他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

祗候

ガリヴァー旅行記を、3分の1くらい読み終わった。面白い。これは面白い本だ。めちゃくちゃ面白いわけではなく、常に70%の面白さが継続する感じ。たまに、いやもっとか、肌に合わないものもあるが、古典と呼ばれるようなものは、よいものが多い。合わないものもある。昔読んでピンと来なかったし、今読んでも欠伸が出るだろうが、風と共に去りぬ、そしてそれの続編、これは全然合わなかった。私はラブロマンスとかその辺はさっぱり分からん。訳がとてもよくて、もともと日本語の散文で書かれたものですと差し出されても疑いを挟まないであろうくらい自然である。そして、語彙が手の届かないところにあるので、辞書をめくるのが楽しい。優渥という言葉は、ふりがなが振ってあるから読めたが、意味は知らなかったし、人生で初めて出会った気がする。「ゆうあく」と読むらしい。いい意味だ。麦の穂にある尖った部分に名前がある事も初めて知った。芒(のぎ)と言うそうだ。人生で聞いた事があるだろうか。知らないだけで、世界は、名詞で全て記述できるのではないかという気がしてくる。もしできたら、素晴らしい事だろう。机の上が汚くなってきた。本を片付けないせいである。読み終わっていないのに他の本を読み始め、さらにその間に新しい本を買ってくるからである。動きとして抗えないので、そうなってしまう。りんごの皮を剥くと皮の生ゴミが出るように、くしゃみをすると飛沫が飛び散るように、本屋に行くと予定の数倍、本を買って出てくる。結局、今でも、ゲームが好きなのか嫌いなのか、もしかしたら嫌い寄りなのではないかとずっと思っているのだが、本を読む事に関しても、あるいは、それ以上に深い葛藤がある。なんでこんなしち面倒臭い事を好んでしているのか分からない。なんなのだろう。道を歩きながら、心身が乖離する時期なのかもしれないと考えていた。寝られないのはそのせいかもしれないし、頭の中が普段にも増して真っ白で茫漠としているのもそのせいかもしれない。身体の方に意識を「落とす」と、よく分からない漫然としただるさがある。さっぱり動いてやしないのだから、疲れなんてものではなくて、きっと、何もしていないがゆえの錆びつき、惰性の飽和なのだと思われる。習い性と行き摩りがたまたま人のような形をしているだけだ。当てるべき景品がない状況で、銃を渡されて、何を射てばよいのか。私には分からない。「はしまき」とかあったな。