芝生での散歩を終えたら、サンダルの爪先に草がくっついていた。こちらにもオナモミ的な植物はあるのだね。オナモミを変換しようとしたら、こいつには巻耳、葈耳という漢字が当てられているらしいことを知った。どの辺が耳なのだろうか。あの物体、存在を、たとえば丸ごと耳のイメージに置き換えてみると、かなり猟奇的な絵面になる。エズラ・パウンドと言いたくなる。この前、ふとした会話の拍子に、「誰もが自分一人で心の中で使っている、他の人には分からない言葉がある」という命題を得た。咄嗟に思い出せないのは、ふとした瞬間に使っている内的マイナー言語要素だからで、でも各人の内面に、確実に存在すると思われた。私が家に帰った時に言う、「ただいマルクス・エンゲルス」みたいなものか、あるいはそれよりもっとラディカルなものだろう。しばらくやることがない日が続いていて、私という人間は、本当に、根源的な欲求がないのかもしれないなあ、とぼーっとしていた。手が空いた時にひとまずかかる何かがそれなのではないかと思っているが、私はそういう時に別に本を読むでもなく、ただぽけーっとしている方が多い。どう言えばいいのだろう、やること、やる気、何でもいいのだが、強い指向性を持ったドライブを備えている人を見ると、不気味である。向こうがこちらに対するのと同じくらい、理解できない。本当に同じ生き物なのかという気がしてくる。