「おちんちん」とは、男女の仲がよい事を言う言葉らしい。辞書の第一義にそうあるのだから、そうなんである。性器の隠語としての意味は2番に載っていた。つまり、あのアベックはラブラブだねと言いたい時はあのアベックはおちんちんだねと言う事もできるのだ。いきなりそんな事を言う相手を選ぶ必要はあるが、何でもない言葉に、社会通念上眉を顰められるような意味が重なっている事は千も万もあって、開高健の名字にある「開」の字は、そう遠くない近代におまんこの意味で使われていたらしい。よっ、アツアツだねご両人を、よっ、おちんちんだねご両人としてもよいのだ。ナウなヤングが使わなさそうなワードばかりチョイスしたが。日曜日くらいに、ガールフレンドという言葉を日常生活で聞いて少しくらっとした。勝手に死語にしていたが、別に死んだわけではない。そのうち死にそうだが。現在のスタンダードである彼氏彼女よりは、よほど実態に即している言葉だとは思う。ガールフレンド、ボーイフレンドは。ガールフレンドは、GF(仮)にわずかに生き残るだけではないのか。それとも、フレンドよりも踏み入った関係性である事を主張したくて、これらの言葉から離れて行ったのだろうか。どうなんでしょうね。いくら言葉が変化するものだとしても、おざなりに使っていいものだとは私は微塵も思わないので、インスタントな語彙だけで現象を費消する姿勢は絶対に許さないが。最後の要塞として自分を構築するためには、言葉が必要である。虐殺器官を結局読み終わった。読み終わらなくてもいい気さえしていたのだが、読み終わった。話として十分面白かったのだが、主人公の言語観が、あら、一軒か二軒隣なだけだわねと思うような近しさを示していて、そこが一番の収穫だった。だらだら開高健のエッセイを流し読みしているが、本屋にあれの欠本が入るまでどうしようか、狂おしいほど頭の中が空っぽで、実は段ボールのかなり浅瀬に収納されている事を発見したゴールデンラッキーやえの素でも読み返してやろうかと考えている。ゴールデンラッキーは、永遠に読めるが、永遠に何を得る事もない。ただそれらがそれらのために自足しているため、こちらから入り込む余地も隙間もない。生成と明滅を目の前にして、体育座りしているだけである。どこにあるのか分からないが、生徒会役員共の初めの方十数巻も段ボールの中だ。そらのおとしものもどっかにある。読み返すという事をやっとするようになってきた。