他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

減らず口減らし

自分以外の生命体が生活空間で同時的に活動している感覚があると、それだけで何かしらの作業をする気力が失せてしまうので、一体カフェやファミレスで勉強するなり、あるいはタブレットを前に構えて書類を広げてうんうんしている会社員らしき人たちはどのような神経回路をしているのだろうと思う。夏休みに入った弟に付き合って一日過ごしていると、およそ手が届き視線が届く範囲に人間がちょろちょろしているわけだから、よし生産的な行動は何も起こさないようにしようそうしようと精神が変に図太くどっかと腰を下ろして居座り始める。特に差し迫って危機的なタスクは目の前にないので、いやないわけではないのだが、しかしてそこまで存在感を感じて圧迫されるほどはないので、口を半開きにして焦点を失った視線を斜め上の方に力なく放り投げている。人生を総体として考えた時の、虚無タイムが占めても構わなさそうな割合を想像すると、タイトさと生き急ぎの速い呼吸と、立ち止まると死にそうな傍観者メンタルが作用して、そこまでの猶予を準備してのろのろと生きていく事なんて到底無理なのではないかとの考えが休ませているパン生地くらいの速度でむくむくと大きくなり、生活密度のなまくらな先端で突かれて割れる。弟がどろろを読んで、面白いから兄ちゃんも読めと勧めてくるので分厚い総集編2冊の上巻を読み終わったところなのだが、もう出だしの初っ端からエンジンがぶんぶんに回って面白いので、古典の油田を掘るだけで人生が終わるような気がしてきた。食べるだけではなく、咀嚼と反芻と消化が必要なのだから。同時代的に読む漫画と違い、コマとコマの間に展開される「時差」がかなり広く、適当に斜め読みしてスーッと流す事などできない。一コマ一コマを受け止め、それらを頭の中で理論的に納得して繋ぎ合わせて飛び石を渡っていきながら水面に沈んだ光景を考えていかなければならない。どちらがどうと言うわけではないのだけれど、この圧倒的な「優しくなさ」、それでいて金属塊のような密度が両立されているこの表現様態をどう考えるべきなのか、また新しいのぞき穴を見つけたような心地になった。作中でちまちまメタ描写が差し挟まれ、その度に現実に引き戻されない堅牢さ、やっぱりすげえものはすげえのだ。おやつに置いていかれた辛子明太子魚肉ソーセージなるものがあって、弟と一緒に食べたのだが、魚ソーの真芯をくり抜いてそこに明太子フィリングをギチギチに詰めた尖った一品で、人の指みたいだった。