他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

口が開かないので

マックシェイクに、ミルキー味が出ていた。ミルキーのみならず飴全般が好きではないので試してみる必要は全くなかったのだけど、ミルキーそのものの味がしたらウケるなと思って、ナゲット15ピースと一緒に買った。帰りながら、ストローを差して飲んでみたら、笑ってしまうほどミルキーの味がそのままミルキーしていてミルキーウェイだったので、過去の記憶がフラッシュバックした。そういえば、マックシェイクがプッチンプリンとコラボした時も、シェイクMサイズの最初から最後までむっちりとプッチンプリンの味、他ならぬそれそのものが絶え間なく押し寄せてきていた。コラボというものを肯定的には評価しないものであるが、この世において、マックシェイクが何かとコラボした時は、それは、言い方は変だけれども、原作に忠実と言えるのだろう。もう一種類くらい、何かの魂を憑依させたシェイクを飲んだような気がするのだが、覚えていない。プッチンプリンは、その取り合わせの意外性だとか、味わいのやたらめったらな濃密さが鍵となって覚えている。今回もナゲットの限定ソースを試した。2年くらい皆勤賞なのではないか。こんなもんで皆勤賞取っても、マクドナルドでさえ褒めてくれるかどうか怪しい。ナゲットは、多くて一回で5ピースの摂取が限度であって、それも「肉を摂取している」という、味に関係ない事実の咀嚼なのであるから、それが3倍されたら、それは、味がする茫漠なのである。たまごタルタル、ピリ辛オニオントマトソースが今回の限定枠だった。前者は、典型的なタルタルソースを思い浮かべて、その強さを7割か6割程度まで減じたものだと思ってよい。つまり、タルタルソースらしい濃厚さとオイルっぽさがささやか過ぎるので、今回のハズレ枠とも言える。私にとっては。後者は、料理のソースみたいな感じで、ニンニクが味を支えつつ、味が去った後に感じるわずかな辛味が面白いトマトソースと言ったところ。ピザを作る時に一番最初に塗るあのソース、あれをエンパワメントしたものと言えそうである。この言葉を使う人は、概念の翻訳と自己援護を怠っているのでアヤシイと思っているのだが。なので、トマトの方が私は好きである。何かを途中までタイプすると、「オイリュトミー」という言葉が出てきたので調べてみたら、Eurhythmyというものがあるらしい。めちゃくちゃにギリシア語由来だし、なぜ頭の方だけドイツ語読みなのかも分からない。新奇な語彙をぽんぽん多産するのは、それだけ基礎語彙が蔑ろにされて顧みられていない証左だと思うのだが、どうか。

deponentia

人に何かを教える時、自分という存在を解体して、中身を全て開け広げにして、まるまま覗き込まれているような気がする。エロ漫画のシチュエーションに、×××を広げて「ここが(ピー)、ここが(ピー)」と教えていく保健実習みたいなやつがあるが、あれをやった事は幸か不幸かないけれども、もしもあれを義務的に、あるいは相手の知的態度に対して真摯に向き合ってやっているのであれば、こういう気持ちになるのではないかと考えてしまうほどである。大真面目な事をした後、こんな大いに不真面目な事へ還元しようとする阿呆はいないだろうが、ここに残念ながら一人いる。あのシチュエーションを、「教授」で終わらせ、その向こうの行為へ及ばなかったら、そのpara prosdokianな感じと、空気中に充満した生物的前のめりのやるせなさが相まって、相当面白くなるのではないかと思わなくはない。あれのどこがいいのか、私は終ぞよく分からないままなので、あれについて一家言ある方は教えていただきたい。読む本はまだあったのだが、読む本がもうなかったので、本屋に買い足しに行った。この命題は、背反しながらも成立しうる、厄介なものである。ついでに、本棚と言わず、実動スペースに置き場所がすでにないにもかかわらず本を必要としている、も同じ類のものである。社会・人文コーナーを気まぐれで見てみたが、フケほども面白さを感じなかったので、すぐに文芸文庫のところに降りてしまった。フィクションに耽り、自らを虚しゅうする事が究極動詞なのではないかと思えてきた。新刊をぐるりと見て回ると、開高健の『オーパ!』が、当時の体裁で復刻出版されていた。まさかこの元号になってこの装丁を見ようとは、という、大型の、ボール紙みたいな箱入りで、体内で熱量が荒れ狂わんばかりであったのだが、値段が8000円+税だったのでちょっと考えている。明日の帰りに買うかもしれない。文庫の新刊にも、開高健のものが2冊出ていて、詳しい潮流は知らないのだが、もしかすると、現代文芸の世界で再評価というか再発見というか、あるいは評価の形成が起こっているのかもしれない。うち一冊の表紙が若かりし頃のその人であったのだが、思わず目を剥くほどの美青年であった。でありながら、芥川龍之介とか、太宰治と同じような、陰と言いたい存在の色合いがあった。晩年の、経験と思惟が詰まったような姿しか知らなかったので、あれほど「きっ」としていたとは。人を綺麗だと思ったのは、いつぶりかしらん。

針の山から藁を探す

目玉焼きにコチュジャンと明太子マヨネーズを乗っけて食べた。目玉焼きに何をかけるか論争があるが、最近はコチュジャンか青麻辣醤か明太子マヨネーズである。醤油でもソースでも味噌でもない。コチュジャンは、味噌と言えば味噌なのかな。味噌だな。明太子マヨネーズに関しては、チープな値段だったのと、その存在自体がチープであるせいで、あまり期待していなかったものの、それらを大きく裏切る存在であった事は数日前に書いたような書いていないような気がするが、気になる点がひとつあった。食べた時、口の中で、燻製を食ったみたいな、もわっとした感じが広がる。あまり心地よくないやり方で。明太子の入ったマヨネーズを食いたいという雑で解像度の低い欲求を叶えてくれるのは嬉しいが、なかなか完璧とはいかないものである。雨が降っていた。ぴょろぴょろと。洗濯物を干すのが明日くらいでよかった。ゴミを出したのは、最後に出したのはいつだったか完全に忘れた。出すほど出ていないからであるが、燃えるゴミの量は減ったようである。なんでだろう。私が主に反応する花粉の季節が過ぎ、ティッシュの消費量が減った事は間違いない。あと、近頃買い物に行っていないので、そもそもゴミが出るようなものを家に持ち込んでいないからでもあろう。牛乳パックがまあまあ溜まったので、明日買い物に行く時、ついでに出してこようっと。欲求を表す「〜しようっと」の文末が好きなのだが、現実ではなかなか使いどころがないというか、「〜しようっと」と「〜しよっと」の区別が曖昧で頼りなく、これくらい階層の低い口調で会話しても問題ないような人間と話をする事もなく、適切な置き場が見つからないので使えていない。語末の、「っと」という全く不要な何かしらが心の何かしらに訴求してくる素敵パワーを持っているのだと推察されるが、その正体はいまだに掴めていない。生姜を使うのはしばしば忘れていたが、ニンニクは使い切ってしまった。なんかこう、いい感じにあれしてそれすればそこまで匂いが気になるものでもないし、料理の通奏低音みたいな役割っぽいものを果たしてくれているのでできる限り使いたいと思っている。長年親しみ続けているので、ニンニクの各種成分に対するハードルが限りなく下がっているというのもあるが。反面、使いどころを見失っているのが昆布で、料理を始める時になって、下の戸棚を開けてからその存在を思い出すので、昆布を食うぞという直接目的語的欲求がないと覚えていない。

nepotism

昼から調子がよくなかったので、畳んだ布団の上に乗って、電気が眩しいので半纏を被って、3時間くらいじっとしていた。寝ているような瞬間もあったし、寝られねえかなあと思いながらもじもじしている瞬間もあった。その後結局持ち直さないまま今までずるずる来ているので、今日はもうそのまま終わるのであろう。洗濯機を回したら、すすぎと脱水の中間でエラーが出て、水をそそいではぐるぐる回ってエラー音が出て停止、というのを繰り返していた。安かった割に長年使い続けているから、耐用年数的なあれとかこれ的な問題が出てきているのかもしれない。もし洗濯機を入れ替える必要が出てきた場合、前の方に置いているあれとかそれを人目につかないところに移動させなければならないのでめんどくさい。乾燥までやってくれるやつにすれば、雨の日でも部屋が湿っぽくならずに、や、雨が降ると湿っぽくなるのは道理なのだが、過度に、ならずに済むのはいいかもしれないけれど。洗濯機に金をかけるかというと。また、では何に金をかけるのかというと。なんだろね。読む本がなくなったので、また本屋に行かなければならない。今月の新刊も知らないので、明後日か明々後日かくらいに見に行こうか。読んでいない本がまだ積んであるのだが、それと読む本がないという命題とが両立可能である事は、不思議だが真である。開高健が挙げていた小説やルポを買ってみたり、なんかの文庫を適当に買ってみるのでもよいが。三月頃、終わりあたりは、内面的に躁だったのだろう。多少の自覚があった。多少という言葉、自分で自己矛盾を孕んでいるな。自己乖離性の何かか? more or lessというやつも、引っ叩いて退場させたくなる。分裂と統合の失敗を見せないでほしい。連休が始まるくらいから、それはもう見事に躁ではない方への移動が感じられた。落ち込むほどではないが、風景がどこまでも白く、どこまでも何もない、自分が小人となってスプーン上白糖の中へ放り込まれたような、漂白された無気力と時間の漏出を眺めるだけとなった。無意味、無為に慣れると、焦りが湧かず、砂糖と塩を間違えたなめくじのようにてろてろと輪郭が失われていくから、可能ならば躁の方でいたいのだが、あっちはなかなか現れてくれず、言うなれば、氷山の一角型なのであろう私の中にいるやつは。でっかい袋に入っていた冷凍の鶏肉いっぱいが、今日なくなった。期限を過ぎても冷蔵庫の中にあったが、事実上の冷凍エリアに存在した事でダメージをある程度免れたのだと想像される。

環る腸詰

午後から雨が降ったので、気分が悪かった。結局降ろうが降るまいが悪かった気もする。自分で炊いたご飯を久しぶりに食べた。皿が足りなかったので、炊飯器の炊飯釜にご飯を半分残して、直接目玉焼きを乗っけてコチュジャンを添えた。なかなか無くならないだろうと思っていたコチュジャンも、気づけば一部では底が見えてきて、だからと言って別にどうこうはないのだが。無くなったらまた買ってきてもいいが、量としてはやっぱり持て余す。お一人様用とか、小さめサイズとか、使い切りパックみたいなやつが割高になるのは分かる。実際として割高であるから、や、これは何も言っていないのと同じなのか。あらかじめ商品の受益部分を少人数用に調整してもらって、その分の手数料が価格に入っているから高い、とでも言うのか。ひじきの煮物はたくさんを一気に作った方がうまい、という比喩の方が私は分かりやすいのだが。いつか、業務用スーパーの精肉売り場で丸太みたいに横たわっているクソでかいハムの棒を買ってみたい思いがあるのだが、あれこそ普段は受益部分が少人数用に調整されている最たるものの一つであって、十人家族くらいになったとしても、あれだけのハムを一回で費消し切るのは難しいのではなかろうか。両端の包装が綻びないという保証があれば、ちょっとした抱き枕にさえなりそうである。イメージの置換としては、甚だ直接的過ぎるかな。たまにその事実を思い出すが、よくも動物の腸にその肉を詰めるという、酷の二乗みたいな事を考えたものだと思う。一回殺してはらわたを抜き、皮を剥いで肉を潰し、腸をしごいて中に肉をぶりぶり入れるのである。排泄の逆工程が、人間の栄養吸収消化という順工程のために行われている。これを我が身に置き換えて考えてみると、私が殺されて私の内臓に私の肉が詰められるという事で、ちょっと考えてみるとぞっとするところがある。相手が動物だから、こういう手順が始まったのではないか。それとも、食べ慣れた食物に対しては、よりうまく、より一層の探求が行われるという、性みたいな部分なのだろうか。非常時の食人についても、そういう事があるようである。好むと好まざるとにかかわらず、求めてしまうのだな。もしかすると、原型から遠ざかり、手順を数重ねる事で、本来の元々あった姿から出発し、見えなくするような、罪悪感を手数で薄めるような心理があるのかしら。あぁ、古代世界や、アフリカの部族の犠牲儀式について、こういう学説というか観点があったな。Comedy of Innocenceとか。

滑る手

頭がぼんやりする。今日は生産的な事ができない日だったが、後々の事を考えて、ちょっとだけ自分に鞭打って、ちょっとだけやった。カレンダーをよく把握していないので、今日が何曜日なのか分かっていない。週初めのどこかだと思う。人によって、週が日曜日から始まったり、月曜日から始まったりする。私はどっちなんだろうな。自分から言い出しておいて。数日、夢を見ない。もっといえば、夢を見てはいるが内容はこれっぽっちも覚えていないとなるのか。しかし、面白おかしい夢というのはなかなかなく、夢の中で面白くても、目が覚めてそれをメモにとって置いておき、時間が経ってから確認すると面白みへ至る意味が破綻していたりして、あれは全く不思議な現象である。料理は暖かいうちが一番美味しいとか、そういうものなのだろうか。それとも、夢という場においてのみ夢の面白みというのは発現し、それ以外では不活性化してしまうとか、そういう事なのだろうか。扱いの難しいやつであるな。なんで夢の話になったんだっけ。忘れた。後輩と焼肉を食べた。人から誘われるという事が基本絶無であるので、世界のバグではないかと思っているのだが、誘ってもらって私は嬉しい。何も考えずに、適当かましてものすごい事を言っても許してくれるので。肉欲という言葉は、大別するとふたつの意味があると思うのだが、どちらもいい意味である。鶏軟骨をいっぱい食べた。食べながら、経血の話とかしていたのは振り返ってもどうかと思うが、我が事ながら止まらないので仕方がない。手持ちの話題が下品なものしかない。精液に関しては、そもそも味を評価軸として持ち出してくるのはおかしくて、摂食の事実についてのみ考えるのが適切なのであるとか、そういう話とか、およそ上品とは口が裂けて舌が千本くらいに増えて口蓋が大陸プレートくらい厚くなっても言えないような話がほとんどだった。飯を食うという行為と、品の無い話をするという行為は、私の中ではそもそも全く別の路線であり、食事行為線という電車の中に、ちんちんとかまんまんとかいう客が乗っているわけではないのであろう。ふさわしい電車にふさわしい客が乗っているだけなのだ。このたとえで納得する人間はいないだろうが。焼肉を食べるとQoLが上がる気がする。帰りに、主食がキッチンから失われてしまったため、玄米を買って帰った。地元に電話すれば送ってもらえるのだが、それが面倒なのでこうなっている。が、5kgのでかいやつはなくて、こしひかり玄米の2kgを買ってきた。冷凍庫にアイスがいくつかあるのを、すっかり忘れている。

風も強い

昨日は、路上に歯間ブラシが落ちているのを見た。2回も見た。道に軍手が片手だけ落ちているというのは、よく口に上されるあるある命題だけれども、道に歯間ブラシというのは、残念ながらというか至極当然というか、聞いた事がない。聞いた事がないものを、一日に2回も見た。別に嬉しくないし、楽しくもないし、他人の歯クソを取った後のものなのだからどちらかと言わなくても見たくない類のものである事は白い歯くらい明々白々である。道に落ちているゴミよりも記憶に留めた方が益のあるものは世界にたくさんあるわけだが、その光景をまたしても頭の中に反響させ続けてしまった。観察して、行こうとした時に、歯間ブラシの形って、書き損じた、数字の「3」みたいだなと思った。これが最大の発見であった。普通に生活していて、一体どれくらいの回数歯間ブラシを目にする時間があるのかは分からないけれど、次に歯間ブラシと出くわした時は、是非とも形を観察し、それっぽく見えるかどうか考えてみてほしい。何もないけれど。やはり、あれだな、好きなタイプの文章を読んでいるのもあるのだろうが、一日のうちに20分くらいは、他の何事も考えず本を黙々と読む時間があると、文章をするするとタイプできるものだな。これも、一体何回自覚した事実なのか不安になる程だが、改めて心に留め置いておくとしよう。これを毎日実行できるほどの心の余裕が、私が人間としての内面的形を保てる条件なのであろうから。洗濯物を干した。よく晴れていた。昨日とか、一昨日は、突然空が形を崩し、表情を暗くして忙しなくなったりしたが、今日は素直だった。晴れているくらいがちょうどいい。洗濯物をかける日は、晴れている方がいいに決まっている。濡れた服を着るのが好きだと言われてしまうと、まあ、それも認める。風邪は引かないようにするのがよろしい。今日は、変な食事形態と時間が積み重なってしまったので、結局、積もり積もって、夜ご飯らしきものは、もちもちした丸いドーナツが4粒となった。ここまでもイレギュラーだったので、最後でどうにか整える気さえ失せてしまった。冷蔵庫の中であれこれ残っているのだが、あれらの処遇もぼちぼち考えてやらねばなるまい。米もパンも尽きたので、朝はパスタをちょっと茹でて、ごま油をまとわせ、鶏ガラ粉末を馴染ませ、輪切り唐辛子をパッパとして食べた。乾燥唐辛子が見込みよりも幅広い用途で活躍しているので、これは思わぬ収穫だった。

抱えきれないほどだった花束は今

今日は、少し精神衛生が上向いたというか、多少なりとも本を読んで文章に触れないと、瞬きする間もなくずぶずぶと下降していくらしいなと気付いた。何回も気付いていたはずなのだが、また忘れていた。開高健のエッセイに、すごいのがあって、「熱い番茶にボタボタのぶざまな、太り気味のお婆ンのオッパイの先端はこうでもあろうかと思えるような、皺だらけの大粒の梅干し」とあった。梅干しを婆のおっぱいに喩えるところがすごいし、その婆のおっぱいに付け加えられたディテールの質感もなんだかすごい。オトギフロンティアのマルのシナリオで、煉瓦壁に干し葡萄がくっついたような乳首とかいう、今思い返すとなかなか飲み下す事が難しい比喩があったが、人生の中で他に比する事ができる類例はこれくらいかもしれない。そもそも、なんでそれを覚えていたのか。シナリオとしてボロクソに面白くなかったのは間違い無いのだが、その中にあった一粒の異質宇宙が深く胸に刻み込まれていたものであろうか。渋谷を歩いた。用向きがあるところに行く時は渋谷の街中をずんどこ歩かなければならないので、歩きたくなくても通過しなければならないポイントなのだが、今日の渋谷は、昼前にてちてちしていて、改めて考えるとすごかった。普通、あるいは、今となっては、こうなる以前と表現した方がいいのだろうか、邪魔に邪魔をかけて邪魔の木を邪魔の紐で括ったくらい自分以外の通行者が邪魔なほど人がいるのだが、ダブルラリアットのポーズで歩いても人とぶつかりそうにないほど、余裕があった。かつて、朝5時くらいの渋谷を歩いた事があるが、あの時の方がまだ人がいたかもしれない。あら、これは緊急事態なのだなと思い、そして人々は自粛しているのだなと思った。少なくとも日曜日昼前の渋谷について言えば。夕方に帰る時は、ほどほどに人がいたので、これは曜日時間によって観測結果が大幅に変わりそうであるが、あの街を障害物なしに日中スキップできようとは考えもしなかった。そのおかげで、路上の配電盤か何かに貼ってある、昨日言ったような、猥褻ステッカーを写真として記録する事が容易であった。私は、渋谷という街を、人間の欲望の便所だと思っているので、ゴミがあったり、センター街でドブの匂いがするとテンションが上がる。今日は路上ゲロがあったので最低で最高だった。上のステッカーが、四つん這いから上体を倒して片手で局部を隠したものである。当初は指一本、本当にスジ部分が隠れて大陰唇が丸見えくらいだったはずなのだが、意識過剰な者たちによって上から手を加えられてしまった。で、下が鼻フック+αのステッカーである。これは先週くらいに突如増えたもので、出自はよく分からない。AVとかのキャプチャかもしれない。これをステッカーにしようと思った動機が一番よく分からないが。

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啜る音

仮眠から起きて書いている。頭が痛い。仮眠すると調子が下降するのは経験的に分かっているのだからしなければいいのにと毎回思うのだが、仮眠しなければそれはそれで訥々と眠いので、どちらを立てるか、あるいはどちらをへし折るかという事なのかもしれない。ゴキブリホイホイに仕掛けて、あのホイホイは何ヶ月目だか忘れたが、その中のエサの匂いがぷんと漂ってくるのだが、これほど特徴的な匂いが他にはほとんど生ゴミでしかありえず、しかし生ゴミの処理は丁寧にしているはずであるからして、これはホイホイにGがtrappedという事なのではないだろうか。季節も変わり、暖かいどころかちょっと暑いくらいの日中もあり、やつらも本格的に営業再開したというところだろうか。地球上のオール生命にビバ・リーヴルと言いたいのは山々だけれども、互いに互いの目につかないところで適度に活動していきたい所存である。Gと協定を結ぶのはなかなか難しい話であるし。中国語で、コンタクトレンズの事を「隠形眼鏡」と言うらしい事を知った。かっこいいようなかっこよくないような気がするが、しかしその四文字がコンタクトレンズを表現しているのであると言われると、他にどう言えばよいのか分からなくなる巧みさ、適切さがあるなと思う。初対面の人が、たとえ視力がよくなくても、物理的に眼鏡をかけていなければそれは分からない。伊達眼鏡などのシャレオツパターンはここでは考えないものとする。それを隠形の二文字でぴたっとピン留めしてみせたのは、さすが漢字の国だぜと言いたい。スマートフォンも、手の上の賢い机とか、そんな感じだったはずである。日本語の最新語というのは、たいてい、知識と反省を感じられない、外国語のカタカナ転写に過ぎなかったり、解像度の荒い感情疎漏を助長するようなものばかりであるが、中国語の新語造出には、解釈が感じられて面白い。まあ、こういう事を中国語圏の人々が考えているかどうかは知らないのだけれど。日本語みたく、内実を伴わないまま容量だけ水膨れするよりは何層倍もマシであろう。道を歩きながら、300円の使い捨てオナグッズではなくて、10万円の大型オナホールみたいな感じになってしまったなあ、と思った。これは、自己解釈のある部分をそれなりに穿っているはずなのだが、これ以上深いところに踏み込めなくてもにょもにょしている。そういえば、渋谷の、ある箇所に、尻を突き出してみせて、おまんこ周辺だけを手で隠したsexyなステッカーがあったのだが、その近くに、鼻フックをされた女性のステッカーが増えていた。なかなか凄いので、明日忘れていなければ写真を撮ってこよう。

障子破り

まあまあ朝早くに起きた。朝5時くらいに目が覚めたが、もう一回寝た。目覚ましに続く事10分遅れで起きたので珍しい。珍しいな〜。今日は一日、頭がずっと空っぽでからからしていて、何を考えているでもなかった。ので、なんか書く事がないし頭も働かない。最近調子悪いな。いまだに大型連休と呼ばれる今付近のカレンダーがよく分かってない。明日洗濯物干そうかな。

in magnis

数日、自分で飯を作れているのでちょっと落ち着いた。どういう時に食って帰るのかは決めていて、その食って帰る事が決まっているような日が多かったから飯を作っていなかったわけで、自分で飯を作りたい気持ちはあった。自分で作った方が量やらなんやら調整しやすくて楽である。昨日今日は、ラーメン屋で、鶏油(ちーゆ)の作り方を聞いたので、それを真似て油を出してみた。鶏もも肉一枚から皮を剥ぎ、ネギの青いところと生姜と一緒にフライパンでゆっくり熱すると、いい感じの油ができる。ネギの青いところは初日でなくなってしまったので、今日は生姜だけでやってみたけれども、ネギはなくても問題ないといえば問題ないと思われた。あると、多少香りが違うのかもしれないが、鶏油で一番気になる鶏臭さは、生姜でほとんど消えている。オリーブオイルや胡麻油とは違って、口当たりがさらっとしているので、個人的には大変高評価である。飲食店で使うくらい、一度でどかっと作れると、それはそれでいいのだろうが、一人暮らしで誰に食わせるでもない身では難しいし持て余すので、思い出したら適宜やってみようと思う。これと軌を同じくして、台所に生姜と輪切り唐辛子があるのはありがたい事だなと気付いた。ニンニクも常備するようにしているが、生姜も便利である。臭みを消すのでもいいし、ちょっとスライスしたものやみじん切りにしたものを入れると、全体を支えるほのかな香りが出てきてよい。唐辛子は、なくてもいいのだがあった方がいいという、絶妙なポジションにある。あるなら欲しい、という、人によっては漬物だったり食後の熱いお茶だったりみたいなところだ。あとは、今日初めての事があったりして、午前中から気を張って少し疲れた。雨も降っていたので、午後は数時間ダウンしていた。しょぼい身体であるが、ちょっとした事で異常を検知できるので、体調のバロメーターが体調であるという同一性は便利といえば便利なのかもしれない。米がなくなったのでパンを食っているが、クロワッサンにチーズをかけた、頭の悪いパンがうまい。チーズがそれほどしつこくなくて、でもチーズっぽさがあるのがよい。冷蔵コーナーで特売に付されていた明太子マヨネーズをイングリッシュマフィンに、ホイップクリームみたいに絞って食っているが、これもうまい。99円だったくせに、マヨネーズと明太子がきちんと両立していて、しょんぼりした、湿疹の湧いたマヨネーズに留まっておらずポイントが高い。

魚に言葉をかけるとどうなるか

よく分からんビデオ会議がまだ終わらないのでちょっとだけ書いて終わります。というか、年度が変わる前後くらいから忙しくなったな? おかしいな? こうならないように生活リズムを構築していたはずなのだが……。買い物の帰り、臨時休業の張り紙をしていた鯛焼き屋の店先に、めんどくせえ客(客ではない)が粘着して、ねちゃねちゃぐちゃぐちゃよく分からない事を繰り続けていた。スーパーへ向かう時に既にいたのだが、帰る時にもいた。何を言っているのかほとんど聞き取れなかったが、「社長がそんな教育してるから……」という端言だけは耳に入った。マスクを顎まで下げてしゃべっている時点でお前の方がこのご時世においてアレだろうがと思った。店の中を軽く窺った限りでは、どうやら片付けや整理をしていたらしいので、そんな七面倒くさい〇〇の相手をしている場合ではないのは明白だった。社会の膿を見た気がする。

いろはにほへτὸ τέλος

便器に座って小便をしながら、ギリシア語のπαιδεύωには、日本語のあいうえお全ての母音が含まれる事を発見して、雷は落ちなかったが、単三電池2本分くらいのぴりっとした感じはあった。カタカナでベタに起こしたところで実際の発音がどうだったのか知る由はタイムマシン以外はないが、「パイデウオー」である。aieuo。全部揃っている。古典ギリシア語を学ぶとなると、まず暗唱させられるところの動詞であるπαιδεύωにそのような性質があるとは、学の端緒としてなかなか素敵な符号ではないかと思わないでもないのである。今日、発見した生産的と言えそうな事はそれくらいだった。あったかくなってきた。もう、裏起毛パーカーは、次の秋か冬まで着る事がなさそうである。もう10年以上同じものを着続けているのだから、そろそろいいような気もするが、昨冬は結局、心の底から納得できるものが見つからなかった、ないし、見つかっても物理的にサイズがなかったので、半年後くらいの自分と服飾業界に期待である。また、向こう10年くらい着潰せるものが欲しいものだが。身体にひっかかるだけのものについて、考える時間は可能な限り減らしたいので、同じものを長く使えるのであれば、それはいい事だ。刷り込みというか、愛着の湧き方がたいへん強い方なので、慣れた(馴れた)ものがなくなるのは、おそらくストレスでもある。明日、午前中あたりに買い物に行っておかないと、野菜がなかった。人参玉ねぎという基本原理はあるのだが、他が何もない。ニンニクって野菜なのか? あるにはあるが、あれは量を食べるものではないので。今日は昆布の煮物を夜に作ったが、本当は昆布の煮しめを食べたかった。が、作り方を知らないし、レシピを見るのもめんどうなので、おおよその煮物の方向性に沿って、煮しめっぽくなりそうな感じで作った。煮物の水分が飛んだら煮しめなのではないか? 概念的計算をすると。昆布を食べ物として扱った事がほとんどないので、適当に切ったりちぎったりして鍋に入れたが、水を吸うと膨らむという、基本的な事実を忘れていたので、大元の枚数はもっと少なくてよかったし、1ユニットごとの大きさももっと小さくないと、折り畳んで口に入れなければならなかった。昆布自体は、うまかった。あれは昆布そのものの味なのか、それとも調味料あれそれの味もそれなりに寄与しているのか。全体として、砂糖と醤油の立ち上がりが弱かったので、生姜をちょっと入れるとよかったかもしれない。生姜とニンニクは、思ったより起用した方がよい場面が多い。

現代的ゲバ棒

人に文章を書いていると、長くなる。頭から書きながら、ここはもう少し詳しく書いておこう、ここはもうちょっと伝わり方がシャープになるな、と考えながら、当初頭の中にあるゴールまで到着すると、想定の数倍長くなっている。5行くらいで、ぺぺっと書けるものだと思っていたのに。くしゃみと大差ないような、価値のうっすいものを並べるよりも、ローマの建築物のように、隙間なく、漏れなく、作りたいのである。さっき晩飯を食べていた店がテレビを垂れ流していて、これが娯楽として成立しているらしい事が信じられなかった。あんなもん、ティッシュの切れ端でちんこをなぞるかなぞっていないかくらいのもので、綿棒でいじるようなものでもない。あれで射精できるのは、異常か、あるいは、そもそも本来の過程と結末から逸脱して、事象の生起だけに即応的に無為を労しているだけである。馬鹿馬鹿しいとかうそ寒くなるとかでもなくて、ただ、自らを反響する洞穴とする事で足れりとしてしまうのだなと思った。しょうもない。あの店の麺の量は、近頃、大ではもういけないと感じるようになった。並で十分である。細麺なら、大でもいけるかもしれないが、太麺のメニューはダメである。ずっと前に、つけめんの特盛りを食った記憶があるが、その頃に比べると身体が方向性を変えている。そういうわけで、今は並で十分、や、むしろ十二分くらいなのだけれど、目の前の、二人掛け、壁にめり込むような狭い席で、むくむくもくもくしたおっちゃんが油そばらしいものを食っていた。あれも、うまいが、油の存在感とこちらに迫ってくる圧迫感を考えると、やっぱり並盛りでいい。おっちゃんの前で存在するそれは、おそらく特盛りと思しき量だった。ガタイもよかったし、よく食うおっちゃんなんだなと思った。私は、自分のまぜそばを食いながら、しかし、特盛りという事実から目を離せずに、おっちゃんを観察していた。そして、おっちゃんは特盛りという現実に手を焼いている事が分かった。しきりにスマホを見、しきりにマスクを着けたり外したりし、しきりにどんぶりの中を箸やレンゲでかき回し、要するに適正量より多かったのである。私はドキドキしながら見守っていた。0.5玉分くらいしか終わっていないのにその様子なので、大丈夫かと思った。カンフル剤的に、卓上調味料のニンニクを全部入れたりしていて、腹にもう物が入らない時の、体感覚が充溢して横溢するあの感触が私の身体にも思い出された。左横で食っていた人は、箸の持ち方が嘔吐しそうなほど汚かった。そして、3人とも左利きであった。だから何という訳ではなかった。

売毒

住宅街の私宅に、つつじの花が植わっていた。国道脇に咲いているのや、先日見たようなやつとは、なぜだか色合いが違い、ピンクの主張が強かった。下品で扇情的なランジェリーを思い出させるような、そういう色相だった。下品で扇情的なランジェリーと言うのは、下品というところは概ね意見の一致を見るところであろうが、扇情的、つまり情欲を煽られるかどうかというところに関しては個々人の趣味嗜癖があるだろうから置いておいて、こういうのは、私も先月くらいまではだいたい想像の、ホワンホワンメムメム〜くらいだったのだが、あまり人に言うようなものではないきっかけで探し求める事になり、すけべなネットショップとかリアルショップとかを見て、だいぶ現実の手触りで補完できた。グラブルのシャトラ、あれが着ている透明のレインコートみたいなやつ、そもそもどうやって思いついたのか見当もつかなかったのだが、ビニルか何かの素材でできた、透明のエプロンがエロコスチュームにあり(これにはそもそも、「どうしてエプロンを透明にしようと思ったのか」という別の問いをぶつけなければならない。割烹着がどうとか、裸エプロンがどうとか、そういう話は積もって掃いて捨てるほどあるが、そもそもエプロンに対して働きかけようという発想は私にはなかった。これだからやめられないのである)、知ってか知らずか、ああなったわけである。もし知っていてあのようにしたのであればそれもまたすごいし、知らずにあのようにしたのであればそっちの方がすごい。あくまで仮説なのだが。穿くもの一つ取ってもめくるめくラインナップがあるので、成人済みなのであれば、一度見てみると、人生で役に立つ時が、多くて一回くらい来るかもしれない。世の中の大体のものには代替物がある、と考えるようになったのは少なからずこういう趣味が寄与しているところもあるのだが、やはり本物の方が本物なので、その辺は上手く折り合いをつける必要がある。何の話だ? 何週間か前に見た、コンクリ壁の上の方に咲いていた、ちっちゃくて目の覚めるような白をした花が、げんなりするような陽気にあてられて元気になり始めた夏草の繁茂にのしかかられて、どこにも見えなくなっていた。ささやかで、何の価値もなさそうな花だったから、綺麗だなと思っていたのに、ちょっと口を尖らせてしまった。同じ場所に、節が連結したようになっていて、取り外したり、また差し込んだりできる、昔から知っているのに名前を知らない草が生えていた。what is your name?