他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ジャーマンポテトごっこ

前にもどこかで言ったような覚えがあるが、自瀆とは物凄い表現である。自分を冒瀆している。俺は自分をそんな風に処しているのか。冒瀆は、高い相手に対する侮辱行為である含みが強いような気がする。そこまで高い自分を持っているだろうか。せいぜい茶碗の高坏程度な気がする。でも、高坏がないと茶碗はグラグラして使いづらいからな。意外と捨てたものでもないのか。高坏を作るのは面倒だった記憶がある。微妙な乾燥具合の時にろくろに乗せて、金具のついた木の棒を持ってぴゃーっと削るのだ。灰色のうんこみたいな屑が四方八方に撒き散らされて、見ていて面白かったはずだ。粘土を捏ねると、なるほど粒子が細かいとはこういう事かと分かる。下に敷いた板がほんのり粘土色に染まったまま取れなくなるし、爪と肉の間に入り込んだ粘土のかすかすもなかなか取れない。ひとつに、あの場面に限っては、大は小を兼ねるなんて嘘っぱちである。この間、便利かと思ってでかいものを持ってきて逆に邪魔になってしまったと言っている人がいた。ケースバイケースである。服はやたらでかいと小をさっぱり兼ねない。金の額面に関しては、大金は小金を含むか。あれはどういう場面で生まれた慣用句なのだ。一応大きめのカバン持って行っとこ、くらいの場面しか思いつかない。適用する場面を間違えている気がしてならない。大は小を兼ねたい。遅めの朝食をとって、ベッドで掛け布団に挟まりながら日光浴をしつつ本を読んでいたら寝ていた。それはそうだ。寝ようとして取った姿勢と言われても何の反論もできない。本はそれなりに面白かったし布団は暖かかったし眠かった。総合的に、やはり低次生理欲求が勝った。でも、洋書は本当に読み進めるのが遅い。こういう時に、頭悪いなと思う。まあ、秀には秀のやり方があるし、凡には凡のやり方があるので、いちいち見上げていても仕方ないといえば仕方ない。見上げても見えるのはぱんつくらいなものだ。同じ地平に意識を注力し、透けブラなどに視線を向けていこう。何を言っているのかよく分からんくなってきた。野菜をいっぱい食べようと思って、人参と玉ねぎとじゃがいも、彩りのためのパプリカをしこたま切って鶏モモ肉をぶち込んだ挙句トマト缶を開け塩胡椒ハーブで味付けしたいい感じのトマト煮込みを作ったら、鍋が小さすぎてものすごい水位パンパン調理になってストレスがすごかった。味は良かったので、終わりよければ全て良しっちゃ良しである。全面的良しではない。部分的良しだ。

災い転じてポルトガル

ルールが違えば試合にならないので、勝手が違う相手とは距離を置いてできるだけ「戦わない」事にした方が気が楽だ。異種格闘技ルール無用情け無用組手を地下競技場以外でやらなければならない理由がないのだから、これは勝負が成立しない、ただ笑われるだけのガヤ被害者になりそうだなと思われたら撤退するが吉である。錠剤洗浄、じゃないや常在戦場とまでは言わないが、他に戦わなければ生きていけない場面なんて日常生活のそこかしこにありふれている。無駄に消耗してここ一番でへばるよりも、無用なストリートファイトはひらりと身を躱してやり過ごしたい。サラサラな血の気がさらさらないからこんな屁っ放り腰な事をほざくのやもしれないけれど、生傷を庇いながら日常の所作で気を散らすよりは、やはり一大場面に向けて温存できるものは温めておきたい。色々やってたので冷めちゃいましたけど、温めますか、お箸はつけますか、とか目の前にaffairsが迫っているのにのうのうと呑気にコンビニ接客ごっこをやっている暇はない。まあ、だからやっぱり、常在戦場というのは、戦闘と戦闘の間に挟まる安寧は、オセロで黒黒に挟まれた白みたいに、裏側に戦場を隠しているものなのだろう。光あっての影で、逆もまた然りだから。市街地のぷち繁華街みたいなエリアをちょこまかする数日が続いていて、一昨日くらいに意味の分からないフォーリンおもちゃを見かけたので記録しておきたい。その名を「Maki Stack」という。

https://www.blueorangegames.com/index.php/games/maki-stack

本当にさっぱり意味の分からないおもちゃなのだが、なぜと言うに、「目隠しをして寿司や皿、醤油をカードの指示通りタテに積み上げていく」という本当に意味の分からない遊び方だからである。パッケージデザインを見るに、目隠しは寿司職人が巻くハチマキがモチーフなのだが、あれはハチマキであって目隠しではない。そして、寿司と醤油と皿は地面に垂直方向に積み上げていくものではない。日本料理が海外に渡ると、ほぼ間違いなく例外なくエスニックな味付けに変貌し舌を多大に混乱させるのだが、このよく分からない伝播の仕方に見舞われた寿司ゲームもまた、元のテイストを全て剥ぎ取られていた。はて。本屋に行くと、古本のカバー装丁だけを取り外し、中身をすっかり白紙の束に入れ替えた、ぱっと見古本中身は手帳という素敵感溢れるアイテムを見つけた。ある先輩にぴったりな品を見つけたので買って帰る。

払いのける火の粉非knock on

メールやら連絡事項やらを捌いている時は生きているような気がするが、さて終わったふうどうすっかなと自由時間を手にすると途端に眠くなるのはダメだと思う。昨日しっかりたっぷり昼寝もしたじゃないか。いい時間に寝ていい時間に起きたじゃないか。こういう時は舌にわさびチューブや生ニンニクチューブを絞って眠気を覚ます方法を採る事があったりなかったりするが、生憎手の届く範囲にそれらがなかったため、ランドリーに洗濯物を持って行ったりした。暇暇な日だったので、市街地に出て百貨店や本屋を見た。帰る時に、荷物が当たり前のように重量オーバーしそうなので、手頃なカバンを探した。サムソナイトのスーツケースやリュックは使いやすそうだし軽し素晴らしいが、他と比べて大層立派な値段がする。物を入れるためだけのそれに、こんな金を払おうかなどうしようかなとの迷いがよぎる。シャネルのバッグを買うやつとか、すげえなと思う。値段も使い勝手もそこそこよさそうなリュックを見つけたので、また今度買いに行く。昔は狂ったようにリュックを使っていたけれど、肩掛け紐付きトートバッグがすげえいい事に気が付いてからはめっきり背負わなくなってしまった。背後から撃たれた場合とか、命を救ってくれそうな気がしてきそうなものだが。両手が空く道具だし、よくできていると思う。なんか使わなくなったが。肩パッド調整のために長く垂れているあのベルトが床についたり踏んづけられたりするのが好かん理由なのかもしれない。もしも小さくなる機会があれば、リュックサックに入って運搬されてみたい。本屋に行って、あーなんか面白そうだね〜〜〜という本をいくつか見つけた。当たり前だが日本の本屋にない本ばっかり置いてある。今日は見なかったが、料理本の類とか面白いかもしれない。なにせ、トンカツのレシピにwine vinegarを入れる国である。まだ見ぬトンデモレシピと出会える可能性が十分に残っている。余白を十分に残して、一冊だけ買って帰った。なかなか進まねえ。母語ってすげえなと思う。晩御飯のために、数日前肉屋から買ってきた牛の尻尾をシチューにした。すげえ。牛の尻尾だ。ルーが見当たらなかったので、小麦粉とバターを炒めて適当に作った。適当なのでよく分からない液体ができた。鍋が小さすぎて、野菜とテールを入れたら水が噴き零れる恋する2秒前みたいな水位になって、事前に用意した材料をいくつか断念した。2時間煮込んだがさっぱり柔らかくなく、ぶりぶりのぷりぷりのぶりゅぶりゅのぷりゅぷりゅで、ゼラチン質と腱的なそれが複合してまったく噛み切れなかった。肉自体は美味しかった。思ったより食べでがなかったので、また面白い部位を買ってこなければ……。完成品のインパクトに写真を撮り忘れた。

浸潤と不可逆行

人の形を保つフェーズと、人の形を保てないフェーズが入れ替わり立ち替わりするもので、二週間の間ぷりぷりに忙しかったため今日は多少の粘性を持つだけの液体になって部屋でべちょべちょしていた。モンスターだとかの異種族嗜好は今の所ないが、たまにスライムになりたい瞬間は間違いなくある。子供の頃に家の窓ガラスにべっちゃべっちゃ投げつけて糸を引くのを見て喜んでいた安物だったり、洗剤と何かを捏ねて作られた粉末的なあれそれが出てくるスライム的な物体らしきものだったり、あんなのではなく漫画で見られるような、てろてろでゆるゆるのスライムになって、身体のある程度を床に染み込ませて若干取り戻しがつかなくなるような、そんな自堕落と寛解に浸りたい時があるのだ。本屋に行って一冊暇つぶしに買ってこようかなと考えたり、市場に行っていい感じの食材仕入れてこようかなと考えたりしたけれど、眠いから疲れたしベッドで横になりながら処遇をどうするか思案を巡らせようとしてlie downしていたら3、4時間くらい意識が緊張した麻痺の中にぶっ飛んでいて、もういい時間になっちゃったウケる、と一人で部屋の中に差し込む遅い午後の光にウケた。疲れたと自分で分かる時はある程度行動を起こして動き回れるものだが、自分で思っているよりも疲れている時は、意識が身体についていかずコンセントを引き抜いたようにぶっつり切れる。待って、まだアプリケーション触ってるやんけ、と言うこちらには耳も傾けず、強制的にシャットダウンのボタンをものすごい秒速で連打される。あっという間もなくパタリ、ピンピンコロリである。たまにはそのような、一日の夭折があっても構わないかもしれない。染み付いた生活リズムなのか、ずいぶん早めに寝る事はほぼほぼなく、日が変わるまでは起きている。早起きはできなくはないが、早寝はできない。なぜだ。昨日は昨日で日記を書くのをすっぽかしたが、それ何故と言うに、11時から買い物に出て、昼を大幅に超過して帰ってから一時間弱ほんのり休んだ後は、休む間も無くひたすらぶっ続けで遅い昼飯を食べたり、肉肉肉肉肉の肉まみれな晩飯の準備をしたりそれを長い時間かけてゆっくりたくさん食べたりして結局日が変わるほんの少しまで食って片付けてをしていたからである。いっぱい肉を食べながら、私はただただ「うめえ……うめえ……」「ハッピー……ハッピー……」と呟いていた。身体は食ったもんでできている。

安心安全心不全

先輩の買い物に2、3時間付き合ったところ、今まで知らなかった、無意識下ではなんとなく感じていた事だけれど、買い物が下手くそだという事が判明した。下手くそというか嫌いというか、店員に話しかけられる事が何より嫌なのだという。なるほど。最近は、他人を何物でもない「何者」として捉える事でなんとか接客業フィールドで発生しうるエンカウントに対処できるようになったものの、つい最近までは同じような状態だったので、これはどうにか話を聞いて負担を軽くするべきかもしれないと思い立ち、様相と行動を眺めていた。買いたいものがあるらしいので、その類がありそうな店を見つけてはここがいいのではないか、ここはありそうだ、レジの向こうに見えますねと勧めてみると、入っている客が少ない=確実に話しかけられるので嫌だとごねごね捏ね回したので、なるほどこれは重症であると察された。うじうじしていても物事が進まない時は、残念ながら進まないので、尻に火をつけて駆け出させるか背中を押して奈落へと突き落とすしかない。だによって、背中を押して水溜りに足を踏み込ませるくらいはする事にした。行きますよ、と行って先陣を切り、店に入るように仕向けた。さすがに露払いがいると気が紛れはするらしく、大人しくそっとついてきた。クソみたいな私服でバキバキにちゃんとしたスーツを売っている店に入るのは気が引けたが、これもまた、最近のマインドコントロールにより、どんな綺麗な飲食店でも地下管にはネズミとゴキブリがいるのだと言い聞かせてなんとか精神の均衡を保てるようになった。俺はネズミで、俺はゴキブリである。きちゃないと思っているのは人間だけに過ぎないかもしれない。当人にとっては汚くもなんともないのだ。これがありのままなのだから。私が服装の「高慢」を理解する日は、果たして来るだろうか。結局、3店舗見て回ってひとつもものを買わなかった。なんでやおい、なんでや、気に入ったものがあるんやろ、買うと決めたんなら今買わんかいとけしかけてみたところ、店に入るだけでくたびれてもう今は買う元気がないと返ってきた。なるほど? 夜にもう一度、買いに行くと言っていた。本当に買いに行ったのだろうか。分からん。数日怒涛の忙しさで荒波に揉まれる藁クズのようになっていたが、今日で一段落ついたしつけたので、明日明後日は死んだように休みたいと思う。休みの時にやる充実してそうな事……。思いつかんなあ。

隠れ身の術数権謀

人の事を言えた義理ではないが、こいつ人間(じんかん)で生きていくの下手くそ/しんどそうだな〜と思う人間はたまにいる。たまにどころか、結構しばしばそれなりにoften頻りに見ているかもしれない。人の事を言えた口ではない。昨日、社会で生きていけなさそうですねと言われたのだった。生きてはいる。生活していない、活き活きしていないだけだ。呼吸をするだけなら、ぼんやりとしていれば大丈夫。なぜ呼吸をしているのか自問し始めたら、足が止まって色々まずくなるので、立ち止まってはいけないエリアを認識できるメンタル状態をできるだけ保っておく事が重要である。爆速で行き交う往来でストップしたら、まず間違いなく後続車に跳ね飛ばされて一瞬で全てが砕けて終わる。ゆるゆる走り続けて、とりあえずクラクションは無視して、路肩になんとかたどり着いてひいひい言えるならそれだけで上出来だ。命あっての物種なのだから、進むための足である車をへしゃげさせるわけにはいかない。もうだめだ御終いだと思って実行に移す3秒前くらいに疲れているので、うっかりするとものすごい失言をしそうで恐ろしく、自分で自分が恐ろしいとは見上げたものだが、そもそも疲れて意識が視野狭窄に陥ると滅茶苦茶な暴言を吐きそうになるし止まらなければ吐き出す癖があるので、こういうくたくたの日は誰にも会わないように、会ってしまったとしても言っている内容を咀嚼するのではなく体内で最小接触面積で済むように丸呑みして、さっさと体外に排出してしまうに限る。多少喉や胃が荒れようが、毒をもろに飲んで死ぬよりかマシだ。マシなのだろうか。コロッと逝った方が楽な場面もあるかもしれない。素面で真顔で、聞いている事を聞かなかったようにやり過ごす虚無の心は、感性や情動の働きを押し潰して無感情な人間を生み出すから、たまには感情を発露させた方がいい。私はへったくそなのでできない。身体に散見されていた鈍重な痺れみたいなものはなくなったが、しかし輪郭のない薄膜みたいなアルミホイルっぽい倦怠感は残っていて、早くぶっ倒れて楽になりたいのだがまだ明日がある。優しさは後出しジャンケンみたいなもので、自分が自分の納得できる状態にある事を確認できなければ優しさが滲み出る装置のスキマみたいなものはありえないように思うのだが、道の駅レベルでそこそこ見かけるから、バカみたいに甘いレーズン入りのクッキーを食べながらうつらうつらと考えた。

街角に小指をぶつける

視覚や聴覚に不自由がある人の世界を疑似体験する方法として、目隠しをつけたり耳栓をつけたり色々あるのだが、昨日の疲れが水分の飛んだ粘体のようにふくらはぎにべったりと染み付き、一歩一歩進めるにも気が遠くなるほど億劫だった。一日経った今でも、がりがりと脚の裏側を削られた気分だ。慣れない靴でものすごい距離をぐいぐい行軍するとつまりこうなるのだろうけれど、それにしても行動デバフを受けている感覚がものすごい。階段を上るにも、よし、俺は行くぞという強い気持ちを固めて、泥団子のように綺麗な砂で研磨してからじゃなければとても心が持たなかった。持ち上がらないわけではなく、可動域に稼働を認める事がとてもではないがつらいのだ。多少のストレスには平気だが、ただ脚の下部が疲れでバキバキになるだけでこんなにもどうしようもない気持ちになってしまうとは、やっぱり生き物だなと思う。膝が笑うと言うけれど、これはふくらはぎが笑っている。いや、もう無理っすから。うちらにこれ以上働かせようとするの、勘弁してくださいよ。爆笑の裏に秘められた、さらなる刻苦への忌避感が窺える。椅子に座っても寝ても立っても、そこにしがみつく違和の強張りは気配を弱める気配がない。ただにぎゅっと縮こまっているだけだ。しばらく横になって意識の風船から手を離してみたが、これはだめだ。ふくらはぎが爆笑し続けている。わっはっは。翌日に筋肉痛が来るだけ、まだましなのか。しばらく自分で作ったご飯を食べられなかったので、身体全体ががたぴし言っているにしても目をつぶって鞭打って台所に立ち晩御飯を作る事に成功した。正直、全身の電源をオフにして棒切れのようにばったんと倒れこみたい気持ちはあるのだけれど、剛体の金属のようにあるのだけれど、それをなお押して走る何かしらの回路がある。何なのか分からないが。InDesignのデータ結合で、テキスト入力やら画像の挿入やら、今までできていたよりも高度な処理ができるようになった。画像のパス取得だとか、文中に実は普通にプレイスホルダーを置ける事だとか、やろうと思ってもいなかったがやってみるとめちゃくちゃに便利な操作がいくつもあって、肥大化したテクノロジーは偉大だが肥大だと思った。でもめちゃくちゃ便利だ。慣れるまで、準備が完了するまで非常に時間がかかるけれど、そこからが早い。F1カーを組み立てるまでと組み立ててから、みたいな。

結紮

二日連続でものすごい困憊に襲われる機会に恵まれたので、今もっのすごく眠い。眠さは時により度を越すと逆に眠たくなくなるので眠くない。眠い! さっきいいアイスを食べてその甘さに酔い痴れたが、しかしくたくたでぶよぶよになった身体にとって白いシーツのかかったベッドが発する甘さは抵抗し難い。でも眠い。眠くない。程度を測ると必ず高低や多少の差が生まれて、極と極が交わらないまま間でうろうろしている事になる。めちゃくちゃによくできるやつと全くできないやつができてしまって、それもまた当てる物差し次第ですっかり逆転してしまうようなものではあるのだけれど、しかしそんな物差しをいくつもいくつも無際限に持てるものでもなくそういえばその最大個数でも差がついてしまうもうどうしようもない状態に目が当たるがとりあえず有効尺度の最大値も異なってきて、いくつか手持ちにある中でほとんどが食い尽くされて片方の極に乗った重さで定規が折れるようなめちゃくちゃによくできるやつを見てしまうと、じゃあ俺はいいや……となる。気にしても仕方がないとはいえ、どこまで行ってもその影がちらついて影が差すのだろうなと考えるだけでこちらに影が差す。光あるところに影ありとはよく言ったもので、眩しい上に影ができる。光を見るのがつらい。見えない。見られない、まともに。人間力はよく分からないパワーだが、活力は確かに存在するパラメーターである。体力とはまた異なった独自のものであり、体力をいかに効率的に消費するかのパフォーマンスだと定義する。活力がないと、暑い場所に放置された充電池が如く無意味にへろへろと萎れていく。活力は、つまり、触媒の密度とも言えるのかもしれない。活力はないので体力が下水に垂れ流されている。そのくせ髪の毛や垢で詰まって水はけが悪く、何日も前の体力の淀みが痛んで環境被害をもたらす。余らせない、余らない、無駄を出さずに燃やし尽くす術を知らない。どこかでもったいぶって変に残して、それで使えないものにしてしまうくらいだったらカッと飲み干して一瞬でも全力で生き急ごうとすればいいのに、どういうわけかそういう事をしないので、もう人間として発揮する気がないのかもしれない。揮発してどこかに漂って消えてしまいたいが、1日に少しずつだけ削れていつかどこかに消えないかなと思うのに、身体は変に頑丈にできているから一息に楽になれない。電源ボタンとかユーザー切り替え機能とかあればよかったのに。

欲望に忠実な欲求

だいぶ疲れたので、今日はもうなんでもいい。透明に透き通った方ではなく濁りと夾雑物がある方の疲れだから、それらを網ですくい取って灰汁を掃除する方がめんどうくさい。まぶたの裏で乾いた音を立てるチリみたいなゴミの存在を感じるから、まばたき一度ごとに少しずつだんだんと視界を削られていき、残りがなくなったタイミングでぷつりと糸が切れてZZZになりそうな気がする。今までiPadを弄ってみたり弄ってみなかったりしていたのだけれど、そろそろ中に溜まったデータをパソコンの方にも欲しくなり、ケーブルを双方に挿したり抜いたりネットワークに存在を確認しようとしたり色々試みたところ、デスクトップのメニューバーみたいなところから抹消していたアプリだったりなんだりが必要だったり必要じゃなかったりして、便利だが便利じゃないなと思った。スマートだがクレバーじゃない。はちゃめちゃに登りやすい階段も、それはそれですごいのだが、登り始めるのもはちゃめちゃに敷居が低い階段でもあればそれはもっと素敵な事である。けれど、素敵である事はとても難しい。そもそも素敵の「敵」とはどういう意味なのだろう。まずそもエネミーの意ではないだろう。ないだろうが、巡り巡ってエネミーの意かもしれない。言葉は分からない。追いかけても追いかけても姿形を変えて声色を変えてぴょんぴょん飛び回るから、肺活量のない身では肩で息をして顎を出さなければいけなくなる。そもそもそこまでして追いかけなければ追いかけたい対象なのだろうかと暗雲とアロマミストとその他もくもくした系のそれらが立ち上って意思を濁らせるが、あれがなければ世界を叙述して逃げるなり捕まえるなり、自分なりの実体として切り出して味を確かめてみたりだとかそういう事ができなくなる。五感のうちほとんどを奪われたような状態になるだろうから、見たものも聞いたものも触ったものも味わったものも全ては一度そこで入国審査と税関を通ってから入って来てもらわなければ困る。たまにそれらを蹴破って猛然と砂嵐を蹴散らかして呆然と取り残して去るのもいて、あれはあれで好きなので顔だけ覚えて入国スタンプを押す。眠いので、多分適当な事を言っている。疲れてへにゃへにゃで、肝臓がアルコールに勝てなくて翌日に軽く響いている状態がこんな感じなのだろうかと想像を働かせる。誰しも誰にも言えないプロトコルを動かして生きているはずで、自分も例に漏れないが倫理とか道徳とかはそういう部分で侵犯して仮想の充足領域を満たすのだ。

踵の片手落ち

日曜日だった。日曜日だったなー! 自分の生活リズムで生活していると、カレンダーの細かいところがさっぱり肌で感じられなくなり大まかな括り(○月くらい)でしか時間の中で自分を捉えられなくなるのだけれど、うねりの中に身を置いてあちらへどんぶらここちらへどんぶらこしようと躱しているとさすがに、曜日感覚は依然死んだままで冷たさが残るが今日がどういう日で何があるのかくらいは事前にちらとでも見ておかないといけないのでなんとなく肌感覚で位置情報を察するようになる。集団生活については色々聞いたり見たりしているところがあるので必ずしも自分の意見で黴生やしているだけではなくて、功罪様々色とりどりあるもので、総評としては間違いなくメリットの方が大きい。それは目の前だけのものではなくいつか実を結ぶような長期的な意味合いも含むので、まだこれから思うところつとに増え続けるかもしれない。分からない。とりあえず、生活空間のそばに他人が立てる音があるのがとても好かないので集団生活はあまり得意ではない。嫌いではないのだが、この一点だけで他のメリットをそこのけそこのけお馬が通るしてしまうくらいにはデメリットたりうるポイントである。そのへんはともかく、日曜日は日曜日だったので、少しだけのんびり起きてぼうっとし、時間配分を間違えてわずかに焦り、とりあえず泊まっているところが移動した。前のところは周囲に人がいなかったらしくめちゃくちゃに静かで、Wifiがとてつもなく遅い以外はよかったのだが、今の所は生活音がものすごい代わりにWifiがそれなりに早い。どちらがいいのか、私には計りかねる。移動とかで疲れたので仮眠したが、ベッドも前の宿的なあそこの方が広いし寝心地はよかった。どっちがいいのだろう。ドラマの背景に見えるような、粒の雨が斜め数十度で落ちるのをさっき見たかと思えば、ぺろりと晴れて暑ささえ感じるぬくもりが迸り始める。空が情緒不安定だ。天気が情緒不安定で、今躁状態だったりするらしいので、自然現象の手の上に所詮人間はないのだと思う。晴れている時に日光浴を試みると気持ちよさそうだ。昼に、Whole Chicken Roastというメニューがあって、それだけ他のメニューより際立って倍の値段を誇り、それはWhole丸鶏だからそんなお値段だと思っていたら、来た皿のサイズがトチ狂っていて、ついでに付け合わせの野菜の量も4人前くらいあって、なぜそういう値段なのか身体で理解した。晩御飯はいらなかった。

下手の横乳好き

バスで移動したり戻ったり行ったり来たりした日なので疲れた。疲れる前に疲れていたので、7時AMに起きようとして7時45分過ぎAMくらいに目が覚めていた。ついでに、寝坊に焦って部屋を飛び出しおトイレを済ませようとしたところ、部屋のオートロックに敗北しレセプションに飛んで行って時間とにらめっこしながら鍵を再発行される愚行も達成した。寝坊するのは間違いなく疲れている時だけれど、疲れているとそこからさらなる過ちと疲れが発生し連関を描き続け始めるので、休んだりする事はもう間違いなくそれは大切なので怠らないようにしたい。色々行ったが、なんだか記憶が曖昧だ。曖昧というのか、ある程度回数を重ねて刺激に対するキャッチャーミットの構え方ができてくると、意識してかせずしてか飛んで来るボールの衝撃を殺したりいなしたり流したりしてしまうので、最初に受け止めた時の手の平の血管がギリギリするような痛みとかこれを取り損ねていたらという仮想の冷や汗とか、ああいうものが過去の遺物として粗大ゴミ廃棄されたり部屋の隅で捨てるに捨てられないが触りたくもないきちゃないあれこれみたいになって困る。何世紀のものか分からないが、大砲の球を大中小6サイズくらいの展開で見たのだけれど、まず片手で舐めくさして持ち上げようとするとこちらの身体がグンと持っていかれるような重みをしていて、さすがにミニマムサイズは片手で持とうと思えば持てたにしても、マキシマムになると鉄の鉄らしさを存分に余すところなく実体として感じ、そりゃあこんなもんが当たったら、鎧をつけていてもつけていなくても死ぬし、むしろつけてなんかいたら破砕された鎧が肉体に更なる損壊を及ぼしてそっちの方がやばいのではないかとまで思われてきて、これがつまり人間を殺すための手段のうちのひとつなのだなと実感したのであった。あんなん当たったら死ぬ。せめて爆弾おにぎりが飛んで来る世界線で生きたい。たまに真面目な話をする機会が回ってくるので、相手は信の置ける相手だったし、きちんと言葉を選んで綱渡りの縄を丁寧に一本ずつ落としてこれでしか向こう側に行けないなと納得する発話の様態を表した。意味は分からないが分かる。中島みゆきの世情の歌詞の話をして、知らなかったのでインターネットの力を借りて歌詞サイトを見てみたら、「包帯のような嘘……」の2行で爆発的に痺れた。そんなにかっこいい歌詞、書けるわけがないだろと思った。

北風と太陽とせつなさと

未明になるまでやけくそのように雨が叩きつけていたが、目が覚めると普通の晴天に石畳が照らされていた。慣れない環境にいると、最初のうちは神経が張り詰めてピアノ線のようになっていて、何につけてもピッと血の雫が飛ぶような気がするものだけれど、それもだんだん黄色くなったテグスがごとくぴりぴりと罅が走って緩んでいき、元いた環境でそうしていたような行動パターンやテーブルに戻ってしまうので、なるほどこれが環境順応能力かと後ろ向きな意味で肯定してしまう。毎日を新鮮に全くフレッシュに生きていきたいという前向きで貪欲で生への渇望がさらさらないけれど、2週間に一回くらいはルーチンから外れたご飯を食べたいようなもので、安定しきったパルスを黙々と垂れ流してじっとしているだけが楽しいかと言われると、楽しくないわけではないが楽しいわけではない、生きている事を目的にしているのかどうかさえ分からなくなり目の前に横たわっている生命のリボンの目の前に見えているストリップ部分だけをとにかく今日生き延びようと毎日繰り返していれば、それなりの距離を進行しているもののその道程で道筋がぶれて道草で腹が膨れたりしていない。存在が定かではないオアシスらしきものに希望を託すふりをしながらその実何も考えていない頭で次の一歩を踏み出す口実を探し続けているだけである。何を言っているのか分からなくなってきた。めちゃくちゃに眠いので。心地よくなさを伴わない、泥と昏睡と夜更けの混じった水銀のような眠りではない方に陥る事を誘惑してくる黄色く暖色系のシェードを帯びた疲れに苛まれる事ができるというのもまあそれはそれで幸せな事で、でもやっぱり疲れるものは疲れるし眠いものは眠い。余命残高を緩急ないまぜに、引き出したり戻したりちょっと多めに持ち出して借り入れてきたり、とにかく破産だけはしないようにちまちまやりくりするようにしていると、生きる作業はしているが生きてはいないと思われてくるので、どこか外部に生きる3級生きるA級とかあればいいのになと一瞬考えたけれど、これに必要なのはきっと生きている行為のただそこにあればいい性を半分冗談に抱きとめてそのへんをぶらついていてくれる体温を察知できる程度のそれなのだ。夕ご飯に困ったので、適当にスーパーに寄って燻製の鯖と冷凍のポテトとミートソースのパイ、つぶつぶ入りのオレンジジュースを買った。燻製が美味いのは知っている。パイはいい加減な味がする。

沸かしたコーラ

引き続き本日も下血し、トイレットペーパーに目も覚めるような真紅が咲き乱れた。悪いものを食べた記憶はないし、昔から胃腸がよわよわおちんちんだった記憶もないので、これ一重にただにひたすらにストレスによるものではないかという説が濃厚ガトーショコラになってきた。痔ではない。宿の椅子は高さも柔らかさもクソみたいに微妙な椅子だが、痔ではない。健全に力んでも生理欲求の排泄叶う程度には痔ではない。記憶が定かではないけれど、去年の同じくらいの時期にも大量下血して医院に行って胃カメラを撮ったような覚えがあるようなないような。あの経験に関して、「レイプされている時の意識の薄ぼんやり仕方はこんな感じなのかもしれない……」しか思い出せない。しょぼいポリープなどが散見されて結紮されたくらいで身体に大事なかったはずだし、あの頃とはまた違った意味で下血しているのだろう。早く治らないだろうか。トイレを水洗する時に、血が水溶したピンク色の水が飛ぶのが嫌だから。昨日行ったケンタッキーに関して、もう少し思い出があるのでここに残しておく。人間の背丈を軽く超えるような注文液晶から吐き出されたレシートを持って受け取りカウンター付近に佇んでいると、注文カウンター最右のおじさんが何かもにょもにょ、しかしねっとりした口調で何かを訴えていて、全然注文した品が来る気配が漂ってこなかったので耳を傾けてみると、俺は15時から注文してここにいる(私が店にいたのが19時前)、これとこれとこれを注文したのにまだか、俺は虐められている、といったような内容の事をつらつらねっちょりくだを巻いている結構なやべーやつで、何度目になるのだろうか、ひとりの店員が"what do you want, sir?"と聞くと、あれ、あれ、あれ、と頭上のメニュー表を指して、じゃあこれだな、〇〇ポンドだろ、いや〇〇ポンドだ、〇〇ポンドだろ、いいかこれだけ乗せたのがそれだ、ここでトレーに手を伸ばして取ろうとし、だから〇〇ポンドだ、分かった〇〇ポンドだな、what drink do you want, sir? なんで〇〇ポンドなんだ、飲み物がついているからだ、むにゃむにゃよく分からない事を言う、どれにする? またなにかゴネる、どれにする? もういい、5.49ポンドだ、は? 5ポンドだろ、5.49ポンドだ、5ポンドだろ、ここで別の店員が仲裁に入って、5ポンドならここまでだドリンクはつけない、と話を切り上げて、納得したのかなんなのか、やべーやつはトレーを持って席に座りに行った。確かに世の中にやべーやつはいるんだなと知った。

鳴いて撃たれた雉を撃って泣かす

朝目が覚めると、左手人差し指の皮がべろりと剥げており、真皮質より下の生肉がごっそりと露出してただ触れるだけで手を思わず引っ込めるほど痛くなっていた。眠っている間に手荒れの箇所を掻きむしった結果なのだと思うが、これはたまにある事とはいえなかなか酷な話で、とにかくひたすら純粋に痛いし痒いし、かばう術もないので降参した。ポケットに手を入れるだけでも人差し指は接触の機会がごまんとあるのだから、日常の場面場面に痛みが挟まれる事となった。宿にまともなキッチンがないからどうしようかと思って、歩いて着くまでにある店を適当に選んで朝ごはんとした。しかしよく分からん店がいっぱいあったので、せっかくなので比較文化論と洒落込もうと思い、マクドナルドに入った。人生の程度が高くなりすぎると、薄めるために注ぐ生活の希薄。こちらのマクドナルドは、朝ではハンバーガーを売っていない。ベーグルと、パンケーキ。それでほとんど終わりだった。マフィンはある。挟んであるものを朝から食べるともたれそうだったから、パンケーキ&ソーセージなるメニューがあったのでそれにする。どれくらい甘さが異なるのかも気になるから、マックシェイク(チョコレート)もつける。待つ。少しして来た。そもそもマクドナルドでパンケーキを食おうと思った事がない。着いてから取り出すと、平たく広がった防水の皿に、パンケーキ3枚と薄い肉の板(これをソーセージと形容するらしい、ふうん)が乗っていた。適当に、チキンナゲットについてくるソース容器の倍の深さを誇るメープルシロップを垂らしかけて、プラスチックナイフとフォークでもちもちを千切って食べた。不味くはなく、美味しいと評してよいのだけれど、俺はこれをマクドナルドで食べるのかという疑問が残った。肉の板は日本よりはるかに美味しかった。そこは流石に。シェイクは「あ、健康にわる〜い〜」と感じる甘さをしていて、環境に配慮した紙ストローがもたらす吸引しづらさが断続的に甘味のカタマリを運ぶ。異国のマクドナルドだ! 夕食は、困ったのでケンタッキーにした。よく考えると朝夕でジャンクしている。身体に悪い。オリジナルチキン2ピースとポテトのセットに、ポップコーンチキンというサイドがあったのでつけた。鼻くそみたいなサイズの骨なしチキンみたいなやつがポップコーン容器みたいなやつのミニチュア版に10個くらい入っていて、これはそれなりに目新しく美味しい。全く頼りない食感が、これは本当に肉なのかという疑問を頭の中に警鐘するが、それはまあ無視してよい。チキンの味付けは日本より薄いが、残った油がかなり多く、一度つまむだけで指の腹まで優にてらてらになった。ポテトはしっかり一つ残らず皮が残った本格派で、私はこっちの方が好きである。で、レシートを見ると、俺が注文したアップルアンドブルーなんちゃらジュースはどこに入っているんだ???