他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

県民ずきん

ここ数日、「フェチを感じる時、その向こうには特定の個人やキャラクターがいるのか、あるいは純抽象的な概念があるのか」を考えている。説明すると。例えば、下着フェチの場合、目の前にある下着への想念について、その下着という物を通して、名前がついていようがいまいが、何かしらの人格に対して強烈な感情を抱いているのか、それとも、ただその下着という物が終着点であり目的物であって、そこには人格的、動物的要素の一切が存在しないのか。どっちなのだろうと思って、特に進展も結論もない思案をしている。物自体が欲望の純粋目的語になりうるのは、いざそれ自体が手に入ると興味がなくなって埃を被らせたりする事があるから、理解の及ぶところはある。しかし、そこに性のまつわる欲動が絡んでくると、よく分からなくなる。今まで感ずるところのあった、吸収した事のある人格全てをフードプロセッサにかけたどろどろの人格のスープの中に、フェチを感じる時に遠望する事になるごたまぜのキメラがいるのではないか、という点が説明できない。何を言っているのか分からなければ、そのままにしておいて一向差し支えないトピックではある。が、私は、四六時中、それはもうスケベ心の有無に関わらずこういう事しか考えていないので、たまに喉越しの悪い問題を見つけると、落ち着かなくなってむずむずする事もあるし面倒臭くなって忘れてしまう事もある。頭の中にある、極めて個人的な思念の粘液を、言語で表現できる形まで整形しようとすると、それまですらすらと書けていた文章が突然ピタッと止まり、これをどのように言えばいいのか分からんちん、立ち往生状態になる事しばしばである。しかし、その作業こそが出力の他人への伝わり方を多次元的にためつすがめつするトレーニングになるので、時間が許す限りやっておくのがよい。どの程度まで離乳食に近づけるか、の問題もあるけれど。昨日、もはや「ムラムラ」と表現してもよいほどの内的圧力に突き動かされて買ってきた吉田戦車ぷりぷり県』であるが、これはもうめちゃくちゃに面白い。味のする虚無といった感じで、たまに、自分で何が面白いのか分からないのにケラケラ笑ってしまうコマがあったりする。こちらに全く反射してこない、隔離された強度のあるフィクションである。内容については、hard to explainなので、タイトルの音に面白さを感ずるのであれば、きっとこの漫画は気に入ると思う。ぜひ読んでみるといい。だんだん、異端であったはずのつとむがツッコミに回っていくのが、味の濃さを感じさせる。