他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

marching rain

一日中、ひっきりなしに、引くほど雨が降って降って降り続いて、町がふやけてぐずぐずになってしまうんじゃないかと思うほどにしとどが鳴り止まなかった。雨でしかないが、地域によっては雪が降っていたりするらしい。ただただ寒さを含んだ、重量のある湿気が漂っていて、脳味噌が固体である事を止めたかのようだった。脳味噌がとろけて何物でもなくなっている感覚はもう馴れ親しんで何とも思わなくなってしまったが、それがもたらすところの停滞と沈下はやはり深層のどこかで堪えている。経年が幾年も積み重なって、剛体に見えたものがある日突然パキンと壊れる、あの現象が頭の中で想像されて、いつか全ての原理を振り切って自壊してしまうかもしれないなとゾッとしたり、そうなれば全ての「何でもなさ」の無味無臭から解放されるのかとホッとする部分があったり、とても難しくよく分からない。人格がいくつもいくつも分裂乖離して身体の中の各所をうぞうぞと這い回っているのは分かるのだが、それがよろしくない意味で起こっているのか、自然な状態で起こっているのか、ずっとずうっと計りかねていて、計り終わる頃にはこれを考えているそれは流されていて、というか流されていた。便器の中でぷかぷかする大便くらいの寿命しかない。それを汲み取って肥料にでもならないかと文面にしてばら撒いてみたりするが、こんな表現をしたら嫌な気分になるだろう、でも思いついたから書きたくなったのだそれだけである。全てを文章に捨象してでなければ頭の中で考える事もできなくなってしまった……。媒体は反応が起こらないものを置いてけぼりにする。ひとつの媒体にしか依拠していないならば、置いてけぼりにされるあれこれの総量は、ふたつみっつそれ以上の数を採用する使役者の総経験に容易に劣る。ただ、純化の末に辿り着いた極地を見る事叶う人がたまにいて、その媒体で結晶化してその僅かだけでも持ち帰るという事が、あったりなかったりする。その結晶を透かして通した光を見る事が観光と言うのならば、というか字面的にそうなのだが、身体を動かすのがめんどうだから観光が嫌いで観光が好きなのだろう。一番気持ちいいのは、堆積した経験で目の前を覗き込んだ時に、胸の内から張り裂けそうに昇ってくる瞬間的快楽物質の波なのだが、その波に飲まれて漂流するだけに成り果てるとまたそれはそれでこうなるので、俺もサーフィンとかできればよかったのだが、したいとは思えない。