他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

見た目に似ていない親戚同士

缶詰に入った鯖を食べた事があるだろうか。俗に言う、いや俗にしかそんなものはないだろうからそんな言い方をしなくても良いのだろうが、いわゆる鯖缶というやつである。なぜか水煮タイプのものがあるが、よく見るのは鯖味噌缶の方だ。どうして水煮タイプのものがあるのか分からない。字面だけで考えると、水で煮ただけなのでおよそ味なんかないはずなのだが、実際に食べた事がないので実情は分からない。軽い塩味くらいはするのかもしれない。まあとりあえず、缶詰に入った鯖のことを考えてもらいたい。缶鯖には、どういうわけだか骨がついている。ぶつ切りのまま入っているので、当たり前と言えば当たり前なのだが、背中を支えるようにズドンと貫く骨が入ったままだ。当然配慮されていて、喉に刺さって不快なんて事はなく、力を入れて噛むまでもなくほろほろと崩れていく柔らかい優しい物体である。見た目が食玩のスケルトンパーツみたいな色をしている。こんなことを言ってもピンとこないかもしれないが……。あの骨だ。魚肉本体はそれほど癖のある味ではないのだけれど、骨の方は噛み潰すと粉っぽく白んだような匂いが立ち上る。骨の部分だけピックアップしておつまみとして商品化されたならば、買ってしまうかもしれない程度には尖っている。いりこなんかとはまた異なったカルシウムの補給法として注目してもよいだろう。数日前に「さばそぼろ」というギラギラに尖った個性を讃えたご飯のおかずビンを買ってきて、今日の朝ごはんにふりかけて食べたのだけれど。鯖缶の、その骨の部分の味がした。「あっ、今アレ食べてんじゃん?」と脳が錯覚する程度に似ていた。というか終始あの部分の味と風味がした。色味は土気色に腐り果てたオタマジャクシの遺骸にしか見えないのだが、味はよかった。噛めば噛むほどじわぁ、じわぁと滋味が染み出してくるタイプのスロースターターで、チーズと混ぜて焼き上げたりすると美味しいだろうなと思った。お雑煮に少し入れるのでも、魚介感がものすごく強いから合うかもしれない。そんな味だった。マクドナルドのチキンナゲットについてくる新しいソース2種のうち、ステーキの方は「ナゲットじゃなくて肉にこれ付けて食べたい」と思うような味で、エビの方はえび満月とか、あの辺のえび系お菓子の味がした。もうそれしかしなかったと言っても良い。口の中で駄菓子と肉が混在していた。まさかの東急ハンズで着る毛布っぽいのを見つけたが、結局はんてんを買った。5千円くらいした。でも暖房をつけなくても大丈夫なくらいに暖かくはなった。よしとする。

空飛んで飯食って糞して寝る絨毯

文体をどのように評価するかについて、その人の肉声を知らなければ、もっと言えばその人がどう喋るのかを知らなければ正確な評価は下せないのではないか。本屋にあったナンシー関のムックを手に取り、初めに載っていた本人のエッセイを読んでみた。ものすごく違和感があった。スポーツ新聞のコラムは、もう、口をどれだけ汚くしても表現できないほどにアレなのだが(言わない)、これはものすごく口語的で、志向が発話を指していて、頭の中でナンシー関の音声が、頭の中にあるナンシー関ボーカロイドがこの文章を読み上げてくれるほどの環境を構築できている人でなければ、これをつっかえる事なしに、あるいはナイフとフォークで食べやすく切り分ける事なしに飲み下すのは本当に難しいだろうなと思った。そう、きっと、ああいうのを肉声と言うのだ。字面で読まれる事を意識した上での口語体というのもあるが、それとはおそらく違うものだ。たまに異質なものをぺらぺらめくってみなければならない。暖房をつけても切った瞬間から冷気が忍び寄り元の木阿弥と化して再び暖房を起動するという不毛なサイクルを繰り返す事に嫌気が差したので、これはもうお金をかけていいところだろうと思い着る毛布を探す旅に出かけた。と言っても、それらしいアイテムを売っていそうなところについての想像力が貧困なので、ニトリユニクロに行って挫折した。そのどちらにもなかった。毛布を探す旅が不毛に終わった。くそう。アマゾンを見てみれば、まあ確かにいっぱい色んなアイテムがあるし、そこでよさそうなものをポチッとなすればいいのではないかと一瞬考えたくもなるのだが、着る毛布は「着る」という点がそれはもうこの上なく大事なのであって、要するに部屋着である。袖が余って邪魔にならないか、丈はどれくらいで過不足ないか、材質は、実際に来た時のあったかさは……。ナマで着用しなければ分からないそういう細かい所がどうしようもなく気になり、一度服を買うと向こう5年くらいは平気で使い続ける物持ちの良さが「良いものを買えよ、高くなくても良いから、心のどこかで違和感を抱いてひっかからないような、仔細でお前の納得がいくものを選べ」と囁いてくる。袖が余れば、机に手を乗せるたびに「ここの布地がもう少し絞られていればなあ」と考えて、丈が長過ぎれば「もう少し短かったらいちいち引っかからずに動きまわれるんだけどなあ」と考える。多層的なQOLが、一つの買い物に懸かっている。

土気色に干からびたオタマジャクシに見える

「ご飯のおかずを10個挙げなさい」と言われると最初は面食らうに違いないが、一過性の思考麻痺が沈静した後にはぽつぽつと頭の中に候補(回答)が出現してくるに違いない。納豆があり、ふりかけがあり、海苔があり、目玉焼きがあり、塩鮭があり……。色々発想できて面白いかもしれないのだが、この間スーパーで「ご飯のお供」棚を見ていた。味噌や醤油、米の売り場と近接しており、人手が他と比べて恐ろしく少ない場所である。最寄りのスーパーにおいて、最も夕張市に近い状況にあるエリアである。ラックにかかっている米虫除け唐辛子アイテムなど、現代においてどれだけの価値を持つのだろう。そもそも、米櫃という物体自体が、役割を果たす機会がどれだけ発生しうるのか。もしあるとして、その上で米虫がとぉっても嫌だからこれを入れとこう、みたいな感覚まで至る人は、どれだけいるのだろうか。タンスに入れておく虫除けもそうだが、ああいった「パッケージから既に経年を感じてしまうもの」について、これからの行く末がいつも気になっている。これからも細々とニッチを満たし続けて生き長らえていくのか、そのニッチが多数派の間で大陸プレートの間に挟まれたスーパーボールのようにぷちっと潰れていなくなるのか。プラスチックのガワの中に、おもちゃみたいなお餅が入っている鏡餅がいつか正月を席巻し、本物の鏡餅は肩身狭くうっすらと命脈を灯していくだけになるのではないか。かつての姿がちらつくと、今の姿がどうしても同じ土俵に上がってきて、頭の中で一方的に小突き始める。おい、おい。なすがままにされるしかないかつての姿は(なぜならかつての姿なのだから)、目に涙を湛えたまま、身体を不自然に強張らせたまま、ぷるぷる震えている。感情が閾値を超えると爆発する機構がこの世には存在しないので、ただ溢れていくそのなみなみと垂れる雫が目の前の飯を湿らせる事を甘受しながら今日の糧を食うしかない。さっきもいできたばかりの実でさえ、雫の澱ものでたちどころに傷んでいく。もう、体内に蓄積された過ぎ去りしものを栄養として消費しつつ、壊れた腹から出ていくばかりの水分を見送るしかないのだ。言いたかった事からものすごい脱線をしてしまったが、ご飯のおかずコーナーで、たらこや鮭フレークに混じって、「さばそぼろ」なるアイテムを見つけた、という報告をしたかったのだ。さばなので、ものすごく色が汚い。えっ、もう傷んでるんじゃないですか、と戸惑う。他に比べて全く手に取られた形跡がなかったので、実食後、こいつの実態をここに書きたい。予想より上、かもしれない。

いいかい、これが膾炙だよ

朝の8時に家を出て20時過ぎに帰宅するというかなりエクストリームなスケジュールで一日、いや丸半日お外にいた。グラブルフェス2018にいた。多分公式が撮っている記録のどこかにうっすらと私みたいな存在の影がぼやっと伺えると思う。まさか入場まで3時間もかかるとは思わなかったが、そしてその後地獄の物販待機列耐久レースがあったが、真顔で楽しかったと言わせて欲しい。笑うのは苦手なのである。意識的に笑うのが苦手なのであって、私が好んでいる「そこまで上下関係に厳しくない年上に少々失礼な恐れがある程度で雑談を吹っかける」という行為の最中は、自分が現在進行形で何をしているのかよく分かっておらず、頭の中が真っ白だ。思考回路が焼け付きながら無駄話をミルフィーユにして積み上げている。現実味というか、生活感というか、地に足が付いた中身を記録しておく事があまりないけれども、今日はまあ、12時間も費やしたわけだし、紙幅を割くに値すると考えての事である。待機列で直前にいる二人組が、アルバハHL風パマンと光パゴリゴリマンのコンビであり、後ろで粛々と二人の雑談を聞いていた私は、お空は広いなあとずっと思っていた。来場者をざっと概観するに、確かに年齢層はかなり若い方(20代前半に集約すると思われる)が多かったが、驚くなかれ、老若男女ってこういう事を言うんだなという散らばり方ではあった。広い範囲に訴求するコンテンツっていいな〜と考えながら、腰痛えな〜が頭の中に弾幕を張っている。こんなにここに人がいて、私が並んだその後ろにもまだ人がいて、私の遥か前に入場した人がいて、こんなにいっぱいいるのに、こんなにいっぱいの人にチケットが出たのに、それでもチケットを取れなかった人がいるのかと、(アクティブ数は知らないが)2300万人を要するゲームの物量・数量の重さ広さ多さその他諸々をびしびしと感じた。暇潰しのために持って行った本には、指が掠る事さえしなかった。たまに無為な待機を強制されると自覚し直す事ではあるが、虚空をただ一心に無心に見つめて事態が飛び去るのを待つ事ができるというのも、それもまた一つの才能なのかもしれないとは考えず、ただどこかにある時計の針が進むのを待っていた。すごい人だった。メインホールに入るとそうでもなかったが、ホールを3つぶち抜いていて単純にデカかっただけかもしれない。ククルお姉ちゃんの新規書き下ろし絵を見られただけで、もう相当に本当に満足だ。ククルお姉ちゃん……。

カップのおしるこは美味しいのかどうか

「フライドチキン好き?」と訊かれると「えっ、味付け海苔美味しくないですか?」と答えるみたいなズレを感じていた。何に対して、どう、とかは分からないのだけれど、そんなものを。味付け海苔の袋についているチャック、あんなもので湿気を防げると思ったら大間違いよ! 勘違いも甚だしいわ! と思っていたのは今は昔で、クリップみたいな物で止めていると一日にしてしなしなになるのだが、チャックだと数日、一週間程度は平気でそれなりのパリパリを保っている。伊達に色んな製品に採用されていないらしいな、と偉そうに考えた。昨日食べた菓子パンの話をしたい。『大きなハム&ナポリタン』(ヤマザキ)という、もう商品名を見た瞬間から頭が悪そうだなと直感してしまう、なかなかない組み合わせである。そう思ってしまうのは、パッケージの頭が悪そうなダイレクトさ、インパクト重視の配色などからだと推察されるので、暇だったら後で画像検索でもしてほしい。菓子パンの包装デザインってこうよね、と茶飲み話の題材にしてしまいたいほどに菓子パンの包装である。よくよく考えたら、ナポリタンには細切のハムが入っている事も少なくないのではないかと思い当たるが、そこは各人のこれまで生きてきたナポリタン経験値に依存するのでここでは置いておく。私のナポリタン経験値の主な摂取先は小学校の給食なので、あてにはできないだろうから。とりあえず、百円ちょっとの菓子パンは「大きな」「でっかい」「ダブル」「ビッグ」みたいな言葉を商品名に入れたがる。実際はそうではなくても、それっぽく見える聞こえるだけの言葉であれば、別に実態乖離詐欺にはならないからである。買ってから気が付いたのだが、このハムナポ、なんとドーナツ生地で構築されていた。安い菓子パンのドーナツ生地がいかなるものか、すぐに想像つくだろうか? 大した事ない油と、大した事ない生地の情けなさが重厚な相乗効果を生み、要するに、すごく体に悪そうな味がする。ドーナツ生地だと気が付いていれば、絶対に買わなかった。ハムとナポリタンを前面に押し出してくるその理解できない感性に引っ張られるので精一杯になってしまった。なお、実際の味については、今まで述べたところから推して察していただきたい。予想を裏切ってアタリのパンだったとか、そういうのは全くなかった。普通に、安い菓子パンだった。全体の20%程度しかフィリングがなくて、味のないドーナツ生地をもそもそするだけの空っぽな時間を味わった。

旅する子がみんな可愛いわけじゃない

朝、ごはんですよの唐がらしバージョンを食べた。ごはんですよの系列であり家計に連なり、どう頑張ってもそんなに辛くない、せいぜい「ん? 今、辛味が通りがかったかな?」程度の味しかしないと思っていた。先入観とは怖いものである。めちゃくちゃ唐がらしだった。一口目二口目くらいは、海苔海苔した味しかせず、口の中にぽいぽい放り込んでいたのだが、やがて口の中がじんわりと熱さを持ってくる。あっ、と気づいた瞬間には時すでに遅し、味覚の大半が辛味に支配され、辛いものが苦手な人間は「早く食べて終わらせなければ」との本能からの駆り立てに従容とするだけの作業になる。最近豆板醤的な辛さにばかり親しんでいたものだから、世の中には別の種類の辛味が存在することをすっかり忘れていた。その名を、一味唐辛子の辛味。子供の頃加減が分からず気の赴くままにかけまくり、一瞬遅れてやってくる刺突のような辛さに悶絶した。あれだ。唐がらしは唐がらしでも、一味の方だったのだ。ごはんですよ桃屋だからどうせ、甘いんでしょどうせ、と甘く見た私が間違いだったのだ。これは、残る柚子コショウの方も見くびってかかると酷い目に合いそうである。柚子コショウも、加減を誤ると必要以上に刺激的になる取り扱いの難しい一品だ。こうも落差というか隔絶があると、ギャップに期待してしまう。一体次はどんな斜め上を見せてくれるのだろう? ともかく、一度開栓してしまったので、しばらくは朝にヒイコラ言いながら唐がらしごはんですよごはんですよしなければいけない。さっきいたスーパーで、生鮮売り場横の従業員通用口みたいなところへ、ショッピングカートを押したおばあちゃんがスーッと入って行った。どう見ても一般人であり、従業員や関係者のようには見えなかったのだが、店員もドアを抑えて迎え入れていたようだし、ひょっとすると実はもりもりの関係者だったのかもしれない。一体誰が何だったのか、近くで張って結末を視認しておけばよかった。部屋で呼吸をすると、呼気が白く立ち上る。空調無しの状態では、そこまで部屋の中が寒いという事になる。2、3日前から、「いや、今までも兆しあったし、いうて12月だし、いきなり本気出してもだいじょぶっしょ」くらいの軽いノリで冬らしく厳つめらしく寒くなってきたが、今からマフラーを巻いているわけにはいかない。これから年末と1月2月が先に控えているのだ。焦って塹壕から飛び出した者から死んでいく、残念ながらそれが戦場だ。

松竹梅という選択肢を知らなければ花見だけでいいのに

袋に入った長ネギを取り出す時、ネギの緑色の方を天、白い根っこの方を地とした場合、大抵の場合天の口が開いているので、袋を逆さに持って、緑色の頭の先っちょを握り、ネギの表皮が湛える独特な質感でビニルが引っかからないよう、そろそろと引き抜いていく。すぽっ、と根っこの方まで抜ければ仕事完了だ。冬なのでネギが安いと言えば安く(西友は変わらない。どうなっているのか分からないが)、鍋は具材を切り味のつく何かを入れるだけで済む頭を使わなくて良い料理なので必需品、欠かせないオトモと貸しているのだが、ネギを包装から取り出すこの作業をするたびに、「今、なんか、伝説の勇者の剣を引き抜くみたいになっててかっこいいのかな……?」と考えてしまう。傍目から見れば、上体を変に傾斜させた人間がネギをなるたけスムーズに引き抜こうとしているだけなのだから、かっこよくもなんともない。なんなら、引き抜くのがネギであるという時点でかっこよさの担保は存在しない。よほどのアニメーション的表現を用いたハッタリでねぶたしないと、厨房のいちシーンでしかない。夏の一月間、お手伝いをしていたのだけれど、今になってそのお賃金が入り、口座に20万円弱増えた。わあい。お金がいっぱい、と一瞬思ったが、これだけあっても2ヶ月しか暮らせないし、人によっては1ヶ月も暮らせないだろう。ともかく、日銭というには多すぎる、忘れていた労働対価分が支払われた。どうせどんな使い方をしても、ほんの一瞬心が満たされるだけで、使った事も何に使ったのかもするりと忘れてしまうので、こんな金をドブにつながるコンベアに乗せて喜ぶような真似ではなくて、誰かが私より長く喜んでいられるようなものにお金を費やした方がいいんじゃないかと思い、任天堂Switchの値段を調べたら、本体ハードだけで3万円を軽く凌駕していて「あっ……」と萎縮した。もう、ああ、高いな、と思った。私より誰かを幸せにしようじゃない、みたいな思いが急速に萎んで、どっかの海に飛んで行って、多分夢の残滓を食べるカメの喉を詰まらせるのだと思う。こんなに高かったんだ。うわあ。クリスマスプレゼントで子供にねだられた親の8割くらいは「うわあ……」と思うに違いないし、思って欲しいと私の賎民根性が嘆願している。そしてソフト自体も6千円程度するようである。もう、なんというのか、最先端の娯楽にお金を費やすぞ、強い意志がないと楽しくないんだなと思った。お金はやっぱり、どんなにあってもいっぱいとは言えない。

ごはん……なん、ですか?

直近の食材買い出しにおいて、なかなかインパクトのある商品を見つけたので、ついつい買い求めてしまった。それらすなわち、桃屋の『ごはんですよ!』の「柚子こしょうのり」「唐がらしのり」という、まさかのバリエーションが存在していたからである。売り場のポップを信じるならば、「唐がらしのり」の方は新発売らしく、それはつまり、私が知らない間に「柚子こしょうのり」が市場に送り出されていたという事に他ならない。ならないのである。今まで生きてきて、「『ごはんですよ!』に味のバリエーションがあったらなぁ……」と思った瞬間は、正直言って一度もない。豚骨ラーメンが豚骨の味がするように、ナポリタンがナポリタンの味がするように、板チョコが準チョコレートの味がするように、ごはんですよごはんですよの味だと思っていた。他に伸び代を見出す余地を、はなから存在しないものとして見ていた。ガンダムのように派生していくものではなく、「薬缶」と書いた時のヤカンのように、それと言えばあれ、という強固で密接な一対一関係を築き続けるものだと思っていたのだ。そこに、まさかの「柚子こしょう」と「唐がらし」である。困惑しないわけがない。「あのなマサル、父さんと母さん、マサルに言わなきゃいけない事があるんだ……」と言われて、まさかの「実は、マサルにおじいちゃんができる」と続いたような、「?????」の感覚に近い。山口だか岡山だかに錦帯橋という観光スポットがあって、百種類以上に登る頭のおかしいフレーバーを取り揃えたイロモノソフトクリーム屋があるのだが(今もあるかどうかは知らない)、あそこの「生にんにく」に匹敵するパワーがある。一応、パッケージにはごはんですよシリーズの血脈を継ぐものだとは書かれていないのだけれど、パッケージの感じからして、そして桃屋が発売しているおかずのりであるという点からして、今まで散々刷り込まれてきた企業イメージから直ちに脱却できるというものでは全くない。「これは本編とは関係ないので、自由に楽しんでください〜」と言われたスピンオフに、めちゃくちゃ有名な本編が嫌でも影を落とすのにとても似ている。どの作品とは言わないが、まあいくつか思いつくものはあるだろう。ある有名な哲学者が、「西洋哲学は全てプラトンの注釈である」と言ったのに近いと言えば近いだろう。その向こうにどうしたって影響が透けて見えるもの、これを念押ししていくのが広告なのだろう。つまり、ごはんですよとはプラトンなのだ。

狭あい器

先日、お家のすぐそばで道路工事をしていたのだけれど、その通知看板に「狭あい道路拡張工事を行なっています」と書かれてあった。「狭あい」? 「せまあい」道路って、大の大人が使う言葉だろうか、と思った。狭あい道路を拡張していますとは、自動車で遊んでいる子供も言わないだろう。そもそも車が通れないほど狭い道路を想定しなさそうな気がするが、しかしその際には「せまい」と言うはずで、「せまあい」とおかしなところを長音にしたりはしないと思う。せまあい、ってなんなんだ? とその後2日間くらい考えていたのだが、あれは恐らくしなくても「狭隘道路」を工事していたのだろうと思い当たった。「狭隘」と読む。「隘路」という言葉があるので(英語ではdefileという。役に立たないだろうが、知っておいて脳みそのメモリを無駄遣いするにはうってつけだろう)、疑いの余地はない。それにしても、狭い道路を広くしていますと分かりやすく言うのではなく、狭隘道路を拡張していますとの言を採用したのは、一体どんな動機があってのことなのだろう。ずっと不思議で仕方がない。その辺の事情に詳しい人がいたら教えて欲しい。電車のホームで、この言い方はおかしくて「駅のホームで」が多分まともなのだが、電車のホームと言ってしまっても通じてしまう、ぽけーっと電車を待っていたら、こちら側とあちら側、両方のアナウンスが一斉に流れ始めて、『お待たせいたしました、○○番線に△△行きが参ります』が重複し、何番線に何処行きの電車が滑り込んでくるのかさっぱり分からなかった。あんまりこういう事は駅で経験したことがなくて、滅多に起こらないようになっているのではないかと思うのだが、滅多にない方に遭遇した。2車線しかないので迷いようがないのは確かだが、一応こんな事態もあるのだな、と。道を歩いていく結い髪の女性、その結び目の根元に、ジェットストリームが突き刺さっていた。あの、スラスラ書ける事で一部に熱狂的なファンを抱えているシャーペン界のクルトガ的存在、ジェットストリームが、後ろでお団子にまとめられた髪の根元にぐっさー、と刺さっていたのだ。我が目を疑い、後ろ姿を4度5度と眺めたが、どう見ても、どう贔屓目に見ようと頑張っても、ジェットストリーム(黒インキ)だった。編み物をする時の木の棒みたいなのを装飾として挿している人は見たことがあるが、それにしてもボールペンとは……。競馬場にいるおじさんが、耳に鉛筆を掛けているのと同じようなものなのだろうか。

zzzの真意

昼前まで寝ていた。体力が保たなかったからである。7時に目覚ましが鳴り、朝の光が窓から差し込むのをうっすら視認し、「あ〜無理無理、これは無理だわもっと寝ないといけませんね本当に」と生存本能管理司令部からコメントが届いたので、ずるずるする鼻をかみたいなかもうかな呼吸が苦しいなマスク……と色々考えている間にまた眠って、起きようとしたら11時になっていた。体調を崩すのには慣れていないため、実にまったき慣れていないため、普段のように適当に生活するのにもそれなりのまともなエネルギーが必要だったんだなとしたくなかった発見をする事になっている。喉の痛みだとかはこのぐうたら寝(病気(びょうけ)があるのだから堪忍してほしいものだが)によりほぼ完治したが、鼻炎だけはどうしようもなく治癒せず、一日中不断で休む間も無くずるずるずるずるだばだばだばだばしている。目視によると、ボックスティッシュ一箱分の半分以上が今日だけで費やされた。ゴミ箱がパンパンになったので、さきほど中のビニールを取り替えたのだが、横から内容量の割合を計測してみると、半分以上が圧縮されたティッシュだった。第一回に罹患した蓄膿症の症状に極めて近く、「あ〜そうそう、アレの時に鼻をかむとこんな(ピー)なものが排出されるんでした」とあまり気持ちのよくない思い出を喚起される事になっている。蓄膿症は、かかると分かるが、そして多分一生分からない方が精神衛生上幾分か良い事だとは思うけれども、その時にしか出会わないものすごい鼻腔内の産出物を否が応でも目にする事になる。疾病中はひっきりなしに、それはもう本当に糸目をつけず切れ目なしに本流が押し寄せ、頭部頭蓋骨のある空洞で生産された膿とか膿がだーだー襲撃してくるので、ティッシュを一瞬でも手放すとその瞬間にジ・エンドとなる。肌身離さず、ボックスで持ち歩く事を推奨したい。一瞬でなくなるから。また、あの病気の最中は、鼻水や頭痛を止めようと頑張る薬も処方されるのだが、それと同時に渡されるのが「鼻の下に塗る薬」である。「はぁ?」と思うかもしれないが、蓄膿完治まで数え切れないほど鼻をかむ事になり、そして度重なる「ちーん」は、鼻の下に皮膚炎を引き起こすのである。マジである。今もあの時と同じようにヒリヒリしている。人間の身体とはかくも有機的にできているものかと今なら振り返れるが、あの時はどう思っていたのか、ずっと頭がぼーっとして何も考えられていなかったため覚えていない。治れ。

思った以上に何もない場所へ

今日一日の体調推移を見て、これはもう間違いなく風邪にやられたなと確信した。鼻水が止まらず、喉は引っかかった感じがして、頭が動かない。日程を一週間先取りして誤るという渾身のミスをフルスイングで犯してしまい、徒労と終わった約3時間にも及ぶ行軍が、悪化というか、身体機能の鈍化をもたらした。朝出て、昼帰ってきて、4時間くらい寝ていた。布団でである。布団で寝ないと、正規の睡眠を享受しなければ、これはもう身体が保たない、やって行く事ができないと判断してのことであった。夕方には、なんと暖房まで起動した。これは異常事態である。リモコンを向けてポチポチしても一向に電源が入らないので、これはどうした事だと訝しむと、そういえば炊飯器のタップが足りなかったので、エアコンのコンセントを引っこ抜いていたのだと思い出す。この家に引っ越してきてから初めての起動であり、10分くらいもぞもぞしてからやっと空気を吐き出し始めた。鼻水がすごい。一日にして、いや半日もしないうちにゴミ箱がカリフラワーみたいになった。身体が動かなくなるとかではなく、私の風邪は鼻にモロにダイレクトに襲撃してくるタイプのもののようである。誰だ風邪を感染(うつ)したのは。鼻水出る事風(風邪)の如しであるぞ。出会え、出会え。ボックスティッシュが早くも半分ほどなくなってしまった。一日中マスクをつけていた。マスクの中で呼吸をしていると、今自分が吸い吐きしている空気がものすごくパーソナルスペースな感じがして、秘め事をしている感覚がすごい。呆けた頭では、それ以上何も考えられない。新しい靴をおろした。おニューである。前も言ったが、おろすもおニューも完全なる死語だと思われる。ものすごく歩きやすく、なるほどコンバースは底面のゴム全体がもうくたびれて足裏に反発を与えなかったから云々、みたいな感想を抱いた。朝の時点で寒かったので、昨晩のうちに引っ越し荷物の中からえっちらおっちら外套を、内部ファーパーカーを引きずり出しておいた。すごくあったかい、むしろ暑いと思った。冬の夜、毛布と布団の2枚を身体に乗せて眠っていると、暑いと思う。足だけ外に出したりする。ちょうどいい感じにはなかなかならない。窓を開けて部屋の換気をしているが、これはこれで室温が下がって寒くて身体に響くので早めに終わらせたい。晩御飯はちゃんと食べた。薬に頼らず、とりあえず今晩寝て明日ぴんぴんしていればいいな。していなければ困る。

マスクの下に顔面下部は本当に存在するのか?

完全に扁桃腺をやられて、喉の奥というか鼻の奥が腫れてつっかえた感じが一日中続いた。不快感が継続して常駐すると、それはもう不快感ではなくてただの不快である。蓄膿症になると頭はぼーっとするし常に鼻水らしき何かしらが鼻腔の中を席巻しているのだが、それに近い状態となっていた。扁桃腺と書いたが、厳密に扁桃腺がどこなのかさっぱり知らない。喉の奥の方、口蓋の奥上方というくらいしか認識していない。しかもそれは痛みを覚える部位であって、もしかすると扁桃腺そのものでさえないかもしれない。ともすると猫を犬と呼ぶに等しい誤りを犯している可能性があるが、にゃんにゃんをわんわんと呼んで許されるのはちびっこだけである。今の放送コードというか言語倫理コードに照らしてみると、ちびっこというワードもなかなか際どいラインに立っているというか立たされているんじゃないかと思うが、この不安は杞憂なのか、ちびっこワクワク探検ランド的な施設、イベント、アドベンチャーを探すのに苦労はしないので、ちびっこは別にいいという仕分けになったのだと推測される。ちびっこの対義語は、無理矢理ひねり出せば「でかっこ」とかになるのだろうか。年少年中年長という区分が保育園には存在するのだが(幼稚園は知らない)、上から順に振り分けていけば「でかっこ」「ちびっこ」「みにっこ」のような順番になるだろうか。この試行には、おそらく何の意味も含まれていないので、英語でよく言われるところの"many have spent much ink on this issue"みたいなものだと思っていただければよろしい。人間の時間もインクもおよそ有限ではあるが、しかして、どうして世界にクレープやゲーセンが存在するのか、という事について考えてももらいたい。夕方に、どうしても鼻をかまなければこれはもうどうしようもないぞ大変だ大変だという状態に陥った瞬間があり、不幸にも出先であったため、カバンの底を漁る羽目になった。カバン内スペースのポケットにしっかり収納しておいたはずだったのだが、初期にそこからこぼれカバン底面で荷物にぐちゃぐちゃにされてくたくたになってはいたが、そこには確かにティッシュペーパーたちが存在していた。いざ使う段にならないと、そこで虐げられているティッシュたちの存在には思い当たらないものである。そのうち、見覚えのないポケットティッシュ(使いかけ)が出てきた。見た瞬間に思い出したのだが、どこかに落ちていたポケットティッシュをそのまま拾って入れておいたのだった。中古のエロ漫画を読んでいる時と同じような、「願わくば『そう』であってほしくないなぁ」と思いながら鼻をかんだ。

まっとうな豆板醤は小さじ1で十分なので全然減らない

昨日はすっかり忘れていた。心身がそろそろバランスを崩しそうであるなこれは気をつけなければいけないよというアラートが鳴り始めたのが今朝で、朝ご飯を食べながら「あ、忘れてた」と思い出した。ものすごく綺麗に、一日の義務を受け止める頭の中の天網が恢恢ではなく、疎で漏らしていた。素で漏らしていた。うっかり、とか生半可なものではなく、財布をなくして一ヶ月生活し続けてしまえるような、その程度まで高まった失念と言っても良い。ただにひたすらに、デジタルで判別した時に、それに向けられた意識がゼロだったのである。たった一日書き忘れただけで大分指の動く速度が違うので、中学の先生が言っていた「勉強を一日する事を一日にひとつ米粒を加えていく事に例えてみると、長い目で見た時に、毎日勉強した人と土壇場でしか勉強しない人、どちらの最終結果がどうなのか、すぐに分かるだろう」なる訓話を嫌でも思い出すし、この話はなんとなく、よく分からないが覚えている。これが「電卓に『1+1』の式を入力して、一日に一回、『=』のキーを押す事にする。これを毎日やった人と、杜撰にやった人とでは、何年も後になると、画面に表示されている自然数の数は全く異なるだろう」という話だったら、記憶に残っていないはずなのだ。変な、そこまでしなくてもいい例えなので、それはそれで覚えているかもしれない。ただ、後々まで持つ意味の重さ、色合い、その他諸々がちょっと違うのだろう。つまり、一日にいちを足すか足さないかが意外と大きな結果の変動につながるという話であり、こう考えてみると一円を笑っている場合でもないかもしれないと思い、そしてそういえばさっきスーパーのレジで財布を開いたら札がなくて、危うくレジを無銭で通過してしまうところであった。こういう時にカードとは便利なもので、普段は「なんか嫌だから」と言って全く使っていないのだが、九死に一生を得るとでもいうのか、まるで蜘蛛の糸のように財布の中に存在していた。厳密には財布の中には数万円に上る紙幣が入ってはいるのだが、これは私の金ではなく迂闊に使ってよいものでは全くこれっぽっちもないため、ただの気休めにしかならなかった。人生でわずか数度目、数える程の回数しか「カードで」と言った事がない。昼に「カードで」と交通系ICカードで払おうとしたら、店員との間に齟齬が生まれ、微妙な空気になった。いつもは千円札2枚をとりあえずトレイに載せ、小銭をちまちまひっくり返すのだが、カードだと「スッ」とリーダーを通すだけで、2秒で終わった。リーダーが現金を持たない傾向にあるらしいと喧伝されているのは、「ちまちました事にかかずらわない」、つまり心に余裕がある、という事なのかもしれないと思った。

あれは仲介役だったのか主役だったのか

渋谷の方に呼び出されたので、早めに到着して千里眼に行った。私の中では、老化=食が細くなるというひとつの定式があるため、身体にはあんまりよくないとは思いつつも機会を見つけては胃袋の調子を確かめる事にしている。セルフチェックというやつである。最後に行ったのはいつか忘れたが、豚が美味しい記憶が残っていたので、豚を一枚追加した。初めての経験である。細かく指定するのは面倒なので、いつも「全部」と返答する。が、声が通らないため、毎回聞き返される。これとあれとそれ、と言葉数多く言い直すのが面倒なため、三文字で済む経済策を採っているのだ。かつてよりも汁がこぼれた。ズボンがとても汚れた。美味しいなどの感想に脳味噌が至る前に、意識が「完食せよ」との指令を送ってくるだけになった。生にんにくの強烈さを思い出す。無修正である。もう無理かもしれないを箸で押し流し、汗を垂らしながら食べ終えた。今日は暖かい日だったのだ。上衣を脱いで歩くと気持ちのよい温度で、風に吹かれてバラバラと落ち葉が散りゆくのが午後の光の中でよく見えた。いてもいなくてもよかった用事に付き合い、報酬で他の要員と焼鳥を食べた。すごく偏向した話題ばかり取り上げていた。私以外の誰も、サーティワンのポッピングシャワーというアイスを知らなかったので、存在証明のためにサーティワン店舗に行こうとした。23時前なのに、もう閉まっていた。ラーメン屋みたいに、スープがなくなったら、アイスがなくなったら終わりなのだろうかと思った。甘味が欲しくて、タピオカドリンクを探して、専門店が無情にも営業終了しており、結局ウェンディーズで買った。今まで、見た目重視だろ、と馬鹿にしていたが、タピオカ粒にも甘さがついていて美味しかった。実体験に勝るものはないな、と考え直さざるをえなかった。タピオカごめん。タピオカドリンクを一緒に買った誰もインスタグラムをやっていなかった。私は心のアルバムという機能が存在すると思い込む事にしている。本当に強烈な瞬間だけは、やけに記憶に残るものだ。旋盤でベニヤ板を押し切っている最中に、ものすごい音を立てて糸ノコの歯が変形して折れる時とか。無表情で、しかし心中では「タピオカ美味しいな……今まで軽んじていて本当にごめんな……」と観想しながら駅の方へ歩いていると、改札前で、下心というのか、「卑」の漢字を抽出したような表情を浮かべた男性が、道ゆく女性に「お姉さん、パパ活に興味ない?」と手当たり次第(ターゲットは多少絞っているであろうが)声をかけていた。都会ってすごいなと思った。

解毒剤を用意してから服毒しなければ頓死する

爽を食べたらめちゃくちゃ寒い。冬にアイスを食べる際には、こたつというアイテムを添えなければ食後の冷感でしんどくなるという事が、最近食後にアイスを食べてみる事で分かってきている。別にそんな事をしなくてもいいのだが、「なんか、こう、特に理由はないけど〇〇がしたい」という動機生成システムの〇〇に「食後アイスを食べる」がハマったので、やってみている。結論としては、本当に寒いので、手近に暖房機器がない場合にはアイスを食べない方がよろしいという結果になりそうである。あったかいファミレスの店内でパフェを食べる方が、事後のヘルスケアが簡単なのでおすすめできる。ファミレスは一年に一回行くか行かないかで語る事ができる非常に縁遠い場所なのだが、ドリンクバーの隅っこ、コーヒーサーバーの横で陰になっている正体不明の紅茶バッグコーナー、あそこは一体どんな誰がどんなふうに利用するのだろう、というくらいに地味で人足が途絶えている。ジュースやお茶を差し置いて、わざわざバッグの包装をかっさばいて、お湯を入れて数分待つという行為を強要する飲み物に内在するシステムがその大きな原因なのかもしれないけれど、円グラフで統計の結果を描画した時に、「その他0.2%」と表現されてしまう哀愁を、あの一角に勝手に感じている。最後にファミレスに行ったのは2年くらい前なので、今は随分と様変わりしているかもしれないし、頭の中にあるサンプルが田舎にあるガストと地下店舗のこぢんまりしたサイゼリヤだけなので、大きい店舗に行けばもっと違った様相で楽しませてくれるのかもしれない。ドリンクバーなるオプションを頼むと、「普段飲まない液体を飲んでおくか、なんか勿体無いし」の精神で、メロンソーダをコップ一杯飲んで、やっぱり炭酸もジュースもしんどいからお茶に行こうと結局お茶に落ち着くので、それならドリンクバーはいらなくてお冷でいいやとなる。あれは源泉へのアクセス権が認められるだけであって、こちらが源泉でどれくらいの水を必要としているのかは関係ない。大体のサーバーにはメジャーでない烏龍茶が入っていたような記憶があるが、たまにそうでないものもある。お〜いと呼格を有するお茶が入っていたり、方向性が逆に行って何だこれは初めて見たぞというようなお茶が装填されていたりもする。その場を逃すと一生目にしないようなマイナーメーカーのドリンクは、路地裏のほっそい道にめりこむようにして設置されている寂れた自販機の中に入っていたりする。