他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

nay rather

書く事ないよ。基本、部屋でじっとしとるんだから。じっと。まじまじと見つめる時もじっとだし、身動きをしない時もじっとだな。石川啄木が、ぢっとてをみるの人だっけか。ない。書く事。自分一人では限界がある。せめて散歩くらいはしないと、人間おかしくなるものかもしれない。でも、出歩きたくないような世相なのは事実だ。外に出ると、見えない棒があって、犬も歩けば棒に当たるし、人間もあるけば何某に罹る。私が今いるところは、外を歩いてみると、誰も彼も、ほとんど全くマスクを着けていないので、おっそろしいところやなぁホンマに、と思っている。私の中にある関西弁は、開高健筒井康隆野坂昭如の小説から帰納されたちゃんぽんである。もしかしたらmoldedな関西弁なのかもしれない。高校の英語の先生が、サッカーの大会で開かれた記者会見において、海外の監督が述べた事を通訳した時、あまりに、ネイティヴからすれば大仰な言い回しを使うので爆笑されたみたいな話をしてくれた記憶があるが、あれに近い。あまり芳しい状況では、この国もないようだから、こんな事でええんかいなと思うところはあるが、しなくてもいいのであればしたくはないものであるから、彼らの気持ちも理解できる。動画なり、絵画なりを見て、「あれッ、なしてこの人らはマスクしとらんねんやろ」と思うようになっている。顔面の表象がずばり、全幅で出てきていると、そちらの方に違和感を覚えるようになってしまった。慣れとは、恐ろしいというか、浸潤性の高いものである。三年前まで、どんな風に暮らしていたのか、おぼろげに、ほとんど無と言っていいくらいに覚えていないと言いたくなるくらいに、ここ数年が強烈だった。だいたい押し流されてどっか行ってしまった。これもまた、自然はかくも偉大なりの一側面である気はする。昨日は早く寝たが、部屋があんまりいつまでも明るいので、寝たのか寝てないのかよく分からなかった。カーテンを、でっかい窓にかかっているカーテンを閉めたが、それだけでは足りず、その両脇にある、縦長の窓2つが、びんびんに明るみを取り込んでいて、でっかいカーテンの方が全然意味を成していないかのようだった。いつまでも明るい。真向かいにある建物が、街灯を綺麗に反射して、まるでオレンジと青色でライトアップされたかのようになる。田舎のしょっぱいパチンコ屋かガソリンスタンドくらいの明度はある。何もしていなくても、咎められなくて、生きていけるのが不思議だ。文句言ったものの、今日はなんとか書けた。ふぅ。