他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

破鏡再び照らさず

ほとんど何もしない日だった。中身が、身体の中身が、ぼどぼどと音を立てて溢れている感覚がした。私はこれを「こぼれて」と読むのだが、何かのゲームボイスで「あふれて」と読まれていて、そこはどう(私が)考えても「こぼれて」の方が文脈に適合していたから、台本にルビを振りなさい!!! と思ったのが昨日だか一昨日だかの出来事だったような気がする。読み方がいくつかある漢字を、どれで読むかというのは、大変難しい問題だ。選び方で、文章の空気が変わってしまう。私がわがままなだけかもしれないが。世界は文字でできているのだから、構成要素が納得いく形に座っていないといやなのだ。こういう、内面が欠けて溶け落ちた日は、本を読むのにも元気が必要であるという、そういえば分かりきった事実を再認識してしまう。読もうとしてみたが、しゅるしゅると精神が空のどこかへ飛んでいったのでやめてしまった。神林長平『言壺』の最終章は、私が小学生の時くらいに思っていた、長い文章を句点を打たずに書ききったら面白いだろうなというそれだった。人間が踏破するのは、物理的な世界だけではない。それは、まあそうなのだが。古いギリシア語だったか、人に首が川から流れてきて云々みたいな、怪奇だか伝奇小説があるらしい。いつか聞いたのだが、私は人から聞いた話をメモに取らない悪癖があるから、詳細は一切合切すっ飛んだ。あの人にもう一度会って話をする事があれば、聞いておくつもりだ。あったかくなったと思ったらまたちょっと冷たい。来月半ばになるまでは、こうやって一日一歩、二日で三歩、……、のあの唄みたいな感じなのか。書くのも疲れたな。一人でいる時の精神状態が安定しないのはなんとかならないか、ならないだろうな、なったらこうなってないだろうし、満ち足りていない状態に対する具体的な解決策を持っていない場合の放心みたいなもので。覆水盆に返らずの同義語は、破鏡再び照らさず、落花枝にかえらずだそうです。