他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

abeyance

近所のラーメン屋に行って、食べ納めをしてきた。そんな言葉はないと思うが、無理くりタームをひねり出した方が文字数が少なかったのでそうしたはいいものの、説明をつけると言葉を尽くした方が結局短くなるのであるから、言葉の経済性というのは書いてみるまで分からんもんである。ラーメン屋とはいえ、あそこではほとんどまぜそばばかり食べている。太麺の方が明らかにうまいからだ。いつもの人だった。家のド近くで擦れ違った事があるから、もしかしたら近所なのかもしれないし、全然そうでないところでも擦れ違った事があるから、もしかしたら全然近所ではないのかもしれない。あそこはいつもテレビが流れている。ラジオではない。日常生活でテレビに触れるのはあの店に食べに行く時だけだが、その度に、情報量の割に情報密度がカスで、××を××で××して××になった××みてえだなと思う。各々が持つ、最低限(極め付け)の罵倒語を当てはめれば上記の文は完成する。ほとんど劣化インターネットというか、インターネットが流しそうめんだとすれば、竹から水が飛び出して行く最下流の、そうめんの粉々に砕けた屑みたいなのしか流れてこないあそこ、あそこがテレビだ。帰省はするが、帰省して嫌なのはテレビがある事である。あれがあるだけで、全然、なーんもやる気が起きなくなる。脳味噌の情報秩序をnullにしていく。そもそもの、情報入力としての手段が動画である人類というのが、私には今だに信じられない。いるし存在するし歩いているのだから実際にいるわけだが、それでしか入力できなくなっているというのは……。本屋入り口入ってすぐの、教養・ビジネス書とかいう、たまごボーロの方がよっぽど価値があると思うような、卒倒しながら噴飯して臍で茶が沸かせそうなコーナーを毎度目にする時の、あのどうしようもない目眩みたいな気持ちに似ている。いつからかは忘れたが、多分秋くらいから、あぁ、それで大丈夫ですとか、それでオッケーですとか言う時に、指でオーケーサインを作るようになった。人差し指と親指で丸を作って、残りの指は自然構造に従って伸ばすあれである。一体これのどこがOKなのかと思って、昨日くらいに歩きながら、そうなった手を色んな角度から眺めてみたが、たしかにOKに見えるアングルはあった。これをする事で、何が円滑になるとか、そういうのはないのだが、少なくとも、今は言行一致しているのだなと確認できて、精神衛生上よろしい気がする。