他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

等倍レンズ

手羽元を食べた。間違えた。手羽先だった。どっち!? と咄嗟に聞かれて、過たず答えられる人がいたらすごいと思う。私はよく間違うけれども、そもそも人生で手羽先か手羽元か、which is more importantな場面があるかと言うと、さしてない気もする。味噌汁は赤味噌しか飲まん、とか、ソースはブルドッグしか認めん、とか、そのような狭量さの元では、この命題も輝くところあるかもしれないけれど。私は、頭の中では、どのようにこのふたつを弁別しているのだろうか。手羽元。これはずんぐりした、アダルトグッズみたいな方である。最低だな。でも、なんかこう、肉がみっしり張り付いて、皮がぺったり添っているのは、どこか艶かしさのある様子だと思う。改めて見つめ直してみると、手羽元ってエッチな造形をしているのかもしれないな。人の妄言と自分の思想を分けて考える能力というのが、人間には必要なものですよ。手羽元は、細い方を握って戦えそうな気がする、武器としての認識が強い。武器じゃないが。サイズとしてはいささか頼りないが、500%拡大くらいすれば、いっぱしの棍棒くらいにはなりそうである。手羽元は、ブーメランだと思っている。投げたら返ってくるのではないかと、心のどこかで真剣に信じている自分がいる。ほぼ間違いなく、返ってくる事はなく、湿った落下音が聞こえるだけだろう。にしても、あの形に、帰還を願ってやまないのだ。とんだ時間の浪費をしてしまった。手羽元と手羽先の形態的相違を述べればよいだけであったのに。ま、しかし、道草を食って大きくなる牛が一頭くらいいても構わないだろう。私の干支はなんだっけ? 干支に何かがくっついた、ひのえのみと? みたいなやつとかが出てくるあれも、たまに詳しい人が教えてくれるのだが、そのたびに綺麗さっぱり忘れている。頭の中に、何やら高性能な水洗便所施設でもあるのかもしれない。手羽先を食った。一昨日の一回目が煮物で、今日の二回目が、和風パスタ的なものに分類されるであろうものだった。これらの経験を通じて分かった事は、ダシを取った後の昆布は、煮物にするとおいしく食べられるが、何も考えずパスタに放り込んでも、ただ歯ごたえが堅強な板状の物体であるという事である。昔から、鍋のダシにされた昆布も余さず食べて育ったので、無駄にはできぬ。煮物にするとうまいのは事実であるし。

 

https://www.asahi.com/articles/ASP5N6KWMP5NPTIL00R.html

大阪のある校長が市長に向けて提出した「提言」であるという。こういう人の元で教えられ育ったなら、それは幸運な事だろうと思った。どこを読んでも、この人は尺度を間違えない価値観を持っているのだなと尊敬の念が湧くが、私はこの一文にその絶頂を見た。

『「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。』