他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

BOWS AND BOXESをくれると言っていたけれど

職業病と言うが、人間として生きようとしていれば、生きていて罹患する限りの全ての疾病が職業病なのではないかと思った。携帯のメモ帳にぽちぽち打ち込んでいる間、向かいのホームに滑り込んできた電車内の乗客と目が合った。人間の知覚器官が優れているのかはたまたその逆なのかは分からないけれど、湘南新宿ラインみたいな相当のスピードで走る電車も、すれ違う時に対向車の乗客と目がほんの一瞬だけではあるが交錯する事がある。その視線、目配せには何の意味もなくて、多分あの目線には空虚が蔓延している。物理的な、科学的な真空ではなくて、心情的な真空が、電車の窓ガラスを貫通して投射されている。遠くのアパートに干された女性用下着めがけて刮目しているとかでもない限り、そうだと思う。日が暮れるのが冗談でなく本当につるべ落としと言っても良い程度に急になってきて、まだこの時間は明るかった気がするのになと思いながら帰っていると、クリスマスシーズンが近づいて来ると、どういうわけかにょきにょきと湧いて出るイルミネーションカーテンが敷設された家を発見した。夏にやるグリーンカーテンをそのまま電飾に置き換えれば私が言いたい情景になる。どういうわけか、あれをやる家は矩形の上にそれより小さい矩形が重なった箱型ホワイトハウスに多い気がする。あのおうちタイプをうまく言語で表現するのが難しいので、東村アキコ『メロポンだし!』で主人公が住んでいるような家と具体例を挙げる事で勘弁してやる。マイナーな具体例を挙げてしまった。何と言えば良いのだろう、1階は普通の家みたいなのだが、2階部分だけ学校の屋上みたいなと言うか……。こういう時に絵が描ければ、視覚的情報は言語情報の数倍数十倍数百倍の情報量を詰め込めるから、下手に言葉を尽くさなくてもよいのだが、しかしその不自由さを逆手にとって縛りプレイエンタテインメントとして楽しむようなのもいるという事である。ファストフードのコラボメニューで、なぜかオレオが破砕されて投入されているものが多いように思う。外食でばかりオレオに触れていると、オレオはそれ単体で食べるものではなくてむしろ他のものとの兼ね合わせで食べるもの、ふりかけみたいなものだと脳が間違って覚えてしまうんじゃないかと危惧している。そこまで脳はアホではないか。ファストフードがオレオに協力を仰ぐのは大いに結構なのだが、眼鏡屋が異世界転生ラノベとコラボしたり牛丼屋があれとコラボしたりと、偉い人が「若者はこういうのが好きらしい」という一面的一方的な認知しか持っていないんだろうなと思ってしまうタイプの、後塵を拝すコラボはどうにかならんもんかと発見するたびに複雑である。

トーラスの車輪に乗って

大家さん側に通じる玄関を通り過ぎたところ、意外な事にというか予想もしなかった事に、季節感を大事にする性格をしておられたらしく、表札と玄関扉にクリスマス飾りが施されていた。正月に注連縄、家柄によっては国の休日に日本国旗を掲げたりするものだが、結構お年を召されているのに、ポップなクリスマスというイベントに参加しようという意思をお持ちであるのはなかなか珍しく面白いなと思った。へんてこな敬語になってしまったのは、適切な敬語を選定する過程が今は上手く機能しないからである。クリスマスに意識を向ける人だったんだ、という新たな発見として、前向きに捉えている事は注記しておきたい。この様子だと、もしかするに、クリスマス当日に私の家の方に何かしらを持ってきてくれるかもしれない。その可能性は十分に余白が残されていると言ってよい。よしやそのような事態になった時のために、何か返礼品を用意しておきたいが、そういう交流とは疎絶されて生育してしまったがために、何をお返しすれば良いのか分からない。一足先に鏡餅でもお返ししようか。しかし、鏡餅って人から渡されるものじゃないよな? 餅でも撒くか……。ぐるぐる色々考えている。普段「お返しはいらないよ」と言われれば言葉を字面通り受け取って、ありがたく拝受するに留めておくものなのだが、大家さんともなる現代においてもなかなか微妙な立ち位置となると、これは身の振り方一進一退を多少真面目に考えてしまう。意外と気にされないかもしれないが。予定時間を一時間遅く間違えた末、ついでに一時間遅く到着した先で、かなり得るものの薄い時間を過ごした後、よく分からない食事を経て、前に街をふらふらして焼き鳥を食べに行った先達と加えて一人と、ついさっき(23時30分)までミスドをいっぱい食べるというイベントが発生していた。店舗の2階のトイレ前隅っこで、男3人が大量のドーナツを前に情報交換と雑談をしている姿は、考えうるかなりの部分が具現化する都市においては意外と目立たなかった。隅っこが故、机と椅子の位置関係が変な事になっていたという欠陥はあったが、それは別にしても、夜も深まり始めているとは言え実に多様な人々がミスドに来店するものだなと感心した。私は長らくミスドに来るのはドーナツを食べるためだと思っていたのだけれど、隣に座った女性二人組はまさかのパスタを食べていたし、男2人が仲良く机二つを占拠して楽しそうにしている光景もあった。鶏そばという普段は絶対に頼もうとも思わないメニューが、なぜだか美味しそうに見えた。

別居状態のラーメン家夫婦

蛇口が欲しいなと思う事が多い。溜め池になると、水の入れ替えが激しい場合には問題ないのだけれど、stagnantであり人里離れた森の奥で毒ガスを排気しているような沼においては死活問題である。手入れをしないから錆が混じって味がよくないし、貯水タンク的な場所には苔が生えて水が臭くなる。雨水を溜めるのであれば、水中に含まれるゴミを分離するための時間と手順が必要だ。尿だって、摂取したそのままに体外へ排出されるわけではない。さまざまな検閲と身体改造を経て、「おそらくこいつはこの建物に入っていったあいつだと言って確からしい」という程度まで変質して排泄される。その場所の水を生活用水として利用する立場にあるならなおさらであり、その水で蕎麦を打ったりかき氷を作ったりするのであればなおさらの事なおさらだ。蛇口が欲しいな、と思う。ここ3日連続の経験から、「鳥手羽元を味噌で適当に煮込むと下手に味付けを凝るより美味い」という命題がほぼ完全に真になりつつある。味噌がダシ入りなのが有効なのか、鳥手羽と味噌の相性が瞬間的に抜群なのかはさっぱり分からんが、ともかくクックをドゥしたりテーブルをマークしたり味を素したりしなくてもめちゃくちゃに美味いので、どうしたことかと目を疑う。舌は疑わない。美味いから。居酒屋で手羽元の味噌煮つけが存在するのかどうかは酒が飲めないのでこれまた知らんが、うまく出せばかなりの高利率で人気メニューにまで押し上げられそうなポテンシャルを感じたくなるほどの出来栄えなのだ。年末に実家に帰ったら、母に作ってみて感想を聞いてみよう。麺類が食べたいので麺を入れるが、うどんとかではなくつけ麺用の麺をつけ麺にするのではなく鍋のシメのラーメン的に入れる。つけ麺に対しては、結局スープ(つけダレ)に浸る事になるのだから、わざわざ皿を分ける意味を見出せない、洗い物が増えるし厨房の手間が増えるだけとの気持ちが拭えないため、つけ麺を人生で相応に処遇できるようになるにはまだまだ時間がかかるだろう。一軒家で衣食住が住むのに、なぜかお手洗いだけを別置しているようなものなのだ。離れのトイレに行く事に喜びを見出す人もそりゃあいるかもしれないので結構な事ではあるのだが、冬に風吹きすさぶ廊下を歩いたり、もっちゃうもっちゃうもうもっちゃうと思った瞬間に比較的そこにないのは気にならないかと言いたくもあるだけである。つけ麺って最後になぜか割りスープがあるが、ライスが一緒に出てくる店とかないんだろうか。

口を閉じた場合の話

マスタードのついたチキンカツサンドを食べると、これまた絶妙に安っぽいマスタードの味がして、生きてるなあと思った。一緒に買った、もちもち食感が売りのチョコ味パンは、お餅みたいと言っているだけあって、パンのくせに咀嚼に要するエネルギーがものすごく、むしゃむしゃというよりは頬張ってもむもむする感じの歯ごたえ或いは噛み応えであった。それでありながら質感としてはべしゃべしゃ寄りのしっとりなものだから、口の中がものすごい事になった。実体としてのソリッドさを緩めて、綿飴らしさを混ぜ合わせたパンと言えば伝わるだろうか。咀嚼音については色々思うところがあって、オノマトペとしてよく見る「ぱくぱく」は私の中ではかなり納得がいっていない方の擬音である。「もぐもぐ」はまあ分かる。物を食べている時に口腔から耳の中に響いてくる音は、あれはおそらく言語化を図ればもぐもぐと転写されてしかるべきうごめく音だろう。ぱくぱくは本当によく分からない。どんどん食べるという軽快さを表す上で、確かにpkpkという音の躍動感は一役買っているのだが、食事というプロセスの中に見る動きをいちいち思い返してみても、どう引っ繰り返そうと頑張ってみても、ぱくぱくという音を抽出できそうな仕草が見当たらない。無理矢理にでもその音を自分の中に響かせようとしてみれば、多分「口の開閉」にぱくぱくという音を期待できるだろう。僅かではあるが。pの音を出そうとする「ぽぁっ」なる可愛らしい破裂音、これがデフォルメされて持ち込まれた場合、かなりの速度で食べる=かなりの速度で口を開閉する(食べ物を口の中に収めるため)という事であって、その破裂音がぱくぱくとして食事の代表的な音として浸透したのではなかろうか。場当たり的にいい加減なことを言っているので、全く違うかもしれないが、なぜ都市伝説が流布するのかと言えば、なんとなくそれっぽくて面白いから広まるのである。厳密さを持ち込む律儀さを必ずしも失うべきではないが、料理レシピ本を参考にして尺度を設け、それなりの精度でご飯を作る事も大切である。カーリングで一番点数が高いエリアだって、狭いとは言え石一個分しかないようなしょっぱい判定ではなかったと思う。まあそれくらいいいんじゃないの? と笑わなくていいので放っておける懐の深さ、目端の効かなさがあって欲しいと思う事の方が多い。言葉自体はあんなに色んなところで見るのに、「平成最後の無許可中出しセックス」というAVはまだ見ていない。

種子は世代を重ねるから重って入ってるの?

玉ねぎ人参手羽元を適当に水煮して、最後にものすごくいい加減に味噌を溶いて豆腐を砕いただけなのにかなり美味しかった。普段それなりに考えて調味している過程が馬鹿らしく思える程度にはまとまっていた。日本的食生活の中で生育したため、味覚に味噌がストライクである可能性はゼロではなく捨てきれないのは事実であるが、それにしても普段はなんなんだと言いたくなるほどには美味しかった。作為の努力より無作為の天才が優れていると諭されているようではないか。被害妄想だが。日中思いついたことをとりあえず2つ消化する。面白みと面白さは違う事なのだろうなと考えた。面白みは言うなれば面白さに至る前の種子であり、というか面白さがそこから発芽し開花していくのではないかと高い確率で思わせる種子であり、必ずしも面白さを結実させるとは限らない。それを肯定的に認知した上で見ている人触っている人植えている人がこれは面白さが咲きますわようふふふふと1パーセント程度でも思わせるのであれば、それには確かに面白みがある。それが結局面白さをもたらす結果になるのかどうかは別のプロセスを経ないとならないのだけれど、しかし面白さを産む前の多大な屍として、面白みがあったりなかったり咲いたり腐ったりしているのだろうなと思った。面白みは「面白味」なので、個々人によっては味わいが違い、深みが違い、そもそも味がするかどうかから疑ってかからなければならない。それに醤油をかけるのか、ソースをかけるのか、フランベして香草を添えて出せばいいのか、いやもういっそ踊り食いしてしまった方がいいのか、一概には決めてしまえない。最大公約数的な、ちょっと美味いレトルトカレーにまとめるのか、素数みたいにピーキーなキワモノとして確かに成立させるのか、出す方蒔く方は考えなければいけない。花壇を見ている方が何をすればいいのかと言えば、よく分からんが、雨乞いの儀式でもしていればいいんじゃなかろうか。エロ漫画にあんまりピアスが出てこない気がしたのだが、それは耳舐めの際に邪魔になるからではないかと思った。邪魔になるんじゃないか、と言っておきながら、よくよく考えてみるまでもなく、あんまりエロ漫画で耳舐めを見た事がない。私が好んで読む範囲に限っては、登場人物に(触手に付いているわけはない(?)ので)ピアスがつけられている事は少ないと言うか、僅少と言うか、ほぼゼロである。デジタル同人コンテンツ売上ではあれだけ音声がのさばっているくせに、なぜ漫画には耳舐めがいないのだろう。不思議だ。

偽物の味を識別できるために必要な前提条件として

明治エッセルスーパーカップのチョコクッキーは、チョコクッキーが全くチョコクッキーらしい食感と味がしないので好きである。パサパサした固体が、何かの味がするアイスの中に埋没している製品と表現するのが私の中で正解なのであるが、チョコクッキーはスーパーカップの中でもとりわけキャラ付けがぼんやりしているので好きである。食べ物としての評価は高くないが、全く高くないが、しょうもないものを食べてしまったな……という、石川五右衛門を食通斬鉄剣に置き換えたような気分になりたい時にはちょうどいい。狐につままれたと思って食べている。スーパーカップはおおよそ「まあそんなもんだろう89円だし」みたいな味をしているものがほとんどだが、今日スーパーの冷凍ショーケースを見ると、200円近くするスーパーカップSweetsという高級路線に走ったシリーズが知らない間に発売されていた。せっかく製品名がスーパーカップなのだから、小学生らしく「ハイパーカップ」と名付けてもよかったんじゃないかと第三者的には思うのだが、リッチ感を演出するのにハイパーだとオツムが足りない感じがするとか、なんかそんな感じの企画会議の裏側があったのだろうと勝手に想像しておく。人生の中で、200円位を笑える甲斐性になったら食べてみたいと思う。交差点に差し掛かった時に突然、「コペルをニクスして転回するような人というのは、視力検査であの黒い便座に代わる新しい何かを発想するのだろう」と思いついた。脈絡や文脈は一切ない。ただポンと思いついただけである。視力を計測する時には、「どこが空いていますか?」に端を発する確率4分の1当てずっぽうゲームを避けては通れないのだけれど、あんなもん自己申告だし、高校のクラスには勘と細めた目だけで実際より幾分かましな結果を得ていたものだから、「そんな当てにならないものより、『こっち』の方がいいじゃないですか(ドカン)」とバーターを取り出してくる、こんな人物がクリエイティビティに溢れていて、カリスマ性とかに優れているんだろうな〜、と、ただ思うだけ思った。言いたい事は特にない。カリスマ性というのか、やたら人に好かれるというのか人を周囲に集める才覚のある人を見ると自分が燃えるゴミの日に手垢でテカテカになった末に捨てられたぼろぼろのサワガニのぬいぐるみになったがごとき下限のない気分になるので、あまり見ていて(こちらが)気持ちのいいものではない。ボルボックスは群体だから強いのだろうけれど。

優しさのピント

さっき雪見だいふくほうじ茶味を食べたのでものすごく寒いのだが、雪見だいふく雪見だいふくなので大きく外れて不味いという事はなかった。ほうじ茶だと言われれば確かにそうだと思わせる程度にはほうじ茶の味がした。ほうじ茶味を売りにするのは全く別に構わないのだが、それとは別の話で、ちゃんとほうじ茶を普段から飲みつけて舌にほうじ茶の基礎的な識別感覚が備わっている人はどれくらいいるのだろうかと思う。もう急須でお茶を入れるなんて年に一回あるかないかくらいの時代になってしまったし、薬缶で沸かしたお湯に入れるお茶パックは烏龍茶のそれだ。サッポロポテトフォアグラキャビア味とかが発売されても、ふ〜ん、これが大体フォアグラとキャビアの味なんだと思ってしまうだろう。だって食べた事がないからだ。経験を有さないものに対して正確な判断を下す事は極めて難しい。ほうじ茶はそこまでハイソなものではないので、分からないでもなかった。昔ほうじ茶パフェを食べたような記憶があるのだが、まるっきり真っ赤な嘘かもしれない。ほうじ茶の苦みと甘みが同居した味は、パフェに向いていると思う。味はそうだとして、パックの蓋をぺりぺり剥がした裏に書いてある文言、これが極めてよく分からなかった。要約すると「一日のうちに心を落ち着ける時間を作って、是非その折に雪見だいふくほうじ茶味をどうぞ」という事だったのであるが、このメッセージは第三者が要約するから伝わるのであって、一次文献としてのパッケージに印刷された文言どもは、丁寧さとメッセージ性だけが先走り、日本語として空中分解し遊離した奇異なものに成り果てていた。言いたい事を優しそうな毛布に包む事に腐心した結果、心のどこにも刺さるエッジがなくなった、ふわふわした何かでしかなかった。言いたい事は伝わるのに、それが文章に基づいた解釈では得られないという気持ちの悪い経験をした。今度スーパーなりコンビニで見かけたら、どうぞ蓋の裏の怪文書を読み解こうと努力してみていただきたい。よく分からん。朝の外気を浴びると、これはもう外套を引きずり出さないと冷気が本気を出した時にはもう手遅れだぞと思うのだが、肝心の外套は引っ越しの時に押入れの最上段一番奥に、めちゃくちゃ重いのをなんとか押し上げたダンボールの奥底に敷いてあるものだから、取り出すのが億劫で億劫で仕方がない。高校の時、厳寒も厭わず体育の授業に半袖半ズボンで出席していた事を思い出す。体育教師に、こんな寒いのになんでそんな格好なのかと聞かれて、「これだと生きてる心地がするからです」という返答をしたのは覚えている。

絶乳

美味しさはある程度を超えると輪郭がぼやけてそれ以上の理解が進展しなくなる感覚だと思われるので、その点で「めちゃくちゃ美味〜い!!!」と目からビームとかが出なさそうなのがヨーグルトかなぁ、と思う。ヨーグルトはだいたい漏れなくヨーグルトの味がして、加糖無糖など多少の差異こそあるが、どう転んでも結局はヨーグルトの範疇を逸脱する事なくヨーグルトの味がするだろう。カレーがだいたいカレーの味がするのと同じ事だ。カレーと違うところは、絶する美味さみたいなものをヨーグルトには求められないのではないか、という、こちらに限界を引かせてしまうヨーグルトのヨーグルト性である。その厚い壁を打ち破るヨーグルトがあれば、ぜひ食べさせてもらいたい。寒くなってきたし、フライパンが油でテラテラになってしまったので、お湯を沸かして洗い物をした。冷たい水で洗い物をしていると血管が萎縮し手が痛いが、お湯で洗い物をしていると、洗剤とお湯の共同戦線によって手の脂が綺麗さっぱり流されていくのを感じて心が痛い。明らかに洗い物の前と比べて手がサラサラしており、そろそろニベアか何かしらのハンドクリームに訴求しなければならない季節がやってきたのかとあかぎれの引き締まる思いである。手荒れには絆創膏よりも、よく分からないが塗りつけてある程度の時間を経るとかぴかぴの防護壁を作る、プラスチックバルーンの原料みたいなあれがいい。夏の夜、ふくらはぎを蚊に刺されて痒みを覚える場所に暗がりの中チューブを探して塗りつけたところ、一向に痒みが治まらないのでどういう事だと電気をつけたら、ムヒの類ではなく、透明液状絆創膏を塗布していた経験がある。痒い場所に痒み止めを塗りたいのに、まさにその場所に防壁が張られているものだから難儀した。真冬に乗り込もうという時節に夏の話をしてしまった。スイカバーのパッケージにいる、オレンジとピンクのカバをスイカに突き刺して、スイカバーをそのスイカに刺突して黒ひげ危機一発ができるおもちゃが発売されると面白いと思うが、まだ出ていないと思う。スイカバーは問答無用で夏のアイスの花形であるから、開発してもいいとは思う。他の花形候補は、ダブルソーダである。沸かしたお湯でうがいをすると、口腔から湯気がゆるゆると立ち昇る光景を観察する事ができた。冬の朝でもないのに。どうしても寂しくなったら、一人で都市を破壊する怪獣ごっこができるな、と思った。

途中から味なんて分からなくなる

今日もほぼ記憶に残っている事がほぼないと言いたいのだが、そんなことを言ってしまったら毎日言う事がないので、残滓を拡大解釈する方向で生きていきたい。絞りかすとはいえ、「これだけしか残っていない」ではなく「これほども残った」と表現する事で前向きに捉える事ができる云々と諭されたりするが、特段前向きに物事を考えよう! としている時でもなければ、頭の中に潜り込んでくるうるさい羽虫に過ぎない。羽虫は「はむし」と読むのだが、気に障る飛び回りかたをする害虫に関して、呼び習わし方が地域によって違ったり違わなかったりする事もないではないらしい。他の地域の呼び方について記憶が残っていないのでここで比較検討する事は叶わないし大して臨んでもいないので別に構わないのだが、なかなかにひどい呼称を持つところもあったようななかったような気がする。もう少し頭の中に事実が固着すれば具体性を持って話を進める事ができるのだが、具体性に対して現実的な感情を持てないのでやめておく。具体例で範例を示すやり方に対してどのような感情・姿勢をとればいいのか、未だによく分からない。サークル時代の同期と久しぶりに遭遇し、もちゃもちゃ長時間立ち話をした末に、ぐだぐだして、結局一緒にご飯を食べに行った。行った先で、狂ったように餃子を食べまくった。ほぼライスと餃子しか食べないという、ストイックに炭水化物な食事をした。もちゃもちゃ無駄話を重ねながら、今はどうだとかあいつはどうだとか、風の噂には聞いているが果たしてあれとかあれとか、耳を何回掃除しても真実だとは思えないのだが本当にそうなのかなどなど、人生に寄与する点が何もない、無の時間をめちゃくちゃに過ごした。こんな事しなくてもいいのにな、と頭の片隅で刻を知らせる鐘を鳴らす私の一部の声を確かに聞きながらも、勤勉に時間をドブに捨てる行為には、ある種の恍惚というか、何ももたらさないが故の優しさがある。傷を癒す薬となりうる時間は、誰ともなしに腕に刺さっている点滴のようなもので、是もなく非もなく注入し影響を及ぼし続けるタイプのアイテムである。多分、ポケモンだったらバッグの中でたいせつなものに分類されて入っている。店に行って「時間」を掲げて見せれば、道中のトレーナーにボコボコにやられてお金なんか持っていなくても、モンスターボールやキズぐすりを揃える事ができてしまうかもしれない。何も考えず、脳味噌にストッパーをかけずに話ができる相手というのは極めて貴重だなと思ったのだ。

手を伸ばせばそこにあると頭では分かっている

早くも記憶が薄れかけているが、昨日の私自身の行為による産物として、映画館に行って『続・終物語』を観てきた。暗いところで過ごした経験は、どうにも記憶に残りづらい。祭りというか縁日というか、ああいうのも夕闇や夜の暗がりの中で催される類のものだから、テンプレート的なイメージか、アニメのシーンで出てくるだけで実際の記憶を掘り出すのが困難である。話が逸れたが、観てきた。一番に入場し、上映開始までぼけーっとしていたのだけれど、友人とやって来ていた隣人が言うように、なんかオタクっぽい人しかいないと言ってもよかった。たった一箇所に、とある成分を濃縮排出したような空間と化していた。私の前方にはミドルグレーのおじさんが、同じくおじさんと連れ合って来場していたので、あながち全面的にそうではないのだが、だいたい総合的にはそうだった。他作品の予告映像が本編に切り替わった途端の、「キリッ」とオノマトペを当てたくなるような空気の変化は、その中の要素の一人として感じていて面白かった。本編については言うまでもない。私はあのシリーズのアニメに全幅の信頼を置いて、その上から安心で塗り固めている。事前にゆっくりと腰を落ち着けて待ち受ける事ができるというのは、なかなかに幸せな経験だ。放送コードというか、「あ〜〜〜〜、劇場だとこういうところまで描いても大丈夫なんですね〜〜〜〜」と思いながら、要所要所で差し挟まれるあのアニメっぽさがものすごく楽しかった。もっとうざい斧乃木ちゃんを見たかったが。機会があれば、アニメ版の『終物語』も観たい。終わった後は平然ととらのあなでLOを買った。今日で外出の用をほぼ全て終わらせたかった。スッと買った。昨年発行の、しかし手に入らなかった同人誌がなぜか店頭に並んでいたので、それも買った。それからスーパーに寄って帰った。ブリのアラを買ったはずなのに、どこもブリっぽくないそれを買った。ブリといえば、食べようとすると非常にoffensiveな皮が特徴的だと思うのだが、その存在を微塵も感じさせない、白っぽい脂の肉板みたいな代物だった。味噌も買った。なんとなく味噌が食べたくなったので。味噌マヨネーズという猛烈に程度の低い調味組み合わせが頭をよぎったが、これはきゅうりにつけて食べる際の選択肢の一つでもある。それを抱き合わせていちどきに口に入れるだけである。ブリのアラの皮を被った何かは、味噌で煮ると、味噌と脂が分離する程度にはテラテラしていた。それほど美味しくない。

剥き身の伺い

街に出て、ふと「俺は『遊びに行くか……』ではなく『遊びに行くぞ!!!(強い意志)』」程度じゃないと家から出ないのではないかと思い、一念発起し、というかその念が起きる暇もなく、映画館に明日のチケットを買いに行っていた。人生を場当たり的に、衝動的に生きているその様が、瞬間的に凝縮されたような気がした。この一瞬の気の昂りがもたらした紙片一枚によって、明日は『続・終物語』を観に行くことになった。まだ『終物語』のアニメを観ていないし、そもそも原作の筋をさっぱり忘れたが、自発的に外在の娯楽に向かっていこうとしたのは極めて例外的なので、目一杯ほどではなくても、片目一杯くらいは楽しんでこようと思う。上映時間が想像の数倍であった事はさておいて。どうせ何の予定もなかったのだし。パチンコ屋の隣を過ぎている時に、ふと、「男の娘パンチラマジックミラー店舗を出したら面白いのではないか」と考えた。世の中には、こちらからは向こうが見えるが向こうからはこちらが見えないようにマジックミラーを設置し、お金を払ってミラーの向こう側で気ままに過ごす女の子のスカートの中を覗くための娯楽施設が存在するのであるが、それの男の娘版を提供したら、それなりの需要はあるのではないかと思ったのである。スカートの中のパンツにおいて、ある部分がもっこりしていた場合、その事実に嗜好を刺激される人もいるのではないか、という事なのだが、私はそちら側に明るくないので分からない。すげー適当に言っているから分からない。寒空の下カフェに勧誘しているメイドさんを見ると、胸にこう、グッとくるものがある。時宜というものを考えて見ると、春とかにはメイドさんとにゃんにゃんするか、という気が起きそうなものだが、冬にはその気配が一切見られない。個人差があるだろう。さっき切った玉ねぎが、まさかの9割腐っていて、久しぶりに、あの腐った玉ねぎ特有の、あま〜いシチューみたいな匂いを嗅ぐ事になった。鬱血した皮膚みたいな色に柔らかくなって、芳しい匂いを放つ玉ねぎは、ただの凶器である。食べられるところだけ切除しようと努力したところ、アンパンマンの頰の赤い部分、あの隆起程度しか救出することができなかった。それ以外は、推して知るべしit has been deadだったのだ。なかなかあそこまで潔く腐り切っている玉ねぎと邂逅する機会はないのだが、会い見えるたびに、絶妙に嫌な気分にされる。

使い捨て版:明日天気になあれ

電車が終着駅に着こうとし、さて立つかと前を向くと、私と全く同じカバンを提げている人がいた。瞬間的にものすごく驚いた。心の中のパラメータを示す表情指標が、瞬間的に30パターンくらい明滅した。とても気に入っているくせにどこで買ったのか覚えていないのだが、確か青春なバンドと同じ名前のブランドの製品だった気がする。カバンのくせに6千円くらいした覚えがある。可愛いので買った。私は自分が「可愛い」を許す基準がさっぱり分かっていないのだが、当人のくせに、それでもしかし、唐突に「あっ、これ可愛いじゃん可愛いじゃん可愛い〜」となる瞬間が訪れる時がある。現在年間350日くらい使い潰している可愛いカバンがそうだし、夏前に買った靴もそうだ。7年か8年か、あるいはそれ以上、実用性とデザインの最も優れた妥協着地点としてコンバースのスニーカーだけを頑なに買い続けていたのだが、実家近くのでっかい靴屋でふと見かけた、なんだかよく分からない、チェックとか色々入っているごちゃごちゃした筆箱みたいなデザインのスニーカーに突然可愛いがときめき、コンバースに特段の理由なく立て続けた操を放り投げた。買ったのは数ヶ月前だが、まだおニューとしておろしていない。「おニュー」も「おろしたて」も、もはや死語だと思う。直近の用例を思い出そうとしても、今みたいになるよりも3世代前のドラえもんスネ夫が言っていたような記憶がおぼろげにあるくらいだ。気に入ると、時宜を気にせずいつまででも使い続ける性分なので、あげぽよは未だに現役で口に上しているが、私があげぽよと言う時は相手の話をよく聞かずに、勝手に気分が高揚して発しているだけなので、内容についてのコメントとかではない。「なんか、こう、人と接してると何してるか分かんなくなりますね!」くらいの意味しかない。浮ついた足音を擬音に互換して発語した結果、なぜかあげぽよになるという事である。何ヶ月履いたのか分からない現在のコンバースは、前の雨で踵に重大な欠損破損がある事を浸水にて確認し、また歩いていても「完全にくたびれとるなコイツ」と分かるような感触を足裏に返してくる。この感覚、伝わるだろうか。もともと紺色だったはずなのに空色に成り果てている。どういうわけか、右足だけ非常に頻繁に紐が解ける。供養の時が近いのだろうなと思いながら歩く様は、まるで、晩熟まで連れ添った熟年夫婦のようではないか。スニーカーを捨てる時って、燃えるゴミでいいのだろうか……?

人知れず、網模様のストリーキング

窓ガラスにとうとう結露が浮き始めたので、寒さが深まり極まってきたという事だろう。朝起きた時には雫さえ垂れていたし、峻厳になるであろう事疑いがない。2週間もの間捨て忘れていた燃えるゴミ2袋を捨てた。忘れていたのもあるし、寝坊したからでもある。近くのゴミ捨て場はなんだかおかしくて、朝8時に拾いに来るかと思えば10時をゆうに過ぎてから収集に来る事もある。燃えるゴミの日ごとに収集ルートを変えているのだとしたら結構非合理的だと思うが、何かしら理由があるのだろう。最寄りの集積所は、「こんなゴミを捨てるな! 迷惑しています!」みたいな張り紙がカラス除けネットにくっついていて、要するに曜日を守らないゴミ出しに対してダメ出しをしているのだけれど、今日その紙を(ラミネートされているので可読性は常に保証されている。ラミネーターがあるとないとではQOLが違うと思うが、別に欲しくはない)改めてよく見てみると、当たり前ではあるが、マナーの悪いゴミ出しの実物写真が掲載されていた。まあそれはいいとして、その下部に部分拡大画像が載せられていて、これは一体なんじゃろなと思って目を凝らしてみると、どうやらゴミ袋の表面から読み取れた、封筒か何かの宛名のようである。黒四角を乗せて個人情報が保護されている。ともかく、「態度の悪い奴の名前は割れてんだよ! 分かってんだろうな!?」という強気な姿勢なのだろうと窺われる。さて、個人情報が保護されているとは言ったが、その覆い、よく見ると「氏名欄の下半分に何かがはみ出している」。つまり、完全に隠し切れていない。字形に集中して見ると、「あ、これ〇〇〇〇って人なんだ……」と分かった。おそらく作成した人物も、まさにほぼ半分名指しされている当人も、ゴミ捨てに訪れている近隣住人も、この重大な漏洩に気が付いてない。うっかり読み取ってしまった(自主規制)という氏名が、どこかで役に立つかもしれないと考えて、心の底にそっとしまっておく事にした。ミスドの店舗の近くを通りかかると、ドーナツビュッフェ開催を知らせる幕がかかっている。50分、ドリンク飲み放題もついて千円ちょっとだったと思う。その光景を見るたびに、行きて〜と思う。誰かと行きたい。話とかはしなくていいので、ゴールデンチョコレートを15個くらい取ってきて、オールドファッションとポンデリングを間に挟みながら、あてどのない咀嚼をしたい。もむもむと。

ケラチンをしゃぶる

歩きながらものを食べるのは行儀が良くない気がしていたが、チュロスやソフトクリームは歩きながら食べてもなんとなくセーフな感じがあるし、スーパーの近所で「肉まんを食べながら同僚と別れるサラリーマン」を見たので、別にいいんじゃないかという結論に至り、食材を買い出しついでに、夜に向かうスーパー固有の割引おにぎりを2つ買って、食べながら歩いて帰って来た。歩きながら食べていると、それも通常歩行とペースを変えずどんどん歩いていると、ものを食べづらいという事を知った。まずおにぎりを持つ手が揺れるし、その揺れとはまた少し違った様相で体幹が揺れる。うっかりうっかりすると、顔面にパイ投げみたいにおにぎりがぐしゃりと衝突しそうになる。こんな不便に困り顔をしながらおにぎりを食べるくらいならどこかベンチにでも腰掛けて落ち着いて食べた方がいいに決まっているが、歩きながら食べながら帰路につくと決めたのであえてその困難を飲み込んでもしゃもしゃしていた。雨で濡れたタイルはめちゃくちゃ滑りやすいという事も分かった。危ない。オムライス風おにぎりと、鳥つくねおにぎりを食べていた。オムライス風おにぎりは、一応ちゃんとチキンライスで卵の衣服を着せられていて、チキンもチキンと分かる程度のチキンで、しょうもない味だけどケチャップっぽい風味はして、別に「風」は必要ないんじゃないかと思ったのだが、卵でご飯全てをお包みしていないとオムライスと名乗れない、みたいな企業側の矜持みたいなものがあるのかもしれないと想像したが、まあなんかあるのだろう。鳥つくねおにぎりは、鳥つくねおにぎりですね、との感想だけを上梓したい。他には特に何もない。鳥つくねですね、肉があまりにさらさらで歯ごたえがないくらいですけどね。以上である。前はチューブだったので今度は缶の豆板醤を買って来たら、中身が潤っていたのでそういうもんなのかなと早合点してしまったが、食べてみたところ、その潤いは油がもたらしているという事が分かってしまった。迂闊にいっぱい入れると胸焼けするので、今度から気をつけようと糞の悪い胸で思った。胸糞悪いをこんなパラフレーズしちゃいけない気がする。知り合いに髪の長い人(男)がいて、十中八九髪を結んでいるのだけれど、今日は結んでいなかった。「なんでー? なんでなんでー?」と聞いてから、「もしかして女子力ですか……?」と聞いたら「そうだよ」と返ってきた。人生で一番まともに女子力という言葉を文脈の中に置いた瞬間だった。

売切御免を赦すか否か

完全なる気まぐれで、放置していた『エロマンガ表現史』を読み始めた。面白い事は面白いのだが、冒頭2ページあたりでいきなり特大の脱字をかまし、ところどころ致命的あるいは致死的な日本語の不備、そして散見される誤字がエレクトリカルパレードなので、早くも読む気が削がれている。まともなプロセスを経て生産されれば絶対面白いテーマなのだが(私がエロ漫画大好きなので肩を持ちたい気持ちももちろんあるけれど)、どうも、こう、テーマありきで出版まで駆け抜けた本というか、とりあえずゴールテープは切りましたので世に出ました、みたいな感じを受ける。どうやっても発見したい誤字が特にひどいと思っていて、太田出版の校正部(存在の有無を知らないが)は大丈夫なのか、編集は本当に大丈夫なのか、そして著者はこれでいいのかという雑念がふつふつと湧いて来てやまないので、そっと脇に置いた。コンテンツの発信においては、プレゼンの仕方も考えたいと思った。いつも思っている。改善案がさっぱり浮かばないものがひとつ頭の中でもやもやしていて、煩瑣に紛れて考えるのを忘れている。朝から夕まで、ほぼ私が得るものは何もなかった、しかし駆り出された労働責務を果たした。日給は1万円と昼食だった。拘束時間が8時間だったので、まあそんなものかなと油断すると同じような要件で呼び出される可能性マシマシなので、断るべきは断っていきたいがしかし、断るに足るほどの用事が入らないし入る蛇口も持たない用事弱者であるから、お茶汲みに行って来てと言われれば他に大した仕事もないのでお茶を汲みに行く給仕係みたいな事になっている。見舞われると、一瞬だけ用事が欲しいな〜と思うが、一人で何かをしている時間(何もしていなくてもいいが)、部屋で一人きりでしーんと静まり返った中で存在しているのがあまりにも心地よいので、これに比べれば全ての用事など無に等しいと思う。美味しくないものを美味しいと感じるようになるまで美味しくないものを食べるくらいなら、その時間美味しいものを食べていた方が幸せなんじゃないか? 金をかける価値がないと思うものに価値を見出すまで支出を重ねるより、今価値を見出しているものにじゃぶじゃぶ金を使った方が幸せなんじゃないか? 先見性というのか、投資的、投機的才能というのか、その辺の思考に対してどうも納得がいかない時にこうしてぐるぐる考えているのだが、結局納得しないまま、「まあそう考える人がいてもいいんじゃないですか?」と優しく、あるいは無関心に捨て置いて終わる。