他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

どこまでが生卵でどこからがゆで卵なのか

やっぱり、この国は好かんなと思った。特に広告がダメだ。受け付けない。この世から駆除すべきは、まず広告代理店であるに違いない。そもそも、なんで代理で広告をうつ会社が存在するのか。宙舟を聞いたことがないのか、君らは。とりあえず、「なんかいい感じ」「よく分かんないけどなんかいいことっぽいことを言っている」をしばき出す必要があると思っている。それらは感情に対するペテンに過ぎない。大家さんに挨拶に行って、ついでにお土産を渡したら、またなんかくれた。おかげで、洗剤を買わずに済んでいる。洗剤のシャワーでもやらないとなくならないくらいだが。その後、先月はほとんどいなかったから、ということで、水道代分だけ戻してくれた。『ダフニスとクロエ』を読んでいて、もうすぐ終わりそうだが、原始的というか、エロエロしていないがゆえに、余計にすごいことになっている。素材の味が一番うまい、に近いのだろうか。ぼーっとしていたら終わっていた。

圧延キッス

昨日は色々と立て込んでいたので、日が変わる2時間前くらいに落ち着いて、あぁ、書いてねえなあ、書く元気もねえなあ、と思ったので書いていない。自己というのは、結局、他人がそばにいるから認識できるものであって、スタンドアロンでとろけずにはいられない概念であり想念であり実体なのであるというのが今回の教訓というところになりそうだ。しばらく離れていたが、この机と椅子、それらの環境と高さ諸々が大変身体に馴染んでおり、タインピングの速度も少々速くなろうというものであるが、問題は大して書くことがないことであり、もう2割くらいしかないんじゃないかと推察される歯磨き粉のチューブを絞る感じで捻り出している。キルミーベイベーの最新刊を買ってきてある。最新だったのは先月の話だが、どうせまた一年かそこら新刊は出ないのだから、その間最新刊である。髪が伸びたので、今週のどこかで切りに行こう。7月の終わりくらいに散髪に行ったという、これ珍しく絶対的な記憶があるのだけど、それを踏み倒す勢いでもりもり髪が伸びた。すけべは髪が伸びるのが早いらしいですよ、ふふふ、と言われたら、私は、多分そうでしょうね、と答えるしかない。とりあえず意識が固形であるように努めなければならないのだけど、どうにも無理だろうなとすでに感じている。結局私は他人を必要としている。あと、隣の家が竣工していた。

ひづまない

主義主張が合わない人間とどう折り合いをつければいいのか、それを考えていた。どうにも分からない。そうしようとすること自体が破綻している可能性もある。他人とまともに向き合うというのはとても疲れることなのですね。これはもう何というか、円周率と一緒で、計算し続けることに意味がある類の営為なのかもしれない。答えはあるが割り切れない。

懸濁

ふと寝床の上に放り出してあるものを見たら、説明しがたいものが多かった。なぜかそこに、後で冷蔵庫に入れようと思って投げた豆腐とか、飲みかけのインスタントコーヒーの瓶とか、家の合鍵があったりするだろう。今はないけど。膀胱が変になる周期があり、今はその最中である。30分ごとにトイレに行っているのではないかという勢いでトイレに行っているし、ついでに3時間に一回くらい大きい方も失礼している。私の排便周期はもろに食生活の影響を受けるので、まあ今はちょっと立て込んだりしているのでままならない状態であるわけだろう。また後ろの門をノックする音がする。

void gesture

動く日だったので疲れた。そのくせ夕方にはそこそこ歩き回った。私は目的がない状態の方が元気なのかもしれない。でも疲れた。パーソナルスペースは大事なんだなあ、と思った。話す理由もないのに人と話さなければならないなんてなぜなのだと考える私のようなタイプは、シェアハウスには死ぬほど向いていないだろうし過去の類似経験からするとそれに間違いはないだろう。それ、太ももが見えるホットパンツじゃなくて、もう尻も見えてるよ、という服の人を二人くらい見た。

mortal velvet

いちごミルクは、なんだかもったりしていた。いちごミルクという飲み物は、いちご漂うミルクだと思っていたのだが、実体を持ちかけているいちごとミルクという両概念の具体的な流動物だった。何を言っているのか分からないだろうが。バナナミルクは、プリンの黄色いところみたいな色だったし、プリンの黄色いところみたいな味がした。他人の生活態度を覗くことはあまりないので、たまに、寝室などをひょいと覗く機会があると、掛け布団がくちゃくちゃに縮こまっていたり、なんでそんなところに靴を置くねんと思ったり、する。爪が伸びて気になるが、自分の中の、これくらい爪が伸びたら気になるラインがまだ分からない。この辺、というのはなんとなくあるが、明確にぴっと引かれた線を見極めたことはないし、見極めても極めてしょうがない気がする。靴があんまりぼろくなったのでどこかで買い替えようと思うが、にしてもこんなにぼろくなるまでぼろくなったと思わないとは、私の目は何のためについているのだか分からない。首が痛い。

uncomprehensibility

芝生での散歩を終えたら、サンダルの爪先に草がくっついていた。こちらにもオナモミ的な植物はあるのだね。オナモミを変換しようとしたら、こいつには巻耳、葈耳という漢字が当てられているらしいことを知った。どの辺が耳なのだろうか。あの物体、存在を、たとえば丸ごと耳のイメージに置き換えてみると、かなり猟奇的な絵面になる。エズラ・パウンドと言いたくなる。この前、ふとした会話の拍子に、「誰もが自分一人で心の中で使っている、他の人には分からない言葉がある」という命題を得た。咄嗟に思い出せないのは、ふとした瞬間に使っている内的マイナー言語要素だからで、でも各人の内面に、確実に存在すると思われた。私が家に帰った時に言う、「ただいマルクス・エンゲルス」みたいなものか、あるいはそれよりもっとラディカルなものだろう。しばらくやることがない日が続いていて、私という人間は、本当に、根源的な欲求がないのかもしれないなあ、とぼーっとしていた。手が空いた時にひとまずかかる何かがそれなのではないかと思っているが、私はそういう時に別に本を読むでもなく、ただぽけーっとしている方が多い。どう言えばいいのだろう、やること、やる気、何でもいいのだが、強い指向性を持ったドライブを備えている人を見ると、不気味である。向こうがこちらに対するのと同じくらい、理解できない。本当に同じ生き物なのかという気がしてくる。

ホルマリン抜け

小説を読みながら、小説をおもしろいおもしろくないではなくて、読んでいるという次元にしかない気がした。まだ言語化されていないが、そんな感じがした。久しぶりに英語の小説を読んでいる。これはまだ単語が分かる方だ。知っている単語でも、こんな典雅な組み合わせがあるのか、という意味ではこの訳は高等である。語彙という点では、まあ高校英語修了時点くらいでも読める。つまり、この訳者の能力はとても高いと言えるわけだ。普通の材料で巧みな料理を作る、的なことをしているので。そういえば、翻訳を読む際の言語的な違和感というのか引っかかりというのか、しっくり来ないところがなくて、この訳はもしかして相当いい可能性がある。原語も読めなくはないから、対照してみる暇があったら面白いかもしれない。たまに、自分が持っている欲望の点検をする。これは具体的な形に落とし込むとどういうことがしたいのか、どういう動詞と形容詞と目的語と副詞と観点の対格が必要なのか、よくよく考えるふりをしてみる。毎回ほとんど変わりがなくて、そして下品であけすけで、見ない方がよかったなあ、と思う。下水溝とか排水溝の掃除と同じで、定期的に向き合わないといけなくて、でも目を背けたくなる作業なのである。メリットはほとんどない。毎回相違点を探す方が難しいくらい、少なくて強烈なものが手持ちだからである。近頃は、やけくそみたいに野菜を食っている。何の贖罪なのか。野菜はいっぱい食ってもいいからだろうか。食って食って食い過ぎると身体に悪い野菜ってあるのかしら。過ぎたるは猶及ばざるが如しとは言うが、毎日トマトを食って死ぬということはなかろう。限度がある物事があったりなかったりする、ということか。思考がくるくるする。

巻き取り猫

精神に負荷のかかることが続く日だったので、多分2日くらい書いてないのではなかろうか。こなしていたルーチンも一部は途切れがちである。かなり眠くて、身体と精神の内側に、もくもくとカビが生えてきているのを感じる。私はおそらく、根を下ろしてはダメなのだ。望まぬ根無草にならないとダメになるダメ人間なのである。そろそろ髪を切っていいかな、くらいに伸びてきて、すけべは髪が伸びるのが早いという説を体現しているではないか、と言われたらどうしようかと思っている。昨日人とした他愛無い話だが、理髪というのは生活基盤のひとつである、ということが分かったというか気が付いたというか。髪を切る人、それを指す言葉がない言語はないのではないだろうか。どの言語にも含まれている言葉、を、寄せ集めた場合、それは覚え切れるくらいだろうか。それともそれすら、もう覚えられなくなっているかしら。意図して文体を破壊するのは、そう、身体によくない。しかしそれは止められなくて、しょうがないね、本当に。

already behind

自分の中に強い衝動なり疑問なりが生まれた時、あるいは生まれるとして、それを共有しようという気があるかないか、あるいはその気が生まれるか生まれないかという根本的な差異が人間にはあるというのが私の意見であって、それと同じくらい、「よく分からんけどまあ先に行けばなんとかなるだろう」くらいの、疑問点を抱えたまま息ができるかどうかというのもある。正直なところ、世界に対する好奇心はほとんど失ってしまったのか不活性になったのかはともかくなくなってしまって、目標や好奇心に燃える人のそばにいると、自分がしょうもない人間に見えてなおのことまともに人生をやり過ごそうとの気さえ萎んでしまっている。具体性を抱えるのには耐えられないが、抽象性では暗さの中の明かりにはならず、口をぱくぱくしていたら一日が、一週間が、一ヶ月が、そしてゆくゆくは一年とか一生が終わっている。こういう場合が、最もatheistなのではないだろうか。何もすることがなくて白紙のノートを繰っている方がまだましみたいな日が続いて、本屋で本でも買ってこようかなあ、と思うだけ思って、本屋の近くまで行っても本屋には行っていない。食う以外別に何をするでもないという状態は私の中ではかなりよろしくない精神状態の表れのひとつであるが、まあなってしまったものは仕方がなくて、でもこんな状況を抱えられる能力なんて欲しくなかったような気もする。

おみそしるアイドル事務所

めちゃくちゃなクラスターになっとるやんけ、という話を聞いた。私は疾病一般に罹患するのがとにかく嫌で怖いので、コロナであろうがなんであろうが、正しく怖がり、そして怖がり過ぎるということはないと思うのである。健康とはペンを引っ張って引く一本の直線であり、途切れてはいけないのだ。休息も間断もなく、続くことその一事に大いなる価値がある。なので今日は野菜をたくさん食べた。アホみたいな飯をしばらく食っているからである。私はこの国の飯が好きだが、合わないと辛かろうのは間違いない。飯はどこでもついて回る、考えなければいけない問題だ。空気の匂いが嫌い、みたいなもんなのかもしれない。突然美味い飯をもらったので、一日四食になった。腹がくちくなった。馬鹿な飯は馬鹿な飯で、満たしてくれるものはある。丁寧な飯は、それまた代替の効かない慰撫である。言うことを聞かないやつというのはどうすればいいのか分からない。言うことを聞かないので言っても聞かないのだ。こういう人間は、誰にも何も言われず育ったからこうなのだろうか。周りが面倒がって放っておいたからこうなっているのだろうか。目の上のたんこぶが、空の上のたんこぶになっている気がする。

ベッドを連結したらどこまでも寝返りがうてるのではないか

現在の環境で、またぞろコロナが身近に迫ってきて、本当に世界中どこへ行ってもいるのであるなあ。手洗いをして、むっつり籠っている以外にやることがない。とは言いつつ、屋台が居並ぶところへふらふら出かけていって、ご飯だけ食べてきた。発覚する前だったので仕方がないとも言えるし、危機管理が足りないとも言える。ギリシア料理だと思うが、スヴラキみたいな名前のやつを食べた。フレンチフライが入っていたのは、今考えるとフレンチじゃねえかと思ってしまう。およそ出不精で、人付き合いが悪くてよかったと思うのは、こういう時くらいかもしれない。外に出たくないが外に出る用はほどほどにある。

ケチン質

食生活が安定してきたためか、便のリズムが安定してきた。便のリズムとはなかなか間抜けな響きだが、これは生活習慣の中でもトップクラスに大切なものである。便が不如意なタイミングで出ることのストレス、あるいは不快、不便は申すまでもないが、朝のルーチンにおいて便器に腰掛け緊張を解き放つ作業は欠かすことができない。労力と時間を要する作業の開始位置終了位置が固定化されていないのは不安になる。できれば一日何も考えて過ごしたくないが、朝は特に何も考えて過ごしたくない。とりあえず目の前に流れてくるルーティンを流して、あぁ、いつの間にか全部終わってましたね、へへ、くらいでいいのである。歩くのは嫌いではないと思っていたのだけど、歩き始めて1分くらいで、歩くのにはもう飽きていることに気が付いた。飽きている事実に気が付かないために他の物事を色々考えているだけで、早期に、もうやだなー、と思っている。頭の中が空っぽになるのはいいことだ。何者かが何物かが入ってくる余地があるということだからである。入ってくるかどうかはさておき、そういうスペースが確保されているのはよいことだ。空き地とか、白紙のノートとか、へそくりみたいなものである。どういう色の部屋なら閉じ込められても耐えられるかを考えてみたが、白はちょっとしんどいだろうなと思われた。暗めだけど暗くない、明るい紺色くらいがちょうどいいかもしれない。そもそも閉じ込められたくないけれども。槍投げじゃなくて、綿棒とかボールペンとか、つくしとかを投げて投擲距離を競ってもいいのではないかしら、と思っている。つくし投げ大会はよさそうだ。絵面がどうあっても険悪にならないだろうから。絵本的である。つくしから、ぱっふぁー、とつくしパウダーが飛び散ったらパンデミック感が出てしまうが、飛ばさなければよいのである。分かりにくいピクトグラムと分かりやすいピクトグラムがある。ピクトグラムの設計理念からすれば、前者はそもそもピクトグラムではなく、まあなんかの記号とか落書きの一種ということになる。きれいな字と汚い字みたいなものなのだろうか。お前はそれでいい、それで分かると思っているのかもしれないけど、という。自分の中に生起する欲望を、具体的なものとして把握しようとしてみたら、どうなのだろう、どうなんだろうね、それは、と第三者として自分を見ている。自分の中で思っているだけならいいけど、表には出せない、出してはいかんのじゃないかな、ってものが少なくないというか大体そうだ。想像は自分の身体の内側なのだ。