他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

樹形図をそぞろ歩くパンフレット

「攻略」ってどういう構造をしているのかと思う。「略」によって「攻」めるという事だ。つまり、それって、どういう事なのだ? 攻めるのは、何かを進めていくという意味だから理解できる。しかし、略とは一体全体なんなのだろうか。省略簡略前略の略なのか。ショートカットして攻めるという意味で、攻略なのか。気になったので電子辞書を引っ繰り返してみたところ、めぼしい意味を拾い上げると、掠め取る、省く、知恵、すじみち、要点、これらがそれらしいだろうか。正規ルートをかわして進捗を掠め取る、手間を省く、クリアした先人の知恵、すじみちへの手引き、ゲーム進行にあたって潰すべき要点。つまりこういう事か。これらの略によって、攻めていっているのだろう。知らんけど。ゲームの攻略本が好きだ。大概、なんでそんなに分厚いのかと言いたくなるような分量をしていて、かなりいい紙を使っていて、それなりの値段がする。流星のロックマンボクらの太陽ファイナルファンタジーDS版(358days/2)の攻略本を所持していた記憶がある。ボクらの太陽くらいしかエンディングを迎えていないけれど、それ以外の2つに対しての攻略本はごつかった。未だにFF攻略本は実家の本棚の上で埃をかぶり続け、長年に渡り湿気を吸い続けている。FFはアルティマニアというシリーズが出ていて、これがまた公式で出ているものだから情報量がすごい。情報量の割に見やすく密度が調整されているので、全然クリアできなかったけれども攻略本はずっと読んでいた。終わりの方になるとこんな要素が解放されるのか〜全然進めないけどな〜と指をくわえていた。そういう意味では、成功者のフェイスブックは人生の攻略本と言えなくもないのかもしれない。まあ、あるひとつのエンドに向かって無数のルートが走っているうちのいくつかにしか過ぎないので、攻略本の数ページにしか過ぎないにしても。全くやった事のないゲームの攻略本がネカフェにぎっしりあれば、読み耽るために人生で初めてネカフェに行ってもいいと思わなくもないが、ブックオフで探せばいいか。途中ですっごく挫折したクラッシュバンディクー2だか3だかの攻略本も、すっかり忘れた今見れば面白いかもしれない。サルゲッチュとか。かなり冒頭にある操作説明ページも好きだ。プレイ経験のないゲームだと、「LとR同時押しでフライングダイブプレス! ジャマな敵をおしつぶせ!」などの表記から、実際はどんなアクションなのか想像する余地がある。やれば実体化する、あまりにいい加減な余地が。

過日

梨を剥いた。どばどば果汁が出た。どばどばは言い過ぎか。ぽたぽた出た。果汁が滴るだけいい事だと思う。鳥取だかに梨狩り農園があって、なかなかに辺鄙なところに位置してはいるのだけれど、広いは広いし梨は美味しいので記憶に残っている。弁当を持っていくと、梨を食べながらおにぎりやウィンナーを食べるという絶妙な食べ合わせも体験できる。当たり前だが梨は甘いか少し酸っぱいかなので、塩気のあるものを持っていくと釣り合いが取れるはずだ。喉が渇いたら梨の汁で喉を潤せばいいわけだから、無限に循環できると言えなくもない。めちゃくちゃ民家、というかその農家の軒先に受付と居座りスペースがあるため、生活臭が大変に強いのも面白い。何回か行ったが、来園者が多くなってきたのか、途中で大きな桟敷スペースができた。まだやっているのかしら。調べてみると、想像以上に鳥取県には梨狩り農園がたくさんあったため、どれだか分からなかった。場所の名前を覚えるのは苦手なのだ。どうせ2、3しかないだろうと思っていたが、そういえば鳥取県は梨の一大産地のうちのひとつ(変な言い方になった)であった。そこの梨は皮ごと食べても気にならなかったのだが、今日剥いたのは皮がそんなに美味しくなかった。剥くと言えば、病院に入院している際、見舞いに来てくれた人に果物を出す事があるが、その時に「りんごを剥きましたよ」とは言うが「りんごを切りましたよ」とは言わない、ような気がする。頭の中に病室をイメージして、入院者の関係者がフルーツをカットして持って来てくれた場面を想像してみてほしい。「りんご剥きましたよ」と言っているのではないだろうか。「りんご切りましたよ」とは言ってこない、こない気がしまくるのだ。なぜだろう。切っただけじゃなくて、皮も剥きましたよ、私はあなたに食べやすい食べ物を提供するというホスピタリティを発揮しましたよ、来てくれてありがとうございます、ということなのだろうか。分からん。だんだん「りんご切りました」でもよくなってきた。りんごをくるくる回して途切れずに皮を剥く、というアクションが、どういうわけか私の頭の中では一昔前のパフォーマンスとして想起されてしまうのだが、まさかそういう事はあるまい。今も変わらずりんごの皮剥き世界最長記録に挑戦しているチャレンジャーはいるだろうし、家庭科の授業でもりんごの皮の剥き方に熟達するための時間が設けられているはずだ。りんごより梨の方が好きなので、りんごは比較的どうでもいい。

惣菜コーナーだけ人口密度が高かった。

やるべき事があるのは幸せな事だと言ってもいいと思うが、やらなければならない事をやらなければならない状況が幸せかどうかはまた別の話なのではないかとも思う。だから、トラックが荷物を積まれている状態は幸せと言う事もできるはずだし、しかしその状態で走る事がトラックに幸せかどうかは分からないという事である。言いたい事が伝わった気が全くしないが、to have what to do と to do what you have to doの間には違う溝があるという事なのだ。日中思いついたものすごく身近とは真逆の話ではあるのだけれど、結婚式や葬式、その他の場面で目にする事のある「芳名帳」なるもの(私自身は直に目にした経験、あるいは目にしたという自覚がない。その手のセレモニィからは程遠い環境にいたがゆえに)、あれは、一体何のためにあるのかさっぱり分からない。筆である必要がよく分からないし、まあ最近はフェルトペンでも書き込めるようにはなってきているようだが、なぜ互いが互いの名前を見えるように書き記し連ねなければならないのか分からない。誰が来ているのか、そんなに気になるのか。お前は祝いに、あるいは悼みに来たのであって、意識が散っているのではないか。祝う集団が、悼む集団が、どのような要素で構成されているのか、重視しなければならないものなのだろうか。出席表みたいなものを作って、そこにお祝儀や香典と一緒に放り込むボックスを用意し、その箱を持った人が会場入り口に立っていれば十分な気がする。集団が行為に参画する儀式では、そうも言っていられない事情とか背景とか歴史とかがあるのかもしれない。最低限遵守するべきエリアと、お好みで有無を選択できるエリアと、分けておきたい。この件に関しては特に何の感情もない。すげぇどうでもいい。それはいいとして。「みるみるうちになくなる」の「みるみる」って何なのだろう。見ている×見ている=めっちゃ見ているという重畳強調なのか、1)私は見ている、2)(あなたも分かるだろう、)見よ、(この事態を)という2つの見るをわざわざ表記しているのか、何なのか。みるみるの近親は「あっという間」であろう。私は見る、そしてその行為をしている自分を知覚している、そんな刹那のうちにも事態は進行しているという事だ。事なのか? それとも「みるみる」というオノマトペなのだろうか。「打ち出の小槌で叩くと、一寸法師はみるみる大きくなって……」「むりむり押し出す」「もろもろ砕ける」とか、そういう事なのか? 分からん。

せんとうにとつにゅうした!

近所の銭湯で入り口の扉が開いていたので、通りすがりに中を覗いてみた。「おんな湯」「おとこ湯」と書いてあった。私は「男湯」「女湯」と漢字で書いてあるごっつい方の表記しか知らないので、ひらがなで可愛らしくプリティに示されているのは記憶の限り初めて見た。こども銭湯のようではないか。とても微笑ましい。しかも、青く染められた暖簾の「男湯」、赤く染められた暖簾の「女湯」ではなく、白いちゃちな厚紙にマジックで手書きされた、ひょろひょろの「おとこ湯」「おんな湯」なのだ。湯という漢字が教育指導要領において小学何年生で習う漢字なのかすっかり忘れたし改定に次ぐ改定に見舞われているから想定するのも面倒であるが、小学生ちびっこ温泉だ。「おとこ湯」じゃなくて「おんな湯」に入っても怒られないんじゃないかという気さえしてくる。きっと、それはそれは怒られるだろうけれど。ひらがなの持つ柔らかさを、ぷにぷにでふわふわな柔肌のような柔らかさを感じる、とても素敵な表記だった。何と言うのか、幼ボイスで「こっちは、おんな湯、だよ!」「こっちは、おとこ湯……だよ……///」と案内されているような気分になれそうな気がする。そんなガイドをしてくれるなら仕方がないのでおとこ湯に入る。おとこ湯が俺を呼んでいる。「見るも無残」という、完全敗北しボロ雑巾と化した状態を指す、できればそんな形容をされないでいたいものである言葉がある。無残だからである。「残」って「無」いのだ。塵も埃も残さず、跡形もなく色んなものが消し飛ばされた状態、それが見るも無残な敗残である。しかし、それはそれとして、史上最悪最強のラスボスを皆の力を合わせて木っ端微塵にしたかのような容赦の無さはともかくとして、残っていないのに見る事ができるんかいなというせせこましいこすいツッコミをしたくなる。したくなったので、した。したかったので我慢せずにしたわけだが、自宅で大便をするのに躊躇する理由は水道が止められている以外にない、見るも無残とは解題すれば「見てみた、すると何も残っていなかった」という事なので、全く問題はなかった。見るも哀れとかではなく、見るも「無残」という無駄にかっこいい響きと字面を持ってきたのが、考案者の性格の悪さを表しているかのようだ。必殺技っぽいもの、無残の2文字が。たとえボロカスに負けて風前の灯で這いつくばっていても、そんな状態のお前など目に入ったうちに入らんよ、という勝者の余裕。そうまでして踏みにじられ、なお抗い立ち上がる気力を残しているのはフィクションの主人公だけなんじゃないだろうか。

金科玉条

ゴマドレッシングを略すと、「ゴング」になる事を発見した。特に意味はない。サラダという食事は、胃袋と物量の戦争をもたらすものではないからだ。むしろ、まず食前にサラダを食べる事によって(字義矛盾しているような気がする)腹を膨らませ、総量としての摂取量を抑えるダイエット方法もある。知り合いがやっていたが、いかほどの効果が出るものかは知らない。今、ミスドの美味しいやつであるところの「ゴールデンリング」も略すとゴングになる事に気が付いた。まさかこの2例だけで言い切る蛮行に乗り出すわけではないけれども、両方ともなんとなく、金色というか黄色というか、イエロー系の色味をしている。偶然であろう。世にあるもの全てなべて遍く略せば「ゴング」になるならば、いや考えてメリットの欠片も思い当たりはしないが、それには何か深遠なる、もしくは壮大なる理由があるのだろう。ゴング・セオリーと名付けられたこの仮定は、後の世に大した影響を及ぼさずに忘れられていくに違いない。明日にはきっと覚えていない。すれ違う通行人の顔をいちいち覚えていられないように。そんな事をするのは、そんな事に従事させられるのは、店舗の客足集計システムくらいでいい。それにしても、ほとんど途切れる事がなく、ずるずるだらだらと雨足が遠のく気配がない。この季節の降雨は、おそらく、付き合ったとしても別れる時に異常にもつれるだろう。情が。もう嫌なのに、見たくはないのに、しばらくそこにあったがゆえに、なくなると感じる喪失感みたいなものが確かにあって、遠回しに気がつかないうちに、想起してイメージを上塗りする事を強いられるに違いない。雨に人格を見出すのはどうかしていると思うけれど。でも、たまに「こいつとならいい関係性が築けそうだな」という降り方をする雨に出会う。控えめで降っているのか降っていないのか分からないのに、服には磨り潰した銀箔のような水滴が無数についていて、なるほどこれは降っているのだなと了解されるような、そんな雨に。雨も降りたくて降っているわけではなく、記憶の限りでは「おい、絶対に手を離すな!」「もう、もういいの、大丈夫……私はいいから、あなたは自分を助けて……」「うわぁぁぁぁぁ!!!」と言ったような、もう留まっていられないから下界に落っこってくるぜなメカニズムで我々と面会しているのだったはずだ。わざわざ感動的なドラマを演じてもらったところ申し訳ないが、地上にはこんな顔ぶれしかなくて悪かったな。

ルゥも頭数しか許さない

こくまろカレーは、ブロック1つだと薄い。ちょっとした水止まりだ。なので、2つ入れた。ほとんど溶けた瞬間から、異常な粘り気と加速する焦げが観測できた。1つだと少ない。2つだと、どうやら1人分の分量の水・原材料に対して多すぎるようだ。しかし、ブロック1.3個分などという器用な真似ができるわけでもない。帯に短し襷に長しとはこういう事を言うのだと納得した。腑に落ちる。ご馳走様したわけだし。鍋というか、水煮系の調理で加熱すると手羽元はすぐ硬くなって美味しくないが、カレーみたいな液体それ自体の独立性が強いベースで煮るといい感じの火の通りで仕上がるようだ。今更気が付いた。気がつかなかったのは、カレーを作ると鍋がべったべたになり、洗い物の時にスポンジが1つ臨終を迎えるという事だった。そんなにぽんぽん資材を無駄にしたくないので、湯ですすいでから洗った。こういう時に、立ち上がりの早い優秀なガス機器が備え付けられているのは美点である。沸点だろうか。一瞬で焦げ付きが野原一面に広がるような鍋なので、煮物をすると汁が黒くなる。焦げが浮いてきているのだ。どれほど油を引いても、いやだばだばに油を注げばそういう事がないと言えばないのだが健康的ではないから、かような現象に見舞われるため、欲を言えばその鍋は使いたくない。しかし、利便性の代価とでも言うべきか、なんと今あるIH機器はアルミ鍋が使えない。発火するっぽい。お気に入りの煮物鍋(中小の2サイズある。可愛い)が使えない。「ハッ、諦めな」というブザーがピーピー鳴るだけなのだ。その点、ガスコンロは何でもかけられて便利ではある。掃除が面倒だったりするけれど。また結構な雨が降った。やはり、6月のみならず9月も梅雨なのではないか。9月は長月か。9つ存在する要素が一つもないので、梅雨には点が6つ含まれるから6月が梅雨理論が通じない。雨が降り出す少し前に外出していたので、ばらばらと降り出してのち、軒下で雨宿りしつつ形容し難く困った顔をしたおっさん(そう言えば全員おっさんだった)を大量に目撃した。大変辺鄙な場所で難を逃れようとしているおっさんもおり、雨宿りというのは場所を選り好みしている場合ではない一大事なのだと思われた。ジャケットが濡れればそれは困るかもしれないが、依然皆が皆長袖Yシャツだった。多少の濡れは覚悟して、最寄りのコンビニにでも行けばいいのだろうか。会社に帰って、「傘を持っておらず雨宿りをしていたため遅くなりました」という申告は、どれほど受領されるものなのだろうか。

converter

ドイツの通貨単位「ペニヒ」は、原語で綴るとPfennigになるらしい。ドイツ語はほぼ文字通りに読むので、カタカナでむりくり音写すれば「プフェンニヒ」になる。プフェンニヒ。Pfという冒頭の二文字がとってもドイツ語だが、そこを「もう『ペ』でええやんけ」の精神でいい加減に処理すると、確かにペンニヒくらいにはなる。そのペンニヒが日本人の発音器官にしっくりくるような形になって、ペニヒとなったのだろう。知らないけれど。ついでに、der Pfennigは複数形になるとdie Pfennige(プフェンニゲ)となり、つっかかりたくなるPf以前にヒがどこかに行ってしまう。どこかに行くというか、eとマリアージュして子音が変わる。同窓会で久しぶりに会った同級生の苗字が変わっていたようなものだ。同窓会に呼ばれた事がないから分からないが。味玉を6つ仕込んだ。卵というのは、大体10個で150円〜200円くらい、特売でミックスサイズ98円(一人一個まで)なもんだが、一人暮らしだと全然消費しない。表示を見ると、2週間くらい保つらしいが、そんな期間では意外と使わない。そもそも卵を使う料理をそんなに思いつかない。オムライスとか、カツ丼とか、それくらい。そして、そこまで手間をかける元気が余っている日というのは中々ない。考えてみてほしいが、オムライスはご飯を炒めるフライパンと卵に火を通して完成させるフライパンの2つ、カツ丼は「カツを揚げる」と出汁で煮閉じる鍋の2つが必要だ。いくら2口IHを導入したとはいえ、多分1時間半くらいはかかるだろう。むむ……。ちょっと、いやかなり考える。原材料費、そして心のコスト(MPみたいなもん)を考えると、外食した方が楽なメニューでさえある。ふんわりとろとろ卵をperfacioする技能と、それを身につけようという意欲がない。あると心理的に落ち着くが、実務的にはそんなに必要ないアイテム、それが生卵である。財布に入れておくコンドームみたいなものだ。入れてないけど。んで、それらベンチウォーマー生卵たちの消費期限が迫ってきたので、そして6個も余っているのに別段使途もないので、味玉にする事にした。生卵があると安心するものならば、味玉はあると嬉しいものだ。なんとなく、本当になんとなく、あると食べる。おやつの時間とかに、魔が差して食べる。醤油砂糖料理酒を入れた密封袋に漬けておくだけなので、手軽でよろしい。味醂もあればなおよし。体感としては、漬け始め4日目を越えると急激に香りを失って美味しくなくなる。セミみたい。

シューリンガン

家賃が安くなった。ちょっぴりではあるが、塵も積もれば山となり雪崩を起こして人命を奪う天災となるのだから馬鹿にはできない。笑えない。一円を笑う者は一円に泣くらしい。私としては百万円の買い物をする時に一円足りないよりも、三百円の買い物をする時に一円足りない方が恥ずかしいと思うのだが、どうだろうか。百万円くらいなら笑っても痛くも痒くもない素封家になれれば、一円など笑い飛ばせるだろう。笑われる一円が百万人(単位は人なのか? 枚?)集まれば、塵も積もれば話はまるっきり別だが。先日大家さんから家のポストに投書がされていて、すわ強制退去のお知らせではないかとヒヤヒヤしながら、ヒヤヒヤしたのでしばらく開けずにおいてから開封すると、「水道使用量が少ないので家賃を安くします」という旨が書いてあった。私の住んでいるところは、家賃の共益費の中に水道代が含まれている。メーターが大家さんの方と同じなのだ。水を全然使わないから、安くしてくれるらしい。世間には「家賃2万・共益費3万(水道光熱費別)」という訳の分からない賃料体系を組んでいる不動産もあるというのに、「あらあらこれは共益費を取り過ぎかしら少し安くしてあげましょう」との配慮に至る大家さんには頭が上がらない。少額ではあるが、額は額である。人の温かみの片鱗らしきものを感じた。まあ、ガス代は私が払っているのだけれど。3日くらいかけて、ドイツ語の初等文法を思い出した。完全に彼方へトゥルーラブしていたが、ドイツ語は英独仏と並べると簡単な方ではあると思う。ほぼ万物は古典ギリシアラテン語と並べれば、簡単に見えるものだ。見えるだけだが、見えるだけでも相当な救いにはなっている。中等短文解釈問題集くらいはなんとか進められるくらいまで復活した。以前文法を学んだ時も、1週間という駆け足で終えていきなり読み出した覚えがあるので、人間の記憶は一応残っていて電気信号で思い出せないだけだというのは真ではあるのだろう。フランス語の初等文法はさっぱりきっぱり忘れたが、未来形・半過去・大過去の活用が全然覚えられなかった事は痛みとして記憶している。その文字、読まないなら書かなくていいじゃないといちいちつっかかりながらやっていた気がする。黙字なんてものではないのだ。鍋キューブ(白湯)を食べた。もう、入れるだけで味がつく調味料は鍋キューブさえ存在していればいい。ただ煮ただけで美味しいのだから。久しぶりに手羽元を食べたが、西友の精肉はそんなに美味しくない。

回転寿司でレールから外される乾いた皿

寒かったからパーカーを着たら午後には暑くなった。季節のつむじ、ヘソが、電動ろくろに乗せて回転させたくらいねじくれている。電動ろくろは、真中心に粘土塊を置かないと整形はおろかまともにいじくる事さえできない。ただ、歪にゆがみろくろ外に吹っ飛んでいくのを呆然と見やるだけである。昨日今日と、『撲殺天使ドクロちゃん』を2まで観たり『だがしかし』を2まで観たりした。どちらもどちらも初めて観たし、原作を読んだ事がない。そもそも読んだ事がある原作のプールが小さい。ドクロちゃんは、中高と学校を同じくした同級生が大変に好んでいたので思い出の作品である。だがしかしはサークルの先輩が好きだったような記憶がある。どちらも起因ではなく、AmazonPrimeにあったからなんとなく観た。なんとなくそこにあって、なんとなく観る気が起きるという二重の条件が揃わないと何かに触れないので、難儀な性格だ。人体断面は出るわ脳が飛び散るわ上体が吹き飛ぶわ血飛沫が散るわで、予想の数段上を行くバイオレンスラブコメだった。ここまでの暴力系ヒロインは、今ではほとんどお目にかかれない。ギャルゲユーザーは、暴力ヒロインを嫌うらしい。……。数瞬考えたが、思い当たるそれらしいキャラが見当たらなかった。優しい時代になったものだ。『らき☆すた』も観ようとしたのだが、1話目を観て諦めた。死ぬほど肌に合わなかった。プライムは色んなものが雑多に置いてあるから、ザッピングして合いそうなものを拾う手間があるのは喜ばしい。大半はぺっぺぺっぺ飛ばして行くが、たまに「んん〜?」となるものがあるので、賽の河原にも玉が落ちていたりするのだろう。願わくばそんな地獄に落ちん事を。以下ではささいな、可愛らしい思いつきを話す。ささいだとか可愛らしいだとか謙遜は必要ないよ、と思ったが、ささいでもなく可愛らしくもなければ偉大で憎たらしい思いつきになってしまう。そこまでして押し出して広告を打ちたいわけではない。コンクリートから花が生えているのに意識が向きその事実を認識する、それくらいの程度だ。よくよく考えれば、コンクリをへし割って地上に顔を出す植物は極めてマッチョである。さて、さて。単なる思いつきは、「濡れ煎餅はあるのに濡れクッキーはなくない?」というものである。すごく小さい。他に比べてよくよくしっとりしている特長を製品名に取り入れて差別化を図るか否かの問題なのだろうか。濡れクッキーに一番近いのはカントリーマアムだと思われるが、もしかしてあれ以上しっとりねっさり(ねっとり+もっさり=ねっさり)しているクッキーが存在するのであろうか。まあ、煎餅につく「濡れ」とクッキーにつく「濡れ」では、感じ方が大いに違うのも一因なのであろう。

rain fall to you

ダラダラと一日中雨が降っていた。常にわずかな水を流す事で洗浄するタイプの男性用小便器のようである。人が離れるとセンサーで感知してだばーっと流れない方のあれである。本屋だったり百均に行ったりしたかったのだが、雨が降っているという事実はそれだけで外出を取り止めさせるほど強力なので、丸一日家にいた。何をしていたかの記憶が定かではない。居間の扉を開け放したままにしておくと、室内温度が限りなく外気温に近づいていくのが分かったため、そっと閉じた。そもそもトイレに行きたくなって起床したので、そろそろ掛け布団を引きずり出してこないと、厳密には圧縮袋で縮こまっている袋から救出し外気を吸わせないと、寒くて凍えて寝られなくなりそうなほど気候変化が著しい。アツアツのカップルが急に冷めるとこんな感じなのだろうか。傍目に晒されている身としては耐え難い。段階を踏んで、夏から秋への権威譲渡式が厳かに執り行われてもいいくらいには納得いかない。そういえば、よく雨が降るので梅雨入りしたのかと思っていたのだが、梅雨は6月だった。よく間違えるし、いつも忘れている。梅雨もなかなか雨が降る季節ではあると思うけれど、9月も季節のクレバスであるため天気が崩れる事が多い、ような気がするのだ。そして、6と9は引っ繰り返っているかいないかくらいの違いがなく、要するに、区別できていない。大陸の気団がどうとかこうとか、という事を説明されて腑に落ちれば理解し定着し忘れないのかもしれないけれど、そこまでして峻別したいほど時候に対してこだわりがあるわけではない。暑い寒いくらい、いい加減なグレースケール程度の感情しか持っていない。なお、6月が梅雨である事を覚えるために、「梅雨という2文字には6つのちょんちょんがあるから6月が梅雨」という事実を無理矢理に発見した。梅の木偏、3・4画で2ちょん、雨の内包する4ちょん、合算して6ちょん。梅雨は6月だちょん。少し前に見つけた「獣奥義アニマルパンチ、秋はおはぎが美味しい季節」(荻が獣偏の方、萩が秋の方、という旨を忘れないために考案したしょうもない暗号)は未だにきちんと覚えている。携帯の下書きメールボックスにも残してある。覚えてはいても実用に供する機会が一向に一切ないのが残念極まりないのが玉に瑕ではあるが、頭を使った物事に関しては記憶が残りやすいというのは本当なのだろう。いつか人から聞いた「ドイツ人のおっぱいは硬いが、フランス人のおっぱいは柔らかい」という知識(?)も、妥当性を想像したからメモリに残留している。

たんたんめんを担々麺と書くか、担担麺と書くか。

今日は、私の頭の中にある事を分かち合いたいと思う。分かち合いたいというか、さっきふと辞書を眺めていたら思いついたので、軽口だと思ってお裾分けしたい。袖にしても構わないし、これも他生の縁だと思ってもらってもいい。通り過ぎる背中に呪詛を並べるのはいつもの事なのだから。さて。「雌伏」という言葉がある。チャンスをまんじりと、あるいはまんじりともせず虎視眈々と待つ、そんな様相を指す言葉だったはずだ。物語で、打倒された登場人物がパワーアップして再び立ちはだかるまでのあれとかである。これの対義語は、「雄飛」というらしい。巨人の星みたいだ。まあ、雌と雄、伏せると飛ぶ、どちらも対照的に組み合わせる事ができ、対義語としてはよくできている。で、「雌伏」という方なのだけれど、これを薄目で見ると「雌犬」に見える。メスイヌ。人偏がついているから、メスヒト。というか、そもそも、雌伏、字面が語る通りに額面通り満額で受け取れば「雌が伏せる」という意味なのだから、とてもえっちだ。雌が伏せる雌伏に対して、雄飛である。「雄が飛ぶ」のだ。あるいは、「雄が飛びかかる」。ルパン三世のダイブが如く。メスが伏せているのだから体位は寝バックとかバックだと思うが、これらはエロ漫画でよく言う「こんな動物(獣)みたいな姿勢で……っ」なものなのだ。エロ漫画が引き合いに出てくるからすけべなのである。すけべだと思う私もすけべなのだろうが、そのような思考を導く字面も共犯だ。これは別にヘテロに限ったことではなく、男性同士であれば受けはネコなのだから、確かに雌伏が雌犬に近いのでネコではなくてイヌではあるのだけれど、雌伏飛雄が許す想像の幅は狭くない。後ろの穴は狭いかもしれないが、想像は際限なく、作者は自身の知能を超える登場人物を造形する事ができないという命題の是非は念頭に置いておきつつも、広く広がる。言いたかった事はこれにて終いなのだけれど、まだ紙幅が雌伏(!)していたので続けなければならぬ。千里の道も一歩からと言うが、じゃあ千里の道は全部で総計でトータルで、合わせて合算して出力してみたら、一体何歩かかるのだろう。いや、千里と道程の詳しい距離は出てしまっているのだから、妥当な範囲で己の歩幅の平均値をとってそれを基に算出すればいいだけの話ではあるのだけれど。ああいう時速や所要時間の問題って、途中で休んだりやめたくなったりして延長する分を勘案させてくれないから、好きではないのだ。

掬われず、止めず。

傍を歩いていた女子3人組が「パコパコしちゃって〜」と言っていたので、すわいやらしい話をしているのか実にけしからんと思ってついと視線を投げると、パコパコしていたのはミュールの話であった。緩むか何かしたらしい。私の鋭敏な動きを返して欲しかった。すぐそこに靴・鞄修理屋があるのだから、行ってみてはどうなのかとは思わなかった。靴擦れフェチというものが、この世に存在するだろうと考えたからである。手タレという存在が存在するように、ささくれ・さかむけフェチも存在するであろう。綺麗な手の写真集があるならば、水回りでぼろぼろになった手の写真集があってもよいのである。ともかく、脊髄反射レベルで脳味噌が刺激をピンク色に変換しようとしている事だけは確実だった。どうにかした方がいいのかどうか一人でずぅっと悩んではいるのだけれど、相談相手対話相手が他ならぬそんな思考、もはや思想と言ってしまってもいいかもしれない自分自身であるから、ただ自己補強を繰り返しているだけのような気がしてならない。補強してまで守るものではない。ただ、為されるがままに侵食されたいものでもない。足場は多い方がいいと、プレステ2のクラッシュバンディクーで学んだ。それとは一切関係ない文脈での話だが、「ビジネスホテルに女を連れ込む時に躊躇ってはいけない。躊躇ったらもうそこでダメなのだ」と諭された。私がビジネスホテルに女を連れ込もうとした事実はなく、そんな嘘をついてもいない。ただ、そんな話をされた。誤解を招くような比喩を取り除いて意味のエッセンスだけを取り出せば、「物事には然るべき時があり、その時を逃してはいけない」という話ではあったのだけれど、「君にはまだ分からないだろうけれど」とも付け加えられた。「ええ、まあ、それはそうですけれど」と全く、本当に何の中身もないからっぽな答えしか返せなかった。実体験の伴わないイメージに質量を持たせようなど、それは無理な相談である。言葉の錬金術、レトリックをまるであるかのように振り回せば叶う話ではあるが、そこまでして私は相手の求めていた男性(おとこせい)に則って訴えようとはしなかった。した事がないし、予定もないし、分からないからだ。心底、底までさらっても。極めて頗る大変滅茶苦茶頻りにセクシャルな表現を持ち出してくる相手ではあったが、今日は一段となんだそれはと思った。あと、私は連れ込むのではなく連れ込まれたいので、その点でも引っかかりまくった。話のカリ首が立ち過ぎている。摩擦ばかりだった。

「これにておしまい」と「これにておひらき」って相反してない?

3日連続で、夕方と夜の繋ぎ目に矢玉雨霰のような雨が降っている。比喩じゃなく外から「ズドドドド」という漫画でしか聞かないような音が聞こえる。ガガガガガでも、バリバリバリでもいい。どっちもまた同じく聞こえてくる。これが怖いので、洗濯物を迂闊に干せない。たった1分判断を誤るだけで、洗濯にかけた40分がおじゃんである。おじゃんって可愛いよな。当てる漢字がなさそうなのが素晴らしい。スナック菓子の商品名でありそうな気がするのだ、おじゃん。麻雀の点棒みたいなお菓子だったら嫌だな、夢がない。商品化するにあたってどういう形状にするのか、どのようなフレーバー展開をしていくのか、が見所になるだろう。市場にはすでに「バゴーン」という頭の悪い先駆者がいるので、「おじゃん」くらいでは愁眉を招くような事はありますまい。コマーシャルで一番推していきたいコピーは、「これまでのスナックを、全ておじゃんにする。」である。他所様から怒られたりするのだろうか。こういう誹謗中傷と捉える事も容易なフレーズを使ってしまうと。端っこに米印か*を打って、(当社比)と書いておけば文句は言われないだろうか。当社製品中で当社比くらいまで書かないといけないのだろうか。デリケート、というか、ただいたずらに炎上しやすいだけの被ターゲット層の事なぞ知らないけれど。私は放火魔には興味がないのだ。塩蔵わかめの塩抜きをした。袋を見たら3週間前に賞味期限が切れていたが、私は塩蔵の力を固く固く、それはもう強固に信じているので、躊躇なく調理した。塩は偉大なのだ。「塩の柱」とは言うけれど。一回では抜き足らず、二回の工程を要求された。塩蔵わかめ、貴様は結構な箱入り娘のようだな、塩蔵だけに。塩分がさっぱり抜けた後に、豆板醤と醤油を加えて、適当に混ぜて食べた。美味しかった。納豆かオクラみたいなネバネバしたものを入れるとさらによかっただろう。どうも作るものが酒のつまみみたいになりがちだが、いっそ酒を飲まないので意味はない。お茶と牛乳が捗る。他が坦々炒めと牛焼き肉だったので、期せずしてめちゃくちゃにしょっぱい食事になってしまったわけだが、坦々炒めのタレがきつく煮詰まっているのを見て、カップ麺も究極まで圧縮してしまえば小麦と塩分のキューブで表現できてしまうのだよな、と思った。世にはミニマリストという人々がいるらしいけれど、食事に対してもその信念を発揮する一味がいたとして、彼らはそういう「外形を捨象し、栄養のみを見た食事キューブ」みたいなアイテムについてどう思うのだろうか、と考えた。形の残った、調理を経た料理が人間の尊厳なのか否か。ここはミニマリストとは関係ないのかな。ソイレントとかあるし?

うっおぇっぱ

野ションや野グソなど、屋外で行われる排泄行為には様々あって、またそれらには付随するフェチがあるのだろうと当然のように推察するが、野ゲロはあるのだろうかと思った。野ゲロ。酔っ払いが潅木にぶち撒ける光景に、彼氏に腹パンされた女性がふと砂場に胃袋の中身を戻す眺めに、はっきりと自覚して欲望の招待を見る事はあるのだろうかと。あるだろうな。ついでに、露出狂のように、「人前でゲロする事に興奮する」嗜癖を持つ人はいるのだろうかと考えたが、いそうな気がする。露出狂なら、おおよそ局部を露出し他人に見せつけるものなのでお縄の心配がつきまとう。肘や耳を見せる事に異常に興奮するタイプの露出狂なら、見せる方も見せられる方も不幸ではない、なぜならそれらの部位は露出していても違和感がないからである。安心して露出できる。玄人にしてみれば、普通隠れている部位を曝け出すからこその露出であって、丸見えの部位を丸見えにする事は露出ではないのかもしれない。欲求の満たし方としては、公共の利益に照らして、健康的であると言えなくもない。また話が逸れた。人前でゲロ。人前でコートをはだけ隠部をオープンすればたちまち悲鳴と手錠が待っているわけだが、ゲロは迷惑なだけだ。迷惑なだけではないか。おがくずを撒いたり服に飛び散ったりといった付随する処分と実害が存在することは隠し立てしようのない事実である。それはそれとして、路頭で通行人が来るのを待ち伏せて目の前でゲロをげろげろするのは、傍目から見て「露ゲロ」とは考えづらい。ひどく酔っ払ってしんどそうと思われるだけだろう。いやいや、それ以前に、ゲロを人に見せて昂ぶる趣味の存在についてそもそも思いを巡らせないからか。日本は比較的酔っ払いに優しい国である。誰かしらが介抱してくれたりくれなかったりして、気候も夜道に倒れて寝込んでも凍死しない程度のものだ。地域にもよると思うが。ヨーロッパでは、路頭で行き倒れた酔っ払いが凍死しないよう通行人皆で軒下まで引っ張っていくそうだ。よほど重篤の酩酊でもない限り、酔いゲロには生死の濃い匂いがつきまとわない。別に酔っていなくても、気分が突然悪くなったとか、なにか腹の底から押し寄せるものがあったとか、そんなものでいいのだろう。人の目前で吐瀉物を垂れるもっともらしい口実は、全て露ゲロ趣味に洗われているはずだ。飲みサークルで介抱役を担当している女子などは、被ゲロ趣味に目覚めていそうな気がする。全て推測だけれども。

類が呼ぶものは

それひとつで味が決まる系アイテムの一つとして、『鍋キューブ』を大変推している。緑色のパッケージのやつは美味しかった覚えがある。発売直後に母が買ってきていて、その実力を知ったのだったはずだ。鍋キューブはうまい。向こう数十年のインスタント煮込み調味料ランキングベスト5から外れなさそうな程度には。この前の食料調達で、鍋キューブの系譜に連なる「入れて具材と一緒に煮込むだけで完成しますよ、簡単ですよ」系アイテムが並ぶ棚を見つけた。おおよそ、249円+税で4食分入りという価格帯で競争が展開されているらしい。大体の鍋キューブシリーズがよいのは知っていたので、気まぐれで、一番手近にあったが故に、エバラ『プチッと鍋』(坦々鍋)を買ってきた。今日初めて中身を見たが、転生に失敗したコーヒーフレッシュぐらいデカかった。ちょっと大きめの胡麻団子くらいあった。実力を見せてもらおうかと鍋に中身をぶちまけたら、容器の底にゴマ成分が全部残った。後で知ったが、使用前にはよく振らないといけなかったようだ。コーヒーフレッシュを振る習慣がないので、まさかこんな大きくない容器で攪拌の必要があるとは思わなかった。どうにか分離しないように頑張れなかったのかと不平の一つや二つでも漏らしたくなるが、問題なく排出されていったのはマーラー油の部分だったので、さすがに無理そうだ。その点、鍋キューブは全て固形にまとめる事でその類の引っ掛かりがないし、容器にほんのり残った内容物を見て「もったいない、けど取れるわけでもない」と貧乏根性を痛めつけてもこない。ビバ、固形調味料。あとは、想像以下にゴマもマーラーも感じず、なんか味がするだけの水煮に成り果てたくらいしか言う事がない。タレを作るのは上手いくせに、こっちはダメなのか。まあ、適材適所とも言うし、戦場に歯ブラシを持ってこられても困る。敵兵の味蕾をブラッシングで掃討したところで、ほとんど意味はあるまい。直腸粘膜をバリカタブラシで抉り取ればそれまた兵器とも言えなくはないが、正当な使用法ではないというのか、常識的な範囲内での使途でなければそれは考慮に値してはいけない。いや、それ以前に、歯ブラシの兵器的用法を考案するのが間違っていた? だけれど、手指の間にナイフを挟んで投擲してくる敵がいるのだから、同じように歯ブラシを挟んでぶん投げてくる敵がいてもいい気はする。デンタルキラーとか言って。投げた歯ブラシで歯を一本一本へし折ってくる敵。