他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

鯰ストリップショー

今日は朝から、さっきシャワーを浴びるまで、作業詰めであったり、疲れてしばしの虚無であったり、虚空の模様を眺めたりしていたため、人生で必要でないものについてだけ書くが、バリカンというのは、フランスの製造メーカーBariquen et Marre(綴りは、疲れで正確なところは覚えていないがたしかこれで、あえてカタカナで音記すれば「バリカン・エ・マル」)から、芝居で演者が顔に塗るドーランは、ドイツの製造メーカーDohranから来ているらしい。全く知らなかった事である。あとは、大概下品で性根を疑うような事ばかり考えていた。あぁ、井上ひさし『モッキンポット師の後始末』を読み終わったのだが、これは面白かった。面白かった以外に、言葉が必要なのだろうかと思い始めている。あと、wie es istが欲しいのであって、そこにふたつめ以上の主語が入ってきてはいけないのだと思っているらしいと思われる。この焦りと、無化のゼロ的壺について、指示する言葉をまだ持たぬ。

泡で見えなくするよ

頭が痛いのであまり書く事はありませんが。何年かぶりにカルピスソーダを飲んだ。カルピスに炭酸が入っている! と思ったが、カルピスを感じるためには炭酸が邪魔なので、普通の、プレーンなカルピスを飲んだ方がいい。あと、私の中で、マックには気軽にほいほい行くが、バーガーキングだけはなかなか行かないのはなぜだろうという疑問があって、これを解決する必要があるのではないかと考えている。最寄り店が、だいたい中身冷たいという不思議事案勃発現場であるからかもしれないが。布団の中で、体温に熱されて立ち昇った匂いが、汗と体臭という感じだった。あ、そうだ、田山花袋『一兵卒の銃殺』を読んだのだが、これはよかった。ただ、いいですねとしか言えない、ある一方向へと人間が引きずられて行く話だった。

汗の結晶の星座

午前中の用事で頭を使ったので、すでに半日が過ぎる頃には疲れていた。物の例えであるが、峻険な山を自ら登りながらも、同伴者をガイドできる人はすごいなと思う。自分が落ちないようにしつつ、不慣れな後続に絶えず意識を配らなければならないわけである。国家予算くらいの意識があったとて、足りるのかどうか不安になる。それでも、導かなければ到達できないのだから、先達は尊敬すべきである。例えで話が終わるのは私のよくない癖のひとつであるが、これは染み付いたものなのでしょうがない。イカの塩辛がしょっぱいんですけど! と文句を言っているようなものである。イカの塩辛、もう何年も食ってないが。買い物に行って、そのついでに髪を切ろうかと考えていた。前髪が視界に降りてきたのもあるが、頭頂部やや左寄りの辺りが、とても可愛らしくなくもりもりしてきたのが大きい。その部分だけ、別のパーツとして摑み取れる。大陸のプレートが、それだけ独立しているかのようである。髪がある程度伸びると、少々の寝癖ならば時間経過とともに重力に従って矯正されるのだが(私の髪質がそうなのであって、一般にそうかは分からない)、切ると寝癖の処理がシビアになるから面倒である。特に現在は、一週間丸々、洗濯物を外に干せておらず、余分なタオル一枚だって洗い物を増やしたくないという気持ちが強い。四人くらい待っていたので、めんどくさくなって本日付の散髪はやめた。部屋干ししたチノパンが、魚市場や明太子みたいな匂いがして、うへー、だから部屋干しってイヤなのよね(魔女の宅急便でニシンのパイを送られた孫? がこんなリアクションをしていたように記憶している)と思ったところ、どうやら、ゴミ箱に遺棄された明太子パックのラップが臭気を発しているらしい。明太子の匂いは、それ単体では、安物でもあるし、心地よいものとは言えない感じで、ちょっと閉口している。無駄にでかいポリ袋を買ってきてしまったので、次のポイタイミングはしばらく先である。買いたかったのは、アルミのバット(打つ方ではなく粉を打ったりする方)とそこそこサイズのジップロックタッパだった。前者はなんとなく、後者は実用的に欲しかった。売り場をちょろちょろして、左利き用の木ベラを見つけて(木ではなく竹だった)、なんだか嬉しくなってそれも買った。もしかすると、今使っている菜箸は7年モノくらいになるのかもしれない。あと、包丁シャープナーも買った。包丁そのものを新調しようかと思ったが、まだいいかと思って日和ったわけである。バット、何に使おうかね。

等倍レンズ

手羽元を食べた。間違えた。手羽先だった。どっち!? と咄嗟に聞かれて、過たず答えられる人がいたらすごいと思う。私はよく間違うけれども、そもそも人生で手羽先か手羽元か、which is more importantな場面があるかと言うと、さしてない気もする。味噌汁は赤味噌しか飲まん、とか、ソースはブルドッグしか認めん、とか、そのような狭量さの元では、この命題も輝くところあるかもしれないけれど。私は、頭の中では、どのようにこのふたつを弁別しているのだろうか。手羽元。これはずんぐりした、アダルトグッズみたいな方である。最低だな。でも、なんかこう、肉がみっしり張り付いて、皮がぺったり添っているのは、どこか艶かしさのある様子だと思う。改めて見つめ直してみると、手羽元ってエッチな造形をしているのかもしれないな。人の妄言と自分の思想を分けて考える能力というのが、人間には必要なものですよ。手羽元は、細い方を握って戦えそうな気がする、武器としての認識が強い。武器じゃないが。サイズとしてはいささか頼りないが、500%拡大くらいすれば、いっぱしの棍棒くらいにはなりそうである。手羽元は、ブーメランだと思っている。投げたら返ってくるのではないかと、心のどこかで真剣に信じている自分がいる。ほぼ間違いなく、返ってくる事はなく、湿った落下音が聞こえるだけだろう。にしても、あの形に、帰還を願ってやまないのだ。とんだ時間の浪費をしてしまった。手羽元と手羽先の形態的相違を述べればよいだけであったのに。ま、しかし、道草を食って大きくなる牛が一頭くらいいても構わないだろう。私の干支はなんだっけ? 干支に何かがくっついた、ひのえのみと? みたいなやつとかが出てくるあれも、たまに詳しい人が教えてくれるのだが、そのたびに綺麗さっぱり忘れている。頭の中に、何やら高性能な水洗便所施設でもあるのかもしれない。手羽先を食った。一昨日の一回目が煮物で、今日の二回目が、和風パスタ的なものに分類されるであろうものだった。これらの経験を通じて分かった事は、ダシを取った後の昆布は、煮物にするとおいしく食べられるが、何も考えずパスタに放り込んでも、ただ歯ごたえが堅強な板状の物体であるという事である。昔から、鍋のダシにされた昆布も余さず食べて育ったので、無駄にはできぬ。煮物にするとうまいのは事実であるし。

 

https://www.asahi.com/articles/ASP5N6KWMP5NPTIL00R.html

大阪のある校長が市長に向けて提出した「提言」であるという。こういう人の元で教えられ育ったなら、それは幸運な事だろうと思った。どこを読んでも、この人は尺度を間違えない価値観を持っているのだなと尊敬の念が湧くが、私はこの一文にその絶頂を見た。

『「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。』

角がとれない

ネギをそこそこの時間水に晒しているのだが、辛味が抜ける気配が一向にない。20分30分ぽっちではどうにもならんという事か。それとも、縦の繊維に沿った切り方ではなくて、横に、繊維をぶちぶちぶった切る方向性でやったから、抜けにくいのかしら。食べ物というのは、科学的に取り扱うだけの情報量があるものだから、その辺なんかあるのかもしれない。砂糖水につけるのがいいとか、料理酒につけとくと抜けが早いし風味が出るとか。この辺は私の想像の域を出ないので、実際そうかは知らないけれど。一人でしか食わんのに、長ネギ3本を買うのも、束売りなのでそれで買わなければしょうがないにしても、多過ぎる気はするわな。じゃがいもを水にさらしてデンプンを抜いていると(あれをする意味を実は知らないのだが)、水の表面にデンプンが膜を作って、あ、そろそろ水を捨ててもいいのかな〜と察する事ができる。のだが、ネギは、そういうのがなくて、ひとつつまんで、あ、辛っ、と実体験するしか判別の仕方がない。何かあるのかな。今、ネギの辛味について、人生で一番考えている瞬間かもしれない。手持ちのタッパーや皿なんかでは、大量の食べ物を処理する時に、容量の物足りなさを感じるようになってきたから、飲食店で使われているアルミのバットとか、でかいジップロックタッパとか、その辺が欲しくなってきた。本を置く場所は既になくなって久しいが、台所を充実させる余裕は、まだ残っている。ボウルと泡立て器もほしいが、これはモノとして欲しいだけで、何か作りたいものがあって、その途上に存在するから欲しいというのではない。ボウルはまだしも、泡立て器は使いどころが想像できない。ホットケーキミックスでホットケーキを作る時とかだろうか。考えると、ホットケーキ食べたいなという気持ちになるが、あれも、一人だと粉の量を少なからず持て余すんだな。ちょっと甘い味がついていた記憶があるから、料理の衣にするには方向性があり過ぎるか? チヂミとか、あれを構成している元の粉は何なんだろう。台所に粉を置いていないので、あの辺は全く想像力が涵養されていない。それこそ、バットがあれば、粉系の取り回しは抜群によくなるな。土曜日、キッチン用品を見に行こうか。人間としての中身が漏れ出す時期には、命を繋ぐための、食うという行為にしか明確なエネルギーを注ぐ事ができない。これができなくなると、よくなくてまずいらしいので、私が自死に向かわない命綱は、食い意地という事になるのかな。

それであることをやめて紫色になる

ほとんど一日雨が降っていた。洗濯物が干したいが、干せなかった。まだ天気が悪いんだったか。そのせいで調子が上がらず、半日ぐらい、殻をなくしたサナギの中身みたいに、とろとろして仕方がなかった。多分、躁鬱の下向きの方向へずぶずぶと行く、そのサイクルらしく、打てど打てど響く気配がない。こういう時の方が、頭の中で元気な部分もあるのだが、不健全な漬物の仕方だと思うので、そこは体質というか精神質が変わってほしい。まだ、物を食う時はなんとかなっているので、worst of worstではないのだろうけれど(theはつけないといかんのかな)、だからと言って楽なわけでもないし楽しいわけではない。移動中に読む本を減らしたってしようがないので、たくさん買ってきたものの、読む本がない、読む本がないなあと思って、この前、片付けの合間に失敬してきた本をちらと見ると、これは今のような体たらくでも読めそうだった。土屋賢二『哲学者かく笑えり』。著者紹介からふざけているので、しかしてステップを全く外しているのでもないから、これはバランス感覚のよい人だろうと推察される。この人は、一体どこで名前を覚えたのか、おぼろげな記憶が正しければ、森博嗣がエッセイの中で面白いと評した数少ない文学系の人だったはずで、ぽろっと出てきて、ア、これはもしやあの人かと回路が繋がって持って帰ってきたのだ。今しも、文庫本を積んでいる山のひとつが崩れそうである。8割くらい傾いていて、何かのきっかけを与えるとざらざらとしてしまうだろう。今日はやった事も書くような事もないから、もういいか? 煮物にニンニクと生姜を同時に入れてみたら、生姜はちょっと余計だった。あの風味と、酢の酸味が馴染んでいるとは言い難かった。ニンニクは変わらずうまかったが、これは私の舌がどうしようもないほど方向づけが済んでしまっているという話なのかもしれず。

ごま油の匂い

昨日、疲れていたくせに魚の死体についてそこそこの文字数を費やしたので忘れていたが、人生で二回目の朝マックを食っている。一回目はイギリスのマックで食った、パンケーキ3、4枚とソーセージ1枚、底が深いアホみたいなメープルシロップがついたやつ。名前は一文字も覚えていない。マフィンが好きなので、朝マックのメニューはかなり魅力的ではある。マックグリドルと、おぼろげな記憶では、エッグマックマフィンを食べた。普段食べるハンバーガーよりもよほど熱々で、朝の方が出来たて感がものすごかった。エッグマックマフィンの方は、あんまり特筆するようなところはなかったが、初回の記憶が補正を掛けているのか、マックグリドルはすごかった。別掛けではなく、マフィンの色が茶色ばむくらいシロップがじたじたになっていて、中の肉が自分では恐ろしくて絶対にここまでやらないというくらいにしょっぱかった。甘さとしょっぱさが口の中でぐるぐるし、そして別に融和する事なく、二項対立がラインダンスを踊りながら腹の底へ消えていった。あと、コーヒーはやっぱりそれほどおいしくなかったので、次は牛乳でもつける事にする。この事実を知ったのは数週間前だけれども、衝撃的でずっと覚えているものがある。開高健の食い物エッセイを読んでいると、よく「三杯酢」というものが出てくる。私はこれについて全くの無知であり、酢が三杯と、あと何か調味料が入っていて、酢の割合が一番多いから三杯酢という名前なのだろうなとぼんやり考えていた。人と話している時、この三杯酢の話題になり、そういえば二杯酢というものもあるなと思い出し、一緒に調べてみると、三杯酢というのは、醤油、みりん、酢を等量ずつ混ぜたものであり、つまり1+1+1=3、3杯入っているというわけで、それらの調味料を酢が代表して「三杯酢」の名で呼ばれているらしかった。諸説あった気がするが、まあこんなもんだろう。二杯酢は一体どの調味料が抜けるのかという謎当てもやり、私の予想は的を外しておらず、味に一番影響のなさそうなみりんが抜けるという事であった。この話をした前日くらいに醤油をちょうど切らしており、今日、ようやっと買ってきた。ので、一体何をそれで食べるのがよいのか分からないけれども、三杯酢を実食する環境は整った。エコバッグの下の方で、明太子のパックに酢の瓶がのしかかり、中身がぶちゃっとはみ出し、汁をしとどに垂らし、ズボンはおろか下着を越して私の尻まで液がぬたぬたしていた。尻から明太子の匂いがしたのは人生で初めてである。

 

落ちている部位

今日は、朝から働き詰めで疲れたので、移動中の車内から見えた、印象的な風景についてスケッチを書き残しておく。踏切を待ちながら、横を見ていた。私は免許を持っていないので、後部座席で丸まってちんまりしていた。線路のために土が盛り上げられていて、そこからパイプが数本出ていた。キャップがされていたので、もう用済みとなったのかもしれないが、線路の排水のためか、何か。その下に、元々は池になっていたと思われるドブ水溜まりがあって、指ですくうと緑色がそのまま垂れ下がりそうだった。蓮の葉らしいものと、その上に白いゴミみたいな斑点が散らばっていて、歩道に向かって、ずぶずぶの腐った土が続いていた。その、静かに死んだままの水の縁に、魚が一匹、横たわって傷んでいた。それも、めだかやなんかのちっぽい魚ではなくて、サケみたいな、尺骨より少し短いくらいの、そんな生命活動を止めた水辺には相応しくないような、命あるかたちをしていた。膚は乾いて、白々しい、応答の無さが空を見遣っていた。腹のあたりが一囓りされたように輪郭を欠いていて、そこに黒い点がひとつ、飛んでは離れを繰り返していた。あの池に生きていて、とうとう息を止めたのか、それとも、ネコが台所から頂戴してきた獲物があそこに落下して見捨てられたのか。潤いのない光沢が、空間を虚ろにしているようだった。

 

ジャーマンスープレックスという恐竜

今日は、意味のない事を考えていた。頭がそっちの方を向いていたのかもしれない。題も、そうであって、多分ジャーマン+スープレックスが正しい構成なのだろうけれど、それを意図的に、レックスで切ってみると、なんか恐竜の名前っぽく見えるなと思った。モンハンのティガレックスのせいかもしれないが。雨が降る降ると聞いていて、昼前に見た空は、だいたい同じ感じの、白と黒をパレットで混ぜて、完全には混ざりきらないようなところで刷毛でぱっと掃いたような色で、曇り空がおよそ均質であると、空き缶の中に囚われたらこんなだろうかという感じがした。あと、昨日のあれこれに関して、どうにも容量を得なかったのは、存在そのものと象徴界が逆転していない人らだったからではないかという気付きを得た。私は精神分析の世界の分け方が大好きだから、というか、あれ以外腑に落ちる説明を見つけられなかったから、死ぬまで象徴界と言い続けるが、そこが大きな断絶というか、同じ言葉でも、同じ言葉ではなかったのかなと今にすると思う。服従させた女騎士とか、なんかその辺の存在に、悔しそうな顔でフェラをさせるというのがあって、あるのだからあってとしか言えないのだが、あれについて考えた。あれは、口腔周りに関しては、肉体的物理的束縛を受けておらず、口が担う役割としての吸う舐める以外にも、噛むができるわけである。フェラをさせられている側の精神性によっては、敵の手によって辱めを受けるくらいであれば、たとえ殺される事になろうとも、その逸物を噛み千切り敵に一矢報いる方を選ぶ可能性が高いわけで、敵を敵として、異性分子を異性分子のまま扱うのならば、あれは強制開口器具(実際にある)で噛むという選択肢を無くして口腔を蹂躙するのでなければ、よほど危険な行為だと思われる。それをしないという事は、もしそのような器具を装着させずにそういう事をさせているのであれば、そいつは悪役ではあるものの、その場面だけに関して言えば性善説に則って振る舞っているわけである。こういう事を考えたが、だからどうと言われても困る。なんだか寿司が食いたかったので、お気に入りだった回転寿司の店に行った。ご時世柄、回ってはいない。グループは同じだけれども、店の名前が変わっていた。元が一緒なら、さして変わるはずもなかろうとたかをくくっていたのだけれど、魅力的な品が減り、そのくせ値段が1.5倍から2倍くらいになっていた。私が大好きだった、えんがわによく分からん汁をかけたり炙ったりしたやつも、構成物の正体が分からないサラダ軍艦みたいなやつもなくなっていた。あと全体的に高かった。そして、全然美味しくなかった。値段が上がって質が下がるとは、せめて逆であればよかったものを。またひとつ、惜しい店を失くした。

矢は放物線を描くのか

今日は、人と、真面目な、話をして、疲れたというか、当日分の語るべきものを使い切った感じがあるので、書くに書けないのだが。これは、ひょっとすると、程度の事なのだが、象徴界を、それを指す言葉は何でもいいのだけれど、それとして認識した事があるかないかで、変わってくるんじゃないか、と思った。

pypy

暑くなるたびに思い出すが、いつも使っているノートMacは排熱がカスなので、夏場的気候になるとめちゃくちゃ熱くなる。冬の間はそんな兆候を微塵も見せないのであるが、ちょっとぬくぬくしてくると覿面である。キーボードに置いている指がちょっと気になるくらいに熱くなる。ついでに、当たり前の帰結としてパフォーマンスも著しく落ちる瞬間があるので、こればかりはどうにかしたい。新しいモデルだと排熱周りが改善されているらしいのでそれもいいなと思うし、いっそ今のメイン機をサブにして、iMacでも買ってやろうかと思わないでもないが、本と本が本で雪崩れて鬱蒼としている机周りの事を考えると、据え置き型の導入についてはレイアウトなどを考え直さなければいけない。というか、今の机をクビにして、机上に棚がまともに置けるようなものにするのがよさそうである。なんでこんな、デッドスペースもりもりの机を買ったんだろうな、数年前の私は。悪くはないが、強いていいところを挙げてください、と言われると、ハテ、それはどこだろうなと思う部分もあるので、机に関しては本当に見直してもいいかもしれない。だいたい横幅が同じサイズの机を買えば困る事もなかろうし。ま、その辺は考えておこう。ニトリが入っているショッピングモールだとか、なんだとか、今も営業しているのか不安なところがあるし。木曜日に見た天気予報では、しばらく残念でしょんぼりするような日和が続くはずだったのだけど、今日は晴れて、終始暑いくらいだった。夜になったが、夜の方が、静かにそこに居る熱気が湿った手で身体を触り続けているような感じがあって、居心地が悪い。日本の夏にある最悪のところは、湿気があるというその一点に尽きる気がする。この季節が近づくたびに、扇風機あったっけと考え、今の家では稼働するために置く場所も、オフシーズンに収納する場所も怪しいので、デフォルトのクーラーを使う事にしていたのを思い出す。寝る時、布団をかぶるのかタオルケットをかぶるのか、その選択も甚だ難しい。布団は間違いなく暑く、タオルケットだとちょうどいいか、それでも暑いくらい。寝る時は、何かしらの布的なものに頰をぺちゃっとしていないと落ち着かないので、何かが肩あたりまで存在する事が望ましい。5月も半ばだが、こんなに暑かったのを身体が忘れているのか、それとも5月のくせに、英語の主語に立つようなitが頑張りすぎているのか。

顧みる事をしなかった男

物干し竿にしずくがぽつぽつする音が、起きた時からしていて、家を出る前に天気予報を見ると、日曜日くらいまでずっと雨のしるしが出ていた。数日先に関しては、あくまで予報であるので、着地点が異なる事もあるわけだけれども、あまり雨が降って欲しくない日まで雨が降るようなので、すでに今から嫌な気持ちでいっぱいである。寒かったので、パーカーを引きずり出してすっぽり被った。傘を差しても差さなくてもいいような、薄く烟るだけの雨だった。帰りの、ほんの一瞬だけ差した。帰りにゴミ袋を買って帰ろうと思っていたのに、そう考えていた事を今思い出した。帰る時、壁に埋まって一列になっている駅の券売機が、端っこのそれだけ故障していた。あるいは、あそこだけなにか別の機械だったのやもしれん。とりあえず、それは通常の駅利用では全く縁のないスペースであり、そして、そこで、スマホグレイテスト・ショーマンのあれを流しながら、ダンスの練習をしている人がいた。全く意味が分からなかった。大学の生協前で、ガラスに反射して自分の姿が見えるからという理由でダンスサークルに所属する有象無象がわらわらしている事はあったが、あれは大学という、公と私がギリギリ分かたれる前の最後の場だから発生しうる事象であって、それ以外では、有り得て、広い公園のロータリーだとか、芝生みたいなところくらいでしかお目にかからないのではないかと思っていた。どうやら、しかし、それは、私が現実に期待していた事は、予想以上に幼稚だったという事になるらしい。駅構内であるという事、改札出てすぐのザ・目の前であって人目を「一応」気にしていたのか、身振りは多少小振りであったが、それにしたってダンスという行為が日常営為の中で、それこそショウかCMくらいでしか見ないのだから、来ているジャンパーの擦れる音と、ちらちら周りを見てくる社会性の欠片みたいなものが、空間として明らかに浮いていた。みんな見ないふりをしていて、真隣にある駅員窓口も何も言っていなかった。ただ、しとしとと湿った空気の中で、ばさばさと身を捌きながら、ひとところの空気が乱れていた。どう贔屓目に見ても学生ではなく、中年と言って差し支えなさそうな感じだったので、そういう感じの人が、そういうシチュエーションにあって、何故あのような事になったのか、想像の指先でさえ今だに届かないままである。 何か、これに関する合理的な解釈があれば、ぜひとも教えていただきたい。

ハイパー蔦植物

そういう日だったので洗濯物を干したが、一日太陽が照る事はなかった。昼に、ちょっとぶっ倒れて仮眠していたから、その間にちらと顔を覗かせるくらいの事はあったかもしれないが、ずっと雲が厚く張り詰めていたのだと思われる。十秒にも満たないくらいの時間しか空を見ていないので想像だが。売り場の隅っこに置いてあったマンゴージュースが、よく分からないがすごくおいしい。原産国は、確かモロッコだったと思う。マンゴーの概念をそのまま絞り出してカラー値にしたようなオレンジ色をしていて、若干の粘度があってたくたくとしている。飲んだ後に、喉の奥の方に、甘さの足跡が持ったりと残り、しかしその仕方が好ましい。砂糖や甘味料の甘さが駆け抜けると、口の中全体に最後っ屁が反響してぐわんぐわんするが、これは喉の奥だけでじっとしていて、丸く収まったままでいる。税込でも200円くらいしなかったと思うが、味の割にめちゃくちゃ安いので良い買い物をした。おそらく同じところから出ているパイナップルジュースも飲んだ事はあるが、私がパイナップルの持つ酸味がそこまで好きではない事もあり、おいしいジュース程度に留まっていたが、マンゴーの方はとてもよい。軍需物資みたいな、堅物でモスグリーンっぽいパッケージがごてごてしている。イギリスにいる時、売っているジュースを色々飲んでみた記憶があるが、あれは一体どれが美味しかっただろうか。そこにいる人が"nasty"と表現したオレンジジュースの、全くオレンジではない、存在自体が紛い物みたいな味のする液体については覚えている。あれはおいしいおいしくないではなく、摂取したくないというのが正直なところであったから、何をどうしたらああなるのか知りたいものである。ラベルを覚えていないので、またいつかどこかで会うかもしれないが。その時は、同じ形容詞で腐してやるつもりでいるが。ヨーグルトがちょびっと残ったまま冷蔵庫で大人しくしているのを思い出した。ヨーグルトを買って来ても、2、3回掬い出すと、それっきり存在を忘れてしまい、乳清が出て強張ったそれを砂糖とねりねりするのがいつものルーチンになっている。毎回こうである。私が、ストレートで、買った翌日から毎日consumeして、途中に無駄足なくヨーグルトを費消しきった事があるだろうか。今も絶賛忘れているし、そして明日の朝も忘れているだろうし、なぜかレタスとキャベツを同時に買っていたため、ジャンルが被って消化が間に合っていない。

ぶよぶよした箍

ゴミを捨てたが、それにより最後のゴミ袋が消費された事に気が付き、さらには「じゃあ次のゴミ袋を買ってこないといけないな」と考えた事を思い出したのがたった今である。百円均一の、何リットルか忘れたがゴミ袋があって、あれが破れにくいし枚数もそこそこあったので(袋を捨てたので忘れた。捨てる瞬間、「どうせ容量も覚えてるだろう」と楽観視してメモを取っていないので何も覚えていない。包装のどこかが青かった気がする)、この場所から引っ越すまではあそこで買ったあれを使い続けようと思う。よいものを見つけたら、とりあえずそれに嗜癖するスタイルを採用している。なんとなれば、思考に割くエネルギーを可能な限り減らしたいからである。だからと言って、そのspareしたエネルギーで何をするでもないのだけれど。突ついて、かき回せば、雨の降りそうな空だったが、一瞬水滴がぽつぽつとしただけで、崩れるまでは至らなかった。妙に寒いような気もしたし、別に寒くないと言えばまあ寒くないのかなあ、という天気で、これが春っぽいと言えば春っぽいのかもしれない。駅への往路で、突然、「今日は献血をして帰ろう!!!」と思い立ったので、献血をして帰った。頭の中で覚えていたのとは別に、もう一箇所献血ルームがあって、ちっこいビルだと思っていたのだが、想像以上に中が広かった。最後に行ったのは、2018年とかそのあたりだと思っていたのだが、2016年だった。もう5年くらい行っていなかったわけで、するとつまり、記憶と記録の限りでは、2015年〜2016年の間に5回くらい行っていた事になる。当時の私が何を考えていたのかさっぱり思い出せないが、何かしらあったのかもしれないし別に何もなかったのかもしれない。思ったより混んでいた。今日分かったのは、私の腕の血管については、右腕の方が太いという事と、血管そのものが柔らかいらしいという事である。血管に柔いも硬いもあるかいなと思ったが、硬変とかなんとかあった気がする。ぬるい烏龍茶2杯と、あっつい綾鷹1杯を飲んで帰った。岩波文庫を持ち歩いていたのは、悪手であったようでもあるが、漫画や雑誌を読むかと言われたら読まないので、あれでよかったのである。血を抜いている間見せられるテレビが、くそつまらんワイドショーなのは閉口した。既出情報の稀釈と、解体による無化なのであるから、あんなもん良識の蚕食以外の何物でもない。立ちくらみとかはなかった。

射出を待つ間

部分の絢爛であり、姿を現して立ち現れず、ただ窃視以上の何物になるものでもない。まぜそばを食べながら、手コキについて考えつつ、突然思いついた。手コキについては、今日は得るところがなかった。てしごき(手扱き)から音の経済とかなんとかに従って手コキになったのかなくらいしか浮かんでこなかった。でも、「扱く」だけで「こく」と読めるらしいので多分違う。なぜ、頭の中で、事物が総体として把握できず、ばらばらの、マカロニが散らばったようにしかならないのだろうと考えていたからである。ここでいうマカロニとは、歯車とか貝とか、いくつかのパターンが表されたあれである。全部互いに相違すれば、長細くてもなんでもいいのだが。ロボは合体して戦わない。足が怪獣に勝ち、手が怪獣に勝ち、頭が怪獣に勝ち、胴体が怪獣に勝つ。ディープキスのあとの涎ブリッジほどの繋がりもなく、朝露をほどいたように散在している。部分としての存立以上のものを、それらは求めていないように見える。あるいは、求める気力というものが元より用意されておらず、自存がそこにある事の終着点のようである。それが分からない。ルーペや顕微鏡になるのではなく、現実界の光を乱反射して、ただきらきらとするだけが有り様である。一体それでどうするのか。輝きたくて輝いているのでは全くないだろうが、宇宙の星々は、輝いて、それでどうするのだろう。その輝きにも原理があり、そこには意思もないのであるが、つまり、それと同じように、燃えるべくして燃え、光るべくして光り、黒くとろりとした周辺に溶けていくのがおしまいなのだろうか。それ以上ではなく。分からない。今日も、どこにも連れて行ってくれない、交通費が高いだけの、片道ですらない、茂みに外れた箱型の中で、ぐるぐると同じところを歩いていただけだった。雨は降らなかった。日中は暑いくせに、昨日の最高気温は29度あたりまで到達したそうだが、日が沈んで、風がぴょろぴょろとおぼつかない足取りで消えていく頃になると、上に何か一枚背負っているのでなければぶるりと来るようなところがある。暗くなった空を見ると、べったりと雲が張り付いていて、藍と灰色が隆起していて、明日は天気が悪いのかもしれなかった。人通りはあるが、もう忘れてしまって、慣れてしまって、覚えていないが、こうなる前は、もっと人がいたのだったと思おうとしても腑に落ちないところがある。人の顔という表象を見ても、どうしてこの人の顔にはマスクがひっついていないのだろうと思う事がある。女性を描いて、そして必ずマスクを描いていた、顧問の先生の言葉を借りれば「ド変態」の、フランス人の画家がいるのだが、名前を思い出せない。