他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

じねん

町田康の『夫婦茶碗』を読んでみた。人が勧めているのを見て、筒井康隆も並んでいたから、どうかと思って買った。野坂昭如開高健を読んだ時みたいに、頭がばちばちしてガーンと来る感覚はなかったが、これはこれでvirtueの一つではあるな、と思った。この、一言一句欠けては損なわれる流れの感じ、そしてその押し付けがましさというか、自走の程度は、舞城王太郎の文章に近いかもしれない。あれはあれでもう単独峯だが、やはり文章感覚のひとつとしてあるのだろう。本を買うたびに、帯の文句で気が萎えるので、世の全ての本から帯を取っ払ってほしい。その作家の文章が読みたいからその本を読むのであって、その本そのものではない要素はなべて邪魔なのである。もっと言えば、まえがきあとがきはいいとして、解説や解題みたいなものも私はいらないと思っている。ハンバーグを頼んだのだからハンバーグだけを出してほしいし食べたいのである。挽肉とかパン粉の話が読みたいわけではない。これが極少数派だから、世の本にはそれらがぶら下がっているのに違いない。一人でふらふらと、気分が落ちている時はパーっとすればいいじゃないかと思って、回転寿司を食べに行った。一人なのにテーブル席に割り当てられて、一体何事かと思ったが、変な時間だったし、一人を一人席に通す積極的な理由がない場合はテーブル席にも座れるものらしい。厨房が欠けて見える、レーンの出入りが目の前で行われる、壁にぴったり沿ったテーブル席で、レーンからぶら下がって、埃がくっついて黒とか黄色とかになったテープが、通り過ぎる寿司カバーをぺろぺろ撫でるのを眺めていた。飲食店は清潔であるべき場所のひとつだが、だからと言って、飲食店が清潔な場所であるという事にはならないのである。これは他の多くの場所、物事にも言える。『夫婦茶碗』の裏の筋書きや帯に、狂気とかなんとか書いてあったが、この意識の流れは私にはforeignなものではない。いい加減な事を書きおってからに、あるいは、私が夫婦茶碗側なだけなのか。昨日の夜は寝られなくて自責を止められなかった。世界への参加の方法と、その需要とが釣り合うわけではないからして。