他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

本屋のハタキ

野坂昭如エロ事師たち』を読み終わった。昨日くらいに。人生の今まで、今の今まで、これを読んでいなかった事を痛く後悔した。どれぐらい痛いかと言うと、漫画でオーバーに表現される処女喪失においての破瓜の痛みくらい。この小説の中にあるもの全てに、私の精神性が反応していた。話は猥褻で猥雑だが下品ではなく、題材は猥雑で猥褻だが下品ではない。名前自体は、人生で掠って擦れ違ったくらいはあるはずなのだが、本に手を伸ばすまで至らなかったのが本当に本当に残念である。そんな人がいるのかは分からないが、私は世界の想像力と余白を信じているので、私の普段の興味関心に近い円を持っている人は、是が非でも読んだ方がよい。世の中にこれほどのものがあった事に感謝し、感激し、そして後悔するだろう。それほど心がゆっさゆっさ揺さぶられた。内容に関しては、読めば分かるというか、最初の10ページくらいで全てが伝わるはずなので、冒頭を立ち読みすればよい。そして買って、家でじっと読むのがよい。これについては言葉を費やして記憶をよごしたくないので、以上とする。火垂るの墓アメリカひじきを置いていなくて、これだけ置いている本屋もすごい。これが、小学校でも中学校でも高校でもいいが、図書館に置いてあったら、それはそれでものすごい事で、幸い年齢制限など付いていない安心安全新潮文庫なので、誰でも読める。解説が澁澤龍彦なのもすごかった。解説も読む価値間違い無いので、最後までしゃぶりつくせる本だ。すごい。朝の4時くらいに目が覚める現象が、まだ続いている。ちょっとずれて3時だったりするが、目が覚める。二度寝すると頭が痛くなって一日使い物にならなくなるのに、そんな時間に起きたとてやる事が、ないとは言わないがやりたくないので、やっぱり二度寝する。部屋を掃除した時に出たゴミを全て排出したので、玄関含めて、部屋が広くなったような気がする。それでも、生活通用路はさほど変わっていないので、見た目がさっぱりしただけではある。押入れに本を並べただけでは、整理が完了したと言い切る事ができないようである。心の中からそういう声が聞こえてくる。昨日、人と話している時に、木の本棚だと棚板がたわんで、列あたりの収蔵量が少なくなるので、変形が少ないスチールラックにした方がよいと教えてもらった。スチールラックの専門店さえ、この世にはあるらしい。なんでもあるな、この世の中。金で買えるものだいたいは。

魔法にときめかないための心

近所の店に、状況があれなのでアルコール出せません、との旨記載した紙が貼ってあって、それはまあいいのだが、その文言が、「アルコールの提供はご遠慮いただいております」だった。私はここに、知性の欠如を見た。これが言い過ぎなのであれば、反省の欠如と言ってもよい。「アルコールの提供は遠慮させていただいております」ならば、提供を自粛する動作の主語は店側であるが、現実の文面では、客が店に向けてアルコールを出すような主客関係になっている。無理矢理整合性を求めて解釈するのであれば、ご遠慮を再帰動詞として、日本語には-selfとかsibiとかがないから記載されていないものとし、(私どもが出した)アルコールの(お客様自身への)提供はご遠慮いただいております、となるが、この解釈の苦しさは首を吊ったようなもので、要するに原文がおかしいのである。大型というには少ししょっぱい大きさの屋外モニターで、何かの何かが、〇〇で人生が180度変わりました! と言っていた。なるほど。人生が転換した事、あるいは程度の大きさを表すのに、角度はしばしば引き合いに出されるもののひとつである。180度は一番よく聞くが、270度とか90度とか360度というのはとんと聞かない。聞かないわけではないが、無視して構わないような母数である。人生が変わる時は、180度変わるのである。180度というのは、つまり、半円分度器の一端からもう一端に、正反対を向く事を言っているのであろう。彼らが言うのは、鈍角だとしても、100度でもなく150度でもなく、178度でもなく、180度なのだから。すると、彼らの人生を形容する言葉というのは、全て反転する事になる。暗かった人生が明るい人生になり、貧乏だった人生が富裕な人生になり、生きていた人生が死んだ人生になるのである。生きていた人生は、あるいは、死んだようなもんだった人生から、生きている「ような気がする」人生への転換かな。なぜか、人生が転換する時は、真反対を向かなければいけないらしい。ちょっと方向を変えたり、寄り道したり、つまずいてずれたりするのではなく、それまで見ていた景色が見えなくなる方へ向くのである。これは、過去の自分の放棄であり、脱皮であり、殺害であり、埋葬であり、これらのうちどれかである。脇目に見えるちょっと前の自分とか、遥か昔の自分が遠くに見えたりとか、そういう、多層的自己認識ではなくて、都度、まっさらの、積み重ねの何もないぺらぺらな自己認識風景のために。

両者合意の上での追剥

昨晩深夜、Qooのりんご味を飲みながら、なんとか本を粗方押入れの中に整理する事ができた。Qooのりんご味というところがポイントでも何でもないのだが、オレンジ味ではなかった。りんご味だ。ダンボールをいくつも畳み、ビニール袋をいくつとなく捨て、本を拾い出す作業だった。思ったよりはなかったが、それにしても、下の層から出土する本を見ると、時たま声を上げてしまうような、そういえばこんなん買いましたね、と思い出した。発掘と、軽い整理が終わっただけの状態で、押入れの中は依然として混沌の様相残るところ多々ありなので、本棚をあとひとつかふたつ、少なくとも真面目な本と小説を入れる棚をそれぞれ用意したいところである。ただ、本棚というのはそれなりの重量物を支えるための設計で、要するにそれ自体がなかなかの重さをしており、一気に持って帰るのがめんどくさかったりする。どうしよっかな〜〜〜。地層を物置として利用していた面もあるので、床が見えて部屋が広くなった気がするし事実として利用可能エリアであるかどうかはともかく広くなったのだが、これについても棚か何かが欲しくなった。衣類を、キャンバス地のボックス3つでどうにかしているのが窮屈なのやもしれん。クリア素材の衣類ダンスとかにして、部屋の入り口に対して垂直に設置するのがスペースの利用としては適切かもしれない。ともかく、長らく手の入っていなかった場所をガサ入れしまくったので、作業が終わった後は足の裏が埃で真っ黒だった。あまりに足の裏の感覚が持っていかれるので、一度ガムテープを踏んで取り除いたりしたのだけど、風呂の床に埃の跡が散った。とりあえずフロアワイパーだけはかけておいたが、明日の朝早くにでも、一度掃除機をかけておこう。天気予報では、昼から夕方にかけてしこたま降水確率のヒストグラムが天井に迫っていたが、午前中に少しぱらついた他は、じめじめしてぬめりつくような空気のまま曇り続けていて、夕方には晴れ間さえちらと覗いた。日が長くなった。いつからだったか忘れたが、日が長くなった。夕方という存在を感知できるのは、日が長くない季節だけだと思う。理由はよく分からないのだが。夕方というものは、存在するのだろうか。帰りに、マックでミルキーのマックシェイクと、赤辛てりやきを買った。ミルキーの味が妙に癖になっていて、もしかすると私はこの味が好きなのかもしれない。てりやきの方は、味の強いてりやきという感じだった。新しさはそんなにない。

乗り切れずに落ちる

頭が重かったので、昼前から14時くらいまで横になっていた。寝られればちょっと楽だったのだが、眠りに落ちるほどではなかった。朝飯にグラノーラを食べているとはいえ、あれっきりの繊維では大して変わらず、やはり、あのファイバーの塊みたいな玄米を食べなければ満足に排便もできない身体になっている。昨日の夜食べた、唐辛子のオイル漬けのせいだと思うが、血便が出た。それっきりだったので、そこまで重症ではないが、それにしても、血が出るという現象それ自体が、日常の中でハッとする瞬間を突き出してくる。雨が降るんだか降らないんだか、どっちつかずのアンビバレントで振り子のようにしていて、午後になると晴れ間が見えたので、買い物に行った。最寄りの文具店は閉まっていたので、まずはそっちではない方。文具店とか、精肉店とか、鮮魚店とか、単カテゴリの店はほとんど見なくなってしまった。時に、都会ではない方に行くと、肉屋がコロッケやメンチカツを売っていて、あぁ、ああいうのいいなあと思う。別によくないのかもしれないけれど。ユニボールシグノの0.38mmレフィルを3本買った。インクがもうなかった。新品のガワ付きで買っても130円くらいだったはずだが、レフィルは88円くらい。まだ使える外殻を捨てるのももったいないので、延々とかつての外身を利用しているが、こいつはいつまで遡るのだろう。もしかすると高校生の時分くらいまでかもしれない。「永遠と」というのを見るが、あれは「延々と」の誤りではないかとずっと思っている。ずっとそう思っている。大事な事なので二回言ってしまった。なぜかチャーハンと餃子が食べたい欲求が木曜日くらいからあって、道中に餃子の王将があったのでふらっと入った。これと、大阪王将と、どう呼び分ければいいのか全然分からない。席に案内してくれた人が、後で分かったのが店長だったけれども、まるで機械のように、「いらっしゃいませにんにく激増し餃子がおすすめです青森県産にんにくを二倍以上使用しております」と来る人来る人に言っていた。句読点はどこにもない。これが流れていくものだと思ってよい。にんにくが好きなので、それと豚カルビチャーハンを頼んだ。思ったよりも高かった。あと、来るのも遅かった。激増し餃子は、なんかすごかった。私はほぼ毎日にんにくを摂食しているから鈍っているけれど、普段食べない人が食ったらガーンと来るのではないか。嫌な事があった日にあれを食ったら、なんでもどうでもよくなりそうな気がする。

窓に石

見て見ぬ振りを続けていたが、さすがに机周りの本とか本とか紙束とかが看過できない物量になってきた。あっちを探すためにこっちへ移動し、こっちを探すためにあっちへ移動し、くるくる回して誤魔化してきたが、根本的な物質総体は何も変わっていないのだから、ちまちま増え続ければいつかは瓦解と崩壊が目に見えているのである。昨日、想像より三回りくらいでかい荷物が届いたため、家の可処分床面積が一気に圧迫されてしまった。押入れの前に積んでそのままにしている2×2のダンボールたち、あれをどうにかして床から排斥し、押入れの中を整理して廊下のカラーボックスなどを組み込んで一望の下に整理しなければ、移動のたびいちいち飛び越えたり踏み越えたりする強制が発生してしまう。家の中くらいでは、些細なストレスも無しに生活したいので、現今のプラグマ解消は喫緊の問題である。これくらいまで差し迫らなければ部屋を片付けないのもどうかと思うが。や、というか、ダンボールの中身はやっぱり本が大多数だった事を思い出してなおの事憂鬱な気持ちになった。そうか、あれの中身は確かあれとかあれとかあれだな……。押入れの中に書庫を築くとして、カラーボックスがあと3つくらいは必要になるかもしれない。押入れがでかくて助かったような、助からなかったような。正直、今使っている机も買い換えたくはある。基盤から一段浮いたところにプチシェルフが立ち上がる仕様は、悪くはないのだがメリットがなさすぎる。基盤と被った面積がデッドスペースになるため、あまり効率的ではなかったな。買った時は、店頭に在庫がなくて、わざわざ注文したくらいだったのだけど。すると、新しい机を買ったとて、今の部屋入り口の状態では搬入が厳しいわけで、すると本やら何やらの片付けは必須事項になるのか。むむむ。最上層部はまだ目に見えるが、下の方は何がどうなっているのかさっぱり分からない。明日か明後日か、一気にやる必要があるな。家の快適度を保証するためにも。また、しばらく曇りが続くらしい。降水確率40%って、何も言っていないのと同じだ。キッチン周りのスペースについても、もういらない、絶対不要なものが堆積していたりするので、今週末は家内大掃除になるかもしれない。掃除は、片手間とかついでにできるものではなく、それ自体でコマンド、1バトル消費するようなウェイトのものらしいので、そこを重々承知した上で、仕方がねえなあと重い腰が上がるのか果たして。

ブルーフィルム

明日は一日雨が降っているらしい。教えてくれた人がそう言っていた。こういう書き方をすると、教えてくれた人なのだからそれはそうだろうと思ったが、言っていた以外の選択肢として手紙に書いてあった私の身体にそう刺青を残した五色米でそのようなメッセージを残したなどの可能性がなくはないので、一見冗長な書き方に見えるが、適当(いい加減という意味ではない)な書き方だと判断して問題なさそうである。最後まで書き方が長ったらしいったらなくて、すぱっと物を言えばいいのに、何をぬるぬると言い募る事があるのか、明確に示していただきたく、いけねえ、また金魚のフンみたいに、マフラーみたいなでかい環ができちまった。玄米を一時的に食わなくなったので、便の交通事情が非常によろしくなくなった。夏場盆の高速道路ほどではないけれど、もったりして、一日一善、一日一便とはいかなくなった。一日一善とは、そもそもその人なりの「善」とは何なりやという自問自答のプロセスを経て初めて着手できる行動ではないかと思っているのだが、いかがであろうか。一時的にという事は、そのうち乃至近時、玄米を再入手する心積もりがあるというに他ならないわけであるが、スーパーから買って帰ると、ただの3kgでも担ぐと嫌になってしまうので、これはやはり、以前を思い返し、地元の農家に連絡をつけてもらって直接買い入れるのがよいのであろう。ではそれには連絡をする事が必要になるわけで、困った事に、ここが一番めんどくさくて着手するのに時間がかかるところなのである。おいおいやっていきたい。いや、そんな悠長な事は言っていられない、今、たちどころの食料をちらと台所に確認するだけでも、ダブルソフト1枚しかないではないか。こういう時、パスタを換算してはいけない。む、一応、グラノーラがあるが、あれは牛乳を注いで食ってこそのもので、すると明後日あたりに買い出しにいかねばならないようである。一人で考えて行動に移せば良い事を、ずらずらと書き述べてあまつさえ日記にしようとは、私は何を考えているのか私にも分からん。その時考えている事が残るだけだから、今はこういう事を考えているのである。どっかで見たような、初めて見たような気もするが、「できちゃった婚」という言葉は、どうやら日本語の中で肩身が狭くなり文字通りの死後になりつつあるらしく、そういう場面で使うにベターであるのは「授かり婚」になったようだ。このあまりにもポジティブなパラフレーズに、ちょっとくらっとした。

片手間がいっぱい

晴れていた。一日晴れていたと思う。夕方くらいに意識がダウンしたので、そこでちょっと曇ったりもしたかもしれないが、よく晴れていた。風通しが少しでも悪いと、暑いなと思うようになったので、日本の夏のよくないところが着々と近付いてきているのが分かる。湿気がなければよいのだが、湿気があるのでしょうがない。洗濯機の中に溜まっているそれらと、シーツ分のボリュームを勘案し、今日ならいけると踏み切った。洗った。ハンドクリームが染みて黄色くなっているところは、見目はよくないが改善のしようもないので据え置きである。いつものように、槽内がはりはりになると、すすぎと脱水を反復横跳びして行程が進まなくなった。今日、初めて確認したのだが、そのバグというか、挙動の最中は、残り時間がずっと18分になっている。水を注いでは回して排水し、最初に戻り、をずっとやっている。一度電源を落として脱水だけ実行するようにしてやらねばならん。うっかり、家を出る時間を過ぎそうになった。放っておいても正常には動かないので、さっさと命令してしまうのがよい。朝はグラノーラを食べた。グラノーラという言葉が、果たしてそれで一語なのか複合語なのか分からない。一粒、てんかすみたいなやつを落としたので拾うと、そのそばに似たような何かが落ちていた。手元が狂ったのは一粒だけではなかったかと思って拾おうとしたが、よく見たのか、それとも脳が瞬時にそう判別したのか、どちらが先か分からないのだけど、えのきの石搗きのちっこいあれ、あれが乾いたものだった。えのきにグラノーラを見出した事は、人生の中で一回もなかったと思うが、特殊な条件が揃えば、そうなる事もあるらしい。銀行口座の金を移し、今月は比較的何も考えなくてもよさそうだった。昼飯時とか、月末に銀行なり出張所に行くと、だいたい並んでいる。あれは人生の時間を無駄にする行為が数多ある中のひとつであって、ランチを食うためにそれほど喫緊に金を下ろさねばならぬ所持金でいるのは、なかなか肝が太い。たまに、財布に500円くらいしか入っていなかったりするので、人の事を言えた口でもないか。頭が明瞭な日ではなかった。寝付きが悪かったからかもしれん。夏らしさがにょきっと顔を出してから、窓を開けて寝るようになったためか、冷え込みが押し付ける朝4時くらいになると、うっすら目が覚めるようになった。また寝るのだが。朝早く起きてもやる事がないわけではないのだが、頭が夜型なのかね。

ぎしぎし軋む布団

道を歩きながら、斜め上の方とか、上の方とか、ぽ〜っとあらぬ方を見ながら、どうでもいい事ばかり考えていた。頭を空っぽにすると、というか現象の記述的には頭が空っぽになると、それだけで他にどう言いようもない、完結した命題が浮かんでくる。本屋に寄って、見るべきところがあったので見て、さて行くかとエスカレーターに乗っていると、向かいの、反対側の車線(車線?)にいる人が、『立ち読みしなさい』というタイトルの本を買うためにレジに足を運んでいた。いや、そんなタイトルの本を買うなら、まずその本を立ち読みしなさいよと思った。立ち読みはよくないが。そのタイトルに何か思うところがあって買うのであれば、まずその心意気から盗むべきではないのか。知らん、全く知らん、人生でもう一度擦れ違う事があるだろうかという人に、そんな事を思った。手の平にあるそのナンセンスに気付かない時点で食い物にされとるようなもんじゃないかね。なあ。それから、割と核心的な話をされて、ちょうど二人きりだったので、私としてはできるだけ正直に話そうとしたつもりだったのだが、それでもやっぱり、核心そのものを、味噌をとって汁に溶かすみたいにはできなくて、ギリギリのところで、やっぱやめた、つって、身を躱しているような感覚があった。肌は擦れているのだが、ぶつかり損ねている、みたいな。本心の源泉から汲み出した水、の水蒸気くらいを相手に向けられた時点で、私としてはだいぶまともにやった方だと思うのだが、しかし、思い返すに、あんな事言われてもあっちとしてはしょうがないわなぁ、という返答であって、なんやけったいなやっちゃなあ。人の目を見て話しているからと言って、じゃあそれが対話たり得ているのかというと、そうでもないのではないか。必要条件ではないのではないか。告解とか、まさにそうだろう。自白剤を打って、私が話をしたら、一体何を言うのだろうな。一冊しか見つからなかったが、一冊見つかった事をまずは喜ぶべきであって、野坂昭如エロ事師たち』を読んでいる。事の部分を何と読んだればいいのか分からない。これが、めっぽう面白く、すごい面白い。形容詞はひとつしかいらんのではないか。文章が文章の形を成していないのだが、それは現代のSNSでたまに見る、言語として破綻している救いようのないそれではなくて、内面の口述的描写として素晴らしいのびやかさを持っている。あと、題材的にも面白い。エロを生業にする男たちの話なのだが、開高健のそういうのとか、ああいう血の通った生らしさがある。関西弁というのは、こういう時にいきいきしますね。

存在を抜いたコーラ

天気予報を見ると、曇りのち雨だったので、洗濯物を室内に干した。家を出ると、天気予報を疑ぐるくらいの晴れだった。ここから曇りになる事はあっても、雨になる事はよっぽどでなければなかろうと思われた。若干後悔し、後悔し続け、夕方になっても、一瞬空が鉛色になっただけであとは晴れ渡っていたから後悔は止まるところを知らず、家に帰ってシャワーを浴びているところでやっと、金属がぶつかり合うような音がして、通り雨だか本足の雨だかがぶちまけられているのを察した。雨が降り出す音を聞くたびに、私は、これはセックスのリズムではないかと思って聞いている。特に、通り雨が降り出し、フェードアウトするまでのそれは、まさにそれなんではないかと思いながら聞いているんである。すごいスピードでピストンしとるな、ゆるくなったな、また激しくなったな、あぁ、ゆるくなってそのまんまや、出すもん出して終わったんやなと、頭の中で変換できている。できたところで胸を張るような芸当ではなく、張るとしても下のテントくらいだろうが、そういう事をしている。雨が降る中、ぼーっとして、変な事考えとるやつおるなあと思ったら、それは私かもしれない。ここ数日の自己省察から発見された事だが、私の中の関西弁というのは、筒井康隆開高健の文章に出てくるそれをプロトタイプとしてイメージが形成されている。中学校くらいから、すでにして言語態が変容をきたし、地元の方言もなんも入り乱れた、正体不明のゲテモノを扱っていた記憶があるが、近々数年来の内的対話に登場する関西弁は、どうやらというかどうやらなくてもというか出典がそれらしい。なので、脳内の言語セクションから漏水している関西弁については、ナウいものである保証が全くない。日常生活の中で、関西弁の巧拙を競ったり評価されたりする機会は別にないのでいいのだが。昨日は、天気が悪かったせいか、起きるのも遅かったしどっかり昼寝もしたので夜にうまく寝付けず、布団で横になりながら、両手を頭の後ろで組んで考え事っぽいポーズを取っているらしいポーズをしてみたり(腕がだるいのですぐやめた)、思いついた、端切れのようなものをノートに頑張ってボールペンで書いたりしていた。明日は、それのうち一つを転写する事で文字数を稼ぎたいと思っている。考えている事を出力するには、はじめっからタイプしてもいいのだけど、ノートにがりがりボールペンで書いている時の方が、先へ先へと流れている。同時に、後から読めるように可読性を保った時で走っているのだから、瞬間的に見れば結構頑張っているのかもな。

金の握らせ方

時間をおいて考えると、井上ひさし『モッキンポット師の後始末』は、とてもいい本だった。読んだらたちまち、その筋を9割くらい忘れる私が、まだだいたいを覚えている。これはすごい事なのではないか。また、これに関しては、丸まま引き写したくなるような一節があとがき(正確には「あとがきにかえて」だった)にあり、これが心にまだぐわんぐわんしている。一部だけを引いてもこれを損なうものであるし、滋味ある文章を残しておくのに気兼ねは必要ないだろうから、以下に出色の部分を抜き出しておく。

「各時代の種族、階級、国家、団体の思潮を体現する象徴的な人格が英雄であり、それらの団体の危機をひとりの英雄が救済するという願望は、団体の成員ひとりひとりが危機の克服に疲れたときにあらわれる傾向がある、といわれる。つまり人間がすべてに疲労し尽くしたときヒーローがあらわれるのだ。「ヒロー」と「ヒーロー」とで語呂合わせをしているわけでは決してないが、英雄的な楽天家であり、英雄的な勇敢さを誇る日本人にもすこし疲労が見えてきたように思われる。

 疲れた日本人の歴史的危機をいったい誰が救済するというのか、それは皆目わからぬが、そいつはたぶん独裁者としてあらわれるはずだ。その英雄的独裁者のあらわれる時をすこしでも先へのばすためにも、私はドジで間抜けな主人公を次から次へとつくり出して行かなくてはならない。それらの主人公たちが、疲れた人たちの疲労をやわらげるのに、ほんのすこしでも役に立てば、これこそ作者冥利につきる。」(昭和47.10.8付読売新聞掲載)

題材やキャラクターがどんなにちゃらんぽらんしていても、作品の後ろに敷いた理念はていねいで芯の通ったものであるのが井上ひさしのすごいところであるが、このあとがき代理から感じる、社会の気配の把握と、言葉の選び方については敵わない。中学の時の国語の先生が、井上ひさしを評価していたが、あの時つられていくらかでも文庫を読み漁っておけばよかったと思うところがある。

じゃがいもを買った。じゃがいもは使いづらい。米やパンの栄養群と同じだし、じゃがいもに強く見い出されるようなチャームを、私はまだ発見できていない。出ればうまいしおいしいが、自分では食べない。なぜだろう。水で洗って、包丁で皮を剥いて、水にさらしていると、下ごしらえがめんどくさいからではないかと考えた。ピーラーを買えば、多少まともにはなるが。豚バラと煮込んでみたが、うまく味が染みなかった。煮物はいまだによく分からん。

ポテトサラダがうたってる

豚バラ肉が食いたいなと思って豚バラ肉を買い、豚バラ肉を食って豚バラ肉うまいなとは思ったが、脂:肉が3:7を超えるとしんどいので、豚バラを買わない方がいいのではないかという気がする。しかし、ロースは、なんか、ピンとこないところもあるのである。どっちにもあるが。ニンニクとかぺちぺちして、強そうな味付けにすればいいか。いいのかそれで。なんか、今日は書く事がないな。あんまり、無駄な考えとか空想を巡らせる時間がなかったからな。……ないな。なんか読んだ気がしたんだけど、別に何も読んでないし。筒井康隆『世界はゴ冗談』が文庫になっていた。単行本を持っているのは間違い無いのだけど、引っ越しの時にダンボールに突っ込んで以降、その時点での蔵書は取り出すのもめんどくさいし厳密には何があるか分からないしで、入っているのはダンボールだがブラックボックスと化している。すごくざっぱな品目リストは作ったのだが、Macで読むと文字化けして分からない。生徒会役員共とか、発掘したくはあるのだが。今日はないな。ないわ。明日の予定がまだ未定だし、寝る準備しよ。

チキンステーキ

雨が降っていた。それはもう。傘を差しても、その防護範囲からちょっとでも外れると、大粒の水が冷たかった。シーツを干したいという欲が出てきたのだが、洗濯物がさほど溜まっていない状態でないとできないので、次の洗濯以降でなければ不可能になってしまった。窓を開けておくと寝るにはちょうどいいのだが、雨の音で起きる事になるのがよくなかった。雨が降る分には、自然現象だし仕方がないのだが、こうも固まって集中的に降らいでもよかろうよと思う。一年のうちに、薄く、やや均一くらいで、パーっと散らしてほしい。しかし、これは、夏休みの宿題みたいなものなのかもしれないな。夏休み全体に渡って、タスクを等分し、宿題を日々終わらせていくのか、夏休み初期にまとめて宿題を片付けてしまい、あとはのほほんと遊び暮らすのか。嫌な事は先にやってしまうタイプかどうか、と言ってもいい。そう考えると、このシーズンを耐え忍べば、基本的には平穏無事なお洗濯ライフが待っているのだから、受忍した方がよいような気もしてきた。しかし、金は薄く満遍なく出ていくよりも、一気に出て行った方が喪失感が強いのだ。人間の心とはなんと取り扱いの面倒な事か! 私の周りには、取り扱い説明書を読まない人が多い。帰りに、髪を切った。平日の早くだったし、絶対、ぜ〜ったい外出したくないような冷たい雨がびちゃびちゃだったので、入ったらすぐに切ってもらえた。そもそも待っている人がいなかった。前回くらいから、やっと、頭頂部の方が毛量多いのでしっかり梳いてくださいと言えるようになった。そこだけもりっとするので、是が非であっても非が是であっても減量していただきたい。シャワーを浴びて時間の経たないうちに寝ると(家には櫛もドライヤーもない)、頭頂部がウィリーみたいになっている。風呂上がりに髪を拭く時、単純に、その部分だけ作業量が増えて邪魔である。初めて当たる人だったが、頭を洗うのが上手かった。頭皮を洗浄される感じがすごかった。あの、細い触覚みたいなのがにょきにょきしている頭を洗うやつ、欲しいと思っているが探した事はない。自分でやるとめんどくさそうである。本屋に寄った。野坂昭如の文庫は、ひとつしか見つからなかったし、短編集的なやつでもなかった。まあ、どこかで出会う事もあるだろう。多分。野村萬斎狂言サイボーグというエッセイ集があって、タイトルだけで買ってしまった。すげえタイトルだ。私には絶対思いつかない。帯を読むと、ちょっとだけ納得した。

not abated

自分が行くなら、天国と地獄どっちだろうかと考えて、普段考えているような事が参照されるなら間違いなく地獄だろうが、頭の中を見られるのなら、よほどの聖人でもない限りはみんながみんな地獄行きになるんじゃないかなと思えて、では天国かと言うと、天国と地獄のちょうど真ん中、中点を善悪のゼロ地点とした時、悪のド反対にある、ザ・善みたいな場所に自分がふさわしいのかというと、いや〜、いやいやいや〜〜〜、と思ってしまうので、どこに行くでもなく、草葉の蔭で窃視の欲求を満たしたりしているのではないかな? 朝飯として食うべきものが、米しかなくて、目玉焼きに添えるべきものもなくなって、どうしようかと立ち往生した。困った時はニンニクを使え、が私の教条のひとつであるから、ニンニクをふたかけらくらい刻んで、料理酒と酒、みりんをまぜまぜした、指示形容が難しい何かを作って、それをかけた。まずいとか、そういうのではなかったのだが、うまいとか、そういうのでもなかった。生のニンニクがばちばちして、好き勝手暴れて終わりだった。加熱したニンニクは好きだが、生はちょっときついなという事を再発見した。この信仰、ないし盲信が何時頃に端を発するのか分からないのだが、ニンニクを食っていれば大丈夫という思い、あるいは思い込みがあって、ずっと食っていて、事実体調を崩していない。気持ちが悪かったり、体調がすぐれない時はあるが、崩すまでは至らない。すごい食べ物である。ゴミの処理をミスると、ゴミ箱から絶えずすごい匂いがするので、そこもすごい食べ物である。ニンニクを切った手を、包丁に伝わせた水で洗うと匂いが取れるというやつを見て、試してみたら本当にそうだったのでそれもすごい。あれ、原理がさっぱり分からんが、応用として、包丁を伝わせた水でうがいをしたら、悪し様に言われるニンニクの匂いについて調停できたりするのだろうか。読む本がなくなったので(あと10冊くらい積んであるが、あれは一気に読まなければ味わいが損なわれそうなのでしばらく読めない)、明日、スーパーに寄るついでに本屋も見ていくつもりである。野坂昭如の本を、文庫でいくつか、見つけたいと思っている。「アメリカひじき」という短編が入っているやつが、見つかれば嬉しい。そういえば、そもそも私に教えてくれた人がいるのだから、その人に聞けば良さそうなものだが、もうしばらく物理的に会う事はなさそうなので、運が許せばだな。

乾パン色のくるみ

夜になったというのに、暑気がむちむちとしてまとわりついてくる。クーラーまではいかないが、扇風機くらいならあってもよい。今週の予報をどこかでちらちら聞いた気がするが、今日はうんざりするほどの晴れだった。今日でうんざりしていたら、7月あたりには、シーズン終わりに腐ってくたれた向日葵みたいになるのではないかと思うが、快適でないといったら快適でないのである。ちょっとしたタッパーくらいあるコチュジャンが、なくなった。いつなくなるんだろうなと思っていたが、思っていたより早くなくなったとも言えるし、そもそもいつ買ってきたのか全く思い出せないので、事実として、ただなくなったとしか言えないとも言える。おそらく、私の典型的行動パターンから逆算すると、全体の割合を10として、まともに料理に使った分が2、目玉焼きと食った分が7、皿に残って廃棄された分が1、くらいだと思う。ほとんどを目玉焼きの調味料として食っている。これは間違いがない。騙されたと思って、一度試してみればよろしいが、意外と悪くない。まあ、ちょっと辛さ・甘さの混じったしょっぱいが特質であるのだから、目玉焼きと喧嘩する要素などないのだが。苦味とかは相性が悪いのかな。考えたところで詮無く意味無いところだけれども。今日は、特に何をするでもなかった。ああ、かぐや様の22巻を買って読んだ。一番いいなと思ったのがカバー裏のあれで、真摯な人だなあという感じだった。真面目であったり、期日を守ったりなんたりして、信頼があるというのは、ちょっと他ではどうしようもない財産である。信頼は、築くのには長い時間がかかるが、失うのはあっという間と言って、まさにその通りであるから、社会の中でもにょもにょするからには、常に華奢なガラス製品でも背負っているというか、拵えているようなものなのかもしれない。見た光景で、忘れられないのがあって、そのために、誰かと2人で、店にものを食いに行ったと想像していただきたい。あなたが、手にアルコール消毒液をややびちゃびちゃくらいに取って、同伴者と、平手で表、裏と打ち付ける、ハイタッチみたいなもんをしてアルコールの用足れりとする。こういう事をしている人がいて、それは、アルコール消毒液を用いた適切な消毒なのか????? と私は思った。実地では、これが2組によって行われていて、私の脳味噌はさらにバグった。他者との接触を減らすのが、手段の一であると思っていたのだが、なんというのか、こう。