他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

おいしくならないようになあれ

本屋に行った。暇過ぎて、何もやる事がないので本を買おうと思った。結論から言えば、本を買ったとて暇過ぎるという理由でぼーっとしていたので、これは私の中に内在するどうしようもない何かなのかもしれない。ともかく。本屋に行った。探して欲しいと言われていたし、私も気になっていたものがあったので、それを探す意味でも。これも結果から言えばなかったわけなのだが。もはや国技と言ってもいいのではなかろうかという競技について、ルールブックそのものが存在しないというのは、にわかには信じられなかった。でも、なかったのである。棚を何周も探したし、店員にも聞いて、在庫検索までしてくれたが、でも、なかったのだ。選手名鑑とか年鑑とか、エッセイを通して把握するみたいな本はあったが、でもルールブックはなかった。変な国だと思う。一番近いと思われた本でも、glossaryが載っていた程度なのだから、何なのだろうな、これは。古本の中身をひっぺがして、ガワの中に真っ白い紙束を挟み込んだ、見た目再生ノートみたいなのがあるのを、棚を見て思い出した。そうだ、こういうものを売っている。何年か前に、プレゼントで買った。今は、紙そのものに書くのかどうかは分からないけれど、洋書を棚に飾るのは、まあ、悪くなかろうて。レイ・ブラッドベリの、なんか知らないやつと、日本語にするとあれは何だ、『アルカトラズへの道』とかになるのかな。それを買った。中身は知らなくて、表紙の感じだけで買った。自分の母語でない本の小説なぞ、まあちょっと見たところで、ぺろっとめくったところで流し読みなど、私の能力ではできない。小説とは、小説であるがゆえに、語彙レベルとか、言い回しとか、会話文の実生活への距離の近さとかのせいで、全然簡単じゃない。じゃあ、それ以外がそうでもないのかと言うと、新聞は教養のある人が読むのでそれはそれでめちゃくちゃ難しかったり、学術系の本はさらに教養のある人が読むのでさらにもっともっと難しかったりする。社会には、知性の階梯があるのだと、こういう時に分かる。分かって、分からんなあ、と思うだけなのだが。買ったので、10ページくらいは読みたいところだが。外国語のリーダーと違って、自分が今読んでいるその解釈が正しいのか、それが最後まで正解のないまま読み続けなければならないので、それが結構なストレスなのだ。読んでて幸せ、というほど、その言語が好きでもないし。好きこそ物の上手なれとは、まあ、そうだよ。

pfuschen

今晩の飯で、久しぶりに生姜を食った。こっちの生姜は……何と言えばいいのだろう。萎びている。「しなびて」いる。この言葉がしっくりくる。あの八百屋で買った生姜が、そういう種類だっただけかもしれないけれど。私が見た食べた使った事のある生姜は、輪郭がまるっとぱんぱんに膨らんでいて、表皮に水気があって、なんだかてかてかしているものである。なんか、こっちの生姜は……。水気はない。8割くらい、なくなっているのではないか。8割は言い過ぎにしても、半分以上はないのではないか。干涸らびた木の根っこを掘り出した時みたいな、中に何も残ってなさそうな感じがある。でも、オーブンで焼いた後のそれをかじってみたら、びりっとくる生姜の風味があって、こいつも生姜なのだなとは思った。ただ、あまり、香りがぴょーっと広がる感じはない。すっと立って、すっと消えていくような感じ。ちゅうしょうてきなおはなしですね。そういえば、こっちにしかない、と少なくとも私が思っている、オレオのダブルクリームが買ってあったので、食べた。私の記憶にあるように、やっぱりバカみたいな甘さがあって、バカみたいにクリームの層がある。すげえ食べ辛い。クリームが二倍という事は、クリーム部分の構造的高さも二倍という事で、上下のクッキー部分を噛み挟んだ時に崩壊する程度も数倍である。もろいビッグマックを食べていると想像してみてはいかがか。食べ辛さの想像がつくだろうか。うまいのだが、そういう事なのである。オレオをミルクにつけて食べる人がいると認知したのは、まどろみちゃんだった気がするが、違ったか。いや、それよりも前に、オレオのクッキー片方を剥ぎ、そちらでクリームをちまちま削いで食べるという作法を、どこかで確実に見聞きのどちらかしているはずである。どこで、何でそれを見たのだろう。なんだろう。全然思い出せない。なにかはあったはずなのだ。なんじゃろね。茗荷でも噛み過ぎたかな。人生で茗荷を食った覚えはほとんどない。茗荷って、まずどう食えばいいのか分からない。日本料理のお高いやつとかだと、薬味か口直し? みたいな立ち位置で出てくるのかな。スーパーには、かじり茗荷みたいな、瓶に縦に詰まったやつがあるけれど。甘酢漬けというものがあるらしいと覚えていて、甘酢を酢+砂糖で作れると思って、買って帰った茗荷の茎もろともを腐らせた覚えはいくらもあるのだが。いや、あれは新生姜だな。茗荷ってどうやって食うんだ。天ぷらか?

汗のような玉

ほとんど何も考えてない日だった。や、そもそも、最近何か考えている日があるかどうか怪しいのだが。虚無をむしゃむしゃしている。むしゃむしゃという擬音でさえ積極的過ぎるかもしれない。口の中に入れて、何も考えずに、溶けるのを待っているだけ、のような。味のないたまごぼうろを、口の中で放っておいて、溶けていくような。意味を見つけるのは苦手だ。街路樹の葉っぱがハーブのようだ。ハーブはハーブのようだが、あれがぽんと裸で置いてあったら、いい匂いのするゴミだなと思って捨ててしまうだろう。買ったハムがしょっぱかった。すげえしょっぱい。塩蔵が食べ物を長持ちさせる保存方法で、ハムがその一つだとしても、すげえしょっぱい。あと、一枚一枚がめちゃくちゃでっかい。ライフサイズのアンパンマンの顔、ほどはないだろうが、ちょっとした、中くらいのピザみたいなサイズをしている。それが、端から端まで全部しょっぱいので、しょっぱいなあと思う。冷蔵庫の奥にぶどうがあるのを忘れていた。ぶどうはうまい。うまいが、積極的に、私としては人参玉葱きのこ鶏肉にんにくのように、キッチンに常にないといけないと強迫観念的にさえ思っているものではない。あれば食うけれど、自分では食わない。そんなもの。なので忘れていた。消費期限が3日だったので、OH......と思った。形が崩れてぐずぐずにとろけていなかったので、目安で期限が切られているのはありがたいなと思う。そのせいで捨てられてしまうもろもろについても思いを馳せたり馳せなかったりする。一粒だけ、カビが生えるとはこういう事ですよ、これを知っていれば間違いありません、みたいな生え方をしていて、気持ち悪いなとは感じたけれど、指先でつまんで捨てた。戯画化したまんこみたいな形で、カビが生えていたような記憶がおぼろげにあるが、違うかもしれない。チーズも残っていて、チーズは滅多な事ではカビが生えないと思っているがどうなんだろう、あれも、朝飯の時なりなんなりに、食ってしまった方がいいだろうな。次のチーズを買ってきたままだし。毎日牛乳とチーズを食べるようにすると、寿命がいい感じにナイスになるらしいので、健康に気を使っている人は励んでみてはいかがでしょうか。どこか外国の食生活だと聞き及んでいますが。晩飯に食ったヒラメないしカレイが美味しかった。いっつも、左がどっちで右がどっち、which is whichになる。語感で覚えた気になってもダメで、やはり語呂合わせで、私がかつて開発した「獣奥義アニマルパンチ、秋はおはぎがおいしい季節」(荻と萩の区別をつけるためのやつ)くらいしなければいけない。

misjunction

食べ物は無駄にしないようにしましょう。約束だぞ。ハムがしょっぱかった。今日は……特に書く事がないな。グラブルのメインストーリーが更新されたが、更新されたはいいのだが、一年以上待たせて……これ……? これなの……と思った事は忘れない。本当に、もう、大丈夫か? と思った。ストイベの方が(最近は翳りがすごいのであれだが)まだずっともっとマシである。000以降は、というか、んー、そうね、ナルグランデまではよかったが、そこからはハリボテのパッチワークみたいな感じで、世界観がうまく地続きになっていないところがある。今でも、学園編って何????? と思っている。今回のアップデートもしょうもなかったわけだが。どうしたんだろうね。心配になるね。直近のストイベはジャンルのネタ丸パクリかますだけで、もしこれがシナリオチームの総意なのだとしたら付き合い方を考えないといけないなと真剣に思ったほどである。昨日読み終わったFGOの二部六章アヴァロン・ル・フェがめちゃくちゃよかったので、落差がすごかった。フレンチのフルコースを食った後に、ひからびたもやしを食べているようだった。FGOは、なぜそれと戦うのか、なぜそういう展開になるのかが、いちいちきちんと理由付けされていてそこがいいのだが、今日のグラブルのメインストーリーはひどかった。何回言うんだ。何回も言うくらいだったのだ。特に終盤の駆け足は、正直、置いてけぼりだった。なんでそこからそうなるの???? だった。よいシナリオというのが、いかにかけがえのないものであるかを再確認した日である。特に言う事がないので今日はここで終わりにする。

ねぴよんどぅろーん

夕方くらいに雨が降ったが、すぐに止んだ。雨が降ると寒いので、窓を開けていようかいまいか考えるところである。しかし、窓を閉めていると普段は暑い。あと、部屋が乾燥している。各人によって部屋の乾燥具合を測る尺度は、十人いれば5、6通りくらいはあるだろうが、私は鼻くその産生スピードで分かる。呼吸をする時に鼻に違和感が出ると、その部屋は乾いている。だいたい、ティッシュで鼻をかむ回数が一日に一回あるか、ないかくらいなのだから、もしかすると私が思う数倍乾いているのかもしれない。そう思うと不安になってきたが。一日中、事あるごとに水を飲んでいる。自分の家ではないので、お茶なりなんなり、喫茶に供するようなものを作るのが面倒で、飲んだ後に口の中で雑音が残らないし、というのもあって、水を飲んでいる。水の良し悪しは、私にはよく分からないが、水が入っているペットボトルの良し悪しは分かる。安いやつを買うと、1.5リットルペットボトルの蓋を外して、そのまま、口の中に「あー」と流し込もうとすると、ペットボトルが薄っぺらくてべこちんで、首というか注ぎ口周りが猪首になっていて狙いが定めづらい。それなりのやつを買うと、狙いがつけやすい。水、というよりは、ペットボトルで選んで買っていると言う方が正しいのかも。その時その時で、売り場がより近い方を買っているだけなのだけど。どっちが立ち小便的に狙いをつけやすいか、どっちがジョウロで水をかける時にターゲットに散布しやすいか、みたいな話である。立ち小便用の便器があるところでしか立ち小便をしなくて、あれは全部アタリ判定みたいなものだから、たとえとしては適切ではなかったかもしれない。普段は立ち小便をしないので。座ってする。小便に対する姿勢は、その人のパーソナリティを測るにあたっては役立つ指標の一つだと思うが、まあそこは各人好きにすればよい。私は、立ち小便を日常的にする人とは生活したくないですけどね。そう、誰かと一緒に暮らしてみると、なぜハネムーン離婚というものがあるのかが、ひしひしと、骨身に沁みて分かる。あぁ、この人は、まだ家にあれとあれとあれが残っているのに同じ類のこれとこれとこれを買って腐らせてしまうような人なんだなとか、飯の食い方がきたねえなとか、床に物を落としたままでも平気なんだなとか。前に見た、あ、こいつとは死んでも結婚したくねえなと思うほどひどい箸の持ち方をしていた人を思い出した。ただ、ひどいという感情しか残っていないくらいひどかった。

baaabooo

英語でラップはラップではなかった。lapではなくwrapの話をしている。日本語でLとRの区別はできなくはないができないと言ってよいと思う。私が独習した独逸語の教科書は、カタカナでドイツ語の読み、がおおよそだいたい指示してあって、Lに「ラ」、Rに「ら」が振ってあったと思う。全くナンセンスではあるが、ふたつの音は違うのだと示すためには、日本語がいくつかの文字体系を併用し援用し常用していたのが辛うじて全くの同一化を防いだと言えなくもないのか。まあいいか。英語ではラップはラップではなかったのだ。cling filmだった。どう訳したものだか、字義通りで言えば「ひっかけるフィルム」になるか。私は、そして日本語のラップのイメージからするに、ラップとは包むもの覆うものだと思っていたわけだが、英語では、ラップをかける皿なり何なりの縁にひっかけるものという認識らしい。確かに、ラップをかける時は、ものにもよるけれども、一端に引っ掛けて、ぴーっと引き出して、最後に端っこをピッと切る。引っ掛けるという行為も、含まれてはいるわけだ。どこに着目するかで、名前がずいぶん変わってくるものだ。キッチンにあった、前の逗留者が残したラップをかけながら考えた。日本のラップは、あまりにも安くてまずいものを買わなければ、一連の動作にストレスがないようなものなのだが、外国では必ずしもそうではない。値段が安くないくせに、切れづらい。日本が、その辺は快適過ぎるのかもしれない。今日言いたい事はそれくらいかもしれない。体調が優れなかったわけでもなく、かと言ってめちゃくちゃに悪かったわけでもなく、ゼリーの上に放置されたクラゲみたいなもので、どっちにつけばいいのか分からずに、とりあえず寝ていた。結構寝た。早く起きなければいけなかったが、かと言って早急にやらなければいけない事があるわけでもなかったので、適宜暇を盗んで寝たり、盗まずに堂々と寝たり、とにかく穴の空いたバケツみたいに、汲んでも汲んでも仕方がなかった。今はちょっと落ち着いたが、これから寝なならんという時に、しこたま日中に睡眠かましとるいうんは、これはぐつ悪い。ぐつ悪いって、今はそれほど一般的な言葉ではないのかしら。まあいいか。自分の観測する象徴界を信じる事にしよう。寝て、たまに寝て、またたまに寝て、赤ちゃんはこんな日々を送っているわけだな。生きてゆく下積みとして、まずはただ生きる事をやっとるわけだな。それでも大変だよ。

教えてあげない

鶏をまるまる一羽買って、オーブンにぶちこんで焼いた。中に詰め物をするとよさそうだなという話になって、研いだだけの米を入れたが、これは失策というか、あまりよくなかった。鶏の中は意外と狭くて、一合も米が入らなかったので、トレイにうすーく満遍なく伸ばして下敷きにした。鶏の中は意外と狭かった。エロ本みたいだな。狭かっただけでここまで考えるのも、感性のどん詰まりを感じてよくないが。敷き詰めた米の方は、塩とかワインとか鶏から出たなんかの汁とかにより、異常においしくなっていた。毎日食いたいとは思わないが、毎週どこか特定の曜日で出るのであれば嬉しいくらいはおいしかった。鶏肉が一番うまいので、今日の食事はよかった。昼にフィッシュ&チップスを食ったので、それと比較するとなおさら。フィッシュ&チップスは、まずいとかうまいとかの話ではないのだ、あれは。そもそも、codを揚げたものと、ポテトを揚げたものと、それでとびきりうまいものがあったら、こちらが教えて欲しいくらいである。あれは、食べて、自分が今いる場所について認識する食べ物なのだ。今日行ったパブが一緒に出してきた、タルタルソースだかなんだか分からないが、白い何かしらのそれはうまかった。あれを食べる口実として食ったようなものかもしれない。ジャガイモがうまいのは、事実そうではある。鶏にゴムで何かがくくりつけてあって、レバーだろうと思っていたのだが、中身は必ずしもレバーのみならずだった。ちっこい袋の中身を出して水で洗おうとすると、小児のちんちんみたいなレバーは、それは確かに入っていたのだけど、長細い、ながっちょろくてしかし芯を感じさせる何かが、にょきっと顔を覗かせていた。あれが一体なんなのか、今でも分からない。冷蔵庫の中で牛乳に浸かっているあれは、なんなのだろう。もしかすると鶏のちんこなのではないかと思いはしたのだが、鶏があんなに長細いちんちんをぶら下げているとは聞いた事がないし、仮にちんちんだとして話を進めてみても、中に通っている骨らしき構成物が一割、残りは全部肉のようなので、やっぱり異形のちんちんという感じがする。小腸か大腸かとも思うが、それらも全て違う気がする。なんなんだろうな、あれは。美味しく食べられればいいな、とは思う。丸鶏を片手でつかんで、水で洗おうとした時、私は初めて鶏のサイズ感を知った。3kgくらいの、トルソー造形のオナホールとだいたい同じ感じだった。内臓をぶっこ抜いた穴がちょうどそれらしい位置にぼっかりと空いていて、あぁ、鶏とあのへんのオナホールは、ものとして近い位階にあるのだなあと思ったのだ。

nay rather

書く事ないよ。基本、部屋でじっとしとるんだから。じっと。まじまじと見つめる時もじっとだし、身動きをしない時もじっとだな。石川啄木が、ぢっとてをみるの人だっけか。ない。書く事。自分一人では限界がある。せめて散歩くらいはしないと、人間おかしくなるものかもしれない。でも、出歩きたくないような世相なのは事実だ。外に出ると、見えない棒があって、犬も歩けば棒に当たるし、人間もあるけば何某に罹る。私が今いるところは、外を歩いてみると、誰も彼も、ほとんど全くマスクを着けていないので、おっそろしいところやなぁホンマに、と思っている。私の中にある関西弁は、開高健筒井康隆野坂昭如の小説から帰納されたちゃんぽんである。もしかしたらmoldedな関西弁なのかもしれない。高校の英語の先生が、サッカーの大会で開かれた記者会見において、海外の監督が述べた事を通訳した時、あまりに、ネイティヴからすれば大仰な言い回しを使うので爆笑されたみたいな話をしてくれた記憶があるが、あれに近い。あまり芳しい状況では、この国もないようだから、こんな事でええんかいなと思うところはあるが、しなくてもいいのであればしたくはないものであるから、彼らの気持ちも理解できる。動画なり、絵画なりを見て、「あれッ、なしてこの人らはマスクしとらんねんやろ」と思うようになっている。顔面の表象がずばり、全幅で出てきていると、そちらの方に違和感を覚えるようになってしまった。慣れとは、恐ろしいというか、浸潤性の高いものである。三年前まで、どんな風に暮らしていたのか、おぼろげに、ほとんど無と言っていいくらいに覚えていないと言いたくなるくらいに、ここ数年が強烈だった。だいたい押し流されてどっか行ってしまった。これもまた、自然はかくも偉大なりの一側面である気はする。昨日は早く寝たが、部屋があんまりいつまでも明るいので、寝たのか寝てないのかよく分からなかった。カーテンを、でっかい窓にかかっているカーテンを閉めたが、それだけでは足りず、その両脇にある、縦長の窓2つが、びんびんに明るみを取り込んでいて、でっかいカーテンの方が全然意味を成していないかのようだった。いつまでも明るい。真向かいにある建物が、街灯を綺麗に反射して、まるでオレンジと青色でライトアップされたかのようになる。田舎のしょっぱいパチンコ屋かガソリンスタンドくらいの明度はある。何もしていなくても、咎められなくて、生きていけるのが不思議だ。文句言ったものの、今日はなんとか書けた。ふぅ。

無意識に生きるための水

慣れない事をすると頭が疲れるが、たまに慣れない事をしないと自分が「何」なのか分からなくなるので、たまにはやらなければならないと実感した。本当にやりたくないしやらなくていいやと思う事もあるが、やってみると案外、それほどつまらなくもない事もたまにはある。疲れるのは間違いないが。部屋が、というか机の上が暗いとずっと不満に思っていたところ、ベッド脇の卓上ライトが、壁とチェストの間にスイッチが落ち込んでいた事で見逃していただけで、点灯したので、全然壊れていなかった、先に金を入れるタイプの食券機で先に番号を押して店員に「この食券機壊れてますよ」と短絡したあれみたいになった、環境は少しだけ改善された。チョコクッキーはだいぶ減ってきて、食べてみれば以外と減るもんだが、4セットくらいしか食べていないのに昼飯をちゃんと食ったくらいの腹の疲労があった。すごいんだね、カロリーがね。あとは、なんだろうな。もうすでに眠いという事がある。生活習慣がよく分からないままだからか。しばらく忙しくなる気がする。何か思いついて書こうかと思ったはずなのだが、何だったかなーんにも覚えていない。物理的にメモを残した気がするスケジュール帳をのぞいてみたが、何も書いてなかった。というか、2019年のスケジュール帳をまだ持っている。いらないだろう。自分の誕生日に、蛍光ペンで「YEAH!」と書いてあるのを見つけて何とも言えない気持ちになった。多分、買ったその日に書いたのだと思うが。大してスケジュールなんて入らないのだから、今度は、スケジュール帳くらいのサイズの、真っ白なノートか手帳みたいなのを買おう。買ったとして、2年経っても、3ページも書いていないかもしれないけれど、書き残せる手段がそこにあるというのは、それだけで安心して、思いつきを書き残す事をかまけて忘れたりするのである。今日もこの辺にしよう。明日はなぜか早いし、まだやらなならん事が残っているのだ。

腹ベコ

早めに晩飯を作ったら、すごい眠い。いや、今日は一日、なんだかピンボケして、とても眠い一日だった。何をしたわけでもないのだが。ゴミ箱にマスクが何枚も捨ててあるのを見ると、顔からひっぺがした自分の死体がいくつも積み上がっているようで、これは部分的なデスマスクなのだなと思った。あと、普段はしないのだが、トイレの便器の蓋を閉めて水を流した。してみたかったので。トイレは、だいたい便器の周りに付随するイメージ群をまとめてトイレと呼んでいるのだが、しかし、便器は器という文字があるとおり容器なのだから、蓋があってもおかしくないよなと気付いた。便器という言葉はあまり綺麗な気がしないのだが、私が肉便器とかその辺を連想するからかもしれない。あるいは、濁音がよくないのかも。与えられて変更の効かない名前について言うのもアンフェアだから、私のせいという事にしておく。すごい眠い。あと腰肩背中が痛い。机周りの環境は、いかに体に合ったものを用意しなければならないかがよく分かる。ねむねむなので、風呂入って寝る。チョコクッキーがちょっとだけ減った。

退神ご飯

ミストシャワーのような雨が降っていた。風景に、水滴が嘘のように浮いていた。景色に、塩化ビニルの透明なスクリーンを下ろして、そこに霧吹きで吹きかけたような。日本の雨は、濡らすために降っているようだ。お前を濡らしてやるぞ、という強い意思がある。ここの雨は、そうだな、仕方なさそうに降っている。降るという事になったので、こんにちはあなたの前に参りましたが、すぐにお暇します、という姿勢だ。湿度がそれほどでもないので、すぐ乾くというのもあるだろうが。雨に湿って帰った時、家の中でむんとした滞留の暖かさに身を落ち着けて、眠たくなってしまうのは、プールが終わったあの時とあんまり変わらない。チーズが入っている、チーズばかり入っているサンドイッチを二日連続で食っているのだが、全然飽きないので不思議である。物の見事にメインのフィリングはチーズしか入っていなくて、しかしてうまいのである。チーズがうまいんだろうか。チキンなりハムなり、何かしらの肉が挟まっていないと満足できないものかと思っていたが、別にそういうわけでもなさそうだ。ものがうまければ、気にならない。開けたままのチョコクリームクッキー的なやつ、全然減らないのでどうしようかと思っている。食ってないので減らないのは当たり前だとして、なぜ食って減らさないかと言えば、ひとつずつが感覚に訴えかけてくる満足度がハイであり、そうそう量が減らないからである。このクッキー的な何かをひとつ食べるために必要な肉体・精神的エネルギーは、牛丼並盛一杯分である。なくならない理由が納得いただけたかな? あと、推定20枚弱あるので、計画的に減らしていきたいところであるが、絶賛自主隔離中の身であるから、腹が減らないのである。朝飯も昼飯もうまいし、普段2食なのに今は一日3食食べてるしね。食い物がうまいのは幸せであるが、食い物がうまいと感じるためには、料理ができる必要があるのではないかと思う。自分の命の何割かは自分で握りたいという理由で飯を自分で料理するようにしているが、いくらばらばらの材料がうまいと分かっていても、生のピーマンをかじるわけにも、鱗のついた魚を丸呑みするわけにもいかないし。牛乳もジュースもうまいので、現環境の衣食住について、三番目以外は満足している。部屋が暗いのには参った。本当に。期間が終わったら、視力がまた数段落ちているのだろうと確信をもって言える。負はないが、0への漸近線はある。

植民地の食い物

もしかして、昨日は書くのを忘れていたかもしれないな。疲れていたとか、書きたくなかったとかではなくて、ただ純粋に書くのを忘れていた日である。年に何回かある。お山の聖火ではないので、たまに絶える日はある。倦まず弛まず、継続できる人も、すごいと思わないわけではないが、私はたまにだるだるするくらいでないとだめだ。さっき食ったマンゴーがうまかった。人生でマンゴーをうまいと思った瞬間が、何回あるのか忘れたが、もしかしたら一回もないかもしれない。さっきが初めてだったのかも。果肉が「むっちり」していて、あれはむっちりという形容詞が全く適切だったと思う、果物を食いながら、クンニリングスの際に肉を食いちぎったらこんな感じなのかなあ、と考えていた。半分に切ったそれを、無理矢理裏返して、全方位に押し出されたまばらな直方体のそれが、外形として、女性器に見えていたのだろうか。した事はないが、気持ちとしてはこんななのかなあ、うまいなあ、と思っていた。頭の中に複線で考えが走るので、目の前で小便をされながらでも飯が食える。目の前で人が小便をしている事と、自分が飯を食っている事は別個の事実で、互いに何の関係もない。目の前で人がセックスしているのを眺めながら飯が食える店に行ってみたいなとずっと思っている。実際にあるのかは知らないが。あぁ、この人たちはこういうセックスをするんだなあという観察と、ここの飯うまいなあ、という感想が、頭の中で併走してほしいと思っている。かける必要が全くない圧を、かけたくて仕方がないらしい。まあ、でも、なんやかんや理由が見つかって、こいつらのセックスつまらんなと思うのかもしれない。だとしても、一回か二回か三回か、そういう事をしてみたいのは本心なので。食欲と性欲は分けてほしいという言説に、そうかそういうものかとぼんやり賛同していたが、もしかするとこれは共存するものなのかもしれない。スマホをいじるのに夢中でちんこを入れられているのに気が付かない女みたいな、ひとつのAVのテーマがあるが(あれは流行りでもうないのかもしれないが)、あれも見ようによっては、スマホいじりという娯楽とセックスという行為の(同時並存であって共存ではないが)であって、食事という営為とセックスという行為も共存できるものなのかもしれない。ウェット&メッシーも、この欲求の在り方のバリエーションの一つとして把握する事ができるのではないか。マンゴーという言葉から連想される一連のイメージ群が、意識下で絢爛を晒していたのかもしれないな。

服を剥いだら

今日の朝食にも、米入りヨーグルトは並んでいた。味が3種類あって、そのどれもが、パッケージの側面で一番大きな文字がRiceだった。よく見なかった私の失態なのだろうか。そうは思えないというか思いたくないというか。それが置いてある棚が、他にあるものが、ヨーグルト類とフルーツの小皿なのである。そこに、米とヨーグルトがドッキングした、稀代のキメラがいようとは、誰が想像できようか。できる人がいれば私のところに来てほしい。反省を生かし、今日はバナナ風味ヨーグルトを食べた。一日三食になっていて、普段の一日2.4食くらいの生活とはブレが出ているので、常に腹の中に何か入っている感じがする。年末年始に田舎の家に行った時は、そういえばこんな感じだ。晩飯は自分の裁量でどうとでもできるので、意識的に野菜をもりもり食べる事にしている。こういう食習慣になると、野菜っていくら食べても、常識的な範囲内でだが、それがデメリットになる事は基本的にないのだから、素敵食べ物なのではないかという気がする。今日は、トマトとナス、鶏肉を白ワインで煮込んだ、何と名付ければいいのか分からない料理を食べた。にんにくを入れると、味がばちっとするというか、土台みたいなものができるので、あれは欠かせないものである。部屋が乾燥しているのか、それともこの土地の空気がそもそも乾燥しているのか、よく鼻血、それとも、血が固まった赤黒いはなくそが出る。鼻が詰まった感じがするので、かったい、愛想のないごわごわしたティッシュで鼻をかむと、血の固まったはなくそが飛び出して、まだ異物感があるので鼻をかむと、そこで鼻血が出て元通りになったりならなかったりする。付き合い方が難しい。そして、机が低くて椅子が高いので、めちゃくちゃに肩が凝る。普段だって、折り紙に熨斗もつけたような猫背で、凝るところはしっかり凝っているのだが、それにしても、肩を触ってみて自分でびっくりしたくらい、がちがちになっていた。西洋人は、胴が短くて足が長い、我々と逆だから、という話を聞いて、ははぁ、なるほど、そう言われるとこの設計は確かにそうかもしれないなと考えた。身体にはめちゃくちゃ悪いので勘弁してほしい。立ってデスクワークをした方が、よほどマシだろうと思うしきっとそうだろう。部屋が暗いしね!!! ついでに、部屋のほぼ真下で道路を掘り返すめちゃくちゃやかましい工事が始まったので、明日はどっちだという感じだ。

are they siblings?

現実は想像力を超えてくる事がままあって、今日もそのひとつの例に横っ面を張り飛ばされた。今朝、食堂でヨーグルトを見つけた。自分の家にいるわけではないので、あれがこうこれがこうという癖、習慣が実行しづらく、体調を、気休め程度とはいえ整えるために、ヨーグルトはいいなと思った。トレイに乗せた。他を食べ終わってから、さて、ヨーグルトを食べようかと思って、ストロベリーソースが入っているやつなので、下の方から混ぜ混ぜした。混ぜ混ぜしたのだ。米が出てきた。米??? なんで??? パッケージを見た。Rice with yogurt and strawberry sauceと書かれていた。なんで????? 心の中の大合唱は止まず、それ以上に、ヨーグルトに米が沈んでいるのを初めて見た。何をどうしたら、何をどうしようとしたら、ヨーグルトに米を投入する事になるのか。「米+ヨーグルト=?」という数式を入れたら、コンピュータだってバグるのではないか。私はよく分からなかった。掛け布団をぺろりとすると、見知らぬ美少女が眠っていた時のラブコメ主人公は、もしかしてこんな気持ちなのかもしれないと思った。食べた。ゆるく炊かれた、ぽろそぽろそした米が、ストロベリーソースで整えられたヨーグルトの中に入っている。そのままである。足し算の結果が、結果になるのではなく、=の左右両側が全く同じ式であった。おかゆをヨーグルトに溺れさせると、こういう料理、料理なのかこれは、になるのかもしれない。これがパッケージングされて商業ベースに乗っているのが、私にはものすごい事に思えた。良くも悪くも。味は悪くないが良くもない。食べ物としては、なぜ俺は米とヨーグルトを一緒にして食っているのだろうという自問自答が頭の中をtwirlingしているため、余分な情報処理を強いているという点ではマイナスだろう。一体なんだったのだろう、あれは。それとも、この国ではそれほど奇異な取り合わせとして映らないのか。あれもまた、食文化のプールの中にある一部なのか。そうだとすれば、私は受け入れたくはあるのだが、デザートに米を食うというのは、もしかしてそんなに変な事ではないのか。もち米とはいえ、おはぎも似たような事例ではある。そうか、あれは、洋風おはぎというか、洋風デザートライスポリッジのようなものとして理解すれば、あながちout of courseでnonsenseなものではないのかもしれない。私は現実の可能性に身を預け過ぎかもしれない。

乾かなかったら

作った料理が褒められた。感情が抑圧されるのに慣れ過ぎていて、これが一体そうなのか分からないが、多分嬉しいなと感じたのだと思う。こういう時に、嬉々として喜べる人間なら、可愛げがあるのだろうが、私はいつも同じ、何も考えていないような、しかめ面をしながら苦虫のガムを噛んでいるような表情か、一切が抜け落ちたぬっぺりした表情なので、自分の内面を観察する事にエネルギーを費やし、あまりattractiveな返答はできなかった、と思う。そうでなくても別にいいのか。相手は、短い付き合いではないので、私のもにょもにょした言動も、狎れたものだろう。自分の作ったものを人に食べられる機会は、まずないので、褒めてもらえてよかったね。後ろ向きな感情を取り扱うのは得意なのに、プラス感情を表す語彙というか、スタイルが乏しすぎるな。あるいは、それは、どちらがより親しみがあって、手に馴染んでいるのかという違いでもあるのだろうが。私は、いつも楽しくて、いつも楽な方がいいとは全く、これっぽっちも、ぜーんぜん思わないので、というか、光あっての影というか、極が最低2つはないとどちらも立ち昇らないわけで、一つだけに甘んじ傾斜するのは、自身の感覚の否定と鈍麻、もっと言えば圧殺であるから、私は、光を見るために、どっぷりした影をもっと長い時間見つめなければいけないのだと思っている。成長には必ずプラトーがあり、そこがなければ上には線は伸びていかない。なので、放り出さず、見つめて、自分の言葉で、考えを編む事が必要なのである。オリンピックは最悪だと思っているが、特に、開会式に対する反応がもっと、それとも同じくらい最悪だった。風見鶏か、めんこか、書き割りみたいな人間がいる事にどうしようもない気持ちになった。あの胸中は、どうしようもない、以外の言葉ではどうしようもない。あんな集団に、帰属意識など湧かない。いくら一枚岩ではないとは言え、全く別次元の話のようである。これについてはいくらでも言えるが、言っても仕方がないという気持ちだけは持たないようにしたい。いくら相手が仕方のないやつで、言っても仕方がなくたって、言わなければ解決は始まらないのだ。始まるかどうか、随分怪しいけれども。スーパーで、懐かしのビスケット? クッキー? みたいなものを見つけて、買った。開封して食ってみたら、あぁ、お前はまだこの芸風でやってるんだな、と思う、頭の悪い甘みがべちゃっとしていた。窓枠にかかった蜘蛛の巣に、蜘蛛がぶら下がって死んでいる。