている事、それから収集車が来る5分前に思い出してゴミ出しをしてから、もうほぼ無になった。あれがあれ、これがこれ、というのを片付けていったり脇に置いて目を逸らしたりした。つーん。食料の買い出しに行ったら、中村屋の中華まんが再びおつとめ品ワゴンにスローインされていて、今度は肉まん&あんまんという、後者の人気が絶望的に低そうな袋だった。肉まんだけでも十分美味しいので買ったが、きちんとしたものであれば、あんまんも美味しいものなのだろうか。ある程度以上に美味いあんまんの記憶がない。安いあんまんは、あんこが水っぽくてべしゃべしゃしている。6個で410円+税の力を見せてもらいたいものである。それはそうと、袋に「今なら1個増量中!」的な事が書いてあるのだけれど、前買ったものもそうだった。というか、この売り文句を額面通り受け取った場合、もともとの内容量は5個(おそらく肉まん3+あんまん2)なのだろうが、個数の不均衡がなんだか気持ち悪く感じられてしまう。ドラッグストアが一週間のほとんどを「ポイント○倍!」の横断幕を掲げて営業しているのと同じで、「じゃあもうデフォルトをそれにしてしまえばええやんけ」と思ってしまう、あの心理状態に陥る。お前ら結婚しちゃえよ。とは言うものの、やはり「増量」「お得セット」「○倍!」あたりの、普段はできないけど今だから享受できるアドバンテージ、スペシャル感を演出した方が幸福値が高そうなので、しかも嘘っぱちはいい加減にしろよこの野郎と突っかかるものでもなくむしろこちらが恩恵に浴しているわけで、そんなに悪くない方の必要悪なのかもしれないと思いつつもまだ腑に落ちないしこりがあるのを感覚しながら通り過ぎる。今日はとても寒かった。午前中に外に出ると寒かったし、午後に外にいても寒かった。そのくせ雪は降らないのだから不思議なものである。寒いのに太陽はちゃんと照っていると、頭がバグりそうだ。寒いなら雨や雪を伴っていただきたい。帰省していた時に母から美味しいよと聞いていたので、ネギをほっそい小口切りにして胡麻油に浸し、塩を振って混ぜタッパーの中に放置した。ご飯のお供になるらしい。しかし、少なくとも向こう3日は朝ごはんが中華まんなのだよな……。

もらった柑橘類がいっぱいある

半纏を着て台所に立っていると、「同棲中の彼女が風邪を引いたのでおかゆを作ってあげている」光景に見えていいな、うふふ、と思った。うふふ。実際には、包丁をとんとんする私の背後にあるのは、去年暮れに整理ボックスを買ったのに未だ開封されていないが故に畳まれていない状態で依然床に横たわったままの洗濯物たちと、雑多なものが雑多に積み上げられた棚・机と、ニトリのくたびれたシングル寝具セットだけである。私を待つものは何もない。帰省中、「大家さんのところ以外にも持っていくかしら、一応買っておこう」と持って帰ってきた川通り餅一箱が、持っていく先なく盛大に残存を余儀なくされたため、昨日今日でいっぱい食べて消費していた。消費期限自体はとうの10日に過ぎ去っていたのだけれど、食べ物を捨てるのはもったいない、そう、もったいないな何か、というくらいのゆるゆるな衛生観念で食べていた。風味とか食感は確かにディテールが飛んでいるような気がしたが、川通り餅はもともと持っている「おいしい係数」が極めて高いので、そんな事を気にするくらいであれば余らせてダメにする方が私にとっては罪深い行為であった。開封して思い出したのだが、川通り餅というやつは、爪楊枝の刺さった平べったいお餅が紙でお包みされているだけの、密封型ではない包装形態だったので、ちょっとこれは期日を過ぎてしまうと危ないんでないの、と思った事は事実である。それくらいの目の上のたんこぶは、なかった事にしてしまえるのがもったいない精神である。一日を虚無に溶かすのをもったいないとは思わないのに、食べ物とかに関しては勿体無い精神が遺憾なく発揮されている。即物的だ。カレンダーを一週間読み違えていた。正確には、この週にはこれがある、という内容を一週間後ろにずらして感覚しており、先週の予定をまるまる無で踏み潰す結果となっていた。気が付いたのは昨日の夜で、あ、やっべと思ったが、それくらい思っても世の中は回るので、まあいっか、と思ってしまった自分がいた。完璧に、すべてが終わってしまってから脳内カレンダーと実暦を照合したのだから、私の中で生活しているアナザー人格が、悪い事でもしたのかもしれない。悪い遊びをしてしまうのも困りものだが、悪い遊びを教えてくれる友達がいるというのも問題なのである。埋め合わせが必要になりそうなイベントは(おそらく)なかったのが不幸中の幸いだが、不幸とは、足音が聞こえるだけで不幸なのだから、メデューサの目を見てしまったようなものなのだ。

カステラと肉まんは親縁関係

消費期限がハザードに迫っているため、普段から結構なお値段を誇るものの確かに美味いと納得させる中村屋の肉まん・ピザまんセットがおつとめ品ワゴンに入っていたので、冬だしなんか季節感出しとくために肉まんでも買おっかな、と思い買って帰ってきたのが5日くらい前の出来事である。値下げされたくせに肉まん3・ピザまん3のNETで410円+税という足元をガン見した価格設定であった事に一抹では握りきれない不服感を抱いたものだが、皿に乗せて適当にレンチンしただけでコンビニの肉まんとかより遥かに美味しかったので、伊達にまともな値段貼られてないんだなと思った。肉まんもピザまんも、味覚を意識的に行使しなくても美味しい食べ物なので、歩きながら食べる飲食物としては最適解かもしれない。余程の事がないとフィリングをこぼす事もないし。肉まんの中身をフィリングというのかどうかは分からない。「あん」かもしれない。ディズニーランドでも、チュロスとかじゃなくて肉まん売ればいいのに。デートしながら肉まん食べるのはすごくいいと思う。経験のない事象に想像した事例を妄想で被せているから、想像上の机の上に空論を立てているのと同じくらい無責任で無根拠な話をしているが、どっかでお洒落な食べ物を食べるくらいだったら、肉まん食べ放題に行った方がいい気がしてきた。肉まんは、ひとつひとつは大した事ないように見えるが、頭の中で肉まんの展開図を描いてみると(肉まんの展開図なんて想像した事ないだろう)、薄い食パン一枚にそれなりのおかずがついている程度のボリュームはあるわけで、いち肉まんはいちサンドイッチよりも強烈に満腹中枢に喧嘩を売りに来ているのだ。ふたつ食べるだけで「あ、なんかもういいや。お疲れ様でーす」と思ってしまうから、実は肉まんは腹持ちがいい食べ物だったのだ、という経験則を410円で買ったのだった。これはしっかりしてちゃんとした、手を軽く握った時くらいのサイズを誇る肉まんに対しては当てはまるルールなので、だからと言ってどうという事はないのだが、私の中で対肉まん好感度がピロピロと音を立ててステータスを上げていくのを感じた。あと、やっとこさ薬局でラップを買って来たのだが、ラップは短いやつの方が長いラップより高い、という事を知った。なぜだろう。紙の定型サイズ売りみたいに、短いラップのサイズだと機械から出てくる分を変にカットしなければいけないのだろうか。

縦横斜めで話ができるので、縦横は尽くせ無いほどではないのでは?

でっかい交差点を渡る時に、めんどくさいので「まっすぐ行ってから横に折れる」という移動コマンドを身体に入力する事を身体が強く拒否し、「斜めに渡ってしまえ」と唆してくる。大変魅力的な提案である。算数で習ったんだか初等数学で習ったんだか、2点間を結ぶ最短の距離は2点を結ぶ直線である。よく分からないほど宇宙的に拡張した超絶数学だとそんなこともなくなってきているのかもしれないが、最短距離は大体そんな感じだ。別に目的地に速く行きたい、行きたくて仕方がなくてうずうずですぅ〜みたいな事もなくて、じゃあそんなちまちましたショートカットの事を細々考えるくらいだったら堂々と怖じずに行けよと思うのだが、思ってしまったらそう思った自分を見る自分を見る自分を……と一切の利益をもたらさない背進が続いてしまうため、考えるのをやめた。斜めに渡っても危険がなさそうな場所、例えば渋谷のスクランブル交差点とか、超田舎の風に吹かれて転がるビニール袋しかいない交差点とか、その手の場所であればすいすい渡る。そこまで断定できない場所では、ちょっと怖じる。いやいや、もしかしたらもしかするんじゃない? 危なくない? と思っている。そんな事を言ってしまえば、横断歩道を渡らない事が危ないし、なんなら外出それ自体がこの上ない危険に身をさらす事になる。歩く核シェルターになれない限りは、危険は教室で自分の後ろに座っているやつくらい近くにいるのである。そう易々とプリントを渡してしまいたくはない。プリントは回さなければならない。寝首をかかれないように、とっても気をつけて振り向くのだ。背中を取られている時点で相当負けている気もしてきた。ここまではどうでもいい枝葉末節で、幹に抱きついて取っ組み稽古を始めると、「『斜め横断』という言葉には、横が一個多くないか?」と、でっかい交差点を斜め横断しようかどうか迷った時に思ったのである。斜めとは、それすなわち、「縦+横」である。数学でベクトルをお勉強した時に、そういえばそんな話をもっと定式化して定量化してやったような気がする。字面だけ取り出すと、「斜め横断」とは縦横横断であり、横が横並びによこよこしている。よこよこなどという言葉は日本語のうちに存在しない。横断の「横」にそこまで強烈な方向性示唆的性格があると思うにはなかなかしんどいが、あ、横がいっぱいあるなと思った。そして、「あ、それは理に適っぺだね」という言葉を使っていきたいなと思った。その意見、理に適っぺだね! かわいい。

ウインナーを「おいしい天然腸詰」と書かれると萎える

ポットパイみたいな、傍目から見るとただパイがこんがり焼きあがっているだけだが、実際天井をバリバリと破って中身を見てみるとグツグツ煮え滾っているような、水面下というか氷面下で事態がじわじわ動いているみたいな、それをポーカーフェイスと言うのかもしれないと思わなかった。ポットパイって、中身が熱いよな、というだけの事を思った。そんなに親しむほど食べていない。食べた事がない。人生のポットパイEXPを計上してみると、片手で足りてしまって、残りの指は鼻でもほじってろという事になりかねないくらいポットパイとは縁遠い人生を送ってきた。それが至って普通かもしれない。めちゃくちゃ普通に思えてきた。小さい頃に、モスバーガーらしき店舗でポットパイの広告が出ているのを素敵に思ったような記憶がうっすらとある。子供心に、きっと、てっぺんのパイ生地を破って中の何か(ポットパイの中身って何て言うの? フィリング?)をほじくるのが、宝探しみたいで楽しそうだと考えていたのだろう。覚えてないから分からないけれど。イライラしたので秋葉原に行っていっぱい薄い本を買ってきたのだが、途上でホームレスが今夜の寝床をしつらえているのを見た。脂が染み切って飴色になったダンボールをせっせと仕込んでいて、「哀切惨憺たるものありやホームレス」とこの字面通りの感想を抱いた。頭の中と字面への出力はほぼ同義である。ホームレスの生命活動の一片を見ると、私なんかよりよっぽど頑張ってしぶとく生きているわけだし、非常に自分がしょぼく見えるのであの瞬間は好きである。帰る時に何かをもそもそ食べていたけれど、彼らの糧と糧を買うための足はどこから来ているのだろう。世の中がどう回っているのか、さっぱり知らない。金曜の夕方だと言うのに、あるいはそれとも、金曜の夕方だからか、書店の売り場にはそれはもうたくさんの人間がいた。もしかして日本の経済の結構な割合がここで回っているんじゃないのかと、薄い本を買いに行くたびに考えているが、業界別GDP的なアレとかを詳しく見た事がないので妄言に過ぎないかもしれない。スーツの上にコートを着たごく普通のサラリーマンとか、上司と連れ立って薄い本を買いに来ているサラリーマンがいて、そんなに堂々と同じ共同体の輪の中に属する人と微笑ましくえっちな本なんて買えないよ、と思ったのだが、意外とそんな事はないのだろうか。帰る時に、久しぶりに、サンプルではないナマモノの食品サンプルを見た。

啓け胡麻

天啓を受けたので胡麻油を買ってきた。特段どの教えや宗派に属しているわけではないが、そういえば未だかつて自発的に使った事がなかったのを自覚したので、これはやるしかねえ、今しかねえぞと奮い立ち、奮い立つと言ってもせいぜい200円に満たない程度で買えてしまったのだが、胡麻油をお家にお迎えした。片手で握れるサイズの、暗器と表現できなくもないサイズである。引っ越したばかりの時に買ってきたクソでかいキャノーラ油の横に置いてみると、トトロとサツキがバス停で並んでいた時よりもさらにサイズ感のギャップがある。一人暮らしでこんなにいっぱい使い切れねえよ、使い切れるはずがないよ、とその瞬間に初めて油の容器のデカさを認識したのだった。そういえば、前住んでいた家で使っていた油は、捨てるのが面倒なので買ってから3年くらい放置されている期間があったのだけれど、表現しようがない透き通った茶色に変貌していて、新品を買ってきて横に並べるとその異質さが際立った。片やピチピチの思春期ユース、片や羅生門のてっぺんにいる土気色ババアだった。油は3年でそこまで変わり果ててしまう。人間の耐用年数は、馬鹿にできないんだか劣化が表面に一気に現れないだけで3年間の振れ幅は油と同じくらいなのか。分からないけれど。フライパンに胡麻油をさしたその瞬間に、むわっと油の匂いが、いや胡麻の匂いが、いや胡麻油の匂いが濃密に立ち上がった。俺の部屋がセサミキングダムになってしまうなと危惧し換気扇をつけたのはいいけれど、10分くらい炒めていると、胡麻の匂いは何処へやら、いつの間にかフライパンがいつもよりベタベタするくらいまで収まってしまった。胡麻油はどうやら短距離選手のようだ。仕上がりの直前だとか、漬けておくのには向いているのだろう。バーニングするとダメらしい。人参に含まれているカテキンもそんな感じだった覚えがあるが、熱を加えずに人参をどうやってよっこらせすればいいのだと思った覚えもあるが、その辺は世の中が上手いこと回っているからどうにかなっていたような気がする。昨日のことさえよく覚えていない。スーパーでレジを通過してから買い物袋にカゴの中身を移す作業場、確かサッカー(sacker)台という場所だったと脳味噌が仄めかしているのでそうかもしれないのだが、あそこで両脇の人のカゴがちらちら見えると、色んな人がいるもんだなあと思う。今日は完全に惣菜頼みな食生活をしている人と、気でも狂ったのかと思うほど栄養ドリンク・健康ドリンクを詰めている人がいた。

スリーコインで書けるレポ記事なんだから、編集部に優しい

「ねぇねぇ、おにいさ〜ん、全くのノーリスクで『死んだ体験』できる装置があるんだけど、300円でやっていかな〜い?」というアヤシイ勧誘を受けたら、間違いなく300円払うだろうな、と思った。なんなら3000円でも、某夢のあるネズミの国よりは安いテーマパークだと思って出すし、30000円でも、人生でもう一度だけ、どういうわけかソープランドに行く機会なのだろうと納得して死んだ体験しに行くだろう。試しに気軽にスナック感覚で、さくっとふらっと死にに行くだろう。死んでみた体験のどの辺が「ノーリスク」100パーセントなのかはさっぱり分からず見当がつかないままではあるが、生きるにも何もないし死ぬのはなんかなんとなくイヤだし、という消極的生の二律背反から、このちっこい袋小路から小指くらいは出して死んでみた体験に金を払うだろう。そう、地の文で「死んだ。」と4文字くらいで済んでしまうような、そんな呆気なさと手軽さで、とりあえず目の前の光景と積み上がったゴミらしきものの残骸からエスケープし三途の川で真夏のバカンスと洒落込みたいのだ。まあ、遊びを知らないから賽の河原で黙々と石を積み上げては崩されるコーナーに入り浸りそうな気もするが、街頭で配っているポケットティッシュや「コンタクトのアイシティで〜す」と同程度に気軽に、一切の気負いなく100円玉3連コインで生をぶっこ抜かれるのであれば、即座に財布の紐をゆるゆるにしてしまうだろうな、と想像していた。私の中で、死ぬのは300円〜30000円くらいの価値を持つ行為らしい。もし死亡代行サービスみたいなものがあれば、私の場合、そのサービスに従事している人は30000円で私の代わりに死んでくれるだろうか。値段にあまりにも振れ幅がある。お年玉のしょぼい下限から豪勢な上限までくらいのスペクトルを残している。300円入れて死んでみた時と、30000円入れて死んでみた時とでは、死んでいる状態に見る光景は違うのだろうか。死後にも松竹梅があって、100円寿司があって、スシローがあって、カウンターしかない回らない寿司屋があるのだろうか。発想が俗っぽすぎる。死ぬのは脱・俗ではないのかな。魚肉ソーセージじゃなくて、ソーセージを食べられるようになるのだろうか。マーガリンではなくバターが溶け出す泉が、低脂肪乳ではなく牛乳が流れる小川が。発想が俗っぽい。いや、それ以前に、死んだ後の事も気になるものだろうか。300円払うだけなのに、頭を煩わせないでほしい。

肩に乗る事を強制してくる偉大な先達

なんとか心の腰を持ち上げることに成功し、丸々そっくりそのまま2日間をドブに捨てて発酵させてしまいはしたが、ある程度生産的な行為のとっかかりに足を乗せる事に僅かばかり成功した。こんな事をしていても怒られないのは生まれたての仔鹿やら何やらだけだとは思うのだが、人知れず倒れた木は音を立てていないとかいうあれと同様、人知れず腐っている人間は腐っていようが腐乱していようが腐敗していようがどうでもいいのである。さすがに腐ると悪臭が近所迷惑なので、腐る場所は選ぶが、人知れず死んだ人たちは一体死んでいるのやら生きているのやら。人知れぬ木でないだけ、めっけもんなのかもしれないけれど。セブンイレブンブランドのいっぱい入っているドーナツを食べたのだけれど、ドーナツ屋で売っているドーナツではない方のドーナツの味がして美味しい。不味くはない。めちゃくちゃ美味いわけでもない。手遊び口遊びに食べる分には過不足なくちょうどよくどうでもいい程度にまともだという事だ。昨日のグラタンもそうだが、めちゃくちゃに美味いドーナツって世の中に存在するのだろうか……。ミスドゴールデンチョコレートを食べた時のあの感じは、超絶ドーナツというよりは実家に帰って食べるご飯の味に近いような気がする。これだよこれ、と言う事が許されるような感覚である。「これか……………っっっっっっっ!!!」が超絶ドーナツだと思う。多分。あるジャンルで突出してめちゃくちゃに偏差値が高いものを知らないので、それはもう妄執のみで想像しているのだが、カレーとか唐揚げとかも、美味しさが閾値に達するとそこから全て平行線を描きそうな感じがあるのだが、そうでもないのだろうか。美味しんぼくらいやりこめば、減衰値を吹き飛ばすような絶対的カレー、絶対的唐揚げがこの世に爆誕するのだろうか。そこらへんの家庭状況で再現できる程度のハードルを伴って実現してほしいものだ。そういうアルティメット料理を食べる際には、是非とも誰かの財布の紐にぶら下がってターザンしていたい。「アーアアーー」とリアクションしていればいいだけである。気が楽だ。大家さんに地元のお土産を持って行ったら、大量のおっきなミカンとちっこい玉ねぎをくれた。ご年配であるから、この時世であっても物々交換のディシプリンを痛烈に感じる御方である。ミカンも玉ねぎも屋外のダンボールに収納してあって、色々な隔たりを感じるものだ。

穴の空いた小麦が浮いている白海

料理に肉でも入れよっかな、と思った時に、調理段階では「これだとちょっと少なくない?」と少し手心を加えて加量してみると、いざ食べてみる段階になって「あれ、やっぱ多いわ、食べられない事もないけど」となる事が多い。阿呆なのかもしれない。今日はフライパンにぶち込む前に少しだけ思い留まり、「いや、豚バラは見た目以上に脂の破壊力に侮れないものがあるから、フルレングス3枚でやめておいてみよう」と考えた。結果としてその量でちょうど良く、なんならそれでも少し多かったかもね、程度なものだった。考え無しにフルレングスと言ったが、full lengthで「食肉パックに入っている、精肉界隈でも類を見ない長いやつ」の事をフルレングスと言った。カットされていない豚バラ以外であれくらいの長さを誇るのは、豚ロースだかのブロックくらいだったと思う。でっかい舌みたいで面白い。美味しいかどうかは知らない。豚バラは脂補正があるから美味しいような気がする。あれがあるからこれはいいもんだ、みたいな、決めつけの方程式が頭の中にいっぱいある気がする。多分外れてもないのだろうが的を射ているものは、射的の程度が高いものはそんなに多くなさそうな気もする。方程式と言うほど高級なものでもないか。経験則、気のせい程度なもの、かもしれない。めちゃくちゃに美味しいグラタンって食べた事ないから、一回くらいグラタン食べて焼きたてじゃぱんみたいなリアクション取ってみたいな。めちゃくちゃ美味しいグラタン……? 字面からでもさっぱりイメージが湧いてこない。そもそもマカロニから違うのか。そんな高等なグラタンを作るような人は、マカロニとか言わないのか。べしゃ? ベシャメルソース的なあれ? も多分私の知っている世界とは違うところから、次元転送装置とかを使って持ってこられるのに違いない。でも、すっごく美味しいグラタンって、ウリになるのだろうか。世の中には、グラタン専門店とかあるのだろうか(いっぱいあった)。日常生活の中で、「うおお俺はグラタンが、グラタンだけが猛烈に食べたいんじゃ〜〜〜!」という瞬間はあるだろうか。このニッチな需要を受け入れてくれて、なおかつ上手い立地を選べたなら、まあまあの命脈を保って生き長らえていく事はできるだろう。あれだな〜。そういう石の裏っちょのダンゴムシみたいな感じいいな〜。「ラーメン食いに行くか!」は口にするだろうけど、「グラタン食いに行くか!」は言わないだろうしな〜。グラタン屋になりてえな〜。

蝋を腸に詰めたら猟奇的な蠟燭になる

午後に起きて8時間くらい呆けているので、いつのまにか暮れていた。お年賀的なアレも大家さんに渡そうと思って買って帰って来たのに、なんかめんどいという理由で何もしていない。それ以外も何もしていない。なんか、こう、息を吸っていたら時間が過ぎて茫漠としていた。ソーセージなのかウインナーなのか、毎度の事ながらどっちがどう互いに何なのかさっぱり分からなくなるしそもそも基礎情報さえ覚えていないから分からなくなるもクソもないのだけれど、食べたくなって、買い出しの時についカゴに入れた。ソーセージを買おうと考える時にいつも思う事だが、ソーセージはものすごいパッケージ詐欺を働いている、気がする。ちっこい袋がパンッパンになっているから、さぞかしまあまあの分量のソーセージが乱舞しているのだろうと袋の中を検めてみると、活性ガスを吹き込まれてハリハリ鍋になっているだけで、やたらプリントで可視性を下げられたパッケージから内側を覗き込んでカウントしてみると、あらあらこれはちょっとこのお値段でこの量はひでーんじゃねーですかとついつい思ってしまうような膨らみ方をしている。ソーセージは、夢と希望で袋が膨らんでいる。業務用スーパーとかなら、味もそれなり値段もいい感じのでっかい袋ソーセージがあるが、シャウをエッセンしたりするブランド地位を確立したようなものだとその場:中身の比が驚愕的な事になっている。ウインナーはそんなに衝撃に弱い食品だっただろうか。そんなに原価が高いアイテムなのだろうか。世の中には知らない事があるので、いっぱいあるので、それらの知らない事どもが複数組み合わさった出来た未知のキメラが、今目の前にあるこのソーセージという物体に違いない。フライパンに適当に油を引いて、目玉焼きも作って、イギリス産のお塩を振って食べた。イギリス産の塩は美味い。ウインナーは、脂の塊みたいな、アスファルトの中に混じった大きな輝石みたいなやつが入っていると、あんまりいい感じはしないが、ラッキーな感じを引き連れているので、ふふふと思って食べている。ほぼ素の味付けを食べていると、昨日の夜ふらりと徘徊してすき家で食べた明太高菜マヨ牛丼なんかは相当頭がイっていると思う。明太と高菜と牛の味がした。お客様アンケートの結果により復刻したメニューらしいのだが、これなら前食べたチーズ牛丼の方が分かりやすかった。全然チーズが溶けていない、棒状のマージャン点棒みたいな状態で提供されたので、久しぶりにバーナーが欲しいな、と思った。もう恵方巻きの広告が出ている。

敗血の海地獄

きんぴらごぼうに入っている唐辛子くらいの存在感がちょうどいいな、と思う。そもそも入っていたりいなかったりする。入っていたからといって、ただちにきんぴらごぼう全体が辛くなるわけではない。輪切りになった唐辛子を直接口の中に運ぶ事をしなければ、辛さを覚える事すらないかもしれないのである。わざわざ向き合わなければ立ち上らないプレゼンスが、なんかいい感じに思えるのかもしれない。おやつにコアラのマーチを食べたのだけれど、怪盗に「味が盗まれた」という事で、パッケージには何味なのか明記されておらず、当ててごらんよえっへっへのエンタテインメントが提供されていた。正直、7個食べてみても何なのかさっぱり見当がつかなかったので、公式に導かれている通り、コアラのマーチ公式ページに足を運んでみる事にした。おそらく、今後の人生でこのウェブページを訪れる事はないだろう。どことなく、トピックとトピックが分割できていない感じのあるサイトの、一番上に怪盗コアラ絡みのコンテンツらしいものが設置されていた。さっさと答えが知りたかったので、クリックした。まさかの別タブで展開した。そして、探偵コアラが怪盗コアラを追うフラッシュアニメが突如として始まった。??? 怪盗コアラをウォーリーをさがせ方式で摘発した後、これまた文脈のよく分からないクイズ三択問題に挑戦させられ、数問間違えた後に(なぜか難しかった)、大団円を迎えた。ミニゲームをクリアするたびに、クリアタイムをSNSでシェアさせようとしてくるので、何故なのかと思った。全面をクリアした後も、最速タイムを目指そうと再挑戦をけしかけてくるので、やっぱり何故なのかと思った。ちなみに、その謎味コアラのマーチが正体として何味だったのかと言うと……。自身でLOTTE公式ホームページが課す挑戦を乗り越えていただきたい。割と納得いかない。ヨーグルト味だと思っていた。パッケージに書かれていたヒントがモロだったのだが、だとしても納得いかない。もっと混ぜるものがあるだろう、と思う。数日前の同窓会以降、正確にはその日に短いスパンで回転寿司軽食ラーメンを胃に収めた事により、正月には乱れなかった胃腸消化サイクルが急激に乱れ、常にお腹いっぱいのような感覚で満たされている。胃がもたれていると言うのか、胃がじりじりしていると言うのか。一日二食の身体が帰省中は三食に耐えただけでも、それなりの負荷だったのだと窺われる。食べ過ぎでいやだなあ、と思うと、飽食はあの辺の人たちに申し訳ないよなあ、と罪悪感を自家醸造してしまう。悪酔いする。

蒟蒻の彫琢

帰省ついでに友人に会っていた。様々な逸脱した逸話を持つ逸物(いつぶつ)である。どのエピソードもとても口外できるものではないが、聞いている分には大変愉快である。時々第三者的立場に立って落ち着いて状況を見てみるとこいつやべーなと我に帰りかける事もあるけれど、その「場」に身を置いている限りは交話である。駅前の背伸びした商業施設は最上階のフードコートにて、4時間くらい近況を交換していた。実は10月くらいに会っているのでそこまで温存すべき新情報はないのだが、こいつと会うとあちらからぼろぼろ湯水のように話をふっかけて来てくれるので、それを捌いて突っ込んでいれば良いからとても気が楽である。魂の周波数が合うというのは、本当に、対人関係において重要な事だと思う。きっつい下ネタが出てもさらりと対処されていくのがこいつ(女)といる時の特色なので、今日は「おっぱいには高反発と低反発の2種類があり、高反発おっぱいは成長途上にしか許されない感触ではないのか」「おっぱいを揉んだら落ち着くので、女性専用おっパブを作れば意外といけるのではないか」「精液は甘い」などの話題を討議していた。高反発・低反発おっぱいについては様々な一時経験を持つ当事者から細かなレクチャーを受けたので、分かったような気がする。世の中には綿菓子みたいな感触のおっぱいを持つ人間がいるそうである。おっパブはそいつがそういう場所を欲しいだけらしい。少年漫画の女子更衣室エピソードみたいな事がしたいのだそうだ。ふーん。あれをやりたいのだ、これもやってみたいのだ、そうだこんな事にも興味があって、と語り続けるあやつの相手をしていると、健全に欲求が働くとはかくも人間を突き動かすのだなと思った。別れた後はイタリアンに行って新年飲みをするのだと言っていた。普段のライフスタイルが健康に良くなさそうなので、是非に自愛していただきたいものだが、自己評価に基づいた生き方をしていそうな気はする。好き勝手生きて、(ピー)な事をして、私のところに持ち帰って来てくれればいい。駅の見慣れぬ商業施設を徘徊していると、喫煙ルームに遭遇した。しかし、通常目にするようなものではなく、「加熱式・電子タバコ専用ルーム」とのラベルがあった。紙巻きタバコとは別に設けられていたのだ。分煙分煙がと騒がれているかと思ったら、分けられた煙の中でもさらに分煙が進められていたようである。目には目を、さらに目を。

乾いた粘土

人の成長はガムテープみたいなものなのかもしれない。最初のうちはどこもかしこもべたべたくっつくが、埃がついて糊の面が段々と少なくなっていき、埃ですっかり覆われてしまい何もくっつかなくなった部分は固着して、おやおやこのテープはもう使えないのかもしれないと不便さに囁かれ、使わなく使いたくなくなってポイしてしまう。できるだけ隅々までべったり埃を付けて、ガムテープの台紙しか残らないほどに与えられたものを蕩尽すればなにか別の世界が見えてきて、まだ根本から引き出せる分が余っているじゃないか、それどころかこれは両面テープでもう片面がまたびっしり使えるぞと発見してしまうかもしれない。ガムテープから布テープにクラスアップするかもしれないし、埃を吸い込む掃除機にグレードアップして効率や仕事の質がコペルでニクス的な展開を迎えるかもしれないのである。今手に巻いているテープでそこの角の埃は浚えるのか、それとも広い面積を浅く拾うのがいいのか。両刀使いはできないか、足に巻いても実はそんなに支障なくて、パフォーマンス4倍さえ狙えるのではないか。手がベタベタするのでこんな事を考えてしまったのかもしれない。さっき豚骨ラーメンを食ってきたからだ。バイト経験のあるラーメン屋も豚骨ラーメンではあるのだが、それよりも脂の主張が強く、タレの調味よりもラーメン全体としての一体性を感じた。にんにくをいっぱい入れたはずなのにそこまで強烈に感覚に訴求してこず、私のにんにく感知レーダーが相当程度やられてしまったものと窺える。なんでラーメンを食ってきたのかといえば、同窓会に出てみたもののまともに腹が膨れず食欲が消化不良だったからである。正直行こうなんて考えていなかったのだが、直前で「こういうイベントのフラグをことごとく折ってきたが故の今の生涯なのではないか」と根拠不明の一念発起をし、市街地に足を運んだとまあそういうわけである。結果として会費相当のリワードが得られたとは言い難いが、ある人物の生死並びに現状を仄聞できただけでもめっけもんだろう。生きているし社会復帰したらしい。よかった。今度是非に機会を設けてあいまみえたいと切に思う。生きていたらしいので。一緒にミスタードーナツをしよう。忌憚のない冗談でチャンバラをしよう。ある国語の先生が、人の大体は18までに決まってしまうものであって、劇的に変わってしまう事なんてないのだと言っていたのを思い出した。突っ掛かるままに放言を繰り返していたら、お前は変わらないなと言われてしまった。言動が懐かしいと。あの頃から、何か変わっただろうか。鬼のようにウーロン茶を飲んだので、今はただ、お手洗いに行きたい。