他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

毛の生えた餅

河合隼雄『こころの処方箋』、これは本当にいい本ですね。一日一課、課という文字を使ってしまうと義務感が出るな、一講、こっちでいこう、寝る前に繰り返し読むと人格が健全な発達をしていくに違いない。人格の「陶冶」「涵養」とは言うが、この本以上に、その二文字二パターンが似合う本はないのではないか、と思える。まだ読み終わっていないのに。ある意味、タイトルで損をしている本かもしれない。僕は俺は私はあたしは、「こころ」を病んでいないので、そういう根暗っぽい本は読みませ〜ん、みたいなやつはいそうだもんな。私の想像力はえてして卑屈な方面に逞しいので、現実はもう少し人間的かもしれないが。まあ、しかし、本が良くても、それを読む方の人間如何はどうしようもないよなあ、とも思う。メッセージを受け取るには、そのための受信機とか受容体みたいなものが必要で、それの発達が全く全くである人間の形をした何かみたいなものがいるという現実を最近うっすらと肉で感じており、こればかりはいくら訴えかけても暖簾に腰振り糠に腰振りである。腕押しも釘も、性的動作に置き換えたとしても意味に大事は引き起こしそうにないと思ったのだが、気持ちよくなってあれがあれしそうだな。ことわざの互換というのは、見つけるのがなかなか難しい。言っても分からないという事実がどこまで行っても事実である人間がいる、と言うのか。知性などという高級な部品ではなく、もっと基礎基幹基本的な、ハードウェアレベルでの何かが起きていると思うのだ。これは本当にどうすればいいのか分からなくて、水槽の片隅で膝枕でもしたい気持ちになる。まあ、騙されたと思って冒頭の本を読んでみる事を強く勧める。強く勧められると、じゃあいいです、と言ってしまうような私みたいな人には、その辺に放り出しておくので、気が向いたら適当に読めばよろしい。読んでも読まなくても人生の道行には何の違いもないが、歩き方や、歩きながら物を考える心の姿勢あたりには、ひとつは得るものがあると思う。素敵「そう」なメッセージを、単一的に受け取ってそれをインスタントにsupremeなものとして称揚し、その消費活動に明け暮れる精神構造は、一生理解できない。きっと、この本がなぜだか私にやけに馴染むのは、頭の中のイメージの動き方が似ているのである。よく比喩が出てくる。物の例えが。その、事象を代替している感じというのが、似ていると思うのである。