他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

枕元に菊を、あごにたんぽぽを

レイ・ブラッドベリ華氏451度』を読み始めた。私は感激した。いくつかの点において、強烈に感激した。この歳になるまでこの本を読まないでいた事に、この歳でようやく手を伸ばした事に、最前何の迷いか英語で同著者の作品に触れていた事に、もろもろ、そして、この本がこの世に存在する事に。色々言いはしたが、この訳はいいと思う。訳者が前面に出てくるでもなく、自分でもよく分かってねえだろお前と言いたくなるとんちんかんな箇所もなく。おそらく、オリジナルの文体の、粛々としたハイスタンダードな語彙を写す事は、現代の日本語では不可能だと思う。ある偉い、えらーい人が、日本は戦後、漢文に代わる文体を持てないままなのだという事を言っていたのだが、このようなパラレルを手元に置いてみると、その意味がよくよく分かる、ような気がする。私が一番まともに知っているので英語を引き合いに出すが、確かフランス語とかもものすごく、文語と口語の文章的次元の乖離が甚だしい。良くも悪くもの話ではあるが、これは物凄い。英語が話せる「だけ」の人に、欧米圏のインテリが読む本を渡しても、手も足も無いだろう(傍点)。日本語には、それがない。まあ、そもそも文章が読めないという根本からの欠陥が指摘される人間が多いと言うに憚られない国に言ってもしゃあないと言えばしゃあないのだが、これは精一杯好意的に表現する無理に努めれば格差が小さいと言えるし、あからさまに言えば、深みの幅が無い。文体の面でバリエーションこそあるが、もっとそれ以上、それ以前の、根っこの部分について、何かあるな、と気が付いたのだ。それに名前を付ける事もできないし、すくい上げる事もできていないけれど。小説として、私はめちゃくちゃに好きなので、手に取ってよかったと思う。今日は、疲れてねむいので、この辺にする。