今日の空も青かった。風がめちゃくちゃに強くて寒かったが、気温的な意味ではまあ普通だったのではないか。昨日感じた空の青さに言いたかったのは、裏表がないという事だった。そこにストレートに青があり、それ以外の余分な情報がない。どこかの誰かの、挽き肉くらいの表面積を無為に酸化させるねじくれ方ではなくて、シンプルに「タテ×ヨコ」で面積を求められそうな、そんな素直さを感得していたのだ。そう自覚すると、その青の下にいる事が途端に居心地悪くなってくる。しかし、あの青を見上げていると、静電気に吸い寄せられるちっちゃい埃みたいな汚れが吸着されていくようでもある。曇りの日に浮かんでいる淀んだグレースケールの雲は、そういえばいつの間にか一大クラスタを形成した綿埃に似ている。日常生活の中で、剥き出しそのままの食材を剥でも、剥き身で持ち歩く事はない。ゴミ箱の上で玉ねぎの皮を剥いて流し台に立ち戻るその瞬間くらいかもしれない。肉まんだって小さな紙袋みたいなアイテムにお包みされているし、焼き鳥も一応串という媒介によって持っている。ソフトクリームがギリギリその定義に当てはまるかもしれないが、コーンを食べ物と捉えるかツールと捉えるかで多少議論があって然るべきだろう。「味噌汁に入っているアサリとかシジミを食べない人もいるんだよ」と人に教えてあげると、なんでですかと問われた事がある。いや、そういう人は、もう出汁が出切っているから食べても仕方がないと思っているらしいよ。でも、もったいないじゃないですか。俺もそう思うけど、食べない人にとっては食べないものなんだよ。私は鍋の出汁に使われた昆布、煮物の臭み消しに使われたショウガでさえ食べる人間なので一寸(ちょっと)想像もつかないが、世の中にはソフトクリームの「ソフトクリーム」の部分だけを食べて、コーンは捨てる人だっているのだ。人それぞれ、人さまざまだよ。貝類in味噌汁の話を聞いた彼は納得できないという表情をしていたが、納得してもらうしかない。現実にそうなのだから。事実は小説より奇なりだし、なにより現実だ。あとは、買い物袋に入り切らなかった時に長ネギをひっつかんで家路に就く時くらいだろうか。これ、余ったから持って帰っていいよと言われた。ごつい本格的なアップルパイで、素手で裸で持って帰ったら間違いなく中のカスタードやアップルがぼろぼろこぼれるであろう事はちょっと考えるまでもなく想像できた。紆余曲折あり、結局新品のレジ袋に放り込んで無理やり持ち帰った。レジ袋がシナモンくせえなと思う事は、向こうの人生であと何回あるだろうか。