他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

空飛んで飯食って糞して寝る絨毯

文体をどのように評価するかについて、その人の肉声を知らなければ、もっと言えばその人がどう喋るのかを知らなければ正確な評価は下せないのではないか。本屋にあったナンシー関のムックを手に取り、初めに載っていた本人のエッセイを読んでみた。ものすごく違和感があった。スポーツ新聞のコラムは、もう、口をどれだけ汚くしても表現できないほどにアレなのだが(言わない)、これはものすごく口語的で、志向が発話を指していて、頭の中でナンシー関の音声が、頭の中にあるナンシー関ボーカロイドがこの文章を読み上げてくれるほどの環境を構築できている人でなければ、これをつっかえる事なしに、あるいはナイフとフォークで食べやすく切り分ける事なしに飲み下すのは本当に難しいだろうなと思った。そう、きっと、ああいうのを肉声と言うのだ。字面で読まれる事を意識した上での口語体というのもあるが、それとはおそらく違うものだ。たまに異質なものをぺらぺらめくってみなければならない。暖房をつけても切った瞬間から冷気が忍び寄り元の木阿弥と化して再び暖房を起動するという不毛なサイクルを繰り返す事に嫌気が差したので、これはもうお金をかけていいところだろうと思い着る毛布を探す旅に出かけた。と言っても、それらしいアイテムを売っていそうなところについての想像力が貧困なので、ニトリユニクロに行って挫折した。そのどちらにもなかった。毛布を探す旅が不毛に終わった。くそう。アマゾンを見てみれば、まあ確かにいっぱい色んなアイテムがあるし、そこでよさそうなものをポチッとなすればいいのではないかと一瞬考えたくもなるのだが、着る毛布は「着る」という点がそれはもうこの上なく大事なのであって、要するに部屋着である。袖が余って邪魔にならないか、丈はどれくらいで過不足ないか、材質は、実際に来た時のあったかさは……。ナマで着用しなければ分からないそういう細かい所がどうしようもなく気になり、一度服を買うと向こう5年くらいは平気で使い続ける物持ちの良さが「良いものを買えよ、高くなくても良いから、心のどこかで違和感を抱いてひっかからないような、仔細でお前の納得がいくものを選べ」と囁いてくる。袖が余れば、机に手を乗せるたびに「ここの布地がもう少し絞られていればなあ」と考えて、丈が長過ぎれば「もう少し短かったらいちいち引っかからずに動きまわれるんだけどなあ」と考える。多層的なQOLが、一つの買い物に懸かっている。