他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

臨終の床のベッドメイキング

午後、トイレに行ったら下血した。前にもこんな書き出しの日があったはずである。生理的欲求は充足した時の満足感が固有の値を持っており、さすが自分では制御しづらい欲求だと思うのだけれど、充足による欠如に納得してトイレットペーパーを添えると、なんだか真っ赤に染まって白無垢を汚していた。お腹が痛いわけでもないし(特に理由はないがぽんぽんペインとは言っている)、祟るような不摂生に覚えもない。強いて言えば昨日食べたホットソース系トルティーヤだが、ホットとは言いつつ結局知覚可能に刺激物として捉える事ができたのはハラペーニョだけだったので、たったあれしきで内臓の粘膜がボコスカにされて血反吐まで催したというのは納得いかない。でも、日中はしょっちゅう立ち眩みらしき症状が亡霊のように、忘れた頃に姿を見せて来た。せっかく久しぶりに珍しい血便に会ったのだから人に言っておこうと思って意気揚々と伝えると、「ストレスじゃないんですか?」と真面目に返されたその通りなのかもしれない。自分の事はせめて自分で分かりたいが、そうもいかないので困ったものだ。なにか、せめて、自分が世界で一番よく知っているものはあるだろうかと挙げ連ねようとしてみると、かなり早い段階で、やっぱりそれは自分自身なのではないかと思われてくるので、役に立つか立たないか気休めになるかならないかは置いておいてしょうもない事もどうでもいい事も恥ずかしい事も嫌な事も、情報の価値に傾斜なく物量だけで言うとやっぱりそれらの一番を飾るのは自分自身で、じゃあ自分の多少なりともエンサイクロペディアではあるのだった。目次も総覧も端書も立派な装丁もないが、捨てるに捨てられない本棚のすみっこのあいつみたいな、そういうやつ。眠気の甘さと重苦しさ、先の見えなさとしかしてその逆を行く清々しさがヴェールを下ろそうとして頭の中の舞台装置を揺さぶってきている。そこで寝ても実践上何の問題もないが、なんとなくやっておかないと気持ち悪いあれこれを後に残したまま、机の上に半身を乗り出して突っ伏し半端な時間に起き出して関節の痛みに眉をしかめるあの瞬間のあの味、しばらく虚脱と重奏低音とガンガン鳴る鐘の音にやる気や生きていこうという行動コマンド、夜の裏側の匂いでピースの欠けたパズル画面みたいな意識で不完全なステージ走破を要求されるのが嫌だから意地で起きているが、生理的欲求が直ちに満たされる事のなんと幸福な事か。

地下水脈と毛細血管

荷解き、というほど大層な事ではないが、必要なものだけはキャリーから出し終わったので、身辺が落ち着いたと言えば落ち着いた。晴れたり曇ったり、雨が降っていたのに突然快晴になって太陽がプレゼンスを主張し始めたり、ああこの国の天気だなという感じが随所随所に滲み出ている。空気がそこまで乾燥していなかったはずだが、鼻腔がカピカピに乾いて埃やら何やらが張り付き、鼻くそがものすごい頻度で量産されて、ついでに鼻の毛細血管が鼻くその硬い断面に引っかかれてなのか鼻血の乾いた、死んだワインレッドのカスみたいなものも出てくる。たまに鼻をかむと、かなりでかい鼻くそクラスタを得る事ができる。かんでもかんでも、泣いた分だけ次の泣きの機会が用意されてしまうから、とってもストレスである。鼻の穴に、ガソリンスタンドでぐるぐる回っている洗車用のスティック状モップを突き刺して、常に回転させておきたいくらいには鼻内環境が悪い。そんな日本語はない。部屋も今気がついたが、割と不自然な乾燥の仕方をしているので、鼻ついでに喉もやられないようにちょくちょく水を飲んでおく事にしよう。ジュースを飲むと砂糖だか化学調味料だかで口の中が変な感じにざわざわして落ち着かず、酒は飲めないから選択肢として始めっから死んでいて、じゃあ食事の時以外に理由をつけて喉を潤すための手段ってつまりそれはthat is水しかないなという事になるのだが、水を水であると認識して水の味を味わおうとして水を飲むと、突然吐きそうになってこんな液体飲んでられっかと意識がやけくそを起こすから、これはただの行為なのだ生命活動の経過なのだと言い聞かせながら、いや言い聞かせているという自覚さえ抱く暇もないうちにさっさか喉を通過させてしまわなければならない。水はまずいわけでも美味しいわけでもない、ちょうどペーハー7のニュートラルに位置するものだと思っているから、こいつに価値観を押し付けようとする心そのものが誤っているのだ。相互に干渉せず干渉されず、これが水と付き合う上で肝要となる心構えなのであるが、水と付き合うってなんなのだと思い出したから、つまりこういう自覚を抱く前に水とは切り結んですれ違っていなければならない。帰り道にブリトーという名前のついた、どういうものかはぼんやり分かるけれど厳密にはなんなのか分からないものを食べて、これを乗せるかこっちはどうかと聞かれるままイエスエスと言ってベリーホットのソースをぶち込んだら、二の腕くらいあるヘヴィな筒状の物体が来て、ものすごい気持ちと体験の荒波を乗り越えた。

排し排される場所

飛行機の窓から外を見ると、綿埃の米櫃みたいである。ひとかけらこぼす時の分量くらいとか、まだしゃもじで乱されていないお披露目ぴちぴちの瞬間とかが、一度として同じ光景はないだろうバリエーションをもって展開している。雲のレイヤーが切れる折には、ぽこぽこと間断的に口を開けた湖らしき水たまりとか、隠毛も顔負けなくらいうねうねとねじくれている山道ハイウェイとか、色々なものが見える。たまに海洋にぽつねんと浮かぶ島も見えて、確かに地理地図は嘘をついていないのだろうなと察される。片道の乗り継ぎ便までも半日くらいうすぼんやりと座席に腰を下ろしているだけで暇オブ暇で、目前のディスプレイの中には食指がもぐもぐするような映画もなかったので、Fall Out Boyのアルバムを少しだけかじる他は堕に落ちて眠る他するべき事は見当たらない。数分くらい気が向いて雲を臨んだり海が海であることを確認したりするより他に。寝遅れないように徹夜で空港に向かったのでしこたますこぶる意識のシャットダウンを貪るのは喜ばしいのではあるが、これ以上寝ると頭が甘白く痺れるあの固有な感覚で意識野を塗りつぶされてやれなくなりそうなので無為を無為無策に相手取る事にした。目には目を、歯には歯を。これを敷衍すると同年代の恋愛しか許されないような気がしてくる。著しく、気の迷いであり気のせいだが。あるストイックな状態に置かれて、やる事がなく意識がムズムズすると、あれやこれやがやりたくなって、なるほど私はあれを好んで嗜好していたのだなと自覚が強まる事しばしばである。成田空港構内に、朝8時から営業しているゴンチャがある事を初めて知った。あんなにならばなくてよさそうだし混まなそう。まっこと、現実は時と場合を選ぶものだ。手荷物検査場で、彼女のホットパンツを下着が見えるほど、臀部肉がまるまま半分見えるほどたくし上げて尻を揉み軽くスパンキングする男がいた。彼女と二人で、イチャイチャした空気感のカプセルの中で笑っていた。世の中は広いので。

時と場合の依り代

実家から自分の家に帰って来た。帰る日なので、さすがに本能が唆したのか、8時前にすっと目が覚めた。昼過ぎの新幹線に乗るため、残り時間は弟と遊んだ。実家にいる間、クリスマスや誕生日やらを前倒しして母に借りまで作って買ったニンテンドースイッチに入っていたにゃんこ大戦争をひたすらクリアし続けたわけだが、さすがに最初は色々なシステムがさっぱり分からず何が面白いねんと思ったけれど、日本編未来編(外国ステージ)宇宙編(宇宙の星々をにゃんこが征服して回る、意味が分からないがそうなのでそうなのだ)を完走すると、さすがにゲームシステムを完全とは言わないまでもかなりの彩度で把握できるようになって、浮いている敵が出てくるから特攻のキャラを出すとか、黒い敵エイリアン赤い敵天使などなど、いろんな属性がそれだけで出てきたり複合して出てきたりして、火力を出せるキャラにどこまで資金を割くべきか、壁役となるタンクキャラをどれだけの密度で出動させておけばいいのかと、普段やらないゲームに要求される脳の領域がいじくられて、あれはなかなかに新鮮な体験だった。元がスマホのゲームだから(多分そうだ、コンシューマー機に移植された方が後のはず)キャラガチャもあり、めたくそ強いのからそうでもないのまで超激レアキャラが排出されたりされなかったりして、俺は今現代のゲームをやっているなという感覚ひとしおだった。一番お気に入りのガチャシリーズは電脳学園ギャラクシーギャルズである。女の子が可愛いから。次は年末に帰省する予定だけれど、それまでに弟は果たしてレコードをどこまで解除できているだろうか。ただ強いキャラを出そうとするだけでは一瞬で前線が蒸発するステージがしきりに出てくる段階まで進めたので、それなりに頭を使うだろう。楽しみではある。帰りの新幹線は、マジでやる事がなかったので、ひたすらグラブルの素材集め周回をしていた。乗り物酔いと眠気と電子機器の画面を見た事による変な刺激による覚醒で、頭の中がごたまぜになって相当気持ち悪かった。寝ようとすると、窓から差し込んでくる斜陽が邪魔だった。都市の雑踏の中を、重たいくそでかスーツケースを引きずって歩くと、全身をラップで覆われたかのような熱気のまとわりつき方と汗のかき方をする。家に着いてからさすがにエアコンのプラグをコンセントに突き刺し、明日早朝の出発に向けて荷造りをしているが、この作業がめんどくさいから旅行が嫌なのだ。

ゴルゴンをクビ

昨日書き残した部分があったので、そちらを消化しておこう。夕方に広島駅で落ち合わせて、「友達いる?」と聞かれて「二人はいるね」と答える、片方の友人と会った。江戸川乱歩の短編集が、駅構内の屋外と屋内が混ざり合った暑気にとろけていた。確か年末年始のどこかで会ったはずだが、夏の暑さにやられたのかなんなのか、少しだけショートが短くなっていた。一緒に夜を食べる予定だったが、集合時刻がほんのり早かったので、目の前にあったスタバに入ってお茶をする事にした。自発的にスタバに入ったのは初めてだった。先に席を取って、先に注文に行ってもらった。帰ってきたので、私も席を立って注文しにいく。列に並ぶと、見ますか? とメニューを差し出してくれた。そういえば、前にゴンチャに行った時もメニューを渡してくれた気がする。喫茶系の店は、もしかして優しいのかもしれない。とはいえ、こちらの知識が乏しさマックスで分かる部分が乏しかったため、やはり知っているか知っていないかで世界を手触りを伴って知覚できるかどうかが違ってくるのだろう。最近、カフェインを摂取するとお腹がぽんぽんぺいんエクストリームする場面が増えてきたので、苦痛を内腑に抱えたくなくてソイラテにした。ラーメンズのコントで、STGVのサイズ展開があるのは知っていたけれど、ショートとトールの間に何もなく、もしトールがめちゃくちゃでかかったらどうしようと思ってショートにした。思ったより可愛いサイズが来た。席に帰って対面のトールサイズを見ると、それなりに大きさがあった。二人で飲むと安いから、たまにVにする事もあると教えてもらった。人に聞かないと分からない事が、世の中にはたくさんある。よもやま話でもしようかなと思って会ったのだが、ほぼほぼあいつの話をひたすら聞く、よく考えるといつものお話会だった。少しだけ時間を潰して、駅内施設の飲食店を物色するつもりだったのに、これまたいつものように、気がつくと2時間くらい経過していた。焼き鳥屋に行こうとしたら、思ったよりよいお値段したので、日和って一風堂に入った。卓上に辛もやしと紅生姜がある事を初めて知った。ラーメンが来るまでも来てからも食べ終わってからもしばらく、鬼のように話を聞いた。人に話す事がたくさんあって、尽きる事がないというのはいい事だ。初めてあそこのラーメンを食べたが、ものすごい脂が濁流のように渦巻いていて、美味いが麺はひと玉で十分だなと思った。結局、そのあとも広間に置いてあるソファみたいな場所で語り足した。生きるのも大変だなと思う。

情操を感じるための情操

朝のまともな時間に起きた。変な時間に寝て変な時間に起きていたので、実家のリビングででかい間口を開けてのんびりと佇んでいる壁一面と言うにはしょうもないが、採光としては十分な窓ガラスから差し込む陽の光を見て自然の恩恵と生物の生態についてしばし思考を巡らせようと思ったものの、起き抜けの眠気はそんじょそこらのドラッグさえ吹き飛ばしそうな重さがあるのでそんな事はできなかったししなかった。川でカニが泳いでいる事を思い出したので川に行きたいと弟が言っていた。家からそれほど遠くないので付き合っても構わない。ぎちぎちと睨みつけてくる太陽光さえ処理する事ができれば、確かそれなりに大きな木の数々が茂って、水面に柳が毛先を垂らしてさえいたような記憶らしきものがあるから、それこそ本当に別に付き合っても構わない。川に入るかどうかはまた別の話だが。そこで出されるでかいソフトクリームを食べようという事で、母が運転して砂谷農場に行った。相当に辺鄙な場所にあり、ついでに迷ったのでその感いよいよ増す事はあれど減ずる事はない。迷った途上で、わたわたしながらスマホにグーグルマップをインストールして道筋を確認したので、SIMを確保してから初めてまともにスマホレベルのテクノロジィを使いこなしたような気がした。実は、スマホ用のSIMを調達したのには、もしかするとこれで道順を過たず知る事が可能になり、ひいては旅行に出かけるのにも前向きにあるのではないかとの期待があったのだが、そういう気が微塵も起きようという気配さえこれっぽっちも毛頭全然ナッシングであるあたり、私という人間の性壁がとろけ出しているような気がする。到着してすぐ目の前に小屋があって、山の中には似つかわしくないお洒落な内装で、それなのに券売機でチケットを買って、巨大なソフトクリームを食べた。雑な甘みがなく、すっと澄くような清冽さで牛乳の香りが抜けていき、確かにそれは人生で前例がなかった。最後までぎちぎちに詰まっていたのも素敵だった。あとは見るべきものを探す方が難しく、牛舎で牛の体を間近に観察したり、これは結構面白かった、干し草を求めてべろべろと這い回る舌であるとか、この間小説で読んだ銀色に光る家畜の糞尿混淆物が銀色に光る実様であるとか、干し草がどのように卸されているのかとか、面前に広がる眼下に何物をも提供しない崖前の広場で追いかけっこをしてみたりだとか、そんなであった。ぶちぶち千切った雑草をヤギに食べさせている家族がいた。ニラかと思った。

天使の首を吊る輪っか

今回帰省している限りで、少なくともあと一人の友人とのアポイントメントを取り付けた。中学しか一緒ではなかったが、その後も定期的に交際を続けており、ごくたまに日記に登場する変なやつである。私に変なやつだと言われるのは納得いかないだろうが、あれならば許してくれそうな感じがあるので変なやつだと言っておく。この前会った彼を、私が一切の自粛なくフルスロットルをかけられる相手だとすれば、今度会う彼女は、話を聞いている私が多少引き気味になるくらいのパンチ力と攻撃バリエーションを誇り、鼻白むとまでは言わないまでもその線に類するそれを有する相手もまた貴重だ。貴重だと言うか、そんなにいただろうか……? とりあえず明日会うので、一緒に晩飯を食べながらえげつないあんな事やこんな事でも教えて、教えてもらおうかなあと夢策しているところだ。どうせ聞いた内容はここに書けないようなものばっかりなのだろうけれども。大江健三郎の短編集を読み進めようとしたら、中期短編に入ったあたりから食指がさっぱり働く気配がなく、ぺろぺろページを読み飛ばして後期短編の最後のひとつだけを大人しくめくる事となった。何が刺さらないのか分からないが、悪魔のメムメムちゃんで言うところの「スン……」になるので、そういうものを読むだけ疲れてくとくとになりたくなくて飛ばした。開高健の文章はあんなにごくごくと、ダマになった濃厚スープのように満足感を伴って飲み干せるのに、翻ってこれは一体、なんだ。これを読み終わったら、とりあえず江戸川乱歩の中編寄せ集めみたいなものを借りてきているから、タイトルから筋肉少女帯の曲をいくつか思い出しつつ触れるだけ触っておきたい。そういうものを拾い集めておくと、後で、役に、立ったり、する、かも、しれない、なあ〜〜〜と思っての事なのだが、わざわざこう思わなければいけないあたりにすでに敗北が滲んでいる。日中弟とだらだらしている間に、どろろを読み終わってしまった。上巻の巻末についていたところによれば、編集部都合を被り途中で連載が終了されてしまったとの事だが、確かに終盤はなんだか駆け足で、それまでの独自の緩急を抱いた空気感のリズムが異なっていたし、最終話のドタバタとつじつまをつける駆け込み感は見ていて寂しくなった。下巻で読んだ、百鬼丸からどろろへの発破というか、血と肉の通った言葉の物質感に、思わず画面からぐっと顔を離した。確かに力を感じる場の組み方はある。

減らず口減らし

自分以外の生命体が生活空間で同時的に活動している感覚があると、それだけで何かしらの作業をする気力が失せてしまうので、一体カフェやファミレスで勉強するなり、あるいはタブレットを前に構えて書類を広げてうんうんしている会社員らしき人たちはどのような神経回路をしているのだろうと思う。夏休みに入った弟に付き合って一日過ごしていると、およそ手が届き視線が届く範囲に人間がちょろちょろしているわけだから、よし生産的な行動は何も起こさないようにしようそうしようと精神が変に図太くどっかと腰を下ろして居座り始める。特に差し迫って危機的なタスクは目の前にないので、いやないわけではないのだが、しかしてそこまで存在感を感じて圧迫されるほどはないので、口を半開きにして焦点を失った視線を斜め上の方に力なく放り投げている。人生を総体として考えた時の、虚無タイムが占めても構わなさそうな割合を想像すると、タイトさと生き急ぎの速い呼吸と、立ち止まると死にそうな傍観者メンタルが作用して、そこまでの猶予を準備してのろのろと生きていく事なんて到底無理なのではないかとの考えが休ませているパン生地くらいの速度でむくむくと大きくなり、生活密度のなまくらな先端で突かれて割れる。弟がどろろを読んで、面白いから兄ちゃんも読めと勧めてくるので分厚い総集編2冊の上巻を読み終わったところなのだが、もう出だしの初っ端からエンジンがぶんぶんに回って面白いので、古典の油田を掘るだけで人生が終わるような気がしてきた。食べるだけではなく、咀嚼と反芻と消化が必要なのだから。同時代的に読む漫画と違い、コマとコマの間に展開される「時差」がかなり広く、適当に斜め読みしてスーッと流す事などできない。一コマ一コマを受け止め、それらを頭の中で理論的に納得して繋ぎ合わせて飛び石を渡っていきながら水面に沈んだ光景を考えていかなければならない。どちらがどうと言うわけではないのだけれど、この圧倒的な「優しくなさ」、それでいて金属塊のような密度が両立されているこの表現様態をどう考えるべきなのか、また新しいのぞき穴を見つけたような心地になった。作中でちまちまメタ描写が差し挟まれ、その度に現実に引き戻されない堅牢さ、やっぱりすげえものはすげえのだ。おやつに置いていかれた辛子明太子魚肉ソーセージなるものがあって、弟と一緒に食べたのだが、魚ソーの真芯をくり抜いてそこに明太子フィリングをギチギチに詰めた尖った一品で、人の指みたいだった。

袖が擦り切れるほどの因果のもつれ

昨日はびっくりするくらい、普通に日記を書く事を忘れていたので、深夜2時くらいに弟の隣に倒れ込んで寝ようとして、全然寝付けなくて頭の中で雑音と絡まった糸くずが西部劇の後ろでコロコロする丸い干草のようにステップを踏み出したあたりで「おっ、書いてなくね? 書いてなくね? 書いてないよね?」と思い出して、眠くはないが起き出したくもないのでそのまま横たわったままでいた。年に数回、片手で足りるくらいの回数だけ、すっかり完全に跡形もなく忘れている日があるので、こういう瑕疵を実感するたびにあるいは人間かもしれないなと実感する。実家でのろのろしていると、自分で家事をする事もほとんどなく、人間としての力がうっすらと溶解していくのが分かる。水溶液に入れた砂糖や塩が、その意思とは関係なく、砂糖や塩に意思があるのかどうかは知らないが、水の中に輪郭を失っていく時、もしやこのような無力感の中で流されるままになったりならなかったり、するの、かもしれない。地元のスーパーや書店で、長年馴染んだ匂いを吸うと、頭の片隅でむずむずとくすぐられるものがある。こそばゆいので身動ぎはするものの、埃をかぶった棚からモノがごとりと落ちるほど可動域が実現されるわけではない。そもそもそんなに陳列してあったかなと疑問に思う。二日前くらいに友人に会って、ちょろりと触れただけだったが、スーパーモールのフードコートに数時間居座ってうどんやマクドナルドを食べながらあらぬ話や身辺の話、私の方から提供するような身辺の話はなかったが、2、3年振りに交歓した。もしかしたらこの夏最大の思い出になるくらいのビッグイベントというにはしょっぱすぎる時間ではあったが、生命体としての個を自覚するのはああいう機会だったりする。私は9割くらい中身のない、そして他の人には逆立ちしても言えない下ネタを放埒に一方的にしばき倒していただけだったが、先方からは有用というのか、なるほどなるほどそういうね〜この数年で色々会ったんやね〜、好き……となる話をいっぱい聞けたので満足である。幸せになって欲しいとはそこまで思わないが、生きてくれとは思う相手なので、今後も不定期にテロ的メールを送りつけて精神的に必要ない負荷をかけていきたくなってしまった。去り際に、次はいつ帰ってくるのか聞かれて、年末年始くらいかなあ、ふたりでクリパやろうぜクリパと適当な事を言ったら、お前ならいいか……と言ってくれた。実に得難い友人である。

味の沁みていない大根の味

実家で家族の生活リズムに合わせるので、かなり普通のバイオリズムに近づいた感じがある。近づいたところでなあ、とは思うが、変なリズムで生きるよりはまともなステップでるんるん鼻歌を唄って進む方が楽しそうである。楽しそうとはいえなあ、と思うものの楽しくないよりは楽しい方がマシだろうなあとも思うので、自分のよく分からない、冷蔵庫に入れたまま干からびて醜くしなびたチクワみたいな価値観ばかりに目を向けているわけにもいかんよなあと思う。思うだけじゃなくて、行動しなければ意味がないのだが? せっかく実家に帰ったので弟の遊び相手を務めているのだけれど、いつの間にやらニンテンドースイッチが搭載されていて、人生で初めて特に心構えをするまでもなくスイッチに触れてしまった。もう少し、現代のカッティングエッジを走る筐体に触れる機会なのだから、気分を高めてから手をつけてみたかったものだ。別にそこまでもったいぶったところで、楽しみを得る機会が減るだけで勿体無いお化けになる利益がさっぱりない。ハードがあるが、実はソフトを買っているわけではなかったようで、オンラインクレジットで多少を払ってインストールするタイトルがいくつか入っていた。今はひたすらにゃんこ大戦争を進めるのに付き合っている。スマホ版をいじっているのを見た事はあって、よう分からんシステムだし面白くなさそうだなと先入観を抱いていたが、少なくともスイッチ版をいじらされた今では、なかなか頭を使わされる内容だなあと感じた。数日前に、唐突にプリコネをいじり始めたのが、これもまた天の采配なのかあるいは偶然なのか、タンク役火力役ヒール役……という、これまでオンラインネットゲームをやっている人からしか聞いた事がないようなワードの意味を理解する機会になった。なまらグラブルをやっているせいで、ある程度まで純粋に火力で押し切りたくなっても、敵の攻撃を捌く壁役がいないと肝心のアタッカーがいなくなるし、耐久軸でパーティを組むと押し切れずジリ貧になる場面もあるし……と考える事が少なからず悩ましい。世の中には知らない事が腐る程いっぱい、こちらが腐ってもまだまだ余りあるほどありそうだ。適当に連絡を取ったらOKと言われたので、地元の仲良しお友達と会って数時間話し続けた。人生でただ一つの、全く容赦と自制を要求しない貴重な友人であり、何も考えずに話し続けて相手が故障しないというのは貴重だ。いろんな話を聞いた。大変だなあ。生きる事というのは。

タンク役の価値

帰省すると一人だけで過ごす時間がないので、すると自分の中で何かが煮え立って煮こごりになったり蒸発した後のカスみたいなものを舐めてみようかなと思うなり美味しいなと気づくなりする時間がなくなって、ずるずると時計の針が進むうちに、たちまち時計の針がてっぺんを回りそうな時間になるので少なからず焦る。こうしてみると、というか、こうするたびに、一人でいる時はなんとわがままな時間の使い方をしているのだろうか! と自覚するようで身が痛い。わがまま、というか、それとももったいないかもしれないけれど。今日はこの地域は猛暑日だったらしいが、家にいる時は聞かなかったセミの鳴き声の羅列が樹々から立ち上ってほぼ止む事なく、様々な次元でひとところに止まらず総合的に暑い。刺すようではないにしても押し付けるような日差しを浴びながら屋外を徒歩闊歩すると、普段の生活の日陰さを強烈なコントラストでもって教えられている気になる。朱に交われば赤くなるらしいが、元々がまっさらであればあるだけ朱とのファーストコンタクトを経ての変調は強まるもので、なまっちろかった内腕が本日の数十分の日射でうっすら焦げた。さすがに太陽と仲良くしなさすぎなのかもしれない。なんというか、頭の中のスープに全然味がついていないような感覚が拭い切れないので、今日はこの辺にしておこう。意識しなければダメに成り果てる習慣の良い例となったかもしれない……。

数珠繋ぎの儀

新幹線が卸したての自動車に似たあの匂いを発していて、あの形容しがたい非人工的が好きではないし、地下鉄の新車両もそう言えばこの匂いがした覚えがあって、頭の基底を手の届かない範囲からがんがんやられているような心地があってそれはまあ頗る大層苦手である。印刷所にかけた印刷物が来ていて、やっぱりデータを弄っているより実物で届いた方が達成感とか手触りがあってこの瞬間だけ心がぽっとひらめくのだけれど、想定よりも背表紙がゴツくなっていたからささやかにびっくりした。印刷所の背幅計算シュミレータだと確かに6ミリと出ていて、ちゃんと定規を取り出してメモリを検分し、なるほどこれがその実数値かと確認してからはっはっはまさかそんな事はあるまいと笑い飛ばしたのが先週の話だが、まともな事をやっている印刷所が冗談みたいな数値を寄越してくるはずもなく、まごうかたなき6ミリ少々の重みで届いた。そりゃそうだ。先取りの妄想が許したよりも遥かに重く、でかい方の箱を持ち上げるにあたっては腰をいわしそうになった。嫌な色の稲妻が、頭の中で擬似的に明滅した。本を読んでいると、自分が主語として膨張しているかのような感覚を得られて、今目の前にある文章たちを従属文の下に従える事ができているような錯覚に酔う事ができて、これはとっても気持ちいいなと気がついた。文章を読むにより何がしかの癒しを得たかのような心地になったのはそのせいであったのだと思われてくる。いや、逆に、文章がそこにあるのに従容と従う事を強制してくる、その隷属が心地よいのだろうか? こちらから働きかけようにも、活字として固着させられてしまった文章が作用を許さない、その絶対的環境と関係性が。そこにぽつんと点として垂れて、寄っていかなければ寄ってこない孤島に足を運び探検の労をとるその作業に、ただ冒険という事実だけを与えてくれるその作業に甘んじているのではなかろうか。知らんけれど。目的地に着くにはあと数時間もあるらしい。図書館に駆け込んで引っ掴んできたいくらかの岩波文庫がカバンに仕込んであるし、これは少しく失敗した、なぜならこれほどの分量を読み終わらないだろうしやたらかさばるページ数のものを見繕ってしまったからだ、最近覚えた悪い遊びもある。時間の使い方というのは、本当に、時間を使う人の一存と采配と才覚と、色んなものが滲んでくるものだなあとの感が日々深くなるばかりなのだが、色のついた水を面倒臭がる性根をスリッパの裏側でひっぱたいて、集めたまま褪せるばかりのそれとかあれとかをミョウバンに漬けるなりホルマリンするなり、どうにかしてえよなあと水に映った顔が言っている。

痛ましさを覆う帯

高い歯磨き粉、つるつるしていると感じるほど歯がつるつるするので、やっぱりお値段は嘘をつかないしすげえなと思う。街路樹が整然とする大通りに出ると、そういえば自分の耳では直接聞くのは今季初めてではないだろうかという蝉の声がミンミンとしていた。日が沈んでから這い寄ってくる熱気の粘りが、日本の夏の到来を囁いているような気がする。大江健三郎の短編集、めちゃくちゃ楽しく読んでいる。どこにも繋がっていなさそうな、フィクションのフィクションらしさが手元から離れたところに存在しているので、読んでいて気持ちよく落ち着く。今日は古戦場最終日で、他の団員にお肉をおすそ分けする焼肉パーティーを開催するので短めに終わる。今回は4戦2勝だったので、やっぱりA帯って難しいなと思う。帰省の準備もしなければいけないのだが。

取りも壊さず

まだぼつぼつと恨みがましく、lingerという感じで小雨が近づいてくる瞬間もあったが、そろそろ梅雨が明けるらしい。実際に明けてからでないと明けたと分からないので明けた頃にはまた別の局面様相が顔を出しているのだろうが、夜の這い寄るようなむっちりした熱気の粘っこさを感じていると、確かにもう夏はすぐそこにいるのかもしれないねえ、と思われてくる。起きるとパジャマが体液ですぶれていて、寝苦しくはなかったが掛け布団の不要さが視界の端にちらつき始めている。というか、こんな下旬まで掛け布団をまとっている今年の気候の方が変わっていると言うべきなのか。洗濯物を気持ちよく干せる日が近いと期待しておこう。燃えるゴミを色々まとめて出したので玄関がすっきりした。ビニル一枚の向こうにわいわい湧いている蝟集の蛆虫たちを見ていると、生命の強靭さと強かさと手に負えなさと、様々感情が巡り起こってきたが、家に発生されるとどうしようもなく困るので、大人しくゴミ収集車に連れて行って焼却してもらう事にした。もうしばらく、あのうにうにした蠕動運動は見たくない。粟か稗粒みたいな遺留物が、たまに残っているが。忘れないようにしようとして忘れて、時間が意味を持たずぽっかりと空いた瞬間に頭の中に戻ってきたので、ドラッグストアに行った。店頭によさそうなお菓子でもあれば買って帰ろうと思ったけれど、ポテチとなんだか変なものしかワゴンに乗っていなかったので避けた。そういえば、近くのあそこはドラッグストア然とした品揃えが徹底している気がする。かなり理想状態に近い。歯磨き粉を買い足そうとして、たまには変なものでも買ってみるか〜と変な気を起こし、300円弱のかなりいいやつを買った。いいやつとはいえ、同じ棚に600円700円、果ては1000円くらいのものもあったのだから、本当にそうなのかしらという気も起きてくるが、普段買っているやつが112円+税なのだから随分とよいものである。旅行はなんだか面倒臭いので好きではないが、日用品の範囲で逸脱を楽しむのは割と好きである。これの規模が拡大すると、日用品が生活空間になり、風土になり、つまり普段住みつけている場所からの旅立ちという事になるのだろうが、恒常的環境で、ストーブの上でゆるゆると薬缶が湧くような思考の煮詰まりと結石を楽しむ精神の持ち主としては、別にいいかなあと思う。ちょっといい歯磨き粉は、ブラッシングとうがいの後も、確かに口腔内の感覚が違う気がする。値段ってすげえよな。

周りの空気に流されるプール

ま〜たまた台所ゴミ箱周りで数匹の蛆がうじうじわさわさしていたので、ティッシュでひとつひとつ摘み取りながらちくしょうちくしょうと思った。さすがにここまで経験を重ねると分かるもので、ゴミ箱の蓋を開けた時にハエどもが飛び出してくる「ぶわぁー度」で蛆が発生しているかどうか分かる。分かりたくないが、本能がそろそろ湧いてると思うよ、周りをよく見てごらんと優しく教えてくれるので、そうだね、そうかもしれないねと探すとやっぱり数匹がうにうにむじむじしているのだ。自然に勝てない。色んな複合条件が組み合わさる事で大きなスパイラルを生み出し、為す術なく流されに流された結果、手荒れが近時で最もものすごい事になっていて、人差し指体前面と親指甲がぶちぶちに皮剥け汁垂れ炎症を起こし所々膿み大変だ大変だと叫ぶだけではどうしようもなくなってきた。ニベアハンドクリームも底をついてきたし、ついでに歯磨き粉も絞り出すたびに格闘の一場面を演じなければならなくなってきたので、明日ドラッグストアに行って新しいおニューのフェイスをお迎えしなければなるまい。手が痛くて痒いので、寝ぼけ眼だとガチガチに掻きまくってそれはもう数十分の間見られたものではなくなり、つまりめちゃくちゃ痒い。何物も触りたくないが、水回りのお家仕事からは逃れられないし、風呂に入る時はどうしたって全身水浸しになるし、諦めて心頭滅却すれば火もまた涼しいけど痒いしいてえしどうにかなんねえかなを実践している。流し台下に安置し、カビが生えていたのを傍観し、心を安静に保とうとして敢えて触れなかった人参を取り上げると、予想の10倍くらいカビに犯されに犯されていて、うっすらだったカビがもっさりもわっはりになり、緑色の和毛に満ちた隆起や白いタンポポの綿毛みたいなクラスタが形成されており、少し力を込めるだけでもぶにぶにとした活力のない弾力が返ってきて、申し訳ないがこれを食う気は全く起きないと判断し、2本はどうしようもなくてビニール袋へ埋葬し、1本は、これはまだ半分程度しか食い散らかされていなかったので真っ二つにカットして半身を失うに留めた。ふさふさとして粉粉としたカビがぽとぽとと暗い色の足跡を落とすのを、どうしようもない気持ちで眺めていた。手荒れが悪化の一途を辿るのは、最近まともに料理を作れず野菜のビタミン的なアレとかソレとかが足りていないからではないかと思ったのだが、それ以前に。