他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

戻れない間合い

今日は、少し、疲れてゲロゲロになってしまったので、ちょっとだけ書く。川上和人『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』を読んでいる。イギリス人は、だいたい皆んなornithologyに、鳥に魅入られるという話を聞いたのを思い出し、たまには鳥さんのお話でも読んでみようかと思ったのだが。面白い。なかなか形容が難しい面白さなのだが、パッと思い浮かべるウグイスが実は分類上ではウグイスという種の基底種ではないとか、そんなのがいっぱい。ひとつ欠点があるとすれば、著者が事あるごとに、機会を見つければ一文の中でさえ複数回ちょけるので、ギャグがしつこいというところだろうか。どれぐらいしつこいかと言うと、「私は流行に敏感である。いち早く花粉を捉え、誰よりも遅くまでこの身をティッシュボックスに委ねている。毎年春になると、そろそろ製紙業界から感謝状が来るのではないかと、そわそわの日々を過ごしている。」p.45. ずっとこんな感じなので、しんちゃんが、ネネちゃんのママの料理をしつこいお味と評したのは、ひょっとしてこういう事だったのではないかという気がして来る。難しいね。バランスが。

eloquor

布団の中で寝付くまでに色々考えていたら、あれだな、昨日は日記を書くというタスクが、頭の中からすぽーんと抜けていた。それはもう、綺麗に。ブログページのトップまで行って、面白そうなのないかしら、とスクロールして、その瞬間に、注意が逸れて何かにふらふらと軌道が外れた結果、日記のにの字も覚えていなかった。愚かだねえ……。『他人のセックスを見ながら考えた』を読み終わった。いい本ですねえ。私は、こういう本をこそ、中学生・高校生に読んで欲しいのです。題材が題材なので、面白がって、あるいは「ポーズを作って」読んでしまうかもしれないけれど、その時にメンターが側にいて、最後まで視点を絶えず引きながら読み終えて欲しい。いやしくも人間を名乗るのであれば、学問のひとつでも、究めろとまではいかないが、本物の入り口くらいは見て、人間社会の規範について揺らぎと常なる自己懐疑を持ち、最後に、自分が持ちうる掻き集めうる全ての素材から足を運び出せる想像力を持っていていただきたい。あとは、初めて遭遇する何かに対して、一度は容れる柔らかさであるとか、いくつかあるのだけど。まともなアタマと、まともな推測力と、くらいはないと、Gemeinschaftの構成員を自負するのは口幅ったいと思うのだけど。「性」について考えるならば、その手掛かりとして、素晴らしい本です。武田砂鉄が取り上げるテーマにも、通ずるところがありましたし。昼に、人と会って飯を食いながらお話をしました。これでしばらく顔を合わせる事はなくなりそうだが、私が今まで出会った中では、数少なく、ありがたい、脳内コンテンツフィルタに検閲をかけずに話しても大丈夫な人だった。いつの間にか、私のモラルフィルタはショートして久しいので、あんな事やこんな事も平気で口に上しそうになってしまうのだが、その主観的ストレスがないせいで、延々と、日常の搾りカスを頭の中から拾い出してキャッチボールができる。気兼ねがなくケラケラできるのは、代替の利かない、貴重な繋がりであることよ、と和歌の現代語訳みたいな事を思うので、自分のエロキューションというか、発話生成原理に加工を必要としない相手は大切にしましょう。最近は、作業中にずっと匿名ラジオを流していたのだが、これも全くの生産性のなさゆえにひたすら浸かれたわけだけれども、観たい気持ちが閾値を超えたので、バナナマンのライブDVDを観た。演技がうまいな、おもしろいな、とただただ思う。

木馬椅子

田房永子『他人のセックスを見ながら考えた』を読んでいる。これに加えてぐろぐろも刊行していたり(たしか復刊させた)、つげ義春作品集が所収されていたり、開高健のエッセイ集もあったりして、ちくま文庫の懐の広さに感服している。出版が視野に収めるべき範囲として、一番バランスのいい出版社なのではないか。どうしてそういう方面のものばかり好んで摂取するのか自分で分からないが、それが一番興味をそそられるので仕方がない。うまいもんはうまい。前書きを読むだけで男のオス臭さにげんなりするわけだが、図書館にあった性を考えるコーナーみたいなところにある本は、だいたいみんな近づかなくて、手に取るのもやーよ、という感じがあって、私はそこに配架されていた風俗バンザイで松沢呉一を知ったわけで、みんなお行儀良過ぎるというか、見なくていいエリアとして意識的に処理している気がする。無闇矢鱈に見せるものでは、そりゃもちろんないが、人生で必ず関わってくる要素である以上、それについて全く断絶した内的世界にだけ目を向けるのは不健康だろう。エロの話と性の話は区別するのが難しいが、それに対して自分なりの腑分け、尺度を個々人がきちんと持っていないのが問題であって、難しい問題は絶対に解く必要はないけれども、しかし全く取り組まなくてもいいと放棄していいものでもない。シーズンがシーズンであるから例えとして近いが、完答はまずないだろう、しかし部分点をもらえるくらいの、見えたところまでの自分なりの理解の積み重ねは必要である。席に座って、所定時間くらいはこね回して自分の頭で考えてみようではないですか、と。思うのだが。一度タブーというか、触れない方がベターとされてしまったものを、再び陽の下に引きずっていくのは難しい。さっき、こういう話を見たので、頭の中でぐるぐる考えたところがありました。しかし、この本はすごいな。表紙にある物らしい物は椅子だけなのだが、これがスケベ椅子だというだけで、テーマ全体をひとつの物に仮託している。私が工具類を見ても何をどう使うのか分からないように、全く知識の埒外にある世界の運行というのは向かい合うのも簡単ではない。それにしても、女性の社会進出うんぬんかんぬんのためには、価値観のオーバーホールが必要で、では、どこからパーツを仕入れましょうか、となった時に、従来の店ばっかり使っていてはダメだろうと思うわけで。よい本ですよ。

おたまでちフラッシュ

洗い物をしながらなんか考えていたが忘れた。プリコネ云々みたいな話を見たから、それについて考えていたんだったかな。約1年くらいシナリオを読まない期間が続いて、もういいかなと思ってやめたばかりだったので、通ずるものもあったのかもしれない。キャラがかわいいですね、以外に特に何も見出せなくなったのもあるし、ただそれだけとしか思えなくなったのもあるし。人気のキャラが人気である、という人気商売のどん詰まりみたいな匂いがしたので。根本的なコンセプトにアニメが含まれている時点で、私とは根本的に合わなかったんだろうな。この世で一番容れない言葉たちのひとつに、アニメ化と実写化があるから。なかよし部のイベントだけはシナリオが面白いので読みに行くかもしれませんが。この前買ってきたお菓子がもうなくなってしまった。手持ち無沙汰になると、お菓子を食べながらよく分からん作業をするか、ぼーっとしながら何もしないかになるので、生産している風の選択肢を取れる方がありがたいのだけど。切り分けてタッパーに置いておいた鶏肉に、胡椒とか醤油とかタイムをふりかけて下味をつけておいた。簀の子みたいに、底に接地せず少し浮くような籠的パーツが付属した、レンチンで蒸し焼きができるタッパーだったので、漬けるなり染みさせるなりするのであればジッパーバッグに移せばよかったなと思った。結果として、そこまで下味がついているわけでもなかったので、あの工程はなんだったのかと思わないでもない。かぐや様21巻を読んだ。私は、この作品については、いい以上の感想を持たない。ただそれだけである。私が発育の過程で失ったアプリケーションあれそれが燦然としているのを見るに、見惚れて拍手をする他ない。さっき読み終わった富豪刑事の解説にくっついていた、フィクションだから細部がいい加減でも目溢ししてもらえるのにディテールが丁寧にちゃんとしている、という評を、そのまま持ってきてもいい。小林賢太郎の対極に近いものなのかもしれない。同じ次元かもしれない。それはそれとして、人間のお話として、ただただ面白い。跡を濁さず、きれいにぱっと終わりそう。困ったな。書く事がなくなってしまった。さっき読み終わった分で、この前の前に買ってきた文庫は全部読んでしまったから、この前買ってきたものの消費が始まる。筒井康隆の新刊はハードカバーだったから、電車内の読書には扱いづらい。ぐろぐろか、性産業うんにゃらみたいなやつか。

逆立ちほうれん草

筒井康隆富豪刑事』を読んでいる。まあ面白い。すげえ面白い。人はばかすか死なないし、上を下へのどんがらがっちゃんがあるわけでもないのだが、ついついと読んでいける澄明な面白さがある。一本八千四百円のハバナ葉巻を、火をつけてすぐに捨てたり吸うのを忘れたりするような弩がつくような金銭感覚の男が主人公であって、本人ではなくその父親が弩がつくような金持ちである。なぜ金持ちであるのかとか、それについてどう思っているのかとかは、これもたいへん愉快なので読んでみてもらいたい。主人公であるところの神戸大助という男、彼の人格が、この小説をおもしろいものにしているのだと思う。へにょへにょしていて、その割に芯があって、人が好さそうで、不思議な魅力がある。内面描写はほぼなくて、ぽんぽんぽんぽんと話が進んでいって、それは改行も接続詞もなしに、突然次の場面へステップしていたりするほどであるが、それでも滲み出てくる人間的魅力というのか、にこやかに受け入れてしまう好もしいものがある。記憶の中にある装丁と違うのだが、あれは新潮文庫版ではなかったのだっけ。それとも、途中でカバーがリニューアルされたのかしら。これについては、よい買い物をした。買った事をそもそも今思い出したものもあった。かぐや様の21巻とか。あとで読むか。バナナマンのコントも観返したいな。日記を書けるようになったので、まあ、精神は持ち直したと言えるところまで来たらしい。外的な評価尺度を持たないので、自分の中身を抜き出して客観視できるようにする仕組みを作っておいてよかったと時々思うような思わないような。毎日文章を書くようにはしているので、頭の中で思考が流れる水路というか、おもらしだかを、捕まえておく方法を忘れずにいるのはよい事かもしれない。文体というか、文章のノリというか、温度というか、を選択しなければ、文章が書けないので。自分にとって扱いやすいもの、それの各場面に応じたグラデーションを把握し続けられるのが効能といえば効能か。そんな事考えながら日記を書いている人間がどこにいるというのか。業務スーパーで、冷凍の鶏もも肉2キロが安かったので、座布団を二つに折ったくらいのサイズの板を買って帰り、冷蔵庫でゆっくり解凍していた。小分けにするため、切り捌いてからもう一度冷凍庫へゴーしたのだが、2キロの肉をざっぱざっぱと切りまくっていると、命とはなんなのだろうなと、ぶちゅぶちゅした暗いピンク色の塊に思った。

肉と脂の割合

大家さんが、料亭の仕出し弁当と、整理したら出てきたけどいらないバスタオルを持ってきた。工事が終わった挨拶だった。うるさかったと思うけど、と言われて、ほとんど気にならなかったので、もにょもにょした答えしか返せなかった。何か音が聞こえていた気もしたが、一棟挟むくらいになると騒音はここまで来ない。道中へばる精子みたいなもので。変なタイミングでその弁当を食べたので、変な腹具合になった。いい牛丼みたいな感じだったが、肉で、濃い味がついていて、ご飯があれば、それはもう記号的な消費しかできないのではないかという気もする。コンビニ弁当ほどではないが、底上げがきつかった。食べ物がすっからかんになったので、買い物に出た。明日が祝日である事を、今日知った。よくある事だが、こういう時や、夜のねばねばした黒を見ていると、小学校の裏手通学路にあった、他に比する事が難しい臭気をまとっていたドブを思い出す。飲食店の色々が流れていく水路も油絵の具を粘着質に練り上げた、この世の地獄みたいな様相をしているが、あのドブは、黒とか緑の単色をセロハンみたいに重ねた、どこにもいかない色をしていた。たまに、牛乳をかけたような膜が張っていたが、あれは油か何かだったのだろうか。途中、本屋にふらりと立ち寄って、ちくまから出ている松沢呉一『ぐろぐろ』を見つけた。昔、大学生協で目にして、面白そうだな、と思って忘れていたのを、先日突然思い出したので、欲しくなった。机脇の棚が文庫本でものすごい事になっているから、整理しないといけないが、そう思っているうちはまだしないので。同著者の風俗バンザイという本もあって、そちらもなかなか面白かった覚えがあるが、やっぱり内容は一片も覚えていない。この人の性的な内容を扱った本は、鼻がひんまがるくらいどぎつい、しかし世界の広がる刺激がびりびりしていて、好き嫌いは白黒二値以上にはっきり分かれるだろう。文芸書のコーナーで、筒井康隆の新刊を見つけた。聖痕を出したあたりで、もう長編は書かないと言っていた記憶があるのだが、長編でなければ、世界はゴ冗談とかも出ているし、まだ新しいものに期待できる、のかな。筒井康隆よりは先に死にたいのだが、どうだろう。本屋という空間の中で、手に持ちながら、売れないだろうなと思った。私にとっては、頭を掻いた時に落ちてくる頭皮のひとひら程度にしか思えない本がたくさんあるが。タイトルで中身が分からなければいけない時代、というのも、宙船みたいなもので、咀嚼を他人に預けるなよと思ったりするのだけど。エロチック街道に入っている日本地球ことば教える学部はめちゃくちゃに面白かった。

風節

3時か4時くらいまで寝付けなかった。新聞配達のバイクがぶるんぶるんする音は聞いたので、その辺りまでは間違いなく起きていた。夜のもっちゃりした空気の中では、色んな事を考える。考えなくてもいい事まで染み出して滲み出してくるのだから、あれはきっと特別製の、スペシャルなマテリアルで構成された、この世ではいと珍しい何かしらなのだ。換気のために窓を開けていて、寝る時も、大丈夫そうなので少し開いた状態にしていたが、掛け布団の中でじっとしていると、暑い! と感じられて、手袋の中で手がじんと熱を持っているのが分かった。季節が変わりつつあるのかしら、とか思った。夜通し外気にオープンなままで平気だったのだから、変われば変わるもんだ。かと思えば、明日はまた最高気温9度最低気温1度になるとかならないとか、ジェットコースターみたいな乱高下を見せてくるらしい。油断して窓を開けていると大変な事になりそうね。あるいは、寒くて目が覚めるので、そっちの方が自然でいいかもしれないけれど。玄関に燃えるゴミがどったりと横たわったままだ。捨てるのも忘れているし、それよりもさらに、捨てなければいけないゴミがあるという事も忘れている。机の周りにあるあれそれにしか意識が向かなくて、これもまたよくない傾斜だと思いはするのだが。寝られなかったので、音楽を音楽として捉えられないままずるずる来てしまったなとか考えた。どう考えても、歌詞に音がついているものであって、音に歌詞がついているものではない。たとえは物の本質を失うが、しかし、空耳ではないという事であって。文字の中でもにょもにょしているだけでいいのかしらとか、思う。「ジャズ大名」を電車の中で読みながら、楽譜が読めないので、そして音楽にさっぱり詳しくないので、文章をねぶるように読めないのが腹立たしかった。一音ずつ、頭の中で当てはめながら歩く事はできるが、それを総合的な景色として捉える事はできない。文化的な自己認識の様式は文章・絵・音楽の3タイプに大別できると考えているが、理想的にはこれを全て一身の中に収めた方がよい。片手落ちどころか、三叉路のうちひとつしか進めないので、都度最適解、あるいはベターな手法を取れないのがストレスになる。どこかで是非音楽についてはなんとかしたいと思っているのだが、何かに対する強い憧憬は単三電池とも思い、これは私にしか分からない言い方だったのでよくなかったな。

drehen und wenden

容器の端っこにへばりついて、硬化とも軟化とも言えない状態になったぷにぷにのヨーグルトの処遇について、ヨーグルトを買うたびに考える。食べる事はできるが、匂いが酸っぱくなり、舌触りも布で濾したチーズみたいになって馴染みが悪い。どうするのがよいのか。昨日は最近の低劣クオリティオブライフに比すればずいぶんと早く寝た方だったのだが、正午前に起きた。ざっくりと12時間くらい寝ていた。そんなに寝なければならないほど疲れていないし、なんなら疲れていない事に疲れるくらい疲れていないのだが、何が何をもってしてここまで無為を貪らせるのか全く不明である。確かに意思を持って実行すべき事は何もないが、それにしても何もしないのか……。そうか……。で話が終わってしまうので、それゆえにこそこうなっているのかもしれないが。疲れている事に憑かれているとタイプしそうになったが、字面でそれっぽく見えるだけで中身のある事をアサートしているわけではない。疲れてないし。寝起きの時点でカッスカスのカスだったので、何もしてない。チョコクッキーを食べて、板チョコを食べた。クーパー系のフォントでCHOCOCHIPと書かれている、3連パックの渋い味わいのチョコクッキーを食べた。だいぶ前に書いたが、あれからしばらくお菓子の間食から遠ざかり、西友の二階で見かけたので買った。西友に行くたびに西友が嫌いになるので、根本的に相容れない存在なのだと思っている。有人レジが減っていた。ただそこにある事が受け入れられないというのは、なかなかどうしてどうしてそんな事があるのだろうね。このクッキーはチョコチップが甘すぎず、クッキー部分もややほろ苦さを感じさせるくらいなので、いくら食っても糖分のべったりさに辟易する事がない。これが無限に出てくる容器があれば無限に食っているであろうくらい好きだが、現実的な範囲内でもういいやと思うまで食べるには何枚くらい必要なのだろうか。一パック5枚入りなので、10箱くらい買ってくれば話は片付きそうな気がするが。外食で小腹を満たすと金がかかるが、お菓子で埋めれば値段はかなりお安く済むのだ。それを見越して買いためておいたり、その都度買いに行くなどの手間は必要になるが。ゴミも出るしね。板チョコは、明治のブラックチョコのやつ。一列=3ブロック分だけ折り取りながら、こんなに小さかったっけと思って記憶を探ると、具体的なサイズは思い出せないが、やっぱり小さかった。1ブロックの大きさを見つめているだけでそう思えた。私が大きくなったのを差し引いても。

ピンクピンクサーモン

筒井康隆『霊長類 南へ』を読み終わった。まあすごかった。中国が誤発射した核ミサイルが米露に着弾し、そこから世界終末戦争が始まる話なのだが、そしてあらすじのこれがこの小説の全てではあるのだけれども、その密度とディテールが凄かった。人が死ぬ。梱包材のぷちぷちシートを捻って潰すみたいな、どんどんどんどん死ぬ。ミサイルによって直接死ぬ描写はなくて、恐慌状態に陥った人々が、電車や船舶や空港に押しかけて、理性を失った無秩序の中でただただモノとして死んでいく。潰されて死ぬしプロペラに切られて死ぬし轢かれて死ぬし落ちて死ぬし死んでもなお死体が肉と骨と血とエトセトラの混合となって混ざり合い踏まれて踏んだ人もそこに混ざる。人が死ぬという場面は、筒井康隆の小説の特色のひとつであるが、簡単にあっけなく人が人である事を失う状況であまりにぽこぽこ死んでいき、それが止まらず、死体が充溢している。そこまでの描き方が、手触りがあって想像できて、フィクションなのだがぎょっとする。実際に世界戦争が始まったなら、ああなるのかもしれない。もっとひどいかもしれない。ごんぶとの筋を滑らかに進める手腕に感服した。あとは、特に記憶に残る事はない。子宮ノックと5回くらい言ったかな。さっき、ザーメン灰皿というのも見た。文体・語彙レベルで判断すればまこと容れ難いものは多いが、単語の平面で見ると膝を打つものはある。それだけですが。書く事がなくなったな。洗濯物を干した。アタックの液体のやつが空になったので、粉末のなんかで洗濯したのだが、大家さんからもらったお歳暮的なやつだったかな、お中元的なやつだったかな、あれの紙袋の中に、お中元洗剤セットから抜き取ったような詰め替えパックがあったので、あれを移しておく必要がある。アタックの液体のやつ、白い灯台みたいな容器の、これはとてもいい匂いがするので気に入っている。香料がきついとぎょえっと思うが、アタックはちょうどいいところにある。粉末だといまいちパッとしなかったのだが、液体タイプだと何か洗い上がりの香りに影響するものがあるのかね。何か必要なものがあったはずだと頭の中を探って思い出した。はい。晩飯は、ピーマンが残ったままで、表面がしわしわになりつつあったため、よく分からんラー油で炒めて豚バラと食べた。よく分からんラー油は、納豆の入ったやつで、これはもう、納豆チャーハンよりも納豆の匂いがする納豆の存在を抽出したような油だ。鶏肉入りの方が、コンディメントとしては美味い。

おちんぽ拡張パック

今日は書けそうな気がするな。病は気からと言うから、その逆もまた然りなのだろう。その逆? 気から病? 命題の対偶の逆は何と言うのだったか。気から病と言いたかっただけなのだけど。目指しているそれにもなっているかどうか怪しい。pとqで構成された不等号式4つが四つ巴になっている(巴と四が矛盾しているが)教科書の図は未だに覚えているが、それ以降どこかで使ったかと言われると怪しい。今使った。や、というか、対偶の逆は目指しているそれではなかった気がしてきた。何だったかな。今日の表題は、帰りだか行きだかに、何も考えずにぷらぷら歩いている時思いついたしょうもない文言なので、意味はない。増強剤か、自身の血液が答えである。射精直前になると、もっと大きくなるの〜? という事がフィクションの世界ではあったりするが、現実ではどうなのだろう。定性的にちんちんの円周を測れるバンドみたいなものを用意してセックスしてもらえば分かる事であるが、こういうあてのない事を考えているから仕様がないのだよな。私は本質的におしゃべりなのであるが、人と話が全くと言っていいほど合わないため、その形質が発揮されていないだけなのである。なので、書くという行為を付随させなければ、自分の頭の中で、自分自身と、延々と話し続けている。友達はまあいないが、ある意味自分が一番の友達なのかもしれない。生涯で、まともな関係を持ち、最後までささくれ立ったりしなかった、下の名前で呼んだ事のある友人は、そういえば一人しかいないな、と晩飯を食いながら思った。今思うとなかなかトリッキーなタイプだったのかもしれないなと思うが、彼もまた心が歪みやすいタイプだっただろうから、話は人伝てにも聞かなくなってしまったけれど、上手くやっていてほしいものだと思う。長い付き合いの割には、よくやってくれたものだ。大切なものは後から振り返った方が真価が分かるものなのかもしれないな。晩飯を食った店では、入り口の方に、自分たちの社会的価値を勘違いしたような大学生の集団が蝟集しており、邪魔ではないが目障りであった。あとは、もう、もぎたて! とか、ぴちぴち! だとか言っている日だった。コピーライターと呼称されるあの辺りの言語感覚は忌避すべきものであるが、鏃で一点を狙うように研ぎ澄ませていく作業は面白い方である。電車の中に貼ってあった広告ステッカーの、「鬼退治(←この3文字はアレのフォント)にはアドラーよりも仏教本!」という、鬼退治全く関係ないコピーを書いた担当者は、全くの××であると思った。伏せ字にした部分は、各自、最高級の汚い言葉を入れてください。

とろみのある墨

朝5時くらいまで寝られなくて最低だったので今日も書かない。まともに書いてる日がないな。本読んでたら、本読んでても、いつまでも眠くならなくて、寝られない間は寝られないのにただ横になっているその行為に何の意味があるのか分からなくなる。何と言うか。今は全てがダメでカスな時期なので、じっとうずくまって、いつ明けるとも知れない夜が通り過ぎるのを待つしかない。いつもとあまり変わらない気もする。こういう時は、筋肉少女帯の『轍』と、『サーチライト』と、両方、2番が終わった時の朗読部分を思い出す。運の総合定量制みたいなのはとても信じられない。バナナマンのコントを思い出すと、そういう事はない。ついている人はずっとそうだし、そうでない人はずっとそうではない。ので、私がクリスチャンであったなら、棄教していただろうと思う。

変な角度

全然寝られなくて、2時くらいまで本を読んで、なおのこと寝られなくて、3時か4時くらいまで後ろ向きな感情と格闘して、寝起きはカスのようであった。個体としての目標地点がないのがダメだなと思った。自律神経的な問題なのか、精神的なこころのアレ的なやつなのか分からないが、見込みより随分時間がかかる。安定に。なんかやなので、今日は書かない事とする。生きていることが先決であるからして。

プラタナスのプラネタリウム

なんかの拍子に起きて、鼻の奥で変な匂いがするなと思って鼻をかんだら、ティッシュが真っ赤に染まった。鼻血が出ていた。血のヘドロみたいなやつをかみ捨てて、もう一回寝たような寝ていないような気がするが、それはともかくとして、部屋の湿度が低いのが問題なのだろうと思われた。鼻の奥の毛細血管がぷちっといったのも、多分そのせいだろう。イギリスにいた時も同じような悩みを抱えていたので、往時はマッシュルームの、高さがあるプラパックに水を貯めて加湿用のなんかにしていた。今は、それほどめぼしい不要容器も、手隙のタッパーもないから、比較的使用頻度の低いコップに水を入れて、台所の方に放置してみた。一日の感想としては、まあ、多少ましになった、かな? という程度のものであったが、改善されているだろうされていると思いたい。アホみたいに雨が降っていたのも無関係ではないだろうが。昨日は、寝られず、寝付けず、2時くらいまで本を読んで無聊を託ち、頭の中に去来する負の想念を振り払う事もできず素がそうであるのにより一層鬱々としていたが、横になってすぐだったか数時間経った時だったか、呟くような耳慣れない音がし始めて、勘で、なんとなく、雨が降り始めたなと悟り、がばと飛び起きて干しっぱなしになっていた洗濯物を室内に引き入れた。めちゃめちゃになれという思いも端っこにあったが、そうすると今日の分のバスタオルがないので困った事になる。そういえば、昨晩は、日が変わる頃に変にお腹が空いて、鶏もも肉を一枚バラバラにして、照り焼きみたいなよく分からん味付けをして焼いたのだった。精神の不調が生活リズムに顕著に出るタイプなので、どうやら相当メンタルがぶれているらしいが、調子が悪いのが常であってそれが平時の体調ならばそれが当人にとっての普通だという森博嗣解釈を読んでから自己弁護がより一層不可能になった。私はメンタルに根本から欠陥があるらしい。知ってたけど。左右に大きくぶれながらも、渡した紐の上を進んでいく独楽の芸があったような気がするが、あれの落ちない保証がない版であるからして。人として軸がぶれているのアニメジャケットは、絶望先生が首を吊るか吊らないかくらいの絵だったと思うが。暇潰しにDMMで動画を漁っていると、全てと言っていいレベルで、レビューに女優名を書いている人が一人は見つかって、すげえもんだなと思う。全名義列挙されているとさらにすげえなと思う。知っている事は知っているもんだなと思う。

バルコニー・チュチュ

「これあげる」と言って、社長がキャラメルをくれた。手を伸ばしていた棚には台形の、懐かしの両端がひねってあるセロハン放送のチョコがある事を知っていたから、あら、くれるんですか、これはこれは、と反応を用意していたら、キャラメルだったのでズッコケた。まるで戦後占領下の米兵ではないか。チョコやキャンディやチューインガム。ジープの荷台からばらまいたりしたとかしなかったとか聞くが、探せば写真もあるだろう。素敵なものをくれる人であれば、子供としては、その人の素性なんて問題ではないわな。や、お菓子あげるからついておいで、みたいな怪しい人の話になったりするのだけど。素直に性善説に寄り添っている時期があってもいいと思うのだ。行きつけのラーメン屋で、試しにチャーハンを食ってみたらとても美味しかった。これで、あの店の主要メニューは全部食べたはずなのだが(餃子だけまだ食べていない)、メインの無印ラーメンが一番微妙で、味噌とんこつ、油そばまぜそば、チャーハンの方が秀でているという結果になった。看板が看板たりえていない気もするが、組織にしても、トップが必ずしも最優であるわけではない。一緒によく分からないスープがついてきたが、結局なんのスープなのか正体は掴めなかった。薄い、薄い中華スープ的なものだったのかもしれない。適当に散らされていたネギの方が、まだ味があった。チャーハン自体がここまでやるとは思っていなかった。予想外である。前は油そばに半チャーをくっつけて食べたが、あれはきっと、油そばが油でぬたぬたで、地獄のように味が濃いので、舌がおかしくなって正常なジャッジを下せなかったのだろう。なんかしょっぺえなくらいしか記憶がないし。ラーメン屋にチャーハンだけ食いに行くのも居心地が悪いが、その価値はあった。券売機に並・大とあるのに並しか出せないらしい。世界は不思議に満ちている。大家さん側に綺麗なポーチができていますね、的な様子をちらりと見て数週間が経過、いっちょ真正面から見たるかいと思ってまともに見たら、ごっつええ感じの分譲賃貸が建っていた。素で「え”?」の声を出したのは久しぶりである。ポーチに見えたのは、打ちっ放しの白いコンクリ床のせいだった。多分6部屋くらい、ワンルームだがセパレートバスでまともな収納もありそうだ。WAO! と思った。長方形の長辺に、もうひとつの長方形がひとつの頂点で横っ腹へ追突するような位置どりで、ちょっと外観は狭苦しかったが。やり手だなあ。

階段の手すり

はてなブログのトップは見辛くなったねえ……。数日経てばなれるかと思ったけれど、前の方がタイトル・記事リード・ブログ名が分かりやすかったし、レイアウトとしても整然としていた、と感じる。刷新されたものが、前バージョンに戻るなんて事は滅多にないので、これにも緩やかに慣れていくのだろうが。最近、私の人生が、これに巻き込まれて、巻き取られていきそうだな、と思う事にずっと首をというかくるぶしくらいまで突っ込んでいる。人生はままならんな……。3月末くらいまでかかりそうだし、3月までに溜まったものを終えたらまた次が出てついでにその次が出てかと思ったらまたその次も見えて……、と、永遠の糸繰りみたいになりそうだ。やる事がなくて、部屋の隅っこの埃みたいになるのも考えものだけれども、やる事があって程々なのも居心地が悪く、自分にとってちょうどいい境遇がどの辺りなのか分からない。頭が回らんな。眠くないのに、眠くて、さっき夕寝をしたところだが、いつも、夢に、起きようとしてぐんにゃりして起き上がれない、そしてその先で幻霊のようなものがきらめいている、変なのを見る。なんか、今日はダメだな。頭が回らない。ヨーグルトを食べた。おしまい。