他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ケチン質

食生活が安定してきたためか、便のリズムが安定してきた。便のリズムとはなかなか間抜けな響きだが、これは生活習慣の中でもトップクラスに大切なものである。便が不如意なタイミングで出ることのストレス、あるいは不快、不便は申すまでもないが、朝のルーチンにおいて便器に腰掛け緊張を解き放つ作業は欠かすことができない。労力と時間を要する作業の開始位置終了位置が固定化されていないのは不安になる。できれば一日何も考えて過ごしたくないが、朝は特に何も考えて過ごしたくない。とりあえず目の前に流れてくるルーティンを流して、あぁ、いつの間にか全部終わってましたね、へへ、くらいでいいのである。歩くのは嫌いではないと思っていたのだけど、歩き始めて1分くらいで、歩くのにはもう飽きていることに気が付いた。飽きている事実に気が付かないために他の物事を色々考えているだけで、早期に、もうやだなー、と思っている。頭の中が空っぽになるのはいいことだ。何者かが何物かが入ってくる余地があるということだからである。入ってくるかどうかはさておき、そういうスペースが確保されているのはよいことだ。空き地とか、白紙のノートとか、へそくりみたいなものである。どういう色の部屋なら閉じ込められても耐えられるかを考えてみたが、白はちょっとしんどいだろうなと思われた。暗めだけど暗くない、明るい紺色くらいがちょうどいいかもしれない。そもそも閉じ込められたくないけれども。槍投げじゃなくて、綿棒とかボールペンとか、つくしとかを投げて投擲距離を競ってもいいのではないかしら、と思っている。つくし投げ大会はよさそうだ。絵面がどうあっても険悪にならないだろうから。絵本的である。つくしから、ぱっふぁー、とつくしパウダーが飛び散ったらパンデミック感が出てしまうが、飛ばさなければよいのである。分かりにくいピクトグラムと分かりやすいピクトグラムがある。ピクトグラムの設計理念からすれば、前者はそもそもピクトグラムではなく、まあなんかの記号とか落書きの一種ということになる。きれいな字と汚い字みたいなものなのだろうか。お前はそれでいい、それで分かると思っているのかもしれないけど、という。自分の中に生起する欲望を、具体的なものとして把握しようとしてみたら、どうなのだろう、どうなんだろうね、それは、と第三者として自分を見ている。自分の中で思っているだけならいいけど、表には出せない、出してはいかんのじゃないかな、ってものが少なくないというか大体そうだ。想像は自分の身体の内側なのだ。