便器に座って小便をしながら、ギリシア語のπαιδεύωには、日本語のあいうえお全ての母音が含まれる事を発見して、雷は落ちなかったが、単三電池2本分くらいのぴりっとした感じはあった。カタカナでベタに起こしたところで実際の発音がどうだったのか知る由はタイムマシン以外はないが、「パイデウオー」である。aieuo。全部揃っている。古典ギリシア語を学ぶとなると、まず暗唱させられるところの動詞であるπαιδεύωにそのような性質があるとは、学の端緒としてなかなか素敵な符号ではないかと思わないでもないのである。今日、発見した生産的と言えそうな事はそれくらいだった。あったかくなってきた。もう、裏起毛パーカーは、次の秋か冬まで着る事がなさそうである。もう10年以上同じものを着続けているのだから、そろそろいいような気もするが、昨冬は結局、心の底から納得できるものが見つからなかった、ないし、見つかっても物理的にサイズがなかったので、半年後くらいの自分と服飾業界に期待である。また、向こう10年くらい着潰せるものが欲しいものだが。身体にひっかかるだけのものについて、考える時間は可能な限り減らしたいので、同じものを長く使えるのであれば、それはいい事だ。刷り込みというか、愛着の湧き方がたいへん強い方なので、慣れた(馴れた)ものがなくなるのは、おそらくストレスでもある。明日、午前中あたりに買い物に行っておかないと、野菜がなかった。人参玉ねぎという基本原理はあるのだが、他が何もない。ニンニクって野菜なのか? あるにはあるが、あれは量を食べるものではないので。今日は昆布の煮物を夜に作ったが、本当は昆布の煮しめを食べたかった。が、作り方を知らないし、レシピを見るのもめんどうなので、おおよその煮物の方向性に沿って、煮しめっぽくなりそうな感じで作った。煮物の水分が飛んだら煮しめなのではないか? 概念的計算をすると。昆布を食べ物として扱った事がほとんどないので、適当に切ったりちぎったりして鍋に入れたが、水を吸うと膨らむという、基本的な事実を忘れていたので、大元の枚数はもっと少なくてよかったし、1ユニットごとの大きさももっと小さくないと、折り畳んで口に入れなければならなかった。昆布自体は、うまかった。あれは昆布そのものの味なのか、それとも調味料あれそれの味もそれなりに寄与しているのか。全体として、砂糖と醤油の立ち上がりが弱かったので、生姜をちょっと入れるとよかったかもしれない。生姜とニンニクは、思ったより起用した方がよい場面が多い。