他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

味付卵とは、卵本来の味を軽視した問題のある表現である

ビルとビルの間の怪しい隙間に、これまた怪しい広告が貼られていて、お金持ちの女性の相手募集みたいなあの手のビラは漏れなくラミネート加工されており、間違いなく下手人がいるのだが、バンクシーがごとくまだその正体を見た事がない。この間見たのは、お金持ちの女性の相手募集ではなくて、女性電話オペレーター募集だった。日給2万円と書いてあった。ウィークデイを働き通せば、手取りは後で考えるとして、月に40万円の稼ぎがある事になる。贅沢しなければ生きていける金額だ。日給2万円の女性電話オペレーターって何するんだろうと思ったが、あの手のビラとレイアウトや文字配色のセンスがほとんど一緒だったので、まあつまりそういう事なんだろうなと察しがついた。なんやかやのアプリを駆使すればごく普通にビデオ通話ができてしまう現代において、テレフォンえっちがどれくらいの立ち位置や重要度を占めるのか、どちらも経験がない私には測りかねるが、小説が文字情報以外の周辺情報を基本的には一切排除しているのと同じように、電話口から聴こえてくる音声だけを頼りに構築される世界というのもまた、否定すべからざるひとつの現実の在り方なのだろう。妄想の筋肉は、ボディビルにハマりすぎた筋肉ダルマと一緒で、あるいはそれを超えて、漫画の世界のように果てしなく際限なく鍛えられるものであるから、ただ通話口の向こう側にいる女の子と他愛もない話をしているだけでも(私は他愛もない話をしているといたたまれなくなるのでしたくないのだが、見も知らぬ相手といきなり話が弾むようなネタなんてあるだろうかと常々疑問で仕方がない)、「い、今、この子は他の汚いおっさんにちんこぶち込まれながら必死で平静を装って僕と話してくれているんだ(ふーっふーっ)」という地点まで想像の世界が広がる事を容認する。事実がどうであれ、主観的な事実というのもまた事実だ。仕事と割り切った上で、淡々とそういう電話をこなして日給2万を受け取るのも、また人生である。すべて想像だが。そして、私に上記のような趣味はない。ホルモンが食べたくなったので買ってきて、フライパンからひとかけつまみ上げて口に運んでから、これまでにホルモンに対して感じていた不服感の正体がやっと分かった。勝負になっていないのだ。噛み切れないまま、しかしまったく嚙み付けないわけでもなく、両者気まずいままもちゃもちゃ咀嚼を繰り返して、試合の空気が散漫になったところで、どちらからともなく嚥下している。そこには明確な、食った食われたというジャッジがない。なあなあのまま始まらずして終わっている。だから私はホルモンが苦手なのだ。

青虫みたいな形の葉っぱが落ちていた

さらさら流れていたのに、なんだかねっとりが混じり始めた。汗の話である。ちょっと暑いかもしれない、の後に痕跡が残らなかった時は過ぎ去り、いつの間にやら塩分とか脂とか生体的分泌物の残滓を肌の表面に感じる季節になり始めた。正直長袖長ズボンの装いだと暑い。パジャマもスウェットだと暑い。4月中旬に至るまでの紆余曲折変遷を経て、季節は過渡期を設ける事に再び失敗している。半袖半ズボンのかわいいパジャマを買いに行きたいが、服を買いに行く時にどこに行けばいいのか分からない。ユニクロにはなさそうなのは肌感覚で分かる。だとすれば、この解はどこに求めればいいのか。かのマキシマムザ亮君が陥ったあれと似ている、服を買いに行くための服がないというアレに囚われるので、もういいやと思って何年着続けているのかさっぱり分からなくなった洗濯で擦り切れまくった服に戻るわけだが、最近袖の部分に穴が空いていたり裾がほつれ始めたりとザ・経年劣化が表面に現れ始めて、見て見ぬ振りがそろそろ難しくなってきた。ああいうえっちな本を買いに行くにはどことどことどこの選択肢があって、ここはこういう傾向の本が手に入りやすくてこっちはこれこれで、と私が人に説明できるように、こんな服が欲しいんですがそれなりの値段で買える所教えてドラえもんできる知り合いがあればよいのだが、壊滅的にいない。それとも、戦場で使う銃が欲しければ、まずは一度丸腰で戦場に這入り込んで銃を調達する事が必要だと、神はそう宣うのだろうか。昨日布団に入ってから全然眠れなかったので、頭が回っていないから、目の前にある簡単な解決策をうっかりすっかり見落としているかもしれない。眠れない時の眠れなさは他に比すべき物事が存在しないほど精神的に悪質なので、思い出すだけで頭が痛くなるような気がしたが、眠れなさは眠れなかったという主観的事実だけを残して、あとは睡眠の彼方に溶けて消えていくから、この頭の痛さは睡眠の質が悪かった事の証左にしかならなかった。昨日書き損じたが、ギガビッグマックを注文したら、セットで1000円もした事にまずびっくりしたが、中身もまた「ビッグマックがギガにでかいだけ」で、もとのビッグマックでさえ食べづらいのに、パテ2倍となるとユーザビリティは最悪で、1段目と2段目が大地震活断層くらいずれる、ソースにまみれた味のないキャベツ的物体が掴んでいる手に落ちてべたべたになる、序盤は持つのが面倒なくらい重いと、なかなか文字通り手に余る食べ物だった。目の前にリクルートスーツを着た女子大生二人組が着席し、リクルートスーツでマックなんか来てんじゃねえよと思ったら、案の定、メイクを落としながら、注文したフロートが薬品みたいな味がするだのなんだのぎゃあぎゃあ言っていた。

税金ちくわぶノック

いくつかやろうと心に留めておいた事があったのだが、ぐったりしてやらなかった。やろうと思わなかった事はやったが、やらなくてもいいしやらない方がなんならよかった事でもあったので、つまる所やらなくてもよかった。「ぐったり」という字面のぐったり感がこれまたさらなるぐったり感を誘ってやまず、身体が汚泥のように重たくなるので、ピンピンという字面で自らを励まし、積極的に生きていきたいところだが、「ピンピンコロリ」という言葉を思い出してそうか俺死ぬのかまあみんな最後には死ぬもんなあとぐったりしてきたので今日は逃れられないぐったり星の凶兆の許にあるのかもしれない。しらん。発作的に山とか登ろうかなと思う瞬間もあるのだが、登山靴というか汚れて履き潰すような形になっても構わない靴がないし、というかこの否定条件が一つ出てくるだけで意気がしおしおと、塩をかけられたナメクジみたいにたちまちどこかへ消えて行く。こういう時、一緒に行くようなあるいは連れて行きやがる同行人がいればなあと思うが、いないのでそこで終わる。はい。拍子木。終幕。人間は一人ではそこまで「生きて」いけないのだが、二人以上で生きていけるかどうかはまた別の問題なのでどうしようもない。今日は都内で一律区議会選挙だったっぽい。もらったものは使わないともったいない気がするし、塵も積もれば結果として山となる場合があるので、ちゃんと投票権を行使した。世田谷区住まいだった時も、ポストに選挙公報みたいな、各出馬者の広告が載ったプレスが入っていたのだが、これはなかなかのシロモノである。経験上、なぜか必ず一人は「Wordで作ったとしか思えないしょぼい」やつがいて、そいつがまた大手の党の推薦を受けて出馬していて、かと思えば同じ党から推挙されている別の人がちゃんと党のロゴまで入れてきっちり作っているのを見ると涙が出る。デジタルディバイドである。CGの似顔絵がヘタクソだったり新聞の似顔絵講座みたいだったり、お前の経歴なんてどうでもいいんじゃいと言いたくなるほどキャリアで説得力を持たせようとしていたり、結果に実益の伴う宣伝を観察していると色々いらぬ思いを巡らせて疲れる。そもそもの顔をよく知らず、また知らないまま選挙に行くのに、似顔絵って必要なのだろうか? 出口調査のどっかの新聞社員が全然やる気なくて、ずっと深刻そうな顔でくっちゃべっているだけで、出場する有権者にアンケートしに行かなかったのは覚えている。

アイスの棒を煮崩れするまで煮る

もう2枚も上に着ていなくていいような温度になってきた。夕方はまだ変な遷移をしているが、日中は頭お花畑で生きていけそうだ。1枚で過ごしていてもいいのだが、1枚でいいところを2枚着て、過剰に溢れた暖かさで頭がぼんやりする、二度寝直前くらいのあのぬくさが気持ちいいのでまだ上着を脱ぎ捨てるのはやめにしたい。2日連続でHPゲージを削られるイベントがあったので、すごい眠いが寝ていられない事情があるので日が変わるまでは寝られない。眠い時に寝るというのは理に適っているし、事実そのような就寝の仕方の時が寝付きも寝起きも一番上手くまとまっているものなのだが、保育園のお昼寝タイムでさえ欲求に従ったものではないのだから、人間が生理的欲求に従順に従って睡眠の世界へゴーする事はとても難しい事だと思わされる。ねむい。最近の広告を見ていると、#という記号が、「ここがコピーですよ!」というディスコースマーカーになっている気がする。あ〜いかにもコピーだな〜という文言(必ずしも褒めた言い方ではない)の頭に#が付いていると、あ〜いかにもコピーだな〜が増幅される。そのハッシュタグを踏んでもどうせその広告しか出てこないような狭くてしょっぱいカテゴリなのだが、「カギカッコ」でも(カッコ)でも*アスタリスク*でも%パーセント%でもなく#というところが、この磁場から逃れられない拘束力を生んでいる気がする。#という記号を見るたびになぜかメロンパンを思い出して、それがなぜなのかよく分からなかったのだが、今直感した。アンパンマンに出てくるメロンパンナちゃんのほっぺに#が書いてあるからだ。積年の腹蔵がすっきりした。真綿で首を絞められるような、とか言って、真綿で首を絞められて死ぬものかな、と思ったのだが、きちんと紡げば糸になるのだし、そうすると、こちらが窒息死して事切れるかあちらが断裂するかの勝負になる。が、紡績の段階を経てしまった瞬間に真綿が真綿じゃなくなるような気がして、糸にしてしまうと真綿で首を絞めるではなくなってしまう。写真で見るような、摘み取った直後のそれで絞殺されるなら正に真綿で首を絞めるだが、クリスマスツリーに飾る綿を千切った記憶に照らすと、とても人の命を奪えそうな気配がない。真綿で首を絞めるとは、もしかして、ハッタリを効かせるとかそういう意味なのではないかと思えてくる。真綿で糸を紡ごうかとハウツー動画を検索したら、職人が指を唾で湿らせてから縒っていて、複雑な気持ちになった。

桜餅のフリをした紅白饅頭の紅い方

いつから桜が咲き始めたのか全く思い出せないが、この頃は咲いている桜を見る事が多かった。桜には色んな種類があるらしくて、片手の指の本数分くらいしか挙げられそうにないが、今が山よと咲き誇る花が陽光を透かしている下に立つと、少しばかり素敵な気持ちになれる。陽の光に温められ、向こう側が見通せそうなピンク色が無数に乱舞していて、あまりに無垢なので、気恥ずかしくなって見ていられなくなる。それに引き換え、葉桜になり始めると、有無を言わせないほど圧倒的な綺麗さを湛える事はなくなるが、見ていて気持ちが楽になる。というか、楽な気持ちで見ていられる。時間と場合によっては荘厳に見えたスポットライトは今や影も形もなく、グリーンピースご飯と同じくらいの異物感を持って、桜の花びらの海に葉っぱという汚染物質が浮いている。でも、やっぱり、白い部屋にずっと閉じ込められたらおかしくなってしまうだろうから、カーテンをかけて家具が置いてある部屋に暮らしている方がいいのだ。桜の葉っぱは、近くで見るとニセモノみたいな緑色をしている。ガヤガヤと街頭を賑やかす選挙カーの演説の断片がぽろりぽろりと耳に入ってきて、でも細切れにしか受け取っていなくて、それも「〇〇候補〇〇〇〇をよろしくお願いします」「〇〇、〇〇でございます」みたいな、よく考えるまでもなく一切の内容がない呼びかけだから、全く意味を成していない意義を果たしていないような気がする。〇〇と書いたのは、ある意味それが生命線、肝要一番大事な核とも言える氏名をひとつも覚えていないからである。雇われて日がな町中を駆けずり回っているカーの乗組員は浮かばれまい。しかし、具体的な政策内容を流せばいいかというと、体系立てて説明しなければいけない(体系になっていないといけないはずだ)てめえの大義名分はパッサーバイが傾聴するには長すぎる。せいぜい3秒くらいなのだ。教育無償化! 税軽減! くらいしか叫ぶ事ができない。が、しかし、タイトルはそれで良くてもこっちが聞きたいのは中身と方法論なのだから、需要と供給の関係とそれを取り巻く環境がそもそも破綻している。だくだくと垂れ流される情報の本流と、その流れの近くを通りがかった時だけ顔に飛沫が飛んだような気がする、この状況が何に似ているのか引っかかっていたが、コンテンツの広告だった。有象と無象の森羅万象をほんの一瞬だけ目にしただけで残像を焼き付けねばならないのだった。

泳げ、イワシの蒲焼くん

暗くなるのが遅くなった。明らかに遅くなった。18時くらいならまだまだ可愛いものだ。家路に就いて、空を見上げると、そこにはイワシの蒲焼があった。イワシの蒲焼みたいな雲があった。何回見てもイワシの蒲焼だった。白かったが、それは確かにイワシの蒲焼だった。せっかく雲のランダムな形が有意なフォルムを取るというのに、その結実がイワシの蒲焼という落差も面白かった。写真を撮ろうかと思ったが、写真は取らない主義なのでやめた。頭の中に残像がうっすらと残っていて、時間が過ぎてから日記などを読み返して、不意にくっきりと、恣意的な再現ではあるが現像されるのが好きなのだ。テクノロジーが進歩して、頭の中のイメージをそのまま念写できる機械が発明されたら、欲しい。夢の中で見た無秩序な何かとか、形容しがたい夢の中の景色とか、そういうのをフィルムに焼いてじっくり見たい。細部を追おうとすればするほど、水面に浮いた油性マジックの筆跡のように散り散りになっていってしまうから。スーパーで、カゴを返す場所と取る場所が同じ場合がある。カゴを拾いたい人は、カゴを返しに来た人から直接手渡しでもらえば手間が省けそうなものだが、どういうわけか、カゴの山に戻されてからそれを取る。今日もそんな場面を目撃して、変な心持ちというか、奇妙な感じがした。よく分からないが、カゴを山に戻すという行為が、浄化的な意味を持っているのだろうか。他人の一時的所有物、手垢のついたものが、カゴの山という集積場に戻される事によって、全ての属性を改めて剥奪され、万人の一時的所有権に向かってオープンになる、といったような。そこには、意識していないだけで、ある一つのメカニズムがあるような気がする。考え過ぎかもしれないが、文化人類学とかなんかその辺の手立てを持っていそうな人に観察してもらいたい。レジカゴ周りでは、特有のオーダーが生起している気がするのだ。粉骨砕身という四文字熟語を思い出して、「粉骨砕身!!!」と思った。電車に轢かれでもしないと、骨が粉になり身が砕けるなんて事はないだろう。しかし、粉骨砕身とはそれほど凄絶な有様を言っているわけである。意気込みを示すのに「粉骨砕身頑張ります!」と言ったりするが、そこまでして頑張ってくれなくてもいいよ、と気が引けてくる。せめて軋骨屈身くらいで許してあげたい。偉そうな言い方だが、体組織を破損してまで頑張らなくてもいいと思うのだ。

みぞおちに溜まったガムシロップ

多分、今はどこの区でも選挙に向けたアクションがそこら中を動き回っていて、20時を回るまで朝の9時前くらいから何かしらのスローガンが聞こえて来る時期である。いつものおっきい交差点で横断歩道を横断していると、歩行者の通過待ちで停車している選挙カーがあった。大体、助手席の後ろに候補者が乗っていて、顔面筋がどうなってるんだろうと思うほどの期間笑顔を浮かべて、上腕筋がどうなってるんだろうと思うほどの期間紅葉手を掲げているのだが、今日見たのは候補者が乗っているそれではなく、ウグイス嬢(嬢という年齢ではなかったが、それはそれとして)がプロパガンダして回る方の遊撃隊的な方だった。信号待ちの、ほんの一瞬だけ内面が溢れ出たのかもしれないが、それに、搭乗者全員が結構な年を食っていたのもあるかもしれないが、全員のありように「翳」が差していた。困憊という漢字を具体化して、カレーみたいにかけたかのようだった。そりゃあ、魚がいるかどうかも分からない釣り堀に、釣竿をひっきりなしに投げまくる作業は披露するに決まっている。ほんの一瞬だが、そこに生の人間を見た気がする。何日か前に、もしかしたら昨日だったかもしれないが忘れたので何日か前という事にしておく、ミスドでおやつを食べた。ミスドは、それほど店内が華美ではなく、店員もキラキラしているわけではないので、マクドナルドと同じくらい心理的抵抗がない。なんなら、マックより抵抗がない。私が見かけるミスドの店舗が、どれもそれなりに年季が入っていて、くすんだ色合いに見えるせいなのかもしれない。ともかく、なんか食べたいなと思ってミスドに行った。時は15時16時くらいだったのだが、高校生の集団がドーナツブュッフェに大挙していて、こいつら金持ってんなと思った。誰の金かは分からんが、私が何回転生しても、学校帰りに誰かとミスドを食いに行くなんてイベントは発生しないだろう。部活中に牛スジポン酢を買って花見をした事はある。? 抹茶のよさそうなやつがよさそうだったが、棚になかったので諦めた。ドーナツと言えば油、油と言えばドーナツであるからして、オールドファッションのノーマルと、これは知らなかったがシナモンもあったのでそれを取った。シナモンは好きだ。好きな食べ物十傑に入る。あと、ミスドごはんというよく分からないキャッチコピーのハムアンドツナにした。これは、ちょっと高い90円の類似惣菜パンを上位互換にしたような味だった。ポップ系がバラ売りされるようになっているのも知った。ポケモンの世界では、モンスターボールがあんな感じで売られているのだろうか。

蝶番がテレビ通販で紹介されている場面を目にした事がない

全然分からない事を全然分からないまま濁流のように説明されて、さて皆さんどうでしょう、といった顔をされていると、脳味噌がねじれまくる感覚が尋常ではない。他人の力に任せて引きずられるがままになった事はないが、知性の面でそれをされている気分になる。道路側にバッグを持っている女性がひったくられて、バッグを掴んだままずりずりと路上を引きずられる感じ。それだ。バッグを放していないところがポイントである。分かんねえ、分かんねえぞと脂汗を垂らしながら、それでもどこかマゾヒスティックに楽しんでいるところがある。こうやって汗を流して新陳代謝を計らないと、たまにこういう事をやらなければ、埃がパンパンに詰まった貯金箱になりそうで怖い。怖いのでたまにやる。たまにやって、ジェットコースターから降りた後のヘンテコな満足感と爽快感と生還した実感をジューサーにかけて冷や汗で割ったような味を思い出す。美味くはないが、良薬口に苦しと言うし、美味しくなくてもよいものである可能性はある。家を出て、もう上着は必要ないかなと思ったその瞬間、唐突に、ポストって欠伸が出るくらいに牧歌的なシステムだなと閃いた。ダイヤル錠がかかっているポストはそうでもないが、私の家のやつはパカッと扉を開けば中身が隅々まで丸見えの全然いじらしくないモデルである。クイズダービー的である。カーテンが、オールオアナッシング。恥ずかしい。別に恥ずかしいものは入っていない。恥ずかしくないものも、大家さんが「チラシお断り」というテプラを打って貼ってくれたところ全く投函されなくなった。文言だけでこんなに覿面とは、人間はネズミやゴキブリよりよほど制し易い。ストーカーが電気やガスの料金表をチェックしたり、ポストへの投函物で色々悪い事ができるらしいのだが、こんな無防備晒したポストだと、プライバシーのプの字もない。サイズ内であれば、不審物も入れ放題である。体液をみちみちに詰めたチョーヤの梅酒瓶くらいだったら難なく入る、はずだ。そういう事がないので、まともな人の絶対数が多いのだなと思われる。分からない。みんな、頭の中ではそれに類する比肩する、あるいはもっと粘着質で粘液質な事を考えているかもしれないけれど、おくびにも出さないだけかも。水商売のお店の入り口に張り紙があって、「謹告」という日本語がある事を知った。謹んでお告げいたします、的な。今までに何回か見た事があるはずなのだが、こんな硬い字面をそういうお店で見た、というのが新しかった。

枕元が突然ジブラルタル海峡に直通したとしても困らない

左顎下奥歯が血の滲むほど痛い。血が滲んでいるかどうかは見えないので分からないが、親知らずの特質を存分に振るっているのか、ずっと痛い。歯が痛いというのは、要するに手出しの出来ないところが痛むという事であって、自分ではどうしようもないのだと達観し、諦めをつけるところから始めなければいけない。始まった時からすでに負けているのだ。これまでにも幾度となく間断的な歯痛を引き起こしてきた親知らずをすっぽ抜くべきなのかもしれないが、「タダで生えてきたものを失うのはなんかもったいなくね?」という貧乏性がかっこ悪い方向に極まった感情もあるので、できればそっと下顎骨に収めたままでいたい。どうしても今、早急に引きずり出しておきたい本があったので、引っ越しの時に作成しておいた「段ボールインベントリ.txt」を開き、押入れに身体を突っ込んで目的の段ボール、10番を探した。この家は、来た時からどういうわけだかぶら下がり健康器具みたいなでっかい金属の横渡し棒があって、それを無理矢理押入れ下段にぶち込んでいるため自由になるスペースが極めて限られてくる。これでもないこれでもないとパズルのように段ボールを動かしたり、二進も三進もいかなくなって2個くらい搬出したり、腰を痛めて全ての段ボールに刻まれたシリアルを点検したところ、9番までのものしかそこにはなかった。??? 疲れたので押入れから出て、視線を脇に揺らすと、机の横に置いてある段ボール、まさにそれに求める番号が振られていた。押入れをひっくり返す必要なんてゴルジ体の直径ほどもなかった。すぐ見つかった。よかった。労力と結果が全く見合っていないが、終わりよければ全てよしなのである。いや、でも、終わりよければ全てよしとは言うけれど、満遍なく「よい」方がいい。辛かったあの練習も、このメダルの前にはいい思い出とか、そういうのが終わり(略)なのだろうが、そこまで辛くなくて同じ結果に至れるなら、辛くない方がいい。苦労してこその結果というのも確かにそうだが、何も完全な不労所得を決め込もうとしているのではなくて、蒙古タンメン中本の北極ラーメンを食べてうんこした後に全てよいかどうかとかそんな感じの話で。努力を切り捨ててはいけないという内なる声のせいで着地できなかった。これが価値観というものだろうか。押入れを開けたついでに、勢いを借りなければできなかったので、机の脇にある棚からもはや不要な紙資料を取っ払って資源ごみ置き場に置いた。これで崩落の危険性はぐっと減るはずである。

もし俺の目が節穴だとしても、せめて恥ずかしくなった時に入れる穴であってほしい

「年端もいかぬ少女」などと言うが、どこから年端にいくのだろうか。というか、加齢とともに私たちは「端」にいくのか。どこの端だ。真ん中にいる若者が、段々端に寄っていくのか。それとも、数直線が如く、ある端からまたある別の端まで行くのか。はぁ? と思ったが答えが出そうにないので、今度図書館に行った時にでっかい辞書をひっくり返してみないといけなくなった。好奇心とは降って湧いて出るものではなく、自発的に捕まえに行くものなのかもしれない。だとすれば、私の生活が殺伐としている事にも納得がいく。筋肉少女帯の『断罪! 断罪! また断罪!』というアルバムの一曲目は「おまけの一日」というタイトルなのだが(大槻ケンヂ自身のオリジナルなアイディアではなかったらしい)、それを思い出して、ここ数年の生きぶりは、毎日をおまけの一日のように生きているな、と悟った。それ以上は今言える事ではない。鳩が路上の何かをついばんでいるので、パン屑か何かかしらと覗き込んでみると、乾いたゲロだった。どういうわけだか大概のゲロに含まれている、色の薄くなったシーチキンみたいなあの固形物の部分をせっせとつついている。うえ、と思ったが、人糞も食べられる以上、胃液が混じって多少酸性に寄った結果幾分かは酸っぱいかもしれないが、嘔吐物も、確かに、消化される前に胃袋からパージされた食べ物なのだから、食べられなくはない。食べたくはないし精神的に食べられないが、実際問題として食べられなくはない。帰り道には、カラスがゴミを漁ろうとしてから実際に漁るまでの一部始終を観察していた。信号待ちをせざるを得なかったので待っていたら、ネットもかかっていない丸裸のゴミ袋に一羽のカラスが近付いた。寄っては返ししているので、こいつもしかして情緒不安定なのかと思われたが、全然違った。どうやらあいつ、人間が近寄った時にはゴミ袋に近寄らないようにしているらしいのだ。車やバイクが車道を走り、通行人が歩道をちょろちょろしている間は真上の柵に止まっているが、交通の絶えた間断を狙ってゴミ袋に半身をずぼっと押し込んだ。ここまで見ていると信号が青に変わったので後の事は知らないが、袋を食い破って多少の食べかすはくすねただろうと推察できる。逞しいし賢い。それなりに年齢の行った女性向けのボディソープが、加齢臭を「オトナ臭」と言い換えており、へにょへにょして妙なる感じの絶妙なフォントチョイスもあいまって、こちらも色んな意味で逞しいなと思った。

押しが弱いので引かれても弱い

歩いていたら、黒い軽トラが停まっていた。黒い軽トラがこの世に存在する事を知らなかった。軽トラと言えば、くすんだ漆喰のような白で、無骨で絵を描いたようなあのアレをすぐに想起するのだが、黒かった。軽ワゴンにありそうな、ふっつーうの黒だった。え、黒じゃん、と思った。アクリル絵の具の黒で塗ったみたいな黒だった。そうかあ、軽トラが別に白じゃなければいけない訳でもないもんなあ、と思った。ネコみなが白い訳でもなく、豆腐みなが白い訳でもなく、消しゴムみなが白い訳でもなかった。見た事がなかっただけで、普通に他のカラーは存在するのだ。黒い軽トラは、白い軽トラから感じる刷り込まれたチープさみたいなものがなく、てかてかと黒光りしてどっしりしていた。かっこよくはないが、座りは良かった。色々疲れて、電車に乗って、ぽけ〜と車内の中空を眺めていたら、カップルが前方に移動してきた。男の顔の位置が、女の頭の位置にめちゃくちゃ近い。至近と表現してよかった。こいつ、彼女と会話しながら頭髪の匂いバキューム吸引しとんちゃうかと疑ってしまうくらい、そんな想像を許すくらいに近かった。そんなカップルを2組、短いスパンで目撃した。彼女の髪の毛を一房手に取り、鼻に持っていって匂いを嗅ぐ色んな意味でやべーカップルの記憶もフラッシュバックした。あの強烈さは忘れがたい。忘却を許さない。たまに男はバカだと言う女がいて、なるほどそうかもしんないねと他人事のように捉えていたが、今日見た実例に照らしてみる限り、確かに男はバカだった。欲望から出されたサインに忠実に従って真芯どストレートを投げるピッチャーのようだった。このバッテリィは崩しがたい。女の子の頭部に頭を埋めて匂いを嗅ぎたいという私の数ある煩悩のうちのひとつは、全く特殊なものではないらしいと思われた。確かに、ある範囲で男はバカである。で、横に座っている人がうつらうつらして、頭部がままならなかった。また昔の記憶がフラッシュバックした。街の方で模試を受験した、高校生の時分の帰り道である。マイナーな地方線で、模試終わりの午後微妙な時間、車内はゆとりがあった。席が埋まるか埋まらないかくらいには。総合的な理由と判断により、隣に女子学生が座ってきた。私は日本史の教科書を読んでいた。じきに、うつらうつらが爆睡に変わり、私の肩に人の頭の重さが一つ分、無防備に預けられてきた。あの時胸中に去来した万を超える億感の思いは、一生を尽くしても表しきれるものでもないだろう。日本史の教科書に書いてある事など、世界で一番どうでもよかった。普通に目覚めて、普通に降車して行った。あれが、私の知る人の重さの一例である。

甲羅とか骨とか内臓とか鳥の飛び方とか

下書きに使うメモ機能に不要な残存物が増えていたので、データを削除したり不要フォルダに移動したりしていた。今から見返すとよく分からないメモもそれなりにあった。で、今年の元旦に書いた日記の生データが底の方に埋まっていた。全く意識していない状態で目の前にポップアップされるとびっくりする。日付を見てももはや私が経験した日時だとは思えず、もしかしたらパラレルワールドから挿入された異質物なのかもしれない。その中に、「引いたおみくじがすごい境遇に沿っていて嫌だわ〜」という事が書いてあった。岐路に立たざるを得ない状況になるやろうな、と。今財布の隠しポケットから引きずり出して読んでみたら、おそらく当時と同じ心境になったので嫌だな〜と思った。卜占とは受け取る側次第のほわほわした事しか書いていない伝えないと言い切れるようなサイエンティフィック・マインドがあればよかったのだが、私はそこまで精神的に割り切れていないので、居心地の悪い事をまざまざと思い出してしまってとても居心地が悪い。少なくとも、時運潮流にどんぶらこされた末に来年度以降の人生が全く未定になってしまった身にこんな処方箋は含むところがありすぎる。海外通販番組のびっくりスポンジくらい含むところがありすぎる。含蓄の大海が絞り出して余りある。でも四半年その存在をすっぽり忘れていたわけだから、明後日くらいにはまたさっぱり忘れて時の流れにさようならしているかもしれない。買ったはいいが読んでいなかった3つを消化した。いつの間にか、「やるぞー」ではなく「やるぞやるぞやるぞ、よいしょーっ!!!」くらいの助走と勢いとその場のノリがないとそういう事ができなくなってしまった。ルーチンを何も考えず無感情で回す、それくらいスタート時のカロリー消費がゼロだと嬉しいのだが、いわば「魔が差した」「むしゃくしゃしてやった」レベルの突発的間欠泉的気まぐれに従わなければ心と体が動かなくなっている。心が枯れているのではないかと恐々しているはずだけれど、心が枯れているのでもうほぼ何も感じない。自家中毒の麻酔かあるいはモルヒネが効き過ぎている。「まだ合法のキマるクスリをオーバードーズしようぜ!」と軽いノリで誘ってきた知人がいたが、もうそれくらいの事をしないと心停止は治らないかもしれない。AEDは万能ではないが、きっかけがあるとないとでは天と地ほど違うのだから。切っ掛けと書く人はあまり好きじゃない。

既成事実出荷工場鬼怒川支店

今日の空も青かった。風がめちゃくちゃに強くて寒かったが、気温的な意味ではまあ普通だったのではないか。昨日感じた空の青さに言いたかったのは、裏表がないという事だった。そこにストレートに青があり、それ以外の余分な情報がない。どこかの誰かの、挽き肉くらいの表面積を無為に酸化させるねじくれ方ではなくて、シンプルに「タテ×ヨコ」で面積を求められそうな、そんな素直さを感得していたのだ。そう自覚すると、その青の下にいる事が途端に居心地悪くなってくる。しかし、あの青を見上げていると、静電気に吸い寄せられるちっちゃい埃みたいな汚れが吸着されていくようでもある。曇りの日に浮かんでいる淀んだグレースケールの雲は、そういえばいつの間にか一大クラスタを形成した綿埃に似ている。日常生活の中で、剥き出しそのままの食材を剥でも、剥き身で持ち歩く事はない。ゴミ箱の上で玉ねぎの皮を剥いて流し台に立ち戻るその瞬間くらいかもしれない。肉まんだって小さな紙袋みたいなアイテムにお包みされているし、焼き鳥も一応串という媒介によって持っている。ソフトクリームがギリギリその定義に当てはまるかもしれないが、コーンを食べ物と捉えるかツールと捉えるかで多少議論があって然るべきだろう。「味噌汁に入っているアサリとかシジミを食べない人もいるんだよ」と人に教えてあげると、なんでですかと問われた事がある。いや、そういう人は、もう出汁が出切っているから食べても仕方がないと思っているらしいよ。でも、もったいないじゃないですか。俺もそう思うけど、食べない人にとっては食べないものなんだよ。私は鍋の出汁に使われた昆布、煮物の臭み消しに使われたショウガでさえ食べる人間なので一寸(ちょっと)想像もつかないが、世の中にはソフトクリームの「ソフトクリーム」の部分だけを食べて、コーンは捨てる人だっているのだ。人それぞれ、人さまざまだよ。貝類in味噌汁の話を聞いた彼は納得できないという表情をしていたが、納得してもらうしかない。現実にそうなのだから。事実は小説より奇なりだし、なにより現実だ。あとは、買い物袋に入り切らなかった時に長ネギをひっつかんで家路に就く時くらいだろうか。これ、余ったから持って帰っていいよと言われた。ごつい本格的なアップルパイで、素手で裸で持って帰ったら間違いなく中のカスタードやアップルがぼろぼろこぼれるであろう事はちょっと考えるまでもなく想像できた。紆余曲折あり、結局新品のレジ袋に放り込んで無理やり持ち帰った。レジ袋がシナモンくせえなと思う事は、向こうの人生であと何回あるだろうか。

よくポストに入っているあのマグネットに電話しなければ

目が覚めたら部屋が平時よりも暗い。布団から一ミリたりとも出たくないような室温が重くのしかかる。嫌気を自覚しながら耳を澄ますまでもなく、ぴちゃぴちゃという水音が窓を叩いていた。雨だった。ただ水滴がさめざめと降り注いでいるだけなのに、こんなにも寒くなるのかと思った。ぞっとしない。床から立ち上る、染み込むような冷気と久しぶりの再会を果たし、お前なんかどっか行けと蹴っ飛ばすために、引っこ抜いていたエアコンのプラグをコンセントにインした。かれこれ5回くらいは「もういいかな」と勘案して引っこ抜いている。そのたびに裏切られていて、私の家のエアコンがメンヘルなのか日本全国のエアコンがメンヘルなのか分からないけれど、どうしても稼働していたいようだ。電力会社は嬉しいかもしれないが。こちらは。どうだと思う、おい、エアコンよ。何度も言っているし、また何度でも言うが、雨が降るとそれだけでただそれのみでQOLが爆下がりする。QOLブラックマンデーである。水曜日だったけど。洗濯物を干す予定だったのに見送ってしまった。降雨時に外出すると、足元が直ちに湿る。どんなにいい靴を履いていようが、必ずある程度の最小値を担保されて湿る。最悪である。最たる悪ではないが、最も悪である事の一つは足元が濡れるだと信じている。まだガタが来ていない、健康体そのものだと思っていたメインの靴の爪先がやたらと湿る。むしろ濡れてくる。20分くらい歩き回ってから、これはいかにどうした事ぞと疑問を抑えきれなくなった。折り畳み傘の庇護面積がいくら小さいとはいえ、その中にカバンも歩行幅も収まるように動いているつもりだ。風に流された雨滴が沁みるにしても、この濡れ方は程度がひどい。おかしい、おかしいぞと思った。広い道に出て、対向者とぶつかる危険性が薄れたため、足元を見ながらぽつぽつと歩く事にした。てくてく。ぴゃっぴゃっ。てくてく。ぴゃっぴゃっ。数歩歩き出しただけで原因が分かった。悪いのは私であって私ではなかった。歩みを前に進める時に、私は姿勢は最悪だが歩き方はまともなので、爪先を上に振り上げて片足を持ち上げる。その際に、靴裏についてきた水が空中に舞い上がり、そいつが再度地面にへばりつくより前に、前進によって落下地点に私の足が滑り込んでいるのだった。悪いのは私であって私ではない。唯一まともな身体所作なのだから、こんなデメリットを伴わなくてもよいのに、とひとりごちた。結局びしゃびしゃになった。

金物屋の目録にはポストが入っている

雲が一つもない空を見た。遠くの方は自然の法則的なあれに従って白んでいたが、交差点で立ち止まって頤を上げ、四方八方をぐるぐると見渡すと、そこら中に澄んだ青が延びているだけだった。これが快晴指数10かと、数日前の事を思い出した。恐ろしいまでに、ただただ透明度を湛えた「空の色」すなわち空色がのっぺりと居座っている。食べ物として美味しそうな色ではないが、服の色としてはいいかもしれない。スカーフとか、マフラーとか、本筋ではない装飾品副次品が空の色に染まっていたら、とても綺麗だろう。少なくとも、それを着けてカレーうどんやカレー南蛮を食べようという気は起きないに違いない。ワンピースとかもいいかもしれないですね。あの空の色は、ソーダ味のグミとか、氷砂糖の結晶を煮詰めたような性質の色だ。ブルーハワイは下品な青だが、空の色には裏表がない。ただ深みがあって、その深みが感得できないだけだ。海の色が空に写っていたら、空はもっと汚いと思うが、幸い海は空に写り込んでいないのであんな色をしていた。色鉛筆だと、一本一万円くらいはしてしまうんじゃないだろうか。それほどまでに、引き込まれる澄明な色だ。いくつかのカットを入れる下拵えの後、一気に結果が出るのでみじん切りが好きだ。玉ねぎとか、人参とか。要するに、ピタゴラスイッチだ。後々どうなるかの見取り図まで描けたところで、ただそれだけに気を付けていれば狙った結果が出てくる。なので、やり直しとかがあまり好きではない。頭の中に強烈に焼きついたイメージを具体化するために作業を進めているのだから、それが薄れる前にさっさと形にしてしまいたい。できれば一回ぽっきりで。ゴールがひとつしかなくて、それしか見ていないので、余計な脳のメモリを食われない。「さっき業務用スーパーで冷凍なめこを見つけたけど、なめこをフリーズ保存するのも驚きだしひとつひとつのなめこがめちゃくちゃでっかかったな〜」と考えなくて済む。試行はもちろん大切だが、できれば錯誤はしたくない。マインドセットの改革が必要とか言われそうだな。ふい〜。なぜか棚に置いてあったのでニョッキを買ってきた。イタリアから直輸入らしい。高いのかと思ったら200円(500グラム)だった。そうでもなかった。まあ、ただのぐにょぐにょだからね。gnocchiと綴るんですね。茹でて、一緒に買ってきたよく分からないアンチョビオリーブオイルで和えて食べてみた。ニョッキ自体にそれなりの塩気があるし、そもそもオイルがあんまり美味しくなかった。ニョッキを上手く食べられる人間になりたい。