他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

味のしないたぷたぷ

あまり気分がよくないので、ちょっとだけ書いて終わりにする。今日履いていたパンツが、もうゴムのゆるっゆるややつだった。帰りに、でかい交差点に差し掛かったあたりで気が付いた。腰骨より下まで落ちている。なんと。ものすごいローライズになっていた。家に帰るまでには完全にずり落ち、ズボンの股下で引っかかっているだけの状態だったので、もし私がスカートを履いていたら、途中でパンティを落っことしノーパンで歩く事になっていた。後ろから怒張したペニスが猛スピードで突っ込んできたら、障害物なしで入ってしまうな……とか真面目に考えていた。作業を持ち帰ってしまったので、日曜日までに終わらせたいところである。

おはぎ

通帳の記入に行ったら、残高がかなりギリギリだったので危なかった。家にあったいくらかと、財布の中に余分に入れておいた紙幣を突っ込んで、月初の引き落とし諸々はまあ大丈夫だろうと思われる額にしておいた。そもそも、毎月口座から落ちているあれそれの金額のどれがガスとか水道なのかとか、区別が一切ついていないので、月初に落ちるものがなんなのか把握していない。何も考えなくていいのであればそこに思考エネルギーをかけたくないからであるが、エネルギーをspareないしφέιδομαιしたところで費やす先がないのだから意味がないとも言える。身体に溜め込まれたあれそれは、尿は何度か再吸収されるし、精子は分解されるし、言うなれば別に余っている分には可も不可もないという事になるのか。脂肪になって、脂肪になり過ぎると困るのだろうが。外に出る時は、めんどうだったので靴ではなくてゴムのつっかけで行ったが、寒さはなく、若干汗がにじむくらいだったので、もう季節は変わったなと思った。見かける桜はだいたい散って、葉っぱが青々としており、あのほんのり色づいた白が消えたのが勿体無いような気がした。桜に対して特段思い入れはないので、自由に咲いたり散ったりすればいい。中学の学年統括だった先生が、学年ホームルームでした話を思い出す。どっかのなんかの種類の桜は、咲く直前の樹皮から、一番綺麗で濃い染料が取れるのだと。だからそれがどうであって、教訓的な話のどこかに繋がっていたかどうかとか全て忘れたのだが、そのイメージだけ覚えていて覚えている。あとは米粒の話、2つだけだ。時間に吹かれて飛んでいかなかったこういう話が、何かしらに影響しているのだろうが、これについて言う事はない。昨日だったか、でかい公園を通り過ぎると、桜に透かされた白い光で綺麗なスケープになっていた。連れ合いで花見をするなと掲示があったが、そういう事をする人間が掲示を見ると期待するのはあまりにも性善説過ぎると私は思う。芝生エリアは8割くらい埋まっていた。他人を関係性においてあまり必要としないのは、自分の中に他者性原理みたいなものを抱えていて、そいつと独り言とか、考え事の交換をしているだけで満足してしまうからだと最近自覚しつつある。一人でいる事がどうこうではなくて、もうその時点で話が終わっているのだから、そこから後を考えても仕方がない。冷蔵庫の死蔵調味料を片付けたら、カビのinsulaeが発生しているものがあっておぞましかった。カビの胞子が飛ぶのを久しぶりに見た。

重油オムライス

寝ぼけ眼で、寝巻きにしているスウェットをなんとなく見てみると、黄色い斑点のようなものが、ほぼ等間隔でついていた。あれ、このスウェットはこういう柄だったのか、私は目が悪いから今まで気がつかなかったんだな、はーあ、こういう事もあるのか〜と思って、やっぱりそんなはずはないと考え直し、もう最低3年は使い潰しているのに気がつかないなんて、私がよほどの目の穴節太郎でない限りはありえない。ないではないかもしれないが。寝起きから立ち直ってちゃんと考えてみると、花粉か黄砂のどちらか、命題式で言うところのorなのであろうという結論になった。どちらかだけでもいいし、両方であってもいい。予報で見た感じだと、黄砂の方かと思う。春は、洗濯しても干す段階で色んなものがくっつく季節なので、諦めた。少々の砂と同衾したところで死ぬわけでもない。顕著なハウスダストアレルギー的なものもないので、ひどく体調に影響するわけではない。なので、これは桜が咲くようなものなのであろう。黄色いシミの花が、個人単位でちまちまと咲いているのである。それでも、心のどこかで、これはまことか本当かと思っている自分がいる。夜空を見上げても、オリオン座がギリギリ分かると言えば分かるくらいの視力しか残っていないので、暗色の中の明色が区別できなくなっているのだと思う。黒のスウェットについた黄色いマダラが、本当に実存としてそこにあるのか、確言できないのである。食べ物が少なくなったので買い出しに行った。大体の日がよく晴れていて、暑いくらいなので外套もそろそろいらない気がする。途中で、なにかの店に寄って遅めの昼飯をついでに済ませようと思って、ふらふらしながら歩いた。夜はほっとんど、1回くらいしか客が入っているのを見た事がなかった油そばの店が一応カウンターが埋まっていた。美味しくないわけではないが、その店でなければ得られない何かが感じられなかったので、二度と行かないと思うが、客が入っているらしくてよかった。なんだかよさげな餃子屋があったなあ、と記憶に残っている場所へ行くと、いつの間にか改装・看板すげ替えがあって、和牛鉄板焼肉の店に変わっていた。どうして。近隣の飲食店が、死んだり、看板だけ変わったり、提供するものは変わったが中身はあんまり変わらなかったりしている。飲食が一番煽りを食った業種だろうから、頑張ってもらいたい。背割りコッペパンを買って、人からもらったとらやの瓶詰めあんこを塗りつけて食べた。おいしかった。

ネピド

出しっ放しで猛烈に積み上がっている本もそうだが、冷蔵庫の中で静かに息を引き取り、コールドスリープ安置保存されている調味料の面々も解釈してやらねばならない事を思い出した。結構あるのだが、全然整理していない。理由は、めんどくさいからである。や、別に、今すぐやろう今やろうすぐやろうと思い立って取り組もうと思えばできるのだが、そもそも日記を書こうという気を起こすだけでもそれなりのMPを消費しているのである。日常の営為にMPシステムを見出しているのはなんとも情けないような気がするが、たまに何かしらの作業仮説的なものを見出し、それを現実認識に適用してみると思いの外ばっちりはまったりして、一人で納得いっていたりする。私は、他人を説得というか、自分の思う結論の方へ誘導する事にはまっこと興味がないのだが、自分で使う分の解釈枠組みを用意するのは暇潰し方策のうち大きなひとつを占めているので、そういう、門外不出の自分ちでしか出せないようなタレみたいなものが多い。誇るような事でもなんでもないが。プレゼンとか、ディベートとか、他人をpersuade他エトセトラする行為の方面に能力が長けて関心が向いていた方が、今は生きやすい時代だと思いますよ。竪穴式住居に原料液を流し込んででっかいプリンを作るような事をしていると、箸にも棒にもかからなくなるので。バケツプリンとか風呂プリンは聞いた事あるけれど、竪穴式プリンはないな。ふふふ。こういう、損にも得にもならない、どうでもいい世界のパネルを引っ繰り返して面白がっても仕方がないので。でも、こういう事ばかり考えてしまうのであって、もうそこはどうしようもないので、しょうがないですね。一人暮らしでは、キャベツ一玉は持て余す。持て余していた。半玉残っていて、端っこに少しカビらしきものが見え始めていたので、さっさとバラしてレンチンしておいた。生ならカビが生える、火を通していれば大丈夫、という単純な図式かどうか知らないのだが、ひとまず自分が安心できればいいかなと思う。餅やパンにカビが生えると、中まで根を伸ばしているのでキケン、捨てちゃいましょうと聞くが、キャベツの場合はどうなのだろう。カビの生態自体は変わらないから、見えたらジ・エンドなのかな。お腹を壊したら、そういう事なのだと納得しよう。キャベツを食べる調味料として、コチュジャンを醤油で固めに溶いてねりねりしたものを添えている。バカみたいな味がして美味い。

ダンシングクロアゲハ

気分が悪いので書きません。日曜日は、だいたいそういう感じだな。堕ちたら嫌な地獄を考えるのが暇潰しの手段のひとつなのだが、今日思いついたのは、「他人の使用済みコンドームを素足で踏んで進まないといけない」地獄だった。やだな。ファミマのメロンパンがけっこうおいしかった。

小便小僧のラインダンス

庭に植木屋さんが入っていた。昨日も入っていた気がする。昨日の事でさえ定かではないので、もしかしたら一昨日から入っていたのかもしれない。や、でも、昨日は、家を出る時に、外で人の足音がして、エンカウントするのが嫌だから、足音が絶えたのを見計らって扉を開けた気がする。そこまでやったかどうかは覚えていないが、顔を合わせると何かしらの挨拶はせなならんもんなんかなあ、めんどくせえなあ、と思っていたのは確かっぽい。この手触りには慣れたものである。何かをしていたようなのだが、植栽園芸に対して造形が浅き事水溜りの如しなので、砂利石をどけて、ビニルで養生している植物の根元の方を云々していたようである、くらいのふわふわした事しか分からなかった。ちょうど洗濯物を干そうとしていた時に、窓下で作業が始まったので、ちょっと待った。こういう時に、女性ものの下着とかを大量に干すと、見た側としてはどういう胸中になるのか気になるところではある。女装癖を持つ人には、人生で一人しか会った事がないが、まあしかしそれでもいる事はいるのだと実際的に知っている。尊敬とか立派とかという言葉とはちょっと違うが、しかし他に比する事のできないものを持っていた人ではあった。庭を見て考える事ではなかったな。比較的天気の良い日だった。外には一歩も出ていないが、洗濯物を干す時には考慮に入れなければいけない事情なので、確認する癖はついているらしい。興味はないが。雨でなければよい。や、嵐とか雷とかでも困るのだけど。せっかくそれなりの大枚叩いて買った傘だが、何かの拍子に、ジャンプ式を支えるプラスチックの部品が破損し、常にジャンプし続けて止まない傘になってしまった。傘を閉じる時に、手元の方に、軸に沿って引き寄せてカチッとはめるあの部分、あそこで出っ張りに引っ掛けるべきところがなぜだか弾け飛んだ。カチッと止まらないので収まりが非常に悪く、8割閉じくらいになったところで、手でむんずと閉じたままに押さえつけ、片手でストラップを探り当てぐるりと留めてやらねばならない。目立って不便ではないのだが、本来であれば全くかける必要のない手間をかけさせられているというのも確かであり、お気に入りなのであるが全面的前向きの気持ちで向き合うわけでもなくなってしまい、複雑な心持ちである。フランス語、ちゃんとやろっかなと思って、だらだら見て暗記する用に画像をいくつか作った。フランス語キーボードを初めて設定したが、なかなか面白い。まあ、ギリシア語ポリュトニックに比べれば可愛いもんである。

口実と手立て

相互理解というのは、バケツにかまぼこになれと言うのと同じくらい、無理筋な事なのだなあと思った。何回目だか分からないが。およそ対岸にいる二人の人間の言説を読むと、比喩でなく眩暈がしてくる。星空以上に、銀河以上にディスタンスだ。ムムム、と、ジャムパンを食べながら唸る事しかできない。こういう時、自分が想像主であったなら、どうするのだろうな。『ジャックポット』をちょっとだけ読んだが、一日のうちにちょっとしか読み進められない。短編ばかりではあるのだが、一つ読むだけで、頭のエネルギーが相当持って行かれるのを感じる。面白いのだが。文章を書く時に、その音が連れているノイズを削ぎ落とす事なしに俎板の上に乗せると、こういうものが書けるのではないかしら、という感覚がある。それをどこまで一緒に出すのか、というバランスも含めて。なかなか難物だ。よく分からない人間としてまだふわふわ現世を漂う事が決まったので、どうでもよくなったのか、それともただ存在するだけに費消するエネルギーが足りなくなったのか、また一人で牛角の食べ放題に行っていた。一人で全ての事ができれば、楽だろうなあと思うのだが、私はそこまでversatileではない。ないし、他人を介する事で、アイディアが突然飛翔したり変化したりするので、その価値は認めている。エネルギーをめちゃくちゃに持って行かれるので、疲れるなあと思うのは確かだが。貶下(へんげ)という言葉があるらしい。PCの辞書機能では意味がポップアップしなかったけれども、まあ、字面で何を言っているかは分かる。分かりやすく、嫌な字面だな。何回か、短い間隔で焼肉を食べに行って再確認し硬度を増した自覚があって、やはり肉の嗜好順は鶏>豚>牛なのだが、まともな肉を食べられる場所に行くと、鶏の立ち位置はかなり怪しくなってくる。焼けるのが遅いし。豚のホルモンが美味い事は分かった。牛のホルモンは、脂のつき方がなんだか下品な感じで、ぬいぐるみの中身みたいに、白いのがぷくぷくしていて胸にくる。最後の方は牛タンばかり食べていて、こういう脂のない、肉の肉たる所以部分だけが幅を利かせている物質っていいな、と思った。髪の毛がだいぶもしょもしょしてきたので、散髪の季節かもしれない。前に切ったのはいつだっけ。2週間前あたりが一番ちょうどいいのだが、髪の毛の成長をストップできる能力でも欲しいものだ。あと、以下は帰り道の感想です。<近所の公園にある桜の樹が満開で、でも散った花びらが夥しくそれはそれで汚かったので、「パンツにシミがあるというのはこういうことなのかもしれないなあ」と思いました。>

縮小劣化再生産

なんか考えている事がいっぱいあったが、大体忘れた。なんだったっけ。帰り道は、見抜きについて考えていた。こう、最後に出す時は、目的物に直接出すのがいいのか、それとも間にアクリル板的なものを挟んで、最後の最後まで無駄撃ち感を演出するのがいいのか、という事を。もっと人生には有益な事があると思うが。思うが、カスでしょうもない事を考えているのが一番楽しいというか、精神的に楽なのだ。私は、目的のある事を考える事を避けてよく分からん事を考えているのではなく、よく分からん事を考える事を目的としているのであろうと思われた。昼間、歩いている時に。それがなぜかについては納得のいく結論が出ていない。よく分からん事を考えていた。なんなのだろう。鼻をかんだティッシュの方が、まだ意味がある気がする。そこそこ晴れている日だった。昼過ぎに少し雨が降ったようだが、夜には止んだ。洗濯物を干す日ではなくてよかった。爪が伸びた。親指の爪が伸びると気になる。昨日くらいから気になっているが、爪を切るのも、なんかめんどくさい行為に分類されるため、ものぐさに邪魔されて切っていない。そこまで明確に伸びたわけではないが、手元をいじくる時に爪がちらちらと当たると、気が散るのも確かである。あとで歯磨きする前後で切ろう。風呂に入る前には切ろう。風呂に入ると、水分を吸って爪がふよふよして面白い事になってしまう。あの状態は愉快ではあるが、深爪しやすいので、入る前に切る。今日は脳味噌が生産的な事を考える方を向いていない。ピンチハンガーに生存している洗濯バサミの数が明らかに減ってきたので、そろそろおニューを買いに行く事を考えなければならないなと思っている。思い始めてから相当経つわけだが、どうしようか。ニトリのある場所が遠いわけではないが近いわけでもないので、行かなくて済むのであれば一生行きたくない。部屋に掃除機をかけた方がいい気がする。しばらくかけていない。前回いつかけたかを思い出せるほどこまめに掃除機をかけているわけではない。せっかくフロアワイパーも買ってきたのにね。昨日か一昨日か忘れたが、机の上の一山が突如崩落したので、そこもどうにかしたのであった。レイアウトというか、モノの噛み合わせをどうにか調整していい感じにしたので、しばらく崩れる事はないと思うが、そもそも崩れる可能性を孕んだ状態で置いておくべきではない。本棚を買うのもめんどくさいが、そういえば押入れの整理もまだだったな。

章記

洗濯物を干した。意図的にバスタオルを増やしたので、洗濯サイクルが多少乱れたところで、風呂に入るのに困る事はなさそうである。あまり大っぴらに言う事ではないというか全く大っぴらに言う事ではない事由によりタオルの消費数が増えたりするのであるが、その変数にさえ対処可能な数を揃えられたのではなかろうか。だんだん対外的に偉そうな文章になっていった事に気が付いて最後の方で尻すぼみにしたが、タオルの保有枚数で偉そうにふんぞり返っても仕方がない。そういう事をしても多少お目こぼししてもらえるのは、今治市の人くらいではないか。タオルは、地球上に存在する物質のうちで最も好きなマテリアルのひとつではあるので、いっぱいあるに越した事はない。薄いグレーと白のストライプ地であるところのパイル生地半丈部屋着用ズボンも、「手触りがタオルっぽくて好き」というのが半分、「これは幻想の中で女子が部屋着にしているタイプのやつだ!!!」というよく分からない動機が半分で買った。頭の中で、常に理由不明原因不明のエネルギーがドライブし続けているため、料理したりインターネットラジオを聴きながらふとぼーっとしたり、不意の瞬間に演算結果を吐き出してきて、それがつまり自分でも何を考えているのか分からないという状態なのではなかろうかというぼんやりした手触りを得た。物干し竿の方で、時々固いものが動く音がして、風が吹いてハンガーが揺れる程度でするようなかわいらしいそれではなかったため、どうやら家の物干し竿がカラスに狙われているらしい。巣作りの季節なのかしら? 針金のハンガーを使っているから狙われているのであって、プラスチックの融通が効かなそうなハンガーであれば狙われないのかしら、と思うが、実際どうなのだろう。動物行動学の専門家にでも聞いてみたいところである。洗濯物をはたき落とされてハンガーを持っていかれた事はない。ハンガーごと洗濯物をはたき落とされて、上手く外せなかったらしくくちゃくちゃになったシャツを発見した事はある。私が窓際に近付くとすぐさま飛んで逃げるので、相当カンが鋭いらしい。ガラスを隔てているのだぞ。動物の動物たる所以なのか。筒井康隆ジャックポット』をちょっとだけ読んだ。そもそも読むのが難しい。頭の中で、拾い集めた辻褄がぐにゃあ、と絶えず硬度を失う。しかし、ところどころ、あからさまに面白いポイントではないのに、我知らず声を出して笑うところもあり、なんか不思議だなあ、くらいのぬるい気分でいる。

ズドン

午後は、ものっすごい気分が悪かった。夕方くらいに持ち直したが、ずっと心の中ではげろげろしていた。カエルではなく、嘔吐の方で。昨日の事ではあるが、人と会うというのは神経を使う。私が、共用の話題を持たないように努めて生きてきたため、コモンルームが使えない(比喩)というのもあり、あるいはドブとかゴミとかみたいな話ばかりしたがるのもあり、当たり障りのない、ぬる〜い(自販機であるんだっけ? コロコロで連載していたカービィの漫画には、「ひとはだ」があったはずだが)話題からなんとかしてエキスパンションを図らなければならないのもあり。なんか、こう、疲れる。私はうんことかしっことか、そういう話にパラメータが偏っているから、グラフの真ん中に引き返して別の軸に歩いていく、本来必要のない労力をかけなければいけない。悪いのは私なのだが。感性がこう育ってしまったから仕方がないのだ……。「傷ついたのは誰の心」の、目ん玉がすーっと切られるところとか、犬小屋を蹴り飛ばし花壇を掘り返して家に戻ってくるところとか、何回見ても心が満たされる。胸の中で、山藤章二が描いた『笑うな』のカバーを思い浮かべるだけで大体の事が許せる心持ちになるのだから、私の心酔は相当なものらしい。あの短編の、すげえ短いのに、一体どこがそんなに私の心に召したのか分からないが、それはもう好きなのである。人にあらすじを説明する時は、「帰宅すると妻が警官に強姦されていて……」という説明から始まるので、話を聞いてもらうのは難しい。人に説明できないものが面白いんだな。なんでだろうな。ベリー、多分あれはベリーだ、イギリスの青果店で買ったあれに似たあれをberryと言って売ってもらった覚えがある、が入っているらしいバルサミコ酢を買った。酢とバルサミコ酢の違いは何なのか、そしてなぜベリーを入れようと思ったのか分からないが、そういうのがあって、面白そうなので買った。何にかければいいんだろうか。普段、サラダとか作らないので、買ってきたはいいもののやっぱり一人で一玉は多かったキャベツをレンチンして、それにかけてみようか。キャベツって何の栄養があるんだろう。スーパーに行って、食材を買い足した。途中、公園を通り抜ける時、入り口で桜が咲いているのを見て、「桜のつぼみもくぱぁし、青姦の捗るようになりました今日この頃、いかがお過ごしでしょうか」という時候の挨拶を思いつき、自分のしょうもなさにどうしようもなかった。

神を見下ろす居所

昨日は、家に帰ってから体調がそれはもう悪くて頭が気持ち悪かったので書かなかった。今日は、人に会ってみっちり話をしたので、MPがなくなり書けない。書かないではなく、頭がこれ以上リソースを使う事を拒否している。気まずいとかそういうのではなく、人間として応対しようとしたら必要以上に疲れた。あぁ……。

青虫吐息

『筒井漫画讀本ふたたび』を読んだら、記憶にあった、強烈なイメージの証拠がそこにあった。ずっとずっとこびりついていた、「傷ついたのは誰の心」で目ん玉をカミソリで横に切られるやつ、あれは筒井康隆自身による漫画のものだった。今、横にあるのでもう一回見返してみたが、やっぱりそうだった。ほとんど動かない心が、感動する音がした。じくじくと喜びが沁み出してくる音がした。やはり、私は、思春期あたりに読んだり見たりしたものの亡霊を追いかけ続けているだけなのかもしれない。本当にいい。心の中にいる小さい自分が咽び泣いている気がする。あと、この漫画にある特徴も思い出した。人物が人物として連景なのではなく、イメージとして連景なのである。家の中に突然教会のステンドグラスみたいなものがあったりする。この辺は、化物語のアニメに近しいものがある。あれも、物語として連綿としているのではなく、イメージが巧みに繋ぎ合わされている事で他にはない魅力がある。実業之日本社文庫から出ているから、興味があれば買って損はしないと思う。私は、記憶の化石を復元できただけで満足した。高校の図書館にあったのは、これが底本にしたという90年代初版の方だろう。時間が経つごとに、なんで図書館にあれだけ筒井康隆の文庫が完備されていたのか分からない。思春期の多感なお年頃にあんなもんを読んだら、たとえば私のような人間ができてしまったわけだが、少なからず影響があるのは分かりそうなもんだが。それとも、図書館に入れた当時司書の先生は、ただただ面白いから入れたのだろうか。もしそうなら、その先生とはとても仲良くできた気がする。図書委員会が発行する図書便り的なやつに、筒井康隆の本を一冊、紹介する記事を書いた覚えがあるが、どれを取り上げたのだったか。他は平和な本ばかりだったので、当時からひねていた私は面白くなかったのであろう。かわいくね〜〜〜。ゴミ捨ての日を、種類曜日問わず忘れてすっぽかし続けているので、特に瓶ゴミが溜まってきた。いつだったかそもそも覚えていないので元から払う注意もないわけだけども。燃えるゴミが溜まる速度が早い。なぜか。花粉症と闘うティッシュのせいか。闘う、などという言葉を使ったが、鼻水が出てそれに意識を取られるのが嫌だから鼻をかんでいる時点で負けている。今週は、帰りの時間の都合で、外で買ったものを持って帰る事も多かったからな。チキンフィレオのパティ倍は、コメダ味噌カツサンドみたいになったのだけは覚えている。

瓶詰めあんこ

黒田龍之助『その他の外国語 エトセトラ』を読み終わった。これもまた、すごく面白い本だった。色んな言語を学んでいる人で、母語以外に近づいていくという、外国語の勉強についての意識が独特だが普遍的で、義務教育で英語をやらせる前に、こういう本を読んで、「外国語を知ろうとするとはどういう事か」との自覚を形成させる方がいいのではないかと思う。特に欠けているのが、相手の立場になって、相手側の言語で説明するという観点なので。これは、この本ではなく、私の恩師が昔からずっと言っていた言葉だけども。他者、あるいは、自分が属している文化圏ではない文化圏の人間と向き合うというのがどういう事か、言語と取っ組み合う事で自分なりの答えを出すのが、ひとつの言語学習における成果であり目的である、というのが私の考えだ。ここまでこじれた考えをしなくとも、言語というとっつきにくさ(とっつきにくいのか? 分からん)は抜きにして、エッセイとして面白いので、そういう読み方もいいかもしれない。物事への姿勢は、ゼロかクソ真面目にかの二極しかないわけではないのだから。それはそれとして、私が抱える、言語の向こう側に対する根本的な興味の欠落をより一層自覚して落ち込んだりした。興味というか、愛というか。何かが好きであるという明確な方向性が、本当に分からない。何なんだろうな。「推し」という言葉が内臓をぶち撒けそうになるほど嫌いで、関係があるのかもしれない。全てのものに、Daseinの段階で満足している気がする。感情の総量が乏しいのかな。ともかく、「推し」という言葉は本当に嫌いだ。なくなればいいのにとずっと思っている。今日、役に立たない発見をした。発見というか、概念上の遊びに過ぎない作業をした。「『酔っ払った相手に絡まれてそのまま流されてSEXしてしまう』という展開について、実際そこまで理性が減退した相手に絡まれると酒臭くて性欲の自覚を抱くのも難しいのではないかと思うが、実際どうなのだろう。あるいは、酔っ払った側のアルコールが、迫られる側にも作用していて、結果的に相互通行的酔姦になっていると解釈するのがよいのだろうか。」以上です。そんなに頻繁に見るわけではないけれど、決して少なくないシチュエーションについて考えながら晩飯を作っている時、頭の中で思いついた。普段はいつもこんな事ばかり考えていて、我ながらアホだと思っているのだが、思考のOSレベルまで食い込んでいるのでどうしようもない。食い込むからすぐにパンツを連想するし。

毛の生えた餅

河合隼雄『こころの処方箋』、これは本当にいい本ですね。一日一課、課という文字を使ってしまうと義務感が出るな、一講、こっちでいこう、寝る前に繰り返し読むと人格が健全な発達をしていくに違いない。人格の「陶冶」「涵養」とは言うが、この本以上に、その二文字二パターンが似合う本はないのではないか、と思える。まだ読み終わっていないのに。ある意味、タイトルで損をしている本かもしれない。僕は俺は私はあたしは、「こころ」を病んでいないので、そういう根暗っぽい本は読みませ〜ん、みたいなやつはいそうだもんな。私の想像力はえてして卑屈な方面に逞しいので、現実はもう少し人間的かもしれないが。まあ、しかし、本が良くても、それを読む方の人間如何はどうしようもないよなあ、とも思う。メッセージを受け取るには、そのための受信機とか受容体みたいなものが必要で、それの発達が全く全くである人間の形をした何かみたいなものがいるという現実を最近うっすらと肉で感じており、こればかりはいくら訴えかけても暖簾に腰振り糠に腰振りである。腕押しも釘も、性的動作に置き換えたとしても意味に大事は引き起こしそうにないと思ったのだが、気持ちよくなってあれがあれしそうだな。ことわざの互換というのは、見つけるのがなかなか難しい。言っても分からないという事実がどこまで行っても事実である人間がいる、と言うのか。知性などという高級な部品ではなく、もっと基礎基幹基本的な、ハードウェアレベルでの何かが起きていると思うのだ。これは本当にどうすればいいのか分からなくて、水槽の片隅で膝枕でもしたい気持ちになる。まあ、騙されたと思って冒頭の本を読んでみる事を強く勧める。強く勧められると、じゃあいいです、と言ってしまうような私みたいな人には、その辺に放り出しておくので、気が向いたら適当に読めばよろしい。読んでも読まなくても人生の道行には何の違いもないが、歩き方や、歩きながら物を考える心の姿勢あたりには、ひとつは得るものがあると思う。素敵「そう」なメッセージを、単一的に受け取ってそれをインスタントにsupremeなものとして称揚し、その消費活動に明け暮れる精神構造は、一生理解できない。きっと、この本がなぜだか私にやけに馴染むのは、頭の中のイメージの動き方が似ているのである。よく比喩が出てくる。物の例えが。その、事象を代替している感じというのが、似ていると思うのである。

倍の倍

今日は帰りが遅くなったので書かない。帰り道、「目から鱗」の互換で、「ちんこからチンカス」は使えないかと考えたが、冷静に考えなくても意味が分からないのでやめた。タスクがない状態でのペンディングは、何をしていいか分からないものである。人生で初めて夜マックをした。