他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

夜更かしする安全ピン

あまりに酷使しすぎたせいかもしれないが、USBでくっつけていたDVDプレイヤーが故障してしまった。どうにかしなければいけない。あまりに西友の品質が気にくわないので、家の周りにあるスーパーを検索してみたら、いくつか存在した。それぞれがどんなスーパーなのかよく知らないものの、この中に私を西友の地獄から救い出してくれるニューフェイスがいるのかもしれないと思うと高揚した。ウキウキで家を出て、頭の中に入れておいたグーグルマップを頼りに希望の光へ目見えに行った。結果、どれもしょぼいチンカススーパーであり、いくら西友がダメでもさすがに2フロアに渡って展開しているだけはあるなと思い知らされた。スーパーと名乗るエリアには、最低限並べておかなければならない品目みたいなものがあり、それにどれだけプラスアルファで拡張パックみたいなものがくっついているのかが重要なのであるが、期待したしょぼくれどもはもれなく最低限の要求を満たしているだけで、十分なだけで、潤沢ではなかった。引ける札があまりに限られていて、戦略の練りようがない。入り口の自動ドアが道を開けて一番に目に飛び込んできた棚が惣菜棚であった時、私は直感した。ここは来るべき場所ではないと。入り口にいきなり惣菜が置いてあるという事は、おそらくそういうのをメインに購買する層が主たるターゲットなのである。私はそっちではない。DV男からやっと逃れられるかと周囲に手を伸ばしたら、へなちょこばかりで事態は改善の様相を見せなかった。逃げ場のない虚無感が、とろりと胸の中を下っていった。いつか引っ越す事があれば、絶対にスーパーオオゼキの近くに引っ越そうとオリハルコンと同じくらい固く誓った。スーパーオオゼキは、東京の中で一番真実とリアルが輝いている場所である。下北沢店と高井戸店しか知らないが、少なくともこの2店舗はいいところである。東京観光スポットを紹介するパンフレットがあったら、とりあえず入れておきたい。利用しているスーパーと、レシートさえ見れば、その人となりがなんとなく分かると思っているのは私だけだろうが、履歴書を書かれるよりは人間的な部分が生々しく卑近に出ていると思う。なんでこの菓子パン買ったの、とか。美味しいよねこれ。この週だけかけたお金高いけど、家に友達呼んで鍋でもやったの、とか。買い物行くたびに焼酎買って帰ってきてるけど、肝臓とか大丈夫、とか。プライバシーというか、生命体として生きている部分を土足で駆け回る行為だから、できないだろうな。

metoikoi

寝付きが悪かったのに無理やり起きたので、横走りの砂嵐がざらざらと頭の中で走っていた。調子が悪いと、古い方のPCでは電源ボタンを長押しして強制終了していたけれど、矢印の方向こそ真逆であれ、いきなり首をねじられるような真似をすれば、筋の一つや二つ、そりゃあ痛めるよなと思った。寝られないぞ、という自覚と、寝るぞ寝るぞ寝るぞ、という自己催眠とは、頭の中で呉越同舟して互いを夜の淵から蹴落とそうとしているので、喧嘩のドタバタでいやに目が覚めて勝敗の結果が何も生まない争いを黙々と見つめて、少しだけ真似して身体をあっちにばったんこっちにばったんして、脳がじりじりと蹲って発する白い電流に頭を焼かれながら時計の進みの速さと相対的な眠りの遅さに焦っていた。一度マフラーを巻いて外に出る事を覚えてしまうと、そのシーズンは首回りからマフラーを駆逐する事ができない。首が既得権益を強硬に主張してくるのである。首回りに盛り上がったマフラーと、マフラーに押しやられて行き場を失って同じくもふっと盛り上がった髪と。きっちり巻くのが面倒になったので、簡易版の3ストロークくらいで完成する巻き方を採用した。首元にきらきら鋭く光る寒さではないので。眠いなあ。街で「花椒」という字を見ると、必ず「ホアジャオ」とルビが振られている気がする。「かしょう」じゃダメなのだろうか。山椒と何が違うのかと思ったら、花椒の方がキツい性格の女なのだという事である。確かに、あれがもりもりの料理を食べていると、3口目くらいから何を食べているのかよく分からなくなってくる。舌の上で強烈な刺激が複雑を通り越して単調に踊り狂い、バグに味がついたらこんななのではないかと思うような鋭く鈍い疼きがしばらく鳴り止まない。味覚に違法プラグを差してハッキングを受けているような気分になる。すごい麻婆豆腐を食べると、ただ刺激物を嚥下する作業をこなす人型になれる。あれほどの刺激物を常習すると、いつか絶対味なんて分からなくなるに違いないと思うのだけれど、中華料理はあそこまで発達している。慣れというのか、なんなのか、人体にはすごい部分が溢れているものである。車体がものすごく平べったくて、絵の具みたいな真っ黄っ黄で、左ハンドルの外車に乗った男が、助手席に女を乗せて、ラブホがある方角へとハンドルを切っていくのを見た。行き着く先にあるのは、お洒落なものではなかったと記憶している。外車に乗るような人でも、そういうとこ行くんだ、と思った。

歩いているうちに片足だけ擦り切れていく

「鯛みそ」という、それ以上の情報が得られないに等しい缶詰を買っていた。魚肉ソーセージを包装しているビニルのオレンジをさらに煮詰めたような、鼻をつまみたくなるような強烈な色をしている。ご飯のお供を開拓しようと買ってきたはいいものの、あまりにも得体が知れなさすぎるために、しばらく流し下に収容されたままだった。色んなサイクルが噛み合い、昨日開封した。一目見た時にはピンと来なかったが、今日の朝ご飯にのっけようとして思い出した。西京味噌みたいな色をしている。どろっとしている割にほとんど粘りがなく、すくい取ろうとするとくずおれるように千切れる。独特の強烈な匂いがすごい。食べた。西京味噌のしょっぱい部分だけが暴力的に凝縮された、べったりとした味噌の味がした。ただの味噌じゃないのかと考え、缶詰横の成分表示を検めてみると、「鯛そぼろ」の項が立っている。半透明の黄土色にじっと目を凝らして、鯛そぼろと呼称されているところの具体的な固形物を探してみる。ところどころに、それらしい白い粒子みたいなものを見出したと自分を納得させる事も不可能ではない塵のような白があったが、何回味噌を口に運んでみても、塩分で味蕾が泣きべそをかきながら敗走の白旗を遠のかせていく以外に得られるものはなかった。味噌の砂漠の中で、鯛はどこにも立っていなかった。もんのすごく珍しく、一ヶ月くらい前から入っている予定があったので、複数人と一堂に会した。以前面倒を見る事のあった人たちであり、当時以降も各人なりに生をエンジョイしているようだった。明色の中に置かれたどっちつかずの弱々しい灰色は、こんな気分なのかなと思った。集まった場所のご飯が安くて美味しかった。千円かからずに2品食べた。いかに何と言われようと、コスパという概念を一度知ってしまった以上、人生から二度と切り離される事はないだろう。一人だけ、どうしても言語野から相互理解が極めて困難な人がいて、なるほど確かに価値観が異なる人と接するのは刺激的な事だそれは間違いないと思ったのだけれど、両者の間にぽっかりと口を開けているその溝がどれだけ広いのか、測ってから足を踏み入れないと、どこまでも続く代わり映えのしない断面の走馬灯を見せられて、頭が変になりそうである。第三者の介在もあり、決定的な疎通不可という事態には陥らずに済んだが、相互を含まない集合の交歓がここまで難しいとは、今まで考えもしなかった。本当に、色んな人がいるもんである。

白熱して気球みたいに飛ぶ教室

寝起きの悪さを押して無理やり起きたところ、夕方くらいから脳味噌のだるさというのか、人間なる有機体としての不具合がものすごく、エラーコードが連発されるような鈍さの中で、ぐったりした。打ちっ放しのコンクリ壁が両側から迫り来て、ナポリタンがぐちゃぐちゃにされていくところを壁面埋め込みのカメラで見ているようなのだが、多分伝わんないだろう。うふふ、うふふ、ぽわぽわぽわ〜と空想する時に、一次題材が手元にない、unavailableなものである事が多いような気がする。自分の周りにあるものを取り上げて、これがああだったらこうだったらみたいな展開をさせない。ないものねだりの上にないものねだりを重ねて、想像上の裸の王様に空想の着せ替えをして遊んでいるような気がする。曜日を確定的に認識しておくのが難しい、よく忘れる。一週間のうち、月曜日から金曜日までは平日で、この5日間は「ウィークデイ」として認識すると実質全部まとめて1日みたいなもんである。土日は休む日だと思っているので、この2日間もまとめて実質1日だ。だから、頭の中で一週間は「未分の1日と往来に人通りの多い気がする1日」の約2日間で認識されている。一ヶ月は約8日が迂遠に過ぎていく期間に過ぎない。どろどろと、半壊状態のなめくじが今際の際を舐めるような進み方をするかと思えば、うっかり包丁を取り落とし床に落ちるまでの、切り詰めて裂くような一瞬でまとめて更新していく事もある。時間というやつはむら気なので、誰しもに同じように自分を見せる事を快く思わないのだろう。時間の色気なんて、もうずっと見ていない気がする。生きている瞬間が輝いたりとかしていない気がする。ロボットは死ななくて、人類が滅亡した後のゴミの山の中で再起動して動き出したりしたら、サビが時々ちょっかいを出してくる程度で、のろのろと動き出しそうだ。IH器具の上で沸き立つ鍋を見ていると、大通りに立っていて「今飛び込んでも死なないんじゃないか」と直感するあの時みたいに、天板を触っても無傷で帰ってこられそうな気がする。でも、前触ったら熱かった。器具が熱いのではなく、熱くなった鍋の熱が移って熱いらしい。お弁当におかずを入れる、ホイルのちいちゃい小鉢みたいなやつがあって、あれに数枚おきに挟まっている薄紙の仕切り、あんな風によく考えずぽいぽい脇に捨てられる事ばかりなら眠くなったり頭が痛くなったりする事もないような気がするのだけれど、醤油風呂ってあんのかな。

ラップに包んだおにぎりを投げつけてくる不審者がいたら怖い

感情が生起すると、抑圧と死滅を強いる内的作用が働く気がする。地震に伴う津波じゃないのだから、たまにはエモーショナルなウェーブに胸中を洗わせたって全然構わないと頭では思うのだけれど、頭じゃないどこかの部位が、そういった享楽を妨げてくる。楽しい気分になると、気分が上がると、あとでどうせ運動エネルギーを失って落ちるのだから、そんな事になるのであればハナから上昇なんてしなければいいのだと考えている身体のパーツがあるのだろう。精神がどこか物質に宿る的な話をするとどこかの哲学派閥に怒られそうだが、取り外して点検して、車検みたいな定期メンテナンスがあって正常にメンタルが作用するよう保証してくれるのであれば、私は精神が物質であって全く構わないというか、むしろそちらの方が安心する。心が安らぐのが嫌みたいなので、どこかの部品が象限の快に属す方に足を踏み入れて足湯を楽しませてくれないからこんな事になっているのだが、摘出して原理を書き換えられるのであれば、だいぶ心中楽になると思う。でもこんな事を考えていると胸がざわざわする。そんな革新はいらないから、夢を見ずにゴミ溜めに埋もれておけと言ってくる何かがいる。何種類かのラップをいじくり回しているうちに、ラップにもどうやらいくつかタイプが存在するらしいという事が分かった。化学物質に詳しければ、PPEとかなんとか、地に足のついた話ができるはずなのだが、精神が身に足ついてない気さえするので、そんな厳格な話はしない。大体、およそ、こんなもんかな、という程度の話である。いち。適度な粘りがあって、食器に気持ちよく吸い付くタイプ。前使っていたのがこのタイプだった。変にパリパリしておらず、ゆったりと伸縮性があり、ある程度の空隙を確保しつつも害にならない程度に密封しやすい。肉を冷凍保存する時にも便利である。に。大して粘りがなく、ものすごく切れにくく、食器に全然フィットしないタイプ。前薬局で買ってきて失敗したなと思っているのがこれである。何のために刃がついているのか、目を疑うほど綺麗に切れない。変な尻尾が毎回できる。ラップを切る時の、「びっ」という気持ちのいい音が一切しない。ずる、ずる、と抵抗に引っ張られて生肉が割かれていくような、鈍い手応えしかない。このタイプのラップは撲滅するべきだと思う。さん。粘性がありあまり、ぶよぶよしているタイプ。慣れると扱いは難しくないが、慣れるまで意味が分からない。切断部分に手を添えてちまちま切らないと話にならない。世界のラップ全てが一番目のタイプになればいいのに。

食い破られて、核が流れていったのかな

一日に3個もシュークリームを食べると、シュークリーム、てめえは食べ辛いなこの野郎と思った。最初の3口くらいはいいのだけれど、残り約6割程度まで食べ進めてしまうと悲劇が起こるトリガーがそこかしこに芽を出すようになる。ぽっかりと大きく口を開けたシュークリームの断面にかぶりつこうとすると、お尻の方にあるクリーム注入穴から、あるいは口の中に入りきらなかった断面から、室温になって溶け出した内容物がだらしなくだらだらとこぼれていく。じゃあひっくり返してまだ無傷な面を探してそちらから攻めていけばいいのかと言えば、アホみたいに開口した間口から同じく中のクリームがだらだらだらだら、汚れるものが汚れていく。どうすればいいんだろう。シュークリームのクリーム部分が少ないと、スーパーで108円くらいで売っている、冗談みたいにカサカサでカサブタくらいの量しかクリームが入っていないパチモンを食べている気分になるし、いいものを食べてもクリームが大盤振る舞いで入っているとメスイキしたのかと思うほどだばだばこぼれてしまう。美味しいね〜、美味しいね〜、とだけ考えていれば済む話ではなくなってくる。端的に言うと、気が散る。一緒のもらってきたセブンイレブンのサンドイッチは、レタスが死んでいてハムからは何の味もせず、パンは砂を噛むようでチーズがねとっとしていた。たまに生活感が教えてくれる事だが、値段と質は大体においてまともに比例する。私の周りには、実家が太く精神にゆとりのある人間がいる。物腰から違うというか、人間としてのせせこましさから全く異なり、ふへっ、と敗北の息を吐いて、それから後はこちらからはどうしようもない。悠と窮では、どちらが勝つのか火を見るよりも明らかである。窮という字は、今気付いたけれど、すごく情けなくなる構造をしている。身体が弓なりになるほど、なんかに乗っかられている。姿勢から、生き方から負けている。焦点が定まらない、乱れ打ちのような会話についていく中で、ある人が、ある場面で、この人たちとは人種が違うなと悟り、戦意を喪失してやめていったのだという話を聞いた。身にはつまされなかったが、息の詰まる思いがした。とぉっても優秀な人だったが、幻が剥げた時というか、ナマの地を踏んだその感触に全てを吸い取られ、今までを放り出してもいいとの心持ちになったという事である。ふと何のきっかけもなく、常軌から出発する人は、なにかの拍子に、心に映るなにかが屈折してしまったのだろうか。

どんぶりいっぱいのナタデココを食わせてやる

髪の毛と陰毛の特質の違いについて、数日前外を歩いている時に閃いた覚えがあるのだが、それが一体どんな種類のひらめきだったのかさっぱり忘れてしまった。私個人としてはとても腑に落ちる解釈を施してすっきりしたはずだったのだが、歩く時にぼーっとする癖が抜けず、そのまま寒風に運ばれていってしまったようだ。春の訪れとは何ぞやと胸ぐらを掴んで問い質したくなるくらいに大気の抑圧傾向が止まず、ただただ生産性が何もない寒さだけが昼夜いとわず居座り続けている。もしかしてお前、ぎっくり腰でもやったのかと言いたくなる。ひと月くらい前、立ち寄った薬局のパンコーナーに「ひとくちつつみソーセージ」と書かれた袋があった。薬局というかドラッグストアは、ドラッグの範疇を悠に超えたレパートリーを抱えているが、食べ物、具体的には豆腐や牛乳やらは、もしかしてドラッグストアの取扱品目にある「生活用品」の中に広義で含まれているのではないだろうかと思う。ひとくちつつみソーセージが、割引きシールを貼られて棚にくたれていた。まるごとソーセージを約4等分したものが7つ入っている、簡易惣菜パンである。帰りの電車の中でもむもむしたのだが、パンはそんなに美味しくなく、ソーセージの周りでべとついているマヨネーズもどきは安い惣菜パンらしい「終わった味」がして、ソーセージ自体も肉なのかなんなのか分からない、肉っぽい味がする。その辺のもろもろがギリギリな商品で、出会ったあの日以来、スーパーのおつとめ品ワゴンに追いやられていると、ついつい買ってきてしまう。ソーセージが入っている事以外の特「長」が、他と比べた時のアドバンテージがなく、ただただ食べやすくて、それっぽい肉で構わないから肉欲を満たしたいという低次元の欲求を満たすだけのマテリアルである。深い眠りを得られず、朝の光にやむなく目を覚ましたので、多分3週間ぶりに燃えるゴミの袋を我が家から放逐した。パンパンに膨れた消化不良のカービィが3機、玄関ドアを開けると鎮座していて、とても圧迫感があったものだが、あれらがいなくなるだけで玄関が広くなったような気がする。あんまりモノが多いのも考えものなのだろう。2日ほど、何かを口に入れてお腹を満たしたい欲がものすごく湧いてくるのだけれど、ストレスというか、虚無の重責をうやむやにするのは食べる事と見つけたりとか、そんな感じなのだろうか。エロ漫画を読んで、多少持ち直したメンタルで書いたので、よかったら読んでみてね。こんな話し方の女の子可愛いよねぇ……。

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砂糖容器に水流し込む妖怪

トイレで大きい方を済ませた後に、レバーに手をかけて流そうとすると、結構な頻度で「ババアとホテルに行ったら突然机の上に雑誌を広げてその上にウンコして『これ食ったらベンツ買ってあげる』と言ってきた」というエピソードを思い出す。自分のものといまだ知らぬババアのそれをと頭の中で比較しながら、いざとなった時、目の前に蜘蛛の糸として輝く光明がウンコを食べるしかなくなった時、俺は果たしてウンコを食えるだろうかと思う。うーん、との結論を出して流す。あのエピソードを投稿した当の本人は、ベンツを生み出す錬金術の代償として、ババアのウンコを食ったのだろうか。結末までは書かれていなかったので、その帰結については想像する他ない。でも、おそらく一生解決しない問題なので、私が死ぬ段になっても消化しきれず体内に残ってウンコにはならないままだろう。お出かけしてエロ漫画を買いに行った。成人向けコーナーに入るとどうしようもなく心持ちが落ち着くのだが、外に出るのが嫌すぎるとはいえ、居慣れた雰囲気の空間に身を置くと鎮静作用があるのかもしれない。はたまた、そこら中で溢れかえっている表象の氾濫で、普段ほぼ死滅し活動を停止している脳味噌が、また別の意味で圧倒され活動を諦め無駄な事を考えずに済み、直前のこんがらがりから束の間だけ目をそらす事ができるからかもしれない。射精障害ではないけれど、メンタルがオーバードーズのあまり本格的に絶死している可能性はゼロではないと思っている。でも、やはり成人向けエリアの売り場をさーっと流し見していると落ち着くのは確かである。最近、スーパーの買い出しではカード払いをするのが常になってしまい、それ以外に何か買うにしてもやっぱりネット決済で落としてしまう事ばかりなので、久方ぶりに現金を触った。思ったより入っていなかった。小銭を増やしたくないがゆえ会計で小銭にかかずらうというねじれにいた。何も考えず、通帳の上だけで行われる足し算引き算くらいにしか捉えられないカード決済の方が、よほど現実離れしていて実体がなくていいじゃなか、と思った。惣菜コーナーに、チーズチキンカツという、衣と肉の間に明らかにやばそうな脂の地層があり、名前にチーズと入っているくせにどこにチーズがあるのかさっぱり分からない「終わった味」のするやつがあって、これをレンジでチンして2枚一気に食べると、それはそれはもう本当に人間の尊厳が欠かれたような気がするので、今日も食べた。ただ劣悪な脂塊を押し込んでいるだけだ。

ぐちゃぐちゃに潰しきった豆腐が滝のように頭上から流れてきても怖い

私が豆腐に生まれ変わるとしたら、焼き豆腐にはなりたくないと思う。鍋焼きうどんとか、粘り気のある汁と野菜の中にうずもっているイメージのある、茶色く頬を焦がした焼き豆腐にはなりたくないと思う。木綿豆腐なのでもともとの素肌における肌理が大した事はなく、その点では悪化創傷について嘆かわしく思うべきポイントは少ないのだけれど、剥き出しのかさぶたみたいなあの焼け跡を考えると、ひえっと怯えたような心持ちになる。フライパンで焼き豆腐をしてもああはならない。鍋の中で、黒ずんだ傷跡を見せびらかすお豆腐になると考えると、なんだか背筋を冷たい絹ごしどうふがぬらっと滑り落ちていくような感覚がある。お化け屋敷でこんにゃくを竿の先に取り付け、アトラクション観客の頬に接触させ驚かせるのは古典的手法だが、もし豆腐を損壊の可能性なくしてあのようなびっくりアイテムとして起用できると考えた場合に、絹ごしと木綿どちらの豆腐の方がより恐怖、あるいは生理的不快感を生じさせる事ができるだろうか。厚揚げをこの候補の中に立ててみても面白い。他のふたつは水でしっとりしているだけであるが、厚揚げは夜間で油抜きをしない限りねったりと皮膚に染み込んでくる、鈍い虹色の油膜を存分に展開している。ねたぁっ、と頬に張り付いて、やだなにこれ、と咄嗟にやった手に再びねたぁっ、と気色の悪い粘りがこびりつく。暗闇の中で視覚的情報が乏しい状況でそんな事をされたら、もしかして脂ぎったおっさんの生首に頬ずりされたのではないかとあらぬ可能性まで脳味噌が妄想を逞しくし、回答の正誤の程度は暗闇の不親切さの中で些細な問題と化していく。もしかすると、もう一度おっさんの生首がとろける脂を浮かべてこちらに接近してくるかもしれないのである。油揚げに比べると、こんにゃくも豆腐も、水分をゆたかに湛えて通り過ぎるだけで、後に残る圧倒的な不快感が少ない。高級ではない、プラスチック包装の上からでも容易にうかがえる、海上重油みたいに、しゃぼん玉の表面みたいに非現実的な色を写すあの脂をまとっているから、油揚げは恐ろしいのである。嫌いなやつの上履きに油揚げを仕込むやつがいれば、そいつは相当な嫌がらせのプロである。しっかりと浸透し、一歩一歩歩くたびに、頭の中では中敷からじくじくと滲み出し靴下を汚損する油揚げのイメージを想起させ、歩く事に対する拒絶しようのない嫌悪感を抱かせるだろう。

人の心にナメクジの通った跡を残す系

雪寄りの雪っぽい水分が降っていた。風雨風雪のいきれを自転車で駆け抜けた経験のある身からすれば、あとまともなドカ雪を目にした経験に照らしてみればハナクソみたいな雪ではあったが、東京で雪というのは一大イベントである。ここで言うイベントとは事態の生起を表す程度のイベントであって、祭典的な楽しげなアレではない。着陸する前からびちゃびちゃになってアスファルトを汚損していた。地域によってはひどい所もあったらしく、ラジオで聞きその音を私の脳みそが頭の中で再構成したところによれば、高速道路の一部区間で時速30キロの制限がかかっていたらしい。そんなもん高速道路じゃない。一般道の方が速い。ひょっとすると調子のいい自転車の方がよっぽど速い。傘をさすのが面倒だったのでパーカーのフードをかぶっただけで外気に露出した。雪としての形を残したまま布の上に留まるタイプのフレークではなく、ものに付着したそばからだらしなく溶解する一番厄介なタイプのフレークだった。キンキンに凍てついた空気の中を迸る雪は、服についてもぱしぱし叩き落せばそれほど濡れないのだが、このどうしようもない自我不定形なふにゃ雪は、手で叩いて払い落とそうとすると体温に打ち負かされて衣類の繊維の中にじわじわと姿を消していく。翌日なんだか防寒具がずっしり重いなと思ったら大抵こちらの優柔な結晶のせいである。鬱陶しいなとしか思っていなかったが、目を凝らしてよくよく見てみると細い短針のような形をしていて、うわっ、フローズヴィトニルだ、と思った。出力孔の直径を間違えた極細チョコレートスプレーみたいだった。傘をさした人間は、当人が思っている1.3倍くらいの容積を有するようになるので、傘をささず剥き身でそいつらと通り過ぎようとすると、目や頬などの顔面を傘の比較的瞬間的殺傷力が高い部分の被害に遭わないように気をつけて通りすがらなければならない。特に、隣にいる誰かと連れ立って歩き歩道の幅を狭めているようなやつをやり過ごす場合にはなおさらである。豚の肩ロースを焼いたら、見た目から想定した数倍の脂がどばどばしてきた。キッチンタオルが吸収してくれないタイプの脂をフライパンにまき散らした。多分、透明な背景で見るとうっすら黄色に濁っているのだと思う。開高健の本をまた少し読んで、「なまけもの」という作品の、鉄片で生肉を抉られるような、冗談みたいな文章の重厚さに圧倒された。逆立ちしても書けない。

船頭多くして山に登り、具が多くて煮汁がなくなった

濃厚みそ鍋のタレを鍋に開けたら、濃厚なみその匂いがむんと香ってきた。パッケージに嘘偽りがなかった。パウチの鍋タレにほぼハズレがないので、ここ数週間で私からミツカンへの好感度・信頼度がめきめき上昇している。ゲームの中で、女の子の好感度を一気に上げるアイテムをばかすか投入して好感度0→100%に到達するあの時速くらいめきめき上昇している。今までポン酢しか取り柄のない会社だと思っていて、本当にすまなかった。足を向けて寝られないほどではないが、パワプロくんの白イタチ像をミツカン本社の方に向けないくらいには大切にしたい。ミツカンの鍋タレシリーズがドリンクバーになってファミレスに導入されたら、週2くらいで通ってもいいくらいには素晴らしい製品である。私はドリンクバーだけを注文して長時間居座れるほど太い神経と肝っ玉を持ち合わせていないので一回一回の支出がかさみそうなのだけが唯一の懸念点である。ジュースをひたすら飲み続けてファミレスに滞在し続けるなんて事、私にはできない。はよ帰れはよ席空けろと思われているのではないかと、滞在権利の安価さと引き換えに猜疑心が高度経済成長期のグラフを描いてしまうから。鍋を作っていると、私の悪い手癖が出る。具というかタネというか、汁の中に入れるそれらの適正量を5とした時に、「でもまだ入るじゃん、いけるじゃん?」とついつい思ってしまい、7くらい入れてしまうのである。胃袋が食後倦怠感を覚えない程度の分量が6くらいなので、食事の終盤に「少し前の俺は張り切りすぎだな、ばかやろう」と思うくらい調節と調整と自制がへたっぴである。今日は味染みがいいとパッケージが唄っている煮物専用のちくわ(そんなものがあるのかどうか知らないが)と、大根が入っているので具が沢山になりすぎている感がすでにする。この後きしめんを入れるのであるが、鍋焼きうどんを食べている人間を頭の中で画像ジェネレートすると、浪人生的な男がどてらを着て鍋焼きうどんを食べている光景が算出されるのだが、私の深層心理は鍋+うどん=夜食という方程式を抱いているのではないかと思わされる。短期的にたくさん量を食べられる胃袋ではないので、夜食という文化はよく分からない。サンドイッチ2つ(サンドイッチの単位ってなんなんだろう)とかちっちゃいおにぎり2つとかならまだ理解できるが、どんぶりに鍋焼きうどんを持ってこられたら、もしかしてこいつさっき晩御飯作ったの忘れてもうたんちゃうんか、と思うだろう。また燃えるゴミを捨てるの忘れた。

こたつはあるけど布団の中でアイスは食べない

昨日に引き続き、何編か開高健の作品を読んだ。三人称視点なのに登場人物の内面がぐいぐいくるから、ドライなのにうねりがあるのがとても面白い文章だ。「裸の王様」というのがよかった。最近、コントばっかり観ていて、風呂敷を広げてそれがいかに上手く畳まれるか、題材がclosedにスパッと爽快に結末する展開に慣れ切っていたので、「文学作品」寄りの、糸を撚りはするものの、末端にほんの少しだけまだもつれが残るような、そんなエンドが目新しく感じた。そんなに新奇珍奇なものではないはずだが。掛け布団のシーツを洗った。枕は頭部の垢や皮脂と仲良しこよしなのでそれなりの頻度で洗濯する事が求められるが、それを言ったら掛け布団だって、頭部の半延長上にある顔面の皮脂と密に接するような距離感にあるわけで、こちらだって身の丈にあった洗濯頻度を意識されてもよいアイテムだった。掛け布団が顔に接するような布団の掛け方をしているのは私だけではないが、どうなのだろう、ほっぺたくらいまで掛け布団の天辺が来るほど布団に深く潜り込む寝相の人間がどれくらいいるのだろうか。寝る時は、安心のためなのかどうか、縮こまって閉鎖空間に身を横たえたいので、どうしようもなく外気に晒される顔面上半分以外は布団にインするよう心がけているが、人の寝相なんて林間学校や修学旅行的なイベントでもないと見ないものだし、それらのイベントにしたって消灯時間=就寝時間なのだから、真っ暗闇の中でいちいち一人一人の寝相を丹念つぶさに記録して回る暇も光源も趣味もない。アメリカのなんたらかんたら大学睡眠文化研究所的な機関で、体位的寝相の類型研究をやっているプロジェクトチームがあるかもしれんが、私は知らない。足の指の長さ分布にだって類型があるのだから、民族別生活スタイル別で見てみると、典型的な就寝姿勢がいくつか見出されてもおかしくないのではないか。爽の抹茶アンド、えっと、なんか横文字的な何かがついたやつを食べた。調べると、抹茶ティラミス(抹茶&マスカルポーネ)だった。マスカルポーネが一体全体どのような物質であるのか認知せずに食べたが、チーズらしい。チーズの入ったアイスって、普通なのだろうか。食べた経験と記憶がない。蓋をペリペリ剥ぐと、市松模様みたく、抹茶とマスカルポーネポーション

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こんな配置のされ方をしていた。調和ではなく共存であった。抹茶の部分を食べると抹茶の味がし、マスカルポーネのところを食べるとよく分からない味がした。でも美味しいから、新商品だったみたいだが、爽はそうそう外れない。

濡れたアスファルトと黒いゴミ袋の質感は一緒

起きたらべちょべちょに雨が降っていた。雨が降る音をどんな擬音で表現すればいいのか、そもそも擬音で表現しなければならない理由があるのか、色々言いたい事はあるが、久しぶりに降る雨の音を聞くと、べちょべちょだなと思った。窓の枠から垂れまくる雫が防犯用の軽石を叩いている音が最も多く耳に入って来たからかもしれないが、気温を下げ気分を下げ、濡れずに済むようなスキマを寸分も用意せずに降水する雨には、べちょべちょと言いたくなる。一ヶ月に一度くらいしでかしている気がするのだが、また予定を一週間間違えて無駄足を踏んだ。ついでに、私の想定よりも一時間遅く事が始まり、家に帰った後なのにもう一度出向くという二度手間をかける羽目にもなった。アホである。もう少し行動に合理性を伴うように心がけていきたいが、手帳を見る習慣がそれには必要で、でも手帳を見て頭の中を整理しなければいけないほど要件が入る事なんてないので、どうしようかなと思う。近くの公園が、かなり前の事ではあるのだがまっさらになっていて、視線を投げるのも馬鹿らしくなるくらい荒涼とした一面の土くれパーティーに成り果てていた。跡地を囲う高い柵を越えて視線を投げる人などおらず、ただただそこにあるだけで、迂回しなければいけないフィールド状態のように振舞われていたその空き地に、ニヤニヤ笑顔を浮かべながら覗き込んでいる人がいた。この人は空き地フェチとか、そういう類の人なのかしらと思った。工場マニアとか、廃墟マニアとかいるけれど、その同類項に近い嗜癖を持っていて、なんにもなくなった虚無の空間に漂う何かをしゃぶって楽しんでいるのだろうか、と勝手に思って通り過ぎた。もしや空き地を挟んで向こう側に片思いのあの子がいたりしたのかもしれないが、けれどやはり、笑みが存在する事が不自然な文脈に笑顔があると違和感がすごいなと思ったのである。図書館の新刊コーナーにあって、岩波文庫でこんなんが出るんだ、と思ったので借りてきた開高健短篇集を少し読んでみた。名前だけは、というか字面だけは知っていて、他には何にも知らなかった。読み方さえ初めて知ったのである。「かいこう・けん」と読むらしい。初めの一本目だけ読んだのだが、私の文章美学と多少相違する点はあるにせよ、地の文の説得力、質量を伴って想像させる力がものすごい人なんだなというのは分かった。感情が蒸発しきらないギリギリの淡々とした文章がいい。そして、どうやったらこんな題材を思いつくのか、大体すべての創作物に対して思うが、分からん。

人当たりのよさをHBとか6Bとか鉛筆の硬さで表してみてはどうか

気候に嫌われているのかなんなのか知らないが、手の平を返したように気温が逆戻りしていた。空の色合いも文字通り「どんより」、これがどんよりでなければ何がどんよりであろうかと問い詰めたくなるほどに、灰色がかったとろろ芋みたいな質感で鬱々と天球を満たしていた。異性をはべらすのが得意な人間というのは、こんな感じで、一瞬快の伴う態度を見せて擦寄らせてから、やっぱやーめっぴ、と身を翻すのが巧みなのではなかろうか。実際、天候次第で生き物は生殺与奪を好きなようにされるわけだが。なるなら、グレースケールではなくデジタル値で、0か1かほど厳密でなくともいいから、「寒い」「あったかい」の2つを大まかに認められる程度には身の振り方を決めてもらいたいものである。昨日、部屋の真ん中でぐっちゃぐちゃに数ヶ月間堆積していた洗濯物・季節ものを折り畳み収納し整理する作業を実行、遂行することに成功した。去年の10月、いやもっと前かもしれないが、カオス状態となりもともと想定していた被覆範囲を大幅に逸脱し、ただただ邪魔だったのだが、大いなる時の経過を経て、そして死んだと思っていた友人が生きていたらしいという報せに背中を押されて、これはやるっきゃないっしょ、ここでやらなきゃだめっしょ、と思い片付けた。ニトリで折り畳み式収納ボックスを買って来ていたが、ひとつでは到底足りず、今度もう2つくらいは追加で買ってこなければいけない。周りにあったダンボールとかを台座にその場しのぎで床から遊離させてはいるが、それは抜本的解決ではない。掃除機もそれはそれは久しぶりにかけた。かけ終わった後にゴミ溜めを見ると、グロ画像になっていた。どうしてだか忘れるので、燃えるゴミの袋がまた3つ溜まってしまった。早く捨てないといけない。部屋を掃除すると、体感で2割くらい広くなったような気がする。ものがめちゃくちゃに多いのでなかなか広いとは感じづらいが、視覚的に邪魔というか、ノイズになりやすい要素を取り除くだけでも随分違うようである。無性に外に出たい瞬間が3分くらいだけあったが、眠かったので諦めた。外に出るのは、たいへん難しい行為である。食料が切れたので明日買い出しに行かなければならないが、しかしこれは衣食住という最低限の生活3要素が要求する事だから実行するのであって、それ以外の目的では外に出るって、いやー、難しいと思うんだけれどね。買っておいたラップの保管をおろそかにしていたため、浮き足立って5分ほど部屋中を探し回る羽目になった。

前世はキャラメルの包み紙だったんだろ

慶事があった。数年連絡が途絶え、私の中では亡き者となっていた中高の友人が、直接私に連絡して来たのである。1月にあった同窓会で、共通の知人に「あいつは復活したらしい」と聞き、取次を依頼していたのが今更功を奏したわけである。おそらく話が先方に渡ってから一ヶ月くらいは「なんかめんどくせぇな」程度の理由でメールを寄越さなかったのだろうと推測され、あんまり変わってなさそうでいい事だ。冒頭一行目が、どうにもあいつらしく、ふふふと思った。「俺が女か、お前が女だったら結婚していた」と送ったところ返信が来なくなったので、またしばらくは便りを寄越してくれないかもしれない。本心なんだけどね。春が真顔でやって来たような日和で、外出する用事があるのをすっかりうっかり忘れて厚手パーカーを洗濯してしまったゆえマフラーだけを巻いて外に足を踏む出したのだが、これマフラーさえちょっと暑いなと感じるくらいに暖かかった。風が強かったが、日差しが春のそれだった。ぬくぬくぽかぽかというのどかな擬音語が頭に浮かぶくらい、季節がもうそこにいるのかなと思った。百円ショップまで行って、ゴミ袋とか必要なものを買い足して、午後の変な時間だったけれど、何か食べて帰ろうかなと思いついた。私の中に、外出するというのはとぉってもすごい事だから、よしよし、なにかご褒美に食べて帰りましょうね〜とでも表現すべき、外出する自分を甘やかす機構が最近形成されている。それっくらい外には出たくないとも言える。適当に甘いものを食べても良かったが、通りがかるだけでずっと気になっていたパスタ屋? 的な? 店があったので、そこに行ってみようと思った。迷った。普段、自分がどれほど適当に、惰性と習慣で街を歩いているのかが分かった。行き慣れた場所以外、頭の中でブックマークされた場所以外は、そもそもどんな検索ワードに引っかかって出て来たのかを全然覚えていないのである。ここの通りだったような気がする、そっちの細い道だったような気がする、同じようなところをぐるぐるぐるぐる4周くらいさまよい歩いて、こっちだったような気がするなと大通りを渡って向かいに出た。そこのほっそい路地にあった。ナポリタン屋だった。アメリカ国旗のクイズショー衣装みたいなカラーリングで、でもナポリタンなのでどうにもかっこよくなりきれてはいない。どうせどうせ、とナメくさって初見の店なのに大盛りを頼んだら、珍しく本当に「大盛り」が大盛りの店で、パスタ500グラムって要するにスーパーにある1kgの袋半分を茹でるのと同じ事で、あ、無理かも、と少しだけ思ったが完食した。チーズがかけ放題だったので、好きなだけかけた。めちゃくちゃにナポリタン推しの店だったけれど、確かに美味いナポリタンだった。そもそもナポリタンを美味いと思ったのは初めてかもしれない。そんなに値段も高くないし、また今度行ってみよ。