他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

環る腸詰

午後から雨が降ったので、気分が悪かった。結局降ろうが降るまいが悪かった気もする。自分で炊いたご飯を久しぶりに食べた。皿が足りなかったので、炊飯器の炊飯釜にご飯を半分残して、直接目玉焼きを乗っけてコチュジャンを添えた。なかなか無くならないだろうと思っていたコチュジャンも、気づけば一部では底が見えてきて、だからと言って別にどうこうはないのだが。無くなったらまた買ってきてもいいが、量としてはやっぱり持て余す。お一人様用とか、小さめサイズとか、使い切りパックみたいなやつが割高になるのは分かる。実際として割高であるから、や、これは何も言っていないのと同じなのか。あらかじめ商品の受益部分を少人数用に調整してもらって、その分の手数料が価格に入っているから高い、とでも言うのか。ひじきの煮物はたくさんを一気に作った方がうまい、という比喩の方が私は分かりやすいのだが。いつか、業務用スーパーの精肉売り場で丸太みたいに横たわっているクソでかいハムの棒を買ってみたい思いがあるのだが、あれこそ普段は受益部分が少人数用に調整されている最たるものの一つであって、十人家族くらいになったとしても、あれだけのハムを一回で費消し切るのは難しいのではなかろうか。両端の包装が綻びないという保証があれば、ちょっとした抱き枕にさえなりそうである。イメージの置換としては、甚だ直接的過ぎるかな。たまにその事実を思い出すが、よくも動物の腸にその肉を詰めるという、酷の二乗みたいな事を考えたものだと思う。一回殺してはらわたを抜き、皮を剥いで肉を潰し、腸をしごいて中に肉をぶりぶり入れるのである。排泄の逆工程が、人間の栄養吸収消化という順工程のために行われている。これを我が身に置き換えて考えてみると、私が殺されて私の内臓に私の肉が詰められるという事で、ちょっと考えてみるとぞっとするところがある。相手が動物だから、こういう手順が始まったのではないか。それとも、食べ慣れた食物に対しては、よりうまく、より一層の探求が行われるという、性みたいな部分なのだろうか。非常時の食人についても、そういう事があるようである。好むと好まざるとにかかわらず、求めてしまうのだな。もしかすると、原型から遠ざかり、手順を数重ねる事で、本来の元々あった姿から出発し、見えなくするような、罪悪感を手数で薄めるような心理があるのかしら。あぁ、古代世界や、アフリカの部族の犠牲儀式について、こういう学説というか観点があったな。Comedy of Innocenceとか。