他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

俺の靴を吹け

朝、道を歩いている時にふと思った。「革靴の爪先が不必要なまでに長いのは、もしかして『俺の靴を舐めろ』と言って相手の眼前に差し出した時に、より一層の圧迫感を与えるためではないのだろうか」と。その空間のせいで靴擦れが起きるにっくきあれは、もしやそういう用途のために設けられたスペースなのではないかと。あなたはどう思うだろうか。私はどうでもいい。どうでもいいが、とてもいい思いつきだったとは思う。明日にでも、外に出て、スーツを着て革靴を履いた人を目にしたら、この可能性をちらとでも考えてみてほしい。ありえる余地を、考慮の俎上に乗せてみてほしい。俺の靴を舐めろ、ウィズ、ロング・トー。無駄に生まれた空間に、無駄と言われながら屈辱を舐めるのだ。その空間さえなければ。あったとしてもなかったとしても、相手の御御足をこの汚い舌でべろべろ舐め回させていただく光栄に預かり感涙で咽ぶ事頻りではあるが、なんだか革靴の先っぽのあそこ、あそこが好きではなくなった。元から好きでも何ともないが。もう一つ日中に思いついたことがあって、それは、昔の「好きな子のリコーダーをべろべろ舐め回したい」というのは、今や「好きな子のスマートフォンをべろべろ舐め回したい」と表現した方が適切なのではないか、という事である。私の思考が適切かどうかはこの際どうでもいいのである。このご時世、リコーダーというアイテムが持つ現実味、そしてそれに対するアクションが誘発するリアクションよりも、スマートフォンに対するそれらの方が、圧倒的に質・量共に優れていると、私は思うのだ。リコーダーは非日常だが、スマートフォンは日常である。どうせ好きな子の何かしらを舐め回すなら、その子の日常に近いもの、それをべろべろぺろぺろした方が行為のもたらす満足感と高揚はより一層素敵なものになると思うのだが、どうだろうか。音楽の時間だけあの子の唇、柔らかくて甘いのかどうかは知らないけれど、そこにぷに、と触れる縦笛と、毎日ほぼあらゆる瞬間にあの子の懐に潜んでいて、焦がれる肉の感触と側を通り過ぎる刹那にだけ間接的に感じる体温を至近で抱きとめる、羨ましいしけしからん無機の塊と、どちらをもっと強く渇望するべきかと言えば、私は後者だと思うのだけど、どうだろうか。夕焼けの中、教室で、好きな子のカバンの中からスマフォをそっと取り出し、ガラスにおずおずと舌を這わせる姿と、机の中からリコーダーを抜き取り、吹き口へとおもむろに顔を近づけていく姿。どちらが、どうだ?