他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

だからお客様とか言ってんのかな?

やっとマイナンバー通知カードを役所に取りに行った。3ヶ月くらい放置していたが、役所で保管されて半年が経過すると、残念ながらそのカードは廃棄処分ご臨終される。わざわざ五百円かけて再発行した割にはまったく執着が見られなかったが、お金周りでマイナンバーというのは意外と必要で、さすがにやむにやまれぬ段階に至ったため足を運んだ。私の居住区区役所は、受付の「お前絶対必要ないだろ……」とついつい思ってしまう余剰人員が想定の3倍くらい(来る人に挨拶する人、用件を聞く人、用件にまつわる部署で「こっちですよ〜」と手を振る人、その他遊撃部隊らしき人も確認される)いるので、毎回ここはソープランドかよと思う。毎回は嘘だが、今思った。行ってみると意外だが、ソープランドの入り口付近にはそれなりの人員が配置されている。場所が場所なのでオトナの事情的なあれとかこれとかがあるのだろうけれど、手厚く入り口は守られている。誰のためかは置いておいて。翻って区役所は、首に吊るしている名札に「〇〇(民間会社の名前)社員」と記載されているため、もしかしてあちらでレセプションをつとめておられるご同僚は事務仕事がからっきしできないのではなくって? 出世とか大丈夫なの? と聞きたくなる。聞かないけれど。いやいや、愛想がいいのだって、立派な財産である。それがどう役に立つのか、役立てるのかは色々あるだろうが。ともかく、通知カードは確保した。こんなんに五百円も払ったのかと思う紙切れだった。しかし、興味のない人にとっては漫画雑誌だって学術書だって紙切れなのだから、ここに記されている情報の値段なのだと思うことにした。情報が高いというのは知っている。0と1の並びに還元できるとしても、知らないだけで致命的になり得るがゆえに、情報というのは高価だ。さもなくば、情報屋という一見怪しい職業(?)が成立するはずがない。好奇心は猫をも殺すが、人を殺すとは言っていない。高望みをするべきではないが、転ばぬ先の杖程度には当てにしておいて良いだろう。支えとなる足が多いに越したことはないのだから。帰りにスーパーで食材を買い出したのだけれど、特売ワゴンに入っていたニッスイ鯖缶に書かれていたコピーが不思議なものだった。「こっくり/じっくり/美味しい/イワシです。」(/は改行を示す)という、最初の「こっくり」以外頭に入ってこないキテレツ文章だった。こっくりって何? コクとかしっかり味がついて「濃い」とか、そういうこと? 語感だけで新しい言葉を作ってんじゃないよ。

ハイテックは微妙

今現在のキーボードの打ち心地がとてもよろしいのですぐ忘れそうになるが、文字を手書きするのは好きである。短編とかコントを考える時は、ノートにユニボールシグノで書いている。ユニボールシグノという点が大切だ。ジェットストリームやゼブラの他のなんかではなく、ユニのシグノであるというそれが重要なのだ。太さは0.38。0.5だと、軸先がノート紙面に引っかからず安定した筆記を望めるのが利点であるが、個体差によりインクがドバドバ出てインク溜まりを形成する可能性が否定できないのが難点だ。なぜなら、ノートは横書き、すなわち左から右であるが、私は左利きだからである。びゃーっとなるのだ。縦書きは、横書きで文章を書き終わった後に版面に貼り付けて印刷してみるとしっくりくるのだが、一次筆記の形態としてはなんとなく違和感が残る。確かポメラ(高いモデル)は縦書きが可能だったはずだが、せっかく横に広い液晶を縦に使うのも気にならないではない。しかし、まあ、横に長い=行長が長い=行あたりを読み返すのにかかる手間(目だけど)が多いということだから、ちまちました縦行を横に並べた方が、情報効率的にいいのかもしれない。何と言っても、そのやり方を採用しているかどうか、継続して採用し手に馴染んでいるかどうかが大切なので、やらずにごたごた言っても仕方がないといえば仕方がない。やってみて、あとは仕上げをごろうじろというあれだ。で、手書きをしていると、日によって「今日は手書きの調子がいい日」「今日は手書きの調子が悪い日」というのが存在する事を感じる。中学、高校などはノートに何かを書くのが日課というか職業みたいなものだから気がつきにくいけれど、その段階を越すと紙に筆記具で向かい合うという行為が珍しいものになることもあったりなかったりし、匠の熟練の技とはまた違う、繰り返し訪れ得るビギナーズラックみたいなもので感覚の違いに気づく。今日は、なにか今ひとつ手首の動きがよくない日だった。体全体がどういうわけか物理的筆記に向かえ全身の号令を出されている時はいくら書いても疲れず楽しくさらさらいけるのだが、どうもこう歯車が噛み合っていない感じがした。毎日やればいいのだが、それには「うん」と返す他ない。うん……。寒かった。居間の扉を閉めた。昼飯として、素パスタに鍋キューブ帆立と海鮮ダシを砕いて粉末にして食べた。原料である帆立の生臭さがやけにリアルに香り、絶妙に食欲を削いできた。

視覚優位

突然寒くなった。パソコンのハードディスクが突然奇音を出し二度と息を吹き返さなくなった時の唐突さに似ている。例に挙げたものの、自ら経験した事はない。本当である。いきなりスクリーンがホワイトアウトする程度だ。窓を開けても、そしてこの点で季節の移り変わりを痛く感じるところであるけれど、玄関と居間を繋ぐ扉を閉めた。ここを閉めるのと閉めないのとでは天と地、まではいかないけれど、東京と博多くらいには違う。長ズボンとスカートのどちらが暖かいか、という話だ。上着に2枚必要になると、単純に計算して、洗濯機にかけなければならないマテリアルの総量がほぼ倍になる。夏の洗濯サイクルから切り替えていかないと、冬は屋外干しをしても乾燥が遅いし、衣類周りで痛い目を見てしまう。道を歩いていると、「ソープランドステッカー〇〇円!!!」という特売ワゴンがある店の前に出ていた。ソープランドステッカーってなんなんだろう。近くにソープが3軒あるのは知っている。泡洗体とか書いてあるが、まあソープだろう。して、ソープランドステッカーとはなんぞや。あわあわがシールになっているのだろうか。しかし、ヒロインが入浴中に誤って浴場に侵入したところ放送・倫理コード的に乳首や局部を「見せられないよ!」しなければならない場面は、現実ではそうそう起こることではなく、そのために開発されたシールであると考えるのは難しい。このような悶々を2秒のうちに終え、事によってはポリスを呼ぶぜと再び目を凝らすと、「ノーブランドステッカー」の間違いであった。点が一つ足りず、円が一つ閉じていないだけだった。こんなもん、ほとんど一緒である。事象を脳が通り抜けると、まず一次にエロ漫画フィルターがかかる思考回路をどうにかしないといけないと、何千回目かに思った。ソープランドがステッカーを売り出すはずは、ほとんどない。そんな案をぶち上げる奴がいれば、相当のタマを持っている。別のところで活躍した方がいいだろう。innocentという、無実とかそういう単語が、多分ラテン語のnoceo害するから来ているんだろうなぁと思った。否定辞negationのinが頭について、現在分詞にして、そこから活用語尾を落とすとまあ大体の古典語は現代英語になると言ってしまってもいいので、innocentの完成である。害していない、無害、とかそんな意味になるのだろう。あいつは何かを害している、というイノセントな奴が、指弾される側を害している可能性だってありそうなものだが。軸があるから反転できるので、皆が軸をノセントな奴だと責めれば、晴れて無罪放免だ!

受け渡す手の在り方を考えてくれ

砂肝を食うと、高確率で奥歯に挟まる。奥の歯に挟まるというその時点で十分かなり厄介なのだが、砂肝は極めて弾力に富んだテクスチャのため、ギッチギチに圧縮された状態で奥歯と奥歯の間という隘路に迷い込むと、ものすごく除去が難しくなる。舌でツンツンしても、歯ブラシで懸命に磨きをかけても、どう考えても作業のためにはサイズ的に大きすぎる指を入れてみても、砂肝カスの完全除去は難しい。砂肝というか、食べると必ずつきまとうこの煩わしさ、お前の本名は「砂鉄肝」なのではないかと言いたくなる。砂肝に語りかけても返答は得られないので言わないが。この砂肝をスーパーで買って来たわけだが、今日通ったレジのおばちゃんは下手くそだった。何が下手くそだったのかというと、清算済みカゴへの商品格納がウルトラ下手くそだった。まさかの牛乳パックを寝かせてその上に他の品を詰むし、カゴの取っ手にネギを挟んで寄越した。ついでに言うと、代金の受け取りからレシート・お釣りの受け渡しまで、出来る風なオーラを出しつつも下手くそだった。出来る風なムーブをしているのだが、なんか無駄が多いし、こちらの脳が理解できない(理解というか、認識できない。行動の意味が分からないのだ)挙動が目立った。そこのレジだけ客の捌けが悪かった。バイトの大学生だってもっと上手なものだが、あれは一体何だったのだろう。今思い出しても、私の方が上手いと思う。コンビニのレジ横には、慎ましい募金箱が置かれている。だいたい、国内の直近被災地に向けた義援金のものである事が多い気がする。マクドナルドはマクドナルドハウスだ。今日通りかかった店舗では、一ヶ月の募金総額が1000円程度だと入り口扉に貼られていた。掲示しなくても良いのではないかと思ってしまうほどの額だ。心意気やよし、という言葉があるので一概には言えない。だが、ここで私は思う。義援金をポストするハードルをもっと下げる方法があるのではないかと。「義援金」という、現代のワードとは思えないあまりにも堅苦しい字面が、募金への心理的ハードルを大きくあげている気がしてならない。難しいものはかっこいい気がするが、向かっていくのは恥ずかしい。「〇〇家・△△家御結婚式場」みたいな大仰さは、ここではいらない。代替案として、あくまでサジェスチョンのひとつとして、「頑張れマネー」というのを提案したい。「東日本大震災頑張れマネー」「熊本大地震頑張れマネー」は、漢字ばかりが連続する募金箱のお題目よりも、よほどソフトに、手が伸ばしやすく思える。とは言うものの、「頑張れ」という言葉の暴力性に思いが巡ってしまうのだけれど。

チャックに挟まるあいつらは食べられる事なく捨てられるから不憫

ここしばらく、ふりかけの『のりたま』が頭から離れない。ふとぼんやりする事の手綱を緩めると、脳みその隙間からにょろりと緑と赤、黄色のパッケージが顔を出し、リーダーであるニワトリを先頭にヒヨコ達が駆けていく。リーダーと形容したのは、先頭のチキン野郎がオスなのかはたまたメスなのか分からないからである。もう一つ付け加えるならば、私が言っている『のりたま』は丸美屋のあれである。『のりたま』は登録商標らしい。ポリバケツと同じレベルで、「たまご(?)にノリとかゴマが混じったふりかけ」を指すのに用いているが、きちんとその点は先制していたようだ。緑、赤、黄色の3色を挙げると、そういえば、永谷園のお茶漬けも基本色はそれら3つである。だからどうという事はない。のりたまを一度に一袋の3分の1くらいドバッとかけると、少しだけリッチになった気分になれる。最後の方までふりかけがなくならず、いつまでもふりかけの味がするからだ。しかし、よくよくセコい計算をしてみると、「納豆3パック=約90円」に対して「のりたま1袋=100円前後」という事実は重い。なんなら、のりたまをリッチに3回使うよりも、納豆を乗せてご飯を食べる方が一回あたりの値段が安いということになりかねない。納豆は特売されるが、ふりかけの特売というのはあまり見たことがない。実に懐が小さく甲斐性のない計算であるが、そもそも考慮の対象に「おとなのふりかけ」が入っていない時点からそれは察していただきたい。内容量に対してのあの値段は、ふりかけ界の一大詐欺師だと思っている。おとなのふりかけを一切の躊躇なく買う事ができるその段階こそが、大人になるという事なのだろうと割と本気で信じている。確かにおとなのふりかけは美味しいと言えば美味しいのだが、それで得る砂金のような満足感より、田中食品『旅行の友』をぶっかけた鰹くさいご飯から得る、子供が大事にする泥団子のような満足感の方がずっと分かりやすく腑に落ちる。旅行の友のパッケージを久しぶりに見ると、なんとそう言えば、こいつも赤緑黄というカラーリングの装いであった。のりたまといい旅行の友といい永谷園のお茶漬けの素といい、ご飯の相手をするにはこの3色をものにしなければならぬという「ご飯の友連合」の間で交わされた協約でもあるのだろうか。妥当なところでは、小学校の家庭科あるいは食育の時間で習った、食品を栄養ごとに分けた「赤(肉とか)・黄(炭水化物)・緑(野菜)」の3フィールドに対応しているのだと思われるが。

引かれるものがなくなったが

昨日の日記を書いた直後に、髪をばっさりいった。襟足だけだが。風呂上がりに、一番水滴がぴちょんぴちょん垂れてくる部位だったので、業腹だったのである。ゴムでしっかり縛って、ハンズで2000円もしたハサミでジョキジョキした。ジョキジョキ出来なかった。毛髪の量が多く、一本一本がバカに出来ない太さなのである。目に見えない後頭部で、ハサミが髪を「じょり……じょり……じょり……」と断ち切っていく音は、深夜に聞こえてきたら恐怖を催しそうな不穏な音だった。ミニチュアの馬の尻尾みたいな髪の束が、ポスティングされていたピザの広告を貼り合わせて出来た敷物の上にぼとりと落ちた。力士の銀杏落としの際にいかなる感情が去来するものだか知らないが、断面を見て毛先の密度の高さに気持ちが悪いなと思った。魚の目をやると、患部にイソギンチャクみたいな「じっと見つめると気持ち悪い」細かい皮のささくれじみたぶつぶつができるのだけれど、そんな感じだった。ずっしりと重い。髪は女の命だと言うが、いきなり背後から切りかかられて毛髪をばっさりいかれたら、それは怖いだろうなと思った。突然の奇襲を死角から仕掛けられたという事実を差し引いても、である。ある程度の長さまで達すると、存外な質量を持つ。べろんべろんして正直邪魔だった襟足以外はどうでもいいので、それ以外の部位を適当に、いい加減に梳いて(ハサミはいたって普通のノーマルハサミなので、髪の毛を切る事はおそらく想定されていない。牛乳パックはよく切れる)風呂で流した。夜を越して、よもや寝癖がつきやすくなっているのではあるまいかと洗面所の鏡を覗き込んで見たところ、そんなもんは杞憂であった。それどころか、「このくらいの髪の長さの女の子可愛いじゃんんんんん」という仕上がりになっていた。「二次元ばかり見過ぎて三次元がよく分からなくなったので、リアルでこれくらいの長さなら可愛いなと思うレベルまで髪の毛が伸びるのを放っておくプロジェクト」を実行していたと言えば実行していたが、奇しくも髪の毛を切るという形でその目標は達成された。なるほど、私の心の琴線に触れるのはこのくらい、らしい。目安までに二次元で例を挙げると、『恋物語』のガハラさんくらいだ。鏡に映る現し身の向こう側にある、何かしらの要素に反応して、めっちゃくちゃに欲情するので、この長さがどうやらベストらしい。精神衛生的に。しばらく、向こうの人生、伸びるたびにこれくらいに切り揃えようと強く思った。かわいいから。

そういう組み合わせの美味しいふりかけもあるのに

米を地元から送ってもらったので、かつてよく食べていた、なんだかよく分からない正体不明の炒め飯を作った。適当に炒めて、適当にご飯を入れて、マヨネーズとかソースとかの手近にある調味料を入れるだけの、要求思考量がとても少ない料理である。こんなにたくさんの量(かつてはこれくらいを毎晩食べていたから、胃袋が縮んだということになるのだろうが)を食べる事は最近とんとなくなっていたので、身体が慣れたカロリー量を超過し、変な感覚がしている。料理をする際は、材料をスロットに入れて考えている。このスロットは、枠組みというか、そんな感じのアレだ。野菜スロットには必ず玉ねぎと人参が入っていて(理由、玉ねぎ=手癖、人参=手癖とカロチン)、きのこがシメジだったりエリンギだったりエノキだったりする。緑色のキャベツやらほうれん草は、スーパーに買い物に行って忘れなければ入る事もある。いざ実地スーパーに立つと、何を買わなければいけないのだったか忘れている事が本当に多い。ルーチンでルートを周り、毎回必ず買うものをカゴに入れると満足してしまうので、出かける前に携帯メールの下書きにメモしておかないといけない。で、その「食肉枠」として鮭を入れた。鮭は塩鮭だとかフレークだとか、処理がしてあるとしっかり味がするのだが、すっぴんの鮭は言語表現域に達しないような、とても微妙な味がするだけなので難しい。塩のおかずに食べているようなものとも言えてしまうだろう。塩鮭とは言い得て妙である。叙事の順序からして塩に負けている。まあそれはともかくとして、なんだか具が寂しいと思ったので、なにかもう一つ加えようと思った。選択肢の中に、ワカメがあった。水に浸すとゆるゆる増えるワカメである。商品名に「増える」と入っているワカメは、ものの数十秒で手がつけられないほどもりもり増え増長するパンデミックフードであるけれども、これはプライベートブランドの大人しめのやつなので、たまごアイス(おしりをちょん切るとぶりゅぶりゅ出続けるアイス。『だがしかし』だとおっぱいアイスだった)みたいな惨事にはならない。さて、しかし、私の手はそこで止まった。「鮭+ワカメ」の演算を、脳が拒んだためである。おかしい。なぜなら、おにぎりにまぶすタイプの商品で、「鮭+ワカメ」が採用されているものがごまんとあるからだ。この後に及んで、海産物たちの絶命後の逢瀬を妨げる理由などないように思われた。にもかかわらず、私はワカメを水で戻さなかった。べろべろに膨張したでろでろのワカメと、フライパンの中で加熱される鮭とがどうしても噛み合わなかったからだった。一体何が障害だったのか、いまいち合点がいっていない。

エレクトロン

この季節に、夜、暑くて寝苦しいのは珍しい。布団をかけると暑いのはもちろんだが、タオルケットでさえ暑く感じてしまう。いつの間にか代謝がものすごくよくなり、基礎体温がうなぎ登りになったわけでもないはずなので、きっとおそらくほぼ気候のせいだ。暑いのは間違いないけれど、朝方に冷え込んでお腹を冷やし風邪を引くのが怖いので(怖い!)、結局掛け布団で半身を覆い、横から抱きつくような形で就寝している。眠れないと、なんだかそわそわして、抱き枕的な何かをギュッとしたくなるもののそれらしいものは持っていないので、枕を引き抜いてギュッとする。抱き枕にしては胴回りが広く、柔らかくも心地よくもないので、赤ん坊に便宜的に咥えさせるただの物質としての「おしゃぶり」に似ている。別に抱き枕を買ってしまってもよいのだけれど、かつて二次元抱き枕カバーの沼に全身を浸し切りメンタルが振り切れていた先輩の事がどうしても思い出されるので、そして抱き枕カバーという無視できないデバイスの負の多様性に引き込まれるのが怖いので、思い切る事ができない。抱き枕カバーとは、おそらくブックカバーやスカーフのようなもので、なくても用は足りるのだけれど本人としては譲れないプラスαがある、そんなものだと思われる。ミジンコやらミドリムシやらミカヅキモやらがみっしりプリントされた抱き枕カバーがあれば、禁欲的なデザインとして評価したい。使うかどうかは全く別だ。微生物抱き枕カバー。生物研究室とかに置いてありそうだ。英名、学名、綱とか種とかを添えてあれば、教育的な商品として売り出せるかもしれない。夢にわらわらわらわらマイニュートな生き物が乱舞しそうなのだけが気がかりではあるけれども。二次元抱き枕カバーを装着すると、すけべな夢を見そうだから憚られる。ついでに、三次元抱き枕カバーが、あるのかどうかは知らないが、もしあれば、夜の薄明の中にぼんやりと浮かび上がる三次元画像というのは、かなり怖い。あるのだろうか、三次元カバー……? 図書館で借りてきた、めちゃくちゃ古い岩波文庫からものすごい匂いがする。埃の、鼻に刺さるような感覚がする部分だけを抜き出したような、ものすごく刺激的な香りが。背表紙は一度大破したようだし、まだ厚紙で表紙がついている頃のやつだし、最初の数ページは無残にももげてしまった。醤油でも染み込んでいるのかと言わんばかりのブラウンをしている。旧字体でも、なんとなく読めるから漢字はすごい。

かき抱いたぬいぐるみの話を

逆上した時に、しばしば「お前に〇〇の何が分かる!」と叫ぶ場面が見られる。心の祭壇に抱いているものへ、そしてそれが脅かされている時に、近づいてくるものは何であれ怖いし恐ろしいし、排除排斥の念を抱くものだ。そうでないなら、なぜそれを心の祭壇に納めたのだ? 大切にしているものから遠ざかる歩を刻む足などいらない。ここまでは正直どうでもいい話なのだが、もし仮に「お前に〇〇の何が分かる!」と言われたら、私は「確かに〇〇の事は全然分からんな。領土侵犯して悪かった。ごめんちゃい」と引き下がってしまうだろうと思ったのだ。的外れな返答で敵の隙を誘い出し、好機を逃さず優位に立つキャラのような、知能の伴った計画的な言動ではない。踏み入られると嫌な領分に入られたら、それは嫌だろうなという至極当然の帰結から導き出される撤退である。フィクションだと、「お前に〇〇の何が分かる!」と来れば、次には「落ち着け」というなだめすかしが続くか、「馬鹿野郎!」という対話相手の心中にわだかまる諸々の要素を無慈悲にも血も涙もなく蹴っ飛ばす短慮な罵倒が飛ぶかのどちらかが多い気がする。「お前に俺の何が分かる!」で「馬鹿野郎!」と言われたら、私はそいつとは一生金輪際関わりを断ち切りたいところだが、どういうわけだか、迷いを吹っ切る手伝いをしてくれたという方向の美談に落ち着くものがままある。俺でないお前に俺の事が分かってたまるかと思うが、しかし自分の事が自分でもよく分からないため、自身ではとてもではないけれど「お前に俺の何が分かる!」とは言えない。「お前に俺の何が分かる!」「俺はお前じゃないからお前の事は分からない、だけど」「俺も俺の事は分からない。困ったな」という実りのない不毛な会話を繰り広げてしまうと思うし、現実でもしばしばやっている気がする。「どう思いますか?」と聞かれても、内心「さあ……?(何を言っているんだこいつは)」と思いながら、状況を拾い集めて適当な答えをぶん投げているため、理解とそれに伴う発展に対して積極的な感情が湧かない。だから、「お前に〇〇の何が分かる!」と言われてしまうと、知らないし分かってないしそれに対する思考も進んでいないし、口を噤まざるを得なくなる。私は知識の多寡について、鼻をかみ終わったティッシュくらいのものとしか思えないのだけれど、それを大事にしている姿勢を見せられると、それはお前の心の祭壇に入っているものの一つなんだな、と思う。

5日くらい使い忘れていたネギをやっと切った

何をしたかの記憶が薄い日なので、何もしなかったの濃度が高い日だったのだと思われる。何もしなかったのだから濃度が低い日なのだが、円グラフの中身がない方に着目した場合の数字だからであって、中身がある方をメインに据えればした事の濃度が薄まる。薄かった。そして、今は夜なのに蒸し暑いのだけれど、このところの気候は本当にどうなっているのだろう。昨日は寒かった気がする。本当にそうだったかは自信がないが、寒かったような気がする。スーパーの買い出しで、とても久しぶりに豆腐を買った。豆腐は一度開けるとひたすらに縮んでいくくせに、たくさん入れると水気で味が薄くなるので、一食でそんなにたくさん消費できない。あるいは、ほとんど味のないものをなぜにして買わねばならねばならぬのだという味の濃さ至上原理みたいなメカニズムが働いているから買わなかったのかもしれない。冷奴もあれば食べるが、進んであらんとさせるほどではなく、そもそも豆腐料理のバリエーションがそんなに思いつかず、手に余る同居人のように感ぜられるからだろうか。今日も、鮭と鱈のアラは確保してきた。あまり客にそのコスパのよいパックを知られたくないのか、ものすごく隅っこに、おまけに上に別のパックを乗せられた状態で陳列されている。あからさまにこすい。余ったら捨てられるのに、いやそれ以前に、アラ自体がポイされる一歩手前みたいな立ち位置なのに、一体鮮魚部は何を考えているのだろう。ついでに言えば、鶏皮も鶏皮という部位のくせにやたら高い。前暮らしていたところの最寄りスーパーでは捨て値で売られていたのに、西友はどうせ商品として売るならちょびっとでも利益出したろみたいな下心を感じてしまう値段設定を感じてしまう。鶏皮だぞ? またふらりとアニメが観たくなったので、アニメアニメしていて疲れなさそうなものを探して、結果的にネームバリューで『ぐらんぶる』を一気に観た。観るか観ないかの極端な性質をどうにかする気があるのかないのかわからない。バカテスは小説を全部読んでいたので、あの原作者ならハズレはあるまいという打算に裏打ちされた行動であった。観ながら、「な〜んか、こう、一枚隔てた感じのむず痒さがあるな〜んん〜?」と思ったのだが、漫画だともっとカロリーの高い画面作りらしい。ラーメン食べに来たのに油少なめ味薄め麺半玉みたいな、「お前は本来もっとギトギトしているやつだろうが!」という感覚はそれに起因していたようだ。界面はバカにできない。

シャア専用ザクと色が似ている

ウルトラ雨が降っている。このウルトラは副詞であって雨にかかる形容詞ではない。ウルトラ雨とはなんだ。ウルトラマン一家一族郎党が波状でやってくるのか。怖いだろう。秋になりきれていない。今の季節は、学校の進路希望調査で一体何と書いたのだろうか。秋という漢字が書けなかったのかもしれない。autumnも綴れなかったのかもしれない。夏と冬のリリーフシーズンと書く機転を持っていて欲しかった。それはそれとして、漫画やアニメで「進路希望調査か〜、〇〇はどうするの?」「私は△△に決めてるから。あんたは?」「私はぜんぜ〜ん」という将来の夢を語るための回が用意される事が多いように思うが、私の高校では進路希望調査票などというものはなかった、と記憶している。しばしば重大な記憶の齟齬を起こしているので一抹の心配はあるが、進路希望調査票と名のついたもの、あるいはそれに類する紙ペラを提出するという通過儀礼はなかった。学期ごとにある三者面談と模試の成績判定校記入が全てだったような気がする。それゆえあの手のリサーチには少なからぬ幻想を抱いていて、今の時代にもまだ「希望進路:お嫁さん」と書く学生がいるのか否かとか、調べてみたい事柄がいくつもある。調べてみたいだけで結果は割とどうでもいいのでやらないけれど。周りに言っていないのに、学校から要求されたからという理由で秘密の進路を書く学生の心境を思いやると、まるで脱衣行為を独占的に見ているようで罪悪感に苛まれそうだから、教員にならなくてよかった。歩いていると、富士そばの商品メニュー、その中のイチオシらしいのだが、もんのすごい商品を見つけた。曰く、その名も、『紅生姜入りちくわ天そば』だった。「紅生姜のパンチのある味!」とか色々書いてあったが、紅生姜+ちくわ天という足し算を思いつくその脳味噌にショックを受けた。どう冷静な脳味噌になっても、ちくわの穴に紅生姜を詰めてそれを天ぷらにしてそばに乗せようとは思わない。思えない。紅生姜は牛丼にちょっぴり乗っていたりカレーに福神漬けの代わりについていたりという事はあっても、もりもり紅生姜だけを食べるようなものではない。いや、身近に一人もりもり紅生姜で白米を食べる人間がいたけれど、それはさておき、私が言いたいのは、紅生姜は主役を張れるほどのタマではないだろう? という事なのだ。全日本紅生姜愛好協会の会員には袋叩きにされてしまうが、商品名に紅生姜と入っているアイテムは世の中にそう多くない。そんな中で、紅生姜ちくわ天、それは確かにパンチのあるメニューである事に違いない。人気があるかどうかはまた別の話だが。

賽銭箱の中も空っぽではある

頭の中がものすっごい空っぽだった。住人が引っ越した直後の5畳半で、紙粘土で作ったビー玉が(ビードロの玉でビー玉なのだろうから、おそらく正しくない。紙粘土で作った球体が)からころとはねっかえっているだけだった。窓ガラスを突き破って投げ込まれてくる石でさえありがたく思いかねない状況だったが、石も火炎瓶も矢文も何も飛んでこなかった。いくら数字でタフネスを表象しているとはいえ、重い負荷がかかるとそんなものでさえみるみるごりごり減っていくのを見ていた。どんなに篤志家であっても、度重なる出費の「度重なる」が天文学的増大の余地を残している状況にあってはいつまでも安穏としてはいられない。喉元まで水がせり上がってくるのは意外と早い。理想としては、部屋に水が雪崩れ込んできた時点でそこから逃げ出す事が出来れば一番ではあるのだけれど、実際には逃げ出すという選択肢が潰されていて、大人しく息を止められるか悪足掻きに訴えるか、壁をぶち破る腕力が備わっていれば新しいルートを力づくでこじ開ける無茶へと飛びつかなければならない。どれでもなかった場合、仮死状態になってぷかぷかと密室に漂っていて、ふとした瞬間に誰かがドアを開けて排水してくれるのを待つしかない。助けられた恩義さえ忘れて、クラゲのような生活を奪われた事に憤りを感じ逆上するかもしれない。生きていないのも楽ではないが、生きているのも楽ではないので、生きているんだか生きていないんだか分からないどっちつかずの揺籠から放り出されると、どうしていいか分からずとりあえず逃げる。洗面器かバスタブか分からないけれど、また息を止めてじっとするための場所を見つけにいく。見つけるまでは必死だが、見つかると必死をやめて死んだように生きる事ばかりを考えるための粗雑に閉じた境界の中に引きこもる。くす玉を開くための糸を中に引き込んで、たまに怖いもの見たさで引っ張ってはみるが、眩しかったりうるさかったり、くす玉で祝うような、くす玉で祝われるような状況が得意ではない事を思い出すので、紐は使わない炊飯器のコンセントと同じように放り投げておく。スウェットのズボンが緩くなった時に、ハサミでちょん切って使えるようにしておけば安心していられる気がする。くす玉が割れた時は、糸を伝って人目につかないうちに下へ下へと降りておこう。カンダタ蜘蛛の糸を登って救われそうになったのならば、下に降りても変わりはない。おそらく糸は自重でちぎれるからだ。

未だに年齢規制線を越える時にドキドキする

それなりの期間お世話になった事がある印刷所の人と再会した。ぼけーっと歩いていたら、よく分からんビルに印刷物を運び込んでいた。包装も変わっていないし運搬用バンも変わっていないし、坊主という髪型も変わっていなかった。目が合いはしたものの、認知したのは私の方だけだろう。あの印刷所には、身から離れないincisedな記憶がごまんとある。そこから記憶が芋づる式にずるずると引き摺り出され、いくつか琴線に触れるものがあって意味もなく笑った。またぞろエロ漫画を数冊買ってきたのだけれど、とらのあなで立ち読みした『永遠娘』に載っていたすみやおの作品がものすごくよかったのでそれを言いたい。永遠娘を買った事はないけど、すみやおのはよかった。サークル・デルタブレードで出している2本もそうだけれど、ハイカロリーな内実をダウナーで低圧に出力する事に長けている。立ち読みしただけなのでアレだけれど……。LO本誌にも来てくれないかなと思いはする。エロ漫画は書店に行くと10割100パーセントオープンで内容を全て見られる。長時間立ち読みしなければいいらしいので、これはどうなのかな〜んん〜という単行本の時は2、3本読んでから考える。とか言いながら、ほぼ必ずこれを買うと決め打ちするスタンスで本屋に行くので、実は中身を確認した事はあまりない。中身を見る前に、表紙の絵とタイトルのセンスでおおよそ合うか合わないかが分かる。分かると私は思っている。こんな話をしても耳を貸される事がないので、書くだけタダだから書く。本屋に行く前に、事前リサーチで全ての試合は終わっているのだ。そういえば、最寄りのアニメイトから成人向けコミックコーナーが消え失せていた。どこか、もっと陽の当たらない場所に移動されたのかもしれないけれど、確かにラノベ・ノベルス・コミックスがあるフロアにちんまりと1棚ではあるがそういうのが存在するのは場違いだった。渋谷のアニメイトとか、まだそのコーナーが生き残っているのだろうか。鍋キューブが万能だと、あるいはどの種類を食べても美味いという説を自分に対して補強するために寄せ鍋醤油と海鮮系の出汁のなんかを追加で買って来た。今日は鮭を入れたが、鍋キューブよりも大きな発見があった。西友は9割9分スーパーオオゼキに完敗しているが、鮭のアラだけは質が良かった。こんなんほぼ骨じゃねぇかというなんちゃってアラとは違い(アラとは元来そういうものではある)、入っている中身全てが身だった。中身なのだから当たり前といえば当たり前だが。そこだけは優秀だ。

もしかして「ほっくり」と「栗」がかかってんのか

「冴」という漢字が、実はすごくかっこいい構成なのではないかと気がついた。二水に牙である。三水ではなく二水であるところに微妙なレアリティを漂わせるし、牙はまあそれだけで十分かっこいいと言っていいだろう。あまり人名に入っているところを見かけないような気がするのも、かっこよさげに見える原因に一つだろう。フィクションではしばしば人名に採用されている事が多いけれども。チーム・バチスタシリーズにも、この漢字が入った女性がいたと記憶している。それで、漢字辞典を調べてみると、確かに「にごりなどがなく、きわだってあざやか」「頭の働きや腕前があざやかだ」「しんしんと冷える」などの意味があるが、これは日本で追加された意味らしく、原義はこおる、さむい、ふさぐのようだ。そもそもが冱(こおる、さむい)という字の俗字である。そしてその時さえ凅という字の仲間だったりする。水が固くなる、ということだ。冴はスタイリッシュな感じがするけれど、それは意味の方に引きずられて字面を見ているバイアスのせいもあるのだろうが、その派生元である2つの漢字はそんなに格好良くない。トンビが鷹を生んだとはまさにこの事だろう。冱は「亙って」に似ているものな。冴はかっこいいという話であった。何かどこかのコーヒーチェーン店頭で、濃厚マロンなんちゃらかんちゃらというドリンクの看板が出ていたのだけれど、その惹句に「ほっくり」という形容詞が用いられていた。……。ほっくり??? ほっこりは分かる。温泉に入ったりこたつに入ったり可愛らしい子供を見たり、まあそういうのはほっこりする。だが、「ほっこり」ではなく「ほっくり」である。「ほくほく」は分かる。ジャガイモやジャガイモやかぼちゃやお金を儲けて懐が温かいなど、そういうのはほくほくと形容されよう。しかし、重畳による形容詞ではない。さっくり、ざっくり、とろ〜り、もっちり、ぎっちり、どっしり、ぽっきり、すっきりなどと同じジャンルに属すようなフォームに当てはめた形で、新しく「ほっくり」という分かるけれど分からないadjectiveが爆誕している。確かに、言いたいことというか、食感というのか、食後感というのか、そういうのはふわ〜んと伝わってくる。日本語の凄いところである。しかし、突如現れた変異生命体「ほっくり」にこのまま市民権を手渡してしまって良いものだろうか? 手元に喧嘩を売るべき理由がそこまで見つからないので拳を降ろさざるを得ないけれども、広告によって、新しい生命が受容されていくのだろうか、と思ったり露ほども思わなかったりする。

赤く流れる三途の川

数日ぶりに洗濯物が安心して干せる気候だった。寝ている間にall is overだった。昨日、夜ご飯に秋刀魚を2尾食べたのだけれど、朝の排便時に便から秋刀魚の匂いがした。辛いものを食べると粘膜が悲鳴を上げるのを感じ、かぼちゃをアホほど食べると色が黄色くなるものであるが、秋刀魚を食べると秋刀魚の匂いがするとはついぞ知らなかった。匂いと栄養は別のものだからそんなに心配するほどではないのだろうけれども、きちんと消化吸収されているのか非常に気にかかる。12時間やそこらで、栄養摂取のプロセスが完了してしまうものなのだろうか。私が人体の仕組み、生命の神秘、実際的な内臓諸器官の働きについて知識が乏しいから、というわけでもあるまい。一日三食摂る場合、それで一日の活動分に加えて骨や筋肉の発達分、新陳代謝分を賄っているわけだ。目の前にある食べ物が、一体何日分の生命エネルギーをもたらすのか、計り知れなくて何となく怖いのだ。何となく。カロリーやジュールで測れる数字ではあるが……。細胞の漫画がヒットしたわけだし、摂食によって稼いだカロリーやジュールでやりくりする身体システム経済漫画とか出てくると面白いかもしれない。出ても多分読まないけど。お菓子でも買おうかなと思ってお菓子屋に行って、結局チョコレート菓子しか買わなかった。コアラのマーチと、チョコラスクと、チョコチップクッキー。チョコレート菓子が好きで、チョコレート菓子以外はあれば食べるが自分からは絶対に食べない。選んで買うなら、とりあえずチョコの文字を探している。ゴディバなどはほとんど食べたことがないが、高いチョコなんか食べてもちょっと味が濃いなくらいにしか感じないので、卑俗な満足感を得るためには準チョコレートで十分なのだ。子供は金箔が好きなのではなく、金の折り紙が好きなのである。費用対効果と、よい高いものへの嗜好は、相容れない考えだと思っている。腕時計とか、そもそも腕に何かついているのが邪魔で目障りなので絶対、ぜぇ〜ったいしないが、好きな人は好きだもの。時間が見たければ、とりあえず動く時計があればよい。機能性以外のプラスアルファを求めるか否かが、嗜癖の有無の分かれ道なのかもしれない。機能性が皆無でも、それを欲しければそれでよいのか。ものとは不思議なもので、なくても事が済むのにあれかしと願ってしまう。心の隙間を埋めるためにものをいっぱい買う人がいるんですよ、との言を見ると、うるせーばーかとは思うが、それはまあ確かにそうかもしれないと肯わざるを得ない。ものはあるだけだから。