他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

lest restless

特に、皿を洗っている時、なんでこんなめんどくさい事をしているのだと思う。手は荒れるし洗剤を流して環境を汚染している気になるし、なによりこの季節は湯が出るまでの殺人的な冷水がきつい。配食サービスも数多くある中、自炊をするメリットがあるのかどうか考えてみた時、デメリットに比べて、数は少ない。スーパーで買って、それを持って帰るのがまず重い。私は一人暮らしだから、数日に一回行けばいいが、これが二人三人四人……と増えていくと、この感覚は劇的に狭くなる。人一人が食っていくのに、食べるものを作るのに、これこれこれくらいの量が一回で必要であるという感覚が養われる。サザエさん的な作品で、「お夕飯の買い出し」に行く描写が毎日出てくるのは、あれは全く道理に適った自然な事だ。大の男一人を抱えるだけでも消費が激しいが、そこに育ち盛りの子供を加えようものなら、絶対そうなる。チャリなり自動車なりを使ったとて、必ず荷物を運ぶ必要はあるのだから、満員電車に詰められて揺られるのと同じくらいの労苦は買い物にはある。なんなら家に帰ったら料理しなければならない。我々は生のにんじんを齧って満足できるほど低次の欲求に止まらない貪欲な生き物になってしまった。私は、働かずとも家庭を切り盛りする事は立派な職業の一つだと思う。家庭だって会社みたいなものだ。妥当な範囲内で買い出しができるか。人数分の食糧を常時一定量キープした上で、メニューが単調にならないように冷蔵庫の中の賞味期限諸々を考慮して運転できるか。おそらく、これは「常識」みたいなもので、そのルール内で振る舞い、振る舞い続けなければ培われない、一種の技術なのである。規範であり見当だ。——と、皿を洗いながら考えた。私人としての生活を支えてくれる人がいるのであれば、その人を大切にしましょう。