他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

温泉は掘らないと出ない

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家に帰ったら、ポストに入っていた。勝ちである。ライブのDVDは公演の翌年ソフト化されるのが習わしらしく、つまりこれが最新のバナナマンライブDVDという事になる。最近知って最近時系列を辿り始めたから、時間軸が追いつくのはこれが初めてとなる。で、さっきまで観ていた。万全の状態を用意して、パソコンの前にまんじりとしてじっと観ていた。近年の中では一番出色の出来だと思う。私が知っている中では、終わるまで気を緩めずずっと追いかけていなければならないネタの本数が一番多い。あと、冒頭のネタから面白い。なんで同じ場所にいて二人しか演者がいないのにこんなに面白いのか、はなはだ謎である。しゃべってるだけなのに。3本目のネタに「YouTuber」という言葉も出てきた事から、どうもネット含めて面白そうなコンテンツは一通り漁っているらしい。すげえ。4本目は久しぶりにものすごいバイオレンスがあった。そして、最後のネタが一番重厚だった。一人4役ってできるんだ、と思った。やってた。ぐにぐにしながらも全体で見るときちんとまとまる辺り、やっぱりバナナマンのネタはすげえなあと思う。ついでと言うには勿体無いが、特典映像も全部面白い。去年これをやってたんだよなあ。すげえなあ。今年は予定が合えば行ってみたい。それはもう。最後に、ジャケット裏におまけが仕込んである。道理で、「experienced singer」みたいに歌詞が出てこなかったわけである。この作品からバナナマンのライブDVDデビューしてもいいかもしれないとさえ思う、これ買って良かったね。私があんまり美味しいとは思っていなかった店が潰れたらしい。まだ現地を目視していないので完全に確認が取れたわけではないのだが、潰れたらしい。あんまり美味しくなかったのでいいのだが。ただ、店を出すに当たって、立地がいかに重要かを教えてくれた好例ではあった。いい位置にあったもんな〜。食い終わって店出たら目の前が駅なんだもんな〜。あんまり美味しくなかったけど。流れているラジオが「今日は節分〜」的な事を言っていたので、今日は節分だったらしい。太陽が天の正中線を割るまで認知していなかった。昨晩、炊飯器のスイッチを入れ忘れて寝るという痛恨のミスを久しぶりにやらかしたため、朝ごはんに納豆を食べ損ね、大豆は口に入っていない。食うの忘れてたからやるよ、と鉄火巻きの惣菜パックをもらった。さっき食べた。恵方巻きは食ってないが、鉄火巻きは食べた。どうせすぐにバレンタインがやってくるのである。「恵方向いて渡す」とか、節分と合体しちゃえばいいのに。

どうぶつの森で海に流したビンはどこへ流れ着いたかな

ものすごく驚く事があった。買い溜めしたバナナマンライブDVDのうち、ある一本を観ていた。『LOVE IS GOLD』という、2014年のワンマンライブのものである。一本目のコント映像が流れ出した瞬間に、「んっ?」と思った。どこかでよく知り、食べ慣れた味が喉を下っていく感覚があった。すぐに分かった。いや、しかし、と思い直す。いや、まさか、の念の方が今は強い。一本目のコントが終わった。オープニング映像が流れた。間違いなかった。私の直感は、と言っても元を少しでも知る人間ならば一瞬でそうと悟ってしまう類のものではあるのだが、正鵠を射ていた。というか、なんなら本家をそのままなぞったものと言ってもいいくらい「それ」だった。なんと、アニメ版『化物語』ファーストシーズンの「ひたぎクラブ」OPのオマージュ、そして冒頭で覚えた既視感は、シャフト特有の、映像なのに字面をぶち込んでくるあれだった。シャフトのそれに比べれば、二番煎じ感がものすごかったが、しかし、バナナマンの周囲にいる制作スタッフ、それどころかバナナマン当人達が、『化物語』のアニメを観ていようなどとは今日という日まで一ミリも考えた事のなかった可能性である。そして、そのルートは実現していた。コンテンツが(ある程度)開かれたものであるという当たり前の事が、再び分かった。ここ数日、DMM配信のゲームで他にシナリオが面白そうなものはないかなと思って新しくタイトルをほじくってみている。グラブルなどそれなりのゲーム界隈を見聞した結果、「(制限はあるものの)好きなキャラを取れる権利ひとつ+10連ガチャ」が3000円である場合コンテンツ周りの配給が気前よく、5000円だとかなり渋い(上位コンテンツへのアクセスに課金ほぼ必須)という法則を掴んでいる。そんなに大きく外しているとは思わない。まあ、抱えているユーザー母体数の比で色々あったりなかったりするのだろうが、これが一つの決定的なボーダーではないだろうかと、私的試金石を開陳してみる。『FLOWER KNIGHT GIRL』は、5000円の方である。行動値などが結構渋いと思うが、キャラ個別のシナリオは結構いい。無論、私が気に入ったキャラしか見てないというのもあるが、「デートシーン」という他では(私が)見た事のないコンテンツが、意外と良かったりする。このゲームの運営は金の使い方を知っているらしく、イラストにじゃぶじゃぶリソースを割いているので、もしかするとシナリオライターもある程度以上の基準にしか頼んでいないのかもしれない。心臓にいい。

ブロッコリーと書かれた容器の中にカイワレが入っていた

頭がバグっていたので、書くのを危うく忘れるところだった。でも、バグるに至った経緯が分からない。月が変わったくらいで不具合が起こるような仕様なら、人間は今までの歴史で間違いなく根から死絶していただろうからだ。「しぜつ」なんていう音に当てはまる感じはないようで、さもそんな言葉があるかのように「死絶」と書いたが、ないらしい。でっかい漢和辞典とかを引いてみると、ひょっとするとあるかもしれないし、戦前、あるいは漢文の素養がある知識人がうようよいた時代くらいに遡れば、あの辺の日本人は「頭では確かに分かるけど辞書には載ってない」言葉をバンバン量産しているはず(個人的見解だが、古い岩波文庫なんかを読んでいるとものすごい)なので、コーパスレベルまで辞書を拡大してみると一例くらいは見つかるかもしれない。晴れているのに寒い日だったし、寒いのに明るい日だったし、なんなんだろう。暦の上ではひな祭りまっしぐらに差し掛かる、新年と春のインターバルに当たる一番中途半端な時期だからといって、季節としての身の振り方までぐずぐずしていていいというものではないのだぞ。二月に誕生日を持つ知り合いが2人いるので、あんまり2月のことをくそみそに言い腐すのはやめよう。何日か前にも言った気がするが、ミツカンの鍋スープパウチが美味しい事を発見してしまったので、店頭に並んでいる限りを片っ端から試してみている。今日はキムチ鍋と塩ちゃんこ鍋のスープを買ってきた。和風の鍋に対して「スープ」という横文字を使うのはたいへん気が引けるのだが、「汁」と言ってしまうと、なんか嫌だ。「だし」でもない。「素(もと)」でもない。手頃な述語が見つからないので、じゃあやっぱりとりあえずひとまずスープかな、と思う。でもスープと言ってしまうとクノールのお湯で注いで溶く、顆粒タイプのコーンポタージュみたいな感じがしてしまうので、ベーススープという生硬な記述をここでは充てておきたい。今まで買ったスープは、何の異論もなく、表情筋に一切の違和感を認めずに「美味しいですね」と言えるものだったのだが、キムチ鍋は想像の数倍キムチの酸味が強く、ちょっと喉に引っかかる感じがあった。味に癖のあるスープではあるので、もしやバッチグーな相性なのではないかと見越して買ってきた生うどんとはマリアージュだった。同じ下心で買ってきた国産豚バラも脂と酸味がちょうどよかった。白菜とか入れるといいのかな。鍋を作るとつい野菜を入れすぎる。いくら火が入ってしんなりすると言ってもねぇ。

バウムクーヘンが何かに似ていると思ったら、さけるグミを丸めたらああなるんだ。

目には目を歯には歯をぶつければどうにかなると偉い人が教えてくれたので、臭い豚肉には香りの強い草をぶつければ解決した。私の経験上、大抵の肉は適当に炒めた後に香草を振って塩で味を整えれば食べられる範囲の味に落ち着く。今は手元にタイムしかなく、ローズマリーとかはよく分からんが、タイムが一番クセの強さが大人しい草だと思う。肉によく合うのは多分これだ。白身魚のクリーム煮を作った時にタイムをいい感じに混入すると香りとこってりさが共存したので、使い方を勉強すれば幅を持たせて遊べるような気がする。せめて、草なのだからもう少し安くしてくれればいいのにとは思うが、大麻は草なのにめちゃくちゃに高いから、草の中にも色々あるんです、と言われてぐうの音も出ずに従容とはい、はいと頷くしかない。そんな言い草ないよ。しばらく雨が降っていなかった反動なのか、結構な轟音を立てて雨が降ったり止んだりしている。今日洗濯しようかすまいか迷って末にやらなかったのでよかったはよかったのだが、明日にはどうなることやら分からない。出来るだけ早いうちに収束してほしいが、しかし反面聞くところによると雪になるとかならないとか。私が知る限り、今年はまだ雪が降っていない。一年に一回くらい目にしておきたいような気もするし、降ると寒いし外に出るのがさらにますます億劫になるし。外に出たおかげで、内実伴って今月の用事は終わった。オール・イズ・オーヴァーだ。こういう時、ドイツ語だとausを使うのだが、これで言いたい事は特にないので、隣にいるドイツ人がausと言っていたら、何か終わったのかもしれないな、と想像してみてほしい。これだけだと「終了ーッ!」の意味になるとは限らないので、あまりしたり顔で吹聴されると困る。友達の前で、取り返しのつかないミスをやらかしてしまった瞬間などに、アウチの代わりにausとでも言っておけばよかろう。ドイツ語といえば、ビスケットをドイツ語で言うとBiskuitになるらしい。読みは「ビスクヴィート」である。ビスケットのサクサクスケスケ(skという子音の並びが同じだからビスケットはビスケット感があるのかもしれない)という語感に反し、全然可愛くない。クヴィあたりが特に可愛くない原因かもしれない。でもよく見たらフランス語で「二度焼いた」という意味らしい。すると、フランス語のビスケットが可愛くないのがよくないのか。オシャレなのに可愛くないのか。一応共存は、するか。

剥いだ身ぐるみの脱衣所

とりあえず今日で今月の用事は全て終わったくさい。そうだといい。終わったものとしたい。理由はよく分からないのだが、たまにAmazonで死滅したはずの商品に在庫が復活していたりする。どこかの売り手から引っ張って来たものなのかもしれないが、狙っていた商品でその現象が起こるとありがたく注文する場合が多い。今日はふらっとバナナマンのDVDを探していたら、限定版ボックスがなぜかひとつだけ正規で並んでいたので、とりあえずポチッとしておいた。地方のCDショップに行くとなぜか珍しい初回限定版が残っていたりするが、あれと似たような事が起きているのだろうか? 豚肩ロースを食べてみたら、期待したのとものすごく異なる味がした。ブリンブリンした肉質で、脂が歯と摩擦を立ててぎっちぎっちして、なぜかしょっぱささえ覚えるこの食感、私は身に覚えがある。かつて英国のマーケットで買ってきた、塩漬けでめちゃくちゃ臭くて食べられたものではなかった豚肉に似ているのだ。あっちは冗談抜きでアホみたいに臭く、アホみたいにしょっぱかったが、こちらの豚肩ロースもいいセン言っている。さっき母に電話する用事があったので相談したら、圧力鍋のお世話になるか、紐でふんじばってとろとろ煮るか、どちらかの手段に訴えれば解決するらしい。そういえば圧力鍋を持っていない。買ってもいいが、買ったところでそんな頻繁に圧をかけたくなるかというと疑問が残る。手羽元の調理にはいいかもしれない。圧力鍋ってなぜか総じてでっかいし、どかっと煮物を作って保存しておくのも検討していいだろう。さすがにIH機器非対応デースHAHAHAHAHAとほざく圧力鍋はあるまい。朝ごはんに目玉焼きを作って、冷蔵庫の中で完全に文字通りのデッドストックと化していたブルドッグとんかつソースをかけてみた。ノリで買ったはいいものの、炒め物に使うには味がぬっとりしすぎているし、では文字通りとんかつを家で作るかといったら、家で揚げ物は絶対に作らない。絶対にである。キッチン保全の観点から見て、揚げ物は大変な邪悪である。普通に塩をかけた方が美味しい。とはいえ、そんなことを言っていてはとんかつソースもその隣で同じく化石と化しているめんつゆも報われない。でもどっちも使わないんだよな……。入手する段階である程度の取捨選択が必要らしい。モンハンみたいに、とりあえず採れる素材はいっぱい集めとくか!!! みたいな芸当はできない。不便だ。

辞書にもない意味を託すのだから難しいに決まっている

ぼーっとしないための現実逃避の一策として、「自分の子供にどんな名前をつけるか」を妄想する事がある。たま〜にやる。まだ見ぬ、それどころか顔を見るかどうかさえ不安になるレベルではあるが、自分に子供が産まれたら(男なので「産んでもらったら」かもしれないが)どんな名前をつけようかな、と思って考えてみると、それはもう全然決まらないので困る。そもそも普通の名前をつけたくないなと思っているひねた性根の持ち主なので、条理を逸脱しないギリギリのところまで許容範囲を広げた上で、さてこの綱渡りを向こうまで遂行するのはどんな名前かな、と思案する。こういう漢字を入れたい、こういう読みにしたい、こんなモチーフの名前にしたらどうか、などなど、考え出すと冗談抜きで次から次へと出てきて次から次へと「なんか違うな」と思ってしまい、それはもう全くと言っていいほど決めあぐねる。世の中の父母、そして私の両親は、よく私の名前をひとところに決めたものだと感心してしまう。適当に考えてあしらってよい選択肢ではない。子が一生背負う記号を、じゃあさてどんなものにしてやればいいのかと思うと、こんなのがいいかもしれないあんなのがいいかもしれないこの漢字を入れてこの読みだと不自然だから残念ながら却下……という円環をいつまでも描き続ける。ただの音声でただの文字なのだが、そのただのものを背負わせるのに、これほどの覚悟と決断力が必要だとは、なんだかんだ言っても親は強いのかもしれない。ここ数日、メンタルが空き巣に入られた家のぐちゃぐちゃ箪笥状態なので、なかなかお家でご飯を作る気になれず、外で食べて帰ってくる事が多いのだが、今日は帰途にあるもののいっつも前で尻込みして退散していたモスバーガーに行った。決まり切った家路を変更して別の店に行くのさえ億劫だったと言える。高いというイメージがあったモスバーガーであるが、それはきちんと高かった。バーガー単品で400円ちょいはまあ理解できるが、ポテトと飲み物をつけるだけでもう400円以上持っていかれるのは中々メンタルにくるものがあった。ただし、バーガーの肉は焼き立てで、ちゃんとした店で食べた記憶のあるハンバーグよりなんなら美味しかったし、ポテトも普通に美味しかった。値段を払えば相応のものが出てくる、のテンプレートみたいな消費活動をしてしまった。バーガーの包み紙の末端に、調子がいい時の射精3回分くらいのソースとチーズの混合体が溜まっていて、その辺も含めて、金ってすごいなと思った。

ランゲージボディ

卓上調味料として飲食店に置かれている豆板醤は、どこの店で食べても同じ味がする。厳密に言えば、そりゃあ当たり前にメーカーが違うのだから味は違うのだろうが、しょっぱい辛さが全てを塗り潰すから、舌が「おっ、これは豆板醤の味やないか」と知覚すると同時に、舌の許容限界を超える濃味が津波のように他全ての味をさらっていく。豆板醤に洗われた後の地表に残るのは、ただ殺伐とした豆板醤の味だけである。豆板醤は赤いが、食べ物が持つ味をカラーで表現するならば、豆板醤は黒である。真っ黒。だいたいおよそどんなものにつっこんでも、それを自らの色に変色させてしまう、最強の黒である。にんにくは、食べている時はそうでもないのに、食べ終わった瞬間から口内での存在感が随一になる尻上がり型の食べ物である。生であればあるほど、その感が強い。文庫本を一冊読み終わって、そういえばまともな本をまともに読了したのはいつぶりだか気が遠くなるくらい久しぶりな事だったのだが、その筆者の文章が、「あー、この人はめちゃくちゃにいい人なんだろうな、間違いない」と思えるような、思わせるような文章だった。文章から人となりが分かるかどうかは、それを信じるか信じないかからそもそも意見の相違があるだろうけれど、私は文章を人の判断基準として採用している。トップ3に入るくらいの優先順位ではある。ほとんど冗語がなく、潤い流れるような文章で内容もギチギチなのに、ストレスを一切感じさせない柔らかなスタイルだった。よく考えたら全く知らない人でもないかもしれない、それどころか、その人とは知らずに実際に目にした事さえあるかもしれない。その時はこんな文章を書く人だとは知らなかったが、文面からいい人オーラが醸し出されている。読んでいて気持ちがいい。サーフィンをした事はないが、いい波に乗っている時のサーファーはこんな心持ちでなみのりピカチュウしているのだろうか。それなら、癖になって海にサーフボードを抱えていくのも理解できる。その一方で、私にとってはぜんっぜん面白くない文章も長時間読んでいたので、興味関心は致命的なファクターだなと何回目だから分からないが、またそう思った。格安SIMが今のスマホ料金を半分に、と料金を提示していて、そこで私のガラケー月使用料を思い出した。1200円くらいである。映画のチケット一本分でしかなかった。すると、普通のスマホをキャリアで使うと、いい靴を毎月一足買っている計算になる。むむむ。

モナカの構造を典拠に平等を謳う事はできる

チョコモナカジャンボのパッケージにふと目を落とすと、製造所の欄に「森永エンゼルデザート株式会社」と記載されている。頭の中では漠然と「モリナガ」というメーカー名が浮遊乱舞していたのだが、事業形態とか色んな理由で末端まで辿り切ると、この「森永エンゼルデザート株式会社」に辿り着くらしい。新興宗教みたいな名前だな、と思ったし、未だにその印象が拭えない。恐らく、「エンゼル」+「デザート」というスウィーツな組み合わせが、ファニーでポップでストレンジな感じを醸し出しているのだ。さすがに地元にあった「パーフェクトリバティ教団」ほどのクリティカルヒットを叩き出しているわけではないが、エンゼルデザートも相当に怪しさを醸し出していると思うのだ。天使のデザートってなんだよ、とつっかかりたくなったが、そうではなくて「森永エンゼル」の「デザート」部門なのだ。多分。エンゼルの方が罪業深き単語に見えてくるが、やはり宗教的な文脈を思い起こしやすいからだろうか。エンゼルデザートって名前のお笑いコンビがいそうな気もしてきた。気がしてくるものはあったりなかったりして、どちらの程度が高いのか言ってしまいたいが時と場合に寄りかかりすぎて起き上がれなくなったので断言はしないしできない。でっかいテーブルの上に半身を乗り出して布巾掛けをしていたその時、突然に、それはもう突然に、「エロ漫画でたまにある、『ドスン』という突然の挿入は極めて恐ろしい事である」と直感的に理解した。上半身が机側に投げ出されているので身体を満足に動かすことは叶わないし、重力に従って内臓が垂れ下がっているし、何よりかにより、地面にとどまるためにふんじばっている下半身がどうしようもない。この状態で後ろからぶち込まれたら、内臓は揺れるわ抵抗はできないわ、こちらが体勢を崩して机に体重を預けて安定を図ろうものなら、そこを起点に下半身を制動されてしまう。視界が完全に前方のみに局限されているから、音を立てずに忍び寄られたらおしまいである。俺は、ノーパンで勤務するよう指示した上で、仕事中のメイドさんに後ろからいきなり襲いかかってちんちん気持ちよくなるようなご主人様にはなるまいと誓った。そもそも状況設定に設定不可能なパラメータばかりが散見されるのが気になるが、それよりも、あの瞬間になぜか意識に飛来し直観せしめた、無慈悲に内臓を揺らされる恐怖、これを忘れて女性に接してはいけないのではないかと思った。根拠はない。

いつもタヌキの置物みたいな顔で座っている

近隣で工事が相次いでいる。真横のドガガズガガもそうだが、一本入った路地では旧家屋を取り壊していたり、道路工事をしていたり、くっそデカい建物が日々成長していたり、ゼネコン感が溢れている。私はゼネコンという言葉に対して、利権とかなんとか、そういうよろしくない文脈づけをされたセンテンスしか覚えがないので、ゼネコンに積極的にいいイメージを持っていない。というか、ゼネコンが何を意味するのかよく分かってない。風が強い日が続いている。人間は、顔以外はしっかり防備できるように衣類を開発した。顔以外は分厚い上着を羽織り厚い生地の穿き物でも装備すれば万全である。その万全から一を欠くのが顔というパーツである。ここばかりはどうしようもない。銀行強盗フェイスかフルフェイスヘルメットをする以外は、マフラーを盛り上げて下何割かを申し訳程度に隠すか、頭にニットキャップでもかぶるか、マスクをするか、など、いや、よく考えたら色々防護策は講じられていた。ただ、手軽にバリアを貼れる場所でもない。目鼻出し帽子が被覆面積的にはパーフェクトだが、見た目がパーフェクトからは程遠い。町並みをそこまで堂々と歩かれては銀行強盗には見えないかもしれないけれど、企画モノAVで出てくる顔を出さない男衆みたいな感じには見えてしまう。もっと賢く顔が寒くない装備品が出てこないかな、と思う。寒さは分厚い布地さえ貫通してくるものではあるのだけれどもね。寒いし、風が強い。ぴゅんぴゅん吹いている。おかげで、干した洗濯物がばっさばっさ竿から落ちている。対抗して、ハンガーに干したタオルをさらに洗濯バサミで重ね留めし、これで落ちないだろうと思ったら、落ちない代わりに受け続ける風圧が増し、ハンガーもろとも竿から落っこちていく、という追いかける方が負けるイタチごっこを続けている。そして、大家さん側家屋で工事をしている作業員の人が、私がいる側を通って作業スペースに赴くらしく、落ちていたら出窓の柵にかけてくれている。大変ありがたい。何かお礼でもしようかな、と色気付いてはみたものの、チョコモナカジャンボくらいしかあげられるものがなかったので、心の底でありがとうありがとうと繰り返して一年天に通じ地にもう一回戻ってくる事を願うばかりである。今日スーパーで前に並んでいた人のカゴを見ると、ものすごい「その人の生活臭」が爆発している中身だった。人間、めちゃくちゃな食生活でも、生きてはいけるのだなと思わされる。

添えるだけの片手とか

モナ王チョコモナカジャンボを食べ比べると、チョコモナカジャンボの方が圧倒的に美味しいじゃないかと思ったのだが、これと同じ事を高校生の時にも思った記憶がある。時を経て同じ事を考えている。間にチョコが挟まっているからかもしれない。素牛丼より紅ショウガの乗った牛丼の方が、そしてそれよりも生卵のついた牛丼の方が、なんかいい感じするのである。プレーンの卵焼きよりも、明太子入りの卵焼きの方がなんかいい感じに思える。バニラソフトよりもミックスソフトの方がいい感じだとは思わないが、添加要素が「いい感じ」を醸し出すのはよくある事だ。着エロにも話が及ぶような気がしたが、そちら側の話をしたいわけではないのでしない。用があったので図書館に行ったのだが、ほぼ行った事がないに等しい、コロンブスにとってのアメリカ大陸並みに馴染みのない場所だったので、入り口付近に十分なスペースがないと見るや、目の前の階段に目をつけ地下に降りた。座って落ち着ける机とか椅子とか、そんな感じの場所があると思ったのである。なかった。狭い感覚で並べられたマニアックな書籍が居丈高に並ぶ、お世辞にも明るいとは言えない空間に、絶妙に座高の低い机とテカテカして不安な座り心地を感じさせる椅子があった。未知にして無知とは怖いもので、私はそのへんちくりんな場所に設けられた、おそらく一時閲覧用の応急スペースみたいな空間で3時間くらい居座っていた。あんまりにも光源がとぼしいので、厭になって帰ろうと降りてきたのとは別の階段を登って階上に出ると、平然と、たっぷりとした机椅子スペースが広がっていた。入り口から、狭い書庫の間をぬるりと通り抜けて来るとこんなユートピアがあったらしい。実に、知らないとは恐ろしい事である。財テクとかうまい手の抜き方とか、人生のパフォーマンスに関わってくるような事でさえ、知らないまま時計の針が進んでいく事もままある。帰ってくると、玄関ドアに大家さんからのメモが貼ってあった。糊が残らないようにという配慮なのだろうか、それにしても養生テープで髪を貼り付ける場面というのは、固定具として養生テープを習慣的に使っていないとできない芸当だと思う。一瞬断水するからおしらせしますね、という事だった。どうせ日中に終わったのだろうと舐めてかかっていたら、19時前に大家さんが来た。まさかの夜だった。不便かけてごめんちゃい、という事なのだろうか、レトルトカレーをくれた。ゴーゴーカレーのカレーは、「美味い」をおにぎりにしたような説得力があったが、あれを知った後に食べるレトルトカレーは、虚無だった。

ポイフルをくれる人

アルフォートを食べたが、年単位の間隔を置いての事だったような気がする。きのこの山たけのこの里も、そしてさっき食べたアルフォートも、よくよく因数分解してみればサクサクの部分とチョコレートの部分でしか構成されていない。さすがにプレーンクッキービスケットのような単一要素で構成される最もシンプルな組成ではないが、2でもってこれほどの大物が生まれた事はびっくりしてもいいような気がする。おまけに、きのこたけのこについては、様々な人間を巻き込んでの戦争さえ引き起こしている。昔の人間は農地を奪い取るために戦争をした。今の人間は嗜好品への志向をきっかけに戦争をしている。さすがにかけうどん、かけそば、白飯、などを巡ってあれほどの争いは生まれまい。きのこ原理主義、たけのこ信奉主義はしばしば(本当に大真面目に思っているのかどうかは分からないが)目にするが、かけうどん原理派、白米原理派には出会わない。もしかしたらどこかで地下活動に励んでいるのかもしれないけれど、ムーブメントを引き起こすまでには至っていない。日本の食生活を見ると常に白米ブームみたいなものだが、かけうどんが原宿でめちゃくちゃに流行ったり、かけそばが渋谷で爆発的にヒットしてムックブックが刊行されるに至ったりはしないだろう。香川県るるぶは半分うどん屋のムックみたいになってはいるが、シラフのかけうどんのみをストイックに取り上げ続けているわけでもない。近場で熱によりぶっ倒れた人が出た。これも流行りに乗っているのかもしれない。私は面会する前だったのでよかったのだが、2月に差し掛かろうというこの時期にインがフルフルするのも季節外れなような気がする。頭の中で、2月という時間に季節を割り当てられていないからかもしれない。冬というにはだいたい終わってしまっているし、しかし春というには早い。寒い事もあるからだ。目玉イベントが節分しかない。恵方巻きをド真面目に食べる家庭は、日本の全所帯のどれくらいなのだろうか。節分しかないは大嘘だった。バレンタインがあった。バレンタインか〜〜〜。バレンタインな〜〜〜。スーパーで板チョコが安くなる、程度の認識しかない。あと、ファストフード店でチョコレート関連企業とのコラボメニューが出てくるのも2月な気がするが、ロッテリアは秋頃にガーナと何かやっていたはずだ。あの時期に、他の業界が頑張って、好きな相手にこんにゃくを渡すとか、そういう脱線をさせてくれないかなあと思うが、チョコレートほどキャッチーな球を見逃すアホなバッターなんかそうそういないか。

長年継ぎ足される秘伝のタレは死ぬことも許されないのかね

駅の黄色いブロックは、構内アナウンスだと「黄色い点字ブロック」と言われていたはずなのだが、今日耳にした英語の構内アナウンスによると、「yellow warning block」と言うらしい。黄色い、危険を告げる、ブロックらしい。ドイツ語的な語法で考えると黄色い、危険警告ブロックという風な意味になるのだが、そもそも英語なのでこの操作思考が無駄である。黄色い点字ブロックと言ったって、そも黄色くない点字ブロックを見た記憶を掘り出そうにも、ほとんどなかなか出てこない。灰色のがどっかであった……? かな……? 記憶違いかもしれない。そんな程度である。ただ、落ち着いて考えてみると、黄色い→yellow、ブロック→blockという対応はいいとして、点字に対応する部分がwarningに変貌を遂げているのが気がかりである。別に、こちとら点字を危険なものとして認識しているわけではない。そんなデンジャラスなものがシャンプーのボトルやエレベーターのパネルについていたら、今頃日本は、もっと言えばバリアフリー国家はなくなってしまっているだろう。あのかわいい隆起に、危険性はない。白線の内側まで下がれ、危ないから、という趣旨の一番大事なところ、「危ないから」を取り出してこのような英訳と相成ったのであろうか。外国の駅ホームでのアナウンスって真面目に聞いたことがない。というか、流れてもスピーカーがうんこみたいなものなので、しょぼい音量音質でネイティブの早口で流れるから、波形として耳に届いているに過ぎない。とりあえず、明日からは黄色い点字ブロックを見るたびに「あぶねぇ!」というメッセージを思い出したいと思う。鍋キューブは大変優れた素晴らしい商品であることは確かに歩を譲るまでもなく認めまくるところなのだが、さすがに長期にわたって継続的に使用していると飽きる。健全なものはドラッグとは違うのである。飽きた。だんだん脳味噌が汁に含まれる水道水の匂いにさえケチをつける余裕を持ち始め、これはいかん、どうにかして食事のQOLを維持しなければならないと考えた。そこで、スープの素ではなく、「スープそのもの」を買った。オナホでだめならソープに行くのだ。グーグルストリートビューでだめなら、飛行機に乗るのだ。いっこめの喩えは忘れてほしい。詰め替え用シャンプーよりでかい、あの鍋スープシリーズを買って来た。テイストは、ごま豆乳鍋。ファンデーションを水に溶かしたような、すっとぼけた茶色をしていたが、普通にめちゃくちゃ美味しかった。今度から何種類か試してみるつもりである。

うる、さい、おい

ものすんごい音がしていた。モンハンをPSPでやっていた記憶が蘇る。確かティガレックス関連の装備とかクエストには「轟」という字が含まれていたはずだ。耳栓しないと咆哮で行動不能にもなったはずだ。轟は、聴覚的な姦しさを視覚的な姦しさに置き換えている。線が多くてうるさい。9時か10時を回った頃、壁一枚隔てた隣から、この轟が塊になって襲いかかって来た。大家さん側の家屋で風呂場か何かの工事が行われているらしく、木材がドリルと擦れた香ばしい匂いもどことなく漂ってくる。そして、ものすごく究極に、精神をそれこそドリルで擦り減らしてくるほどにうるさい。空港の近くに住んでいる人はもしかしてこんな気持ちなのかもしれない、そう思うほどにただひたすらに、他の思念さえ抱かせず、暴力的にうるさかった。辛かったので、やがて私は家を抜け出した。その工事の合併症だったのだろうか、水道も止まっていたからである。トイレに行って、手を洗おうとしたら水が出なかったので蒼褪めた。管の中に残っていた水を揺すり落としてなんとか手を洗ったつもりになった。朝というのは、一日の中でも最も多量の水を使う時間である。洗い物とか、顔洗ったりとか。そのへんの行動が全て根っこから抑えられてしまったのだから、家を出るしかなかったのだ。マクドナルドに行って早めの昼食をしていた。目の前では、ドがつくほどの平日なのに、明らかに小学生であろう少年がスマホを一心に見つめながらダブルチーズバーガーを食べていた。なんかあるんだろうな、と思って見ていたら、彼の両脇にすっと入り込んで来た大人約2名の姿。おっさんの方は、手に何か、ああ、警察手帳だ。児童保護的なアレらしい。2、3の質問をしてから、彼が日中にこんなところにいる事に関しての陳述に納得したのか、警察は店を出て行った。学校が休みらしい。ふーん。無料でコーヒーが配られているのを知らなかったが、給水所みたいに、ただコーヒーをもらって行く人がたくさんいて、私は無理だな、タダでなんかもらって帰るだけというのは、と思った。図書館に逃げ込んでから、日が落ちるまで時間を過ごし、スーパーに行った。前に並んでいる人のカゴを見ると、自炊すればいいのにな、と考えるが、金があれば中食でも十分やっていけるのだろうか。帰り道、インド人のおじさんを道案内していたらしい少年を見た。かなりの距離を連れて来たらしい。玄関に、工事がうるさくて不便かけてごめんね、という大家さんからのメッセージが貼り付けてあった。家の中に入ると、断水していたため水を張る事叶わなかった炊飯釜に、なみなみと水が入っているのを発見した。そういう事らしかった。めちゃくちゃエロ漫画が表に出ていた。あちゃー。

桃太郎さん、お腰につけたポン菓子、ひとつ私にくださいな。

誑かすという漢字は、とてもいかつい構成である。言葉で狂わせる、これを一文字にまとめると誑かすになる。今の時代に、ボードレールの詩を読んで自殺する青年がどれくらいいるのかは分からないが、甘言でもって道を踏み誤らせる、というのはいつもどこでもある事だ。「みんなやってるよ」「すぐ痩せられる」「頭がスッキリする」「さきっちょだけ、さきっちょだけだから!」などがその類に属する話だろう。「狂」という字が入っているのが、既に「誑」が内包するエネルギーの暴力性をほんわか匂わせている。壁一枚隔てたすぐ真横でリフォーム工事が施行されているらしく、dやg、bといった子音を用いて表される暴力的な騒音が夕方頃までほぼ間断なく鼓膜に喧嘩を売りに来ていた。静か、ほぼ無音でないと物事に集中できないため、精神の軸ががったがったと大きな振れ幅で侵されていた。多少の騒音に対しては耐性があるつもりではいたのだが、あんな音をぶっぱなされて続けていたのであれば、遅かれ早かれ正気のネジが飛んでいってしまうだろう。それほどまでに可愛げのない、そう、可愛げのないノイズだった。今日で全行程が終わったかどうかは分からないので、もしかしたら明日もまた、ただ空気が振動しているだけなのにどうしようもない苦痛をもたらす現象が真横で発生するかもしれない。ただの物理現象であるが、されど物理現象である。財布のベロに挟み込んでいた、マクドナルドのクーポン券の存在を思い出した。クーポン券という言葉には、思わず口にしたくなる可愛らしさがある。ハローキティが「クーポン券」と言っても、ミニーマウスが「クーポン券」と言っても、可愛いねと処理できるくらいには可愛いという概念に親和していると思う。ハッピーハピネス夢の国の住人にそんなしみったれた生活感丸出しの単語を口に上して欲しくはないが、ハローキティのポップコーン供給筐体が「クーポン券はいかが?」と言っていても違和感がないだろう。そういう事である。思い出したので、マクドナルドにヒーヒーダブルチーズバーガーを食べに行った。辛いものは苦手だが、蒙古タンメン中本くらい情け容赦ないものをマクドナルドが出してくるはずはない、という思いなしに基づく行動である。注文する前にトイレに行ったら、洋式であるにもかかわらず、便座の上で小便雫が蒸発した後がなく、ここは客のマナーがよい店舗なのだなと窺い知れた。清掃の直後だった、というだけかもしれない。ヒーヒーというくせに、それほど辛くなかった。あと、ハバネロソースの色が安っぽくてなんか嫌だった。次行くなら普通のダブルチーズバーガーを食べる。誰かと猛烈にファミレスに行きたい気分だったが、そんな人がいなかった。

大福餅の他には中小もあるのだろう?

昨日発作的にいっぱいコントのDVDを買ったので、それを観ていた。一人の人間でも、色んなものを書くものだ。本を買う癖は昔からあったので本を収納、あるいはそこに存するだけのスペースを設けるのは無意識のうちにやってしまっている事なのだが、映像ソフトというか、CDとかDVDは大量に買って持っておくという経験をしてこなかったので、今現在机の上にバナナマンのライブDVDが散財する惨状に成り果てている。何かをしながらコントの音声を聴く、という作業BGMみたいな流し方をしているものだから、展開は覚えているがそういえば身体的な動きではここはどう表現されてどんな身振りがついていたのだったか、という点は覚えていなかったりする。コントとかを観ていると、セリフはほぼ一字一句決まっていて、それに身体が伴って読み上げられているだけなのだが、そのはずなのに、その瞬間瞬間に生起した未熟な肉声に聞こえる。本当に、書かれた文字列は音のついた文字列に勝てるのかどうか不安になってくる。勝ち負けとかではないのかもしれないけれども、後発のデバイスが先達に敵うのはとても難しいという事の証左かもしれない。線画と完成グラフィックのどちらがより訴求力を持つかといえば、大概の場合において答えは圧倒的に多数の支持を得て決する気がする。emissionが少ないから、こういう事を多分考えるのだ。温室効果ガスと違って(まあこれに関しても諸々立場による言い分があるけれども!)、これは恐らく出した方がいい、出せば出すほど旨味があるそれなのだ。洗濯物を干そうとして、7つあるべきハンガーが6つしかなく、しかも出窓からの可視域を見渡してもどこにもその痕跡が見つからなかったので、「あ、これはパクられたのかな」と合点した。室内の在庫と洗濯済みの在庫、これらを照合してみると、海外のH&Mで買ったクソでかくて分厚いバスタオルが一枚見当たらないのだ。前の家では、ベランダの物干し竿にかかっているハンガーが不可解に消失するという現象に見舞われ、結局カラスが巣作りのために持って行っていたという真実を目撃して解決した。今の家は柵で囲われたスペースに出窓があるから、闖入者がわざわざ侵入してこなければ失物の憂き目には合わないのだ。どこの不埒野郎だこのヤロー、と思いつつすべて干し終わり、ふぅと息をついて出窓の真下に視線を下ろすと、壁ギリギリ、出窓直下に落ちてくたれたバスタオルが見えた。私の中では性悪説が基本原理らしい。