他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

清流のようなおもらし

昨日の夜、無性に回転寿司が食べたくなった。あの適当な、素っ気ないマグロとか(寿司を食う時にマグロは食べない)が食べたい! と思った。思ったので行った。回転寿司チェーンの中では、くら寿司が好きである。理由は特にない。他のチェーンに比べたら、加点方式でくら寿司が一番上に来るだけだ。はま寿司は地元の店舗があまりよくなくて、かっぱ寿司は社のトレードマークから自身の魂をかなぐり捨てたので失望した。スシローこそ一番理由がないかもしれない。席に行くところから会計まで、会計するかどうかの確認の時だけ店員が来ただけで、ふらっと行ってふらっと帰れるように無人化というかシステム化されていた。前からこんなではなかった気がするが、人手を割かなくてもよいところがあるなら省エネ化してしまえばええねんと実行したのはすごい。複数人で行くと、まだどうか分からない。サラダ軍艦とか、マグロユッケとか、好きなものを食べた。前に時々行っていた寿司チェーンは回転していなかったので、あ、回転寿司って回るから回転寿司なんだよなと思い出した。欲望のパレードだ、次から次へと流れて行くぞ、寿司が。変な時間に行ったので全体の1割くらいしか乗っていなかったが。久しぶりに見た回転寿司は、なんだかシャリが縮んでいた気がする。キットカットとかカントリーマアムとかと同じ運命を辿っているのだろうか。あれらのサイズと日本の平均賃金よ! 私がいるところの選挙区では、はーぁ、お前かいという候補が当選したのでがっかりした。ユッケチャンジャにぎりみたいな名前の、ごま油とかでいい感じにした甘辛い、韓国料理みたいなやつのバナーが皿に乗って流れていて、タブレットのメニューページ何番にあるぜ、と書いてあったのになかった。いないのにいた。どこにいるのかと何回もメニュー3を開いたが、ユッケチャンジャにぎり的なやつはなかった。なぜ。左に座っていたにいちゃんが、転職活動中なのか、アプライ先企業の採用担当者か、転職エージェントみたいな人と、30分くらい電話していた。卓の上には6皿くらい来ていた。電話のタイミングが悪過ぎるだろう。今飯食ってるから後でいいですか、とか言わないんだなと思った。そこまでせんでええやろと思うくらいの敬語を連発していたし、これはそれに限った話ではなくて、バイト面接を受けている女子学生が「TikTokをやらせていただいていて……」と言っているのを聞いた時は眩暈がしてぶっ倒れそうだった。んなもん勝手にやれよ。好きにやりなさいよ。武田砂鉄が前々から疑問視していたEXILE内の過剰敬語は、社会的に立ち現れる前の萌芽だったのかもしれない。本屋に行ったら『コンプレックス文化論』が文庫化していた。

甘い芯

家を出てちょっと歩いたところで、あ、傘を忘れたと気付いた。昼から降ると、昨日ラジオから流れていた。どしゃ降りならば私も傘は差すが、少々ならフードをかぶってやり過ごすブリティッシュスタイルでいくと決めている。これをブリティッシュスタイルと言っているのは私の頭の中だけなので、一般にはどうなのか知らないけれど。引き返すと時間の問題があるわけではないがないわけでもなさそうだったので、取って返すのは諦めた。多少雨に濡れたところで冷たいだけである。それが洒落にならない季節になってきている。帰りに本屋に寄ろうと思っていたが、完全に忘れていた。途中までは覚えていたが、本を読んだ後には綺麗さっぱり何も残らなかった。投票に行ったが、今まであの投票所で見た人手と比べて、時間帯はあるのかもしれないが、数倍の人手で、おや、この辺の住民は何か言いたい事があるのかなと思った。選択肢がほっとんどない選挙区ではあるが、選べはするのだ。あそこを担当している出口調査の人は、毎回全くやる気がないので、なぜあそこに立っているのかさっぱり分からない。取り壊されているアパートの横を通りがかったら、記憶より数倍取り壊されていた。もしかしたら、今日の日中破壊されていたのかもしれない。家にいなくてよかったかもね。壁を壊されて外れたエアコンが、まだ埋まったままの配管にしがみついて宙にぶらりんと浮いていた。あれが何かの拍子ですっこ抜けたら、すげえびっくりしそうなので根治しておいてほしかったところだが。天井も床もない、かつて部屋だった空間に、エアコンだけがへばりついているのが変だった。眠いのでこの辺にする。

overestimate

麝香という、高くていいものらしい香の事は、名前だけ知っていたのだが、原材料が雄の鹿の陰茎の包皮にある分泌腺だという事実に突き当たり、実に種々多様な感情が駆け巡った。ちんこ由来の物質から香を取って、それが珍重されていたとは、珍だけに、それを澄ました顔でハイソですと利用していたのだなと考えると、なんかすげえなと思った。いい香りだな〜、ちんこ由来の物質から取れた匂いはな〜、とか、思考にノイズが混じらなかったのだろうか。混じらなかったのかもしれないが。繁殖期に麝香腺という器官が発達し、そこから異性を惹きつける香りを出すらしいのだが、ちんこ由来の香であり、エロ漫画でちんこを嗅いでうんならかんなら、というあの件を、我々は全く笑えないのではないか。今昔物語集の註をちゃんと読んでいてよかった。ちんぽフレグランス、いいな。渋谷を歩いたら、いつもより路上のゴミが多かった。いつだってゴミが多い、オシャレとか最先端とか、そんなもんよりいの一番に「汚い」と言いたい街がザ・渋谷だけれども、妙に多かった。内容を検分すると、だいたいエナジードリンクの缶が入っていたので、モラル知能その他諸々が欠けているヤングの仕業だろうと思われるが、よく考えたら今日明日は大変リスキーな地である。あそこは。時勢が時勢であるからして、さすがにそんなにそんな事にはならんだろうと思いたいところではあるが、動物にはなかなか言葉が通じないものである。夕方、帰り道に歩いていると、あれ、昔日の、社会様式がこんなになる前の渋谷って、こんな人通りじゃなかったっけ、と記憶がくすぐられるくらい人が多かった。ドンキの前で仮々々々々装くらいの格好をした人間がいくらかいた。そんなに何かになりたいものか。分からん。好きにやればいいが、ゴミは持ち帰ってくれ。いっつもロータリー周りとか、きたねえんだ。たまにドブの匂いが漂ってくるのが渋谷であり、見るならそこを見ればいいと思う。まあまあ暖かい日だった。それでも、家の床はほどほどに冷たいし足は冷える。出がけに、玄関先に正体不明の瓦礫とも何ともつかない、黄色い複合物質みたいなものが落ちていたが、帰ってきたら回収されていた。取り壊し、本当にどうやるんだろう。狭い路地にちっこいショベルカーを搬入するトラックがいたから、どこかで機械の力を借りるのか。そもそも、人力で現代の家って壊せるものなのだろうか。バールを振りかぶって、がんがん破壊するだけでは破壊できなさそうだが。

腹の中に棲む

ラーメンズのコントを、観るか垂れ流すかしている。周期的にやるが、またやっている。何回繰り返したところで面白いし、価値が減ずる事はないため、ほぼすべてのコントがYouTubeで視聴できる事について、これは本当にありがたい事である。一番最後の人格変遷期にしがみついていたものだから、欠かせない内的要素のひとつになってしまった。あまりにもよくできているので、真面目に観ていると、よく分からないダンスを始めそうになる。衝動を形成せずに行動に出力するとこうなるのであろうという、何にもなっていない、何かの叫びの踊りを。カジャラの公演は一回だけ生で観る事ができたが、ラーメンズとしての公演は叶わなかった。歴史として、体験として、とても羨ましいと思う。面白いに決まっているものを、しかしどこまで面白いのか期待しながら観るのは、本当に楽しかった。今日は特に何もしていない。家の真隣の建物が取り壊されていて、一日中どんがらどんがらぶわんぶわんがっしゃがっしゃ騒音がしているが、そういえば少し前にも身近で工事があったような記憶がある。ショベルカーなりダンプカーなりを侵入させたら、それだけで家の二軒三軒、玄関先をぶっ壊していきそうな狭さの路地なので、手作業でちまちま壊して、手押し車で瓦礫をちまちま運んでいるようだ。昨日くらいに、洗濯物を干していたら、そこの関係者と思える、よう分からんおっちゃんに挨拶された。。別に私の方から言う事は特になくて、うるせーっすねくらいしかないから、特に言う事がなかった。いつまでやっているのか、この前業者からチラシを渡されたような記憶があるが、どこに行ったのだろう。その時名刺を渡されたのだが、ここに写ってるの本当にあなたですか? え? 本当に? みたいな、満面からちょっと溢れたくらいの笑顔の写真が脇に添えられた名刺で、うわ、この会社、全員こんな名刺作って持ってるのかな、と思って気持ち悪くなって、とりあえずゴミ箱に捨てた。愛想がいらんとは言わないが、ポジティブを絶対的善としてぐりぐり押し付けてくるのはやめてほしい。じゃあ何の情報が載っていればいいのかと考えると、トイレットペーパーは一回でどれだけ巻き取るのかとか、こんにゃくを食べる時は下拵えに茹でるか茹でないかとか、指の爪を切る時はどっちの手のどの指からかとか、そういうどうでもいい情報量ゼロの事を書いておいてほしい。思い出したらげんなりしてきたな。

身体が冷える

丸亀製麺でちゃんぽんうどんを食べた。私が丸亀製麺に求めているうどんは、醤油とか出汁とか、なんかそういうやつなのだと分かった。ちゃんぽん食うならちゃんぽんの店に行く。ジャンボカニカマを初めて取った。最後になるかもしれない。ジャンボカニカマは、ジャンボなカニカマだった。普通食べる、あのぴょろっとした、細っちょいカニカマがシャーペンの芯だとしたら、ジャンボカニカマはうまい棒みたいなもんだ。それくらいサイズ感の違いがある。これだと胴回りだけのイメージしか伝わらないのか。えーと。長さもすごい。喩えとしてこの上なく不適切であるが、エロ漫画の非実在的ちんぽみたいな感じがする。縦にも横にもジャンボなのだ。看板に嘘偽りがない。嘘をつかない政治を掲げて、ジャンボカニカマ党が結成されたならば、そのネーミングセンスと信念は信頼してよい。味も、でっかいカニカマまさにそのもので、瞬間的に知能指数が減退したかと思った。でかいカニカマをかじれる場所は、地球上に丸亀製麺だけかもしれない。別にしなくてもいい体験だし、それによって何か得るものは満腹感しかないが、よくあれをトッピングに入れようと思ったなと、含み笑いが出る。かしわ天がうまい事など分かりきっているから、反旗を翻すつもりで取ったのだが、おもしろい体験にはなった。食べながら、弟の事を考えていた。誕生日プレゼントは何がいいか、電話で2回くらい聞いたのだが、母によれば物欲がないらしいので、特に思い当たらないという事なのだろう。私はほぼ物欲が本だから、あげるよなんて言われれば腕を引いて本屋に引きずっていくところだが、同じ家で育っても当たり前だが別人は別人なのね。年末帰省できたら、その時に聞くつもりである。たまに来る発作によって、ゴールデンラッキーを読み返し始めた。今の所、もしかしたら人生で読み返した回数ナンバーワンはぷりぷり県なのだが(一回読んだら再び手に取らない癖があるから)、それでも3回か4回くらいであり、ゴールデンラッキーはこれで4回目くらいなので、同率タイか、あるいはトップか。もし「意味」というものに単位があれば、それが1単位しかない濃度の漫画だから、いつでも読めるしいつまでも読めるし、別に読まなくてもいい。しかし、読んでいる間は、頭の中で私には聞き取れない音で暴れ回る象徴界の喧騒が気にならない。これは娯楽なのか現実逃避なのか。えの素も見つけたのだが、あれは読むのに異常なカロリーを要するため、しばらく読まないのではないか。

failure to be

昨日考えていた、何を書こうと思っていたのか忘れてしまったそれについて、思い出した。もしかしたらこれではないかもしれないが、これも書こうとは思っていたので間違いではない。牛乳が凍っていた。牛乳をコップに注ごうとして(私はこれを場合によって適宜「そそぐ」「つぐ」と読み分けているのだが、そのような文脈に対する思考がない発話を見ると、とんでもなくがっかりする)、牛乳パックの中でやたらカンコロコンコロ、物体が肩をぶつける感触があった。何か虫でも入ったにしては、その重量感が並ではなく、異物混入というわけではないようだった。ふざけた菱形の口に見える注ぎ口から覗き込んでみると、キューブのようなアイスが、アイスキューブが白濁の中をゆらゆらと揺れていた。はて。牛乳って凍るんだっけ。脂肪とかなんとか、何かしらの栄養素が含まれているし、しかしそれらが本質ではなく、これもまた水ではあるのだから、凍りはするのだろう。凍りは。今まで凍った事も凍らせた事もなかったので、想像しなかっただけだ。牛乳は凍る。フルーチェも、冷凍庫に入れれば凍ると思う。やった事はないが。牛乳のうちにある水分のいくらかが可視化されているわけで、つまりこれはもう牛乳ではないのかもしれないと思った。牛乳ー水分=? 人生でやった覚えのない引き算だ。見た目は依然牛乳であったから、直感的に牛乳である事に変わりはないのだが、やっぱり何か違うものなのではないか。飲んでも、味がすっとぼけているというか、何かの匂いがするだけの水っぽい水といった感じで、これを牛乳だと当てさせるクイズをやったら、正答率はかなり低いと思う。クラフトボスだっけ、薄っちょろい、軽いコーヒーみたいなやつ、あれの事を、コーヒーを飲み終わった後のコップに入れた水の味と評している人がいたが、それに近い。牛乳が入っていたコップに入れた水の味みたいだった。気配がするだけだ。安い果実サイダーよりも、もっと。この前もらった、よく分からんソーダは、そういえば、ジェネリック三ツ矢サイダーとしか言いようのない味がしたな。そのものと、それの代替という周辺は、いっぱいある。もともとがかなり美味しい(と私は思う)牛乳であったから、毒気を、あるいは骨を、抜かなくても、水を抜くだけで、そのものである事を破壊できるのだなと思った。思ったよりももろい液体なのだな、牛乳とは。イギリスで、ちっこいショップで買った牛乳が、翌日たちまちのうちにダマになってぼとぼとしていたのを思い出す。

播種

何か、書こうと思っていた話があったはずなのだが、忘れた。種飛ばし大会で精子を飛ばす的なやつを見た事がないような気がするなと考えて、多分榎本俊二の漫画にあるし読んだ気もすると思い当たった事は違う。よくチムポ剥き出しでシコシコドバーしているし、セクシャル競技大会みたいなやつもあった……はず。榎本俊二の漫画は、下品でどうしようもない猥褻が単純な線の二次元に落としこまれる事で、その臭気汚穢一切が薄れ、なぜか無菌状態で提供されているところが異常で唯一無二だと、私は称賛を込めてそう思っているのだが、あの漫画を読んで放り出す人の方が多いだろうな。放り出さなかった人とは握手をした方がいいとは私の談だが、あれを平気で読めるような人とそうホイホイ付き合っていいものかと思うところもないではない。貴方の世界を広げてくれる人では、確実にあるだろうが。醜女は読めるか。しこめと読むのだが。醜とはしこであり、しことは醜であり、見た目がよくない事を言うのだとばかり思っていたわけだが、辞書をぺらぺらしながら本を読んでいて、何かの拍子に見つけた。これはひとつの意味でしかなかった。しこは醜ならびに鬼とも書き、「強く頑丈なこと」をいうらしい。へぇ……。人生で使う事は一遍もないかもしれないが、辞書をめくると面白い事がわらわらと出てくる。私にとって、辞書はエロ本であり、無人島に何か一つ持っていくなら、辞書を持っていくのがいいかもしれないと思っている。無人島に行きたいわけではないが。いつかTwitterで見た、何でもいいから文字を見ている事を嗜癖している人ほど、Twitterで時間を無駄にしているのではないかというやつがあったが、ちっこい活字で延々と知らない事ばかりが「述べられている」辞書は、とてもいい暇潰しである。本を読みながら辞書を引くのが、一番楽しいけれども。さて、書き出す途端に忘れた何かを、いまだに思い出せていない。なんだったかな。米の話かな。あるな、と思っていた米屋に行って、玄米ありますかと聞いた。玄米を食わなければ私は不安定になる。色々。そこにはなかったが、そこを左に登って、10軒目くらいのところで聞いてみてよ、と教えてもらった。米屋があるだけでも珍しい気がするのだが、もう一軒あるとは知らなんだ。10軒どころではないくらい歩いたが、確かに別の米屋があって、小さい2kgの袋ではあるが、玄米を買えた。もっと欲しいんですと伝えてみると、週末に米が来るから、そこでいくらでも買えるよ、10kgでも20kgでも、と言われた。スーパーで買うより、よく考えてみれば当たり前に安かったので、餅は餅屋だなと思った。あぁ、辞書で覚えた知識であるが、蛍の光はもともとスコットランド童謡らしい。

開いてなくていい穴

「おちんちん」とは、男女の仲がよい事を言う言葉らしい。辞書の第一義にそうあるのだから、そうなんである。性器の隠語としての意味は2番に載っていた。つまり、あのアベックはラブラブだねと言いたい時はあのアベックはおちんちんだねと言う事もできるのだ。いきなりそんな事を言う相手を選ぶ必要はあるが、何でもない言葉に、社会通念上眉を顰められるような意味が重なっている事は千も万もあって、開高健の名字にある「開」の字は、そう遠くない近代におまんこの意味で使われていたらしい。よっ、アツアツだねご両人を、よっ、おちんちんだねご両人としてもよいのだ。ナウなヤングが使わなさそうなワードばかりチョイスしたが。日曜日くらいに、ガールフレンドという言葉を日常生活で聞いて少しくらっとした。勝手に死語にしていたが、別に死んだわけではない。そのうち死にそうだが。現在のスタンダードである彼氏彼女よりは、よほど実態に即している言葉だとは思う。ガールフレンド、ボーイフレンドは。ガールフレンドは、GF(仮)にわずかに生き残るだけではないのか。それとも、フレンドよりも踏み入った関係性である事を主張したくて、これらの言葉から離れて行ったのだろうか。どうなんでしょうね。いくら言葉が変化するものだとしても、おざなりに使っていいものだとは私は微塵も思わないので、インスタントな語彙だけで現象を費消する姿勢は絶対に許さないが。最後の要塞として自分を構築するためには、言葉が必要である。虐殺器官を結局読み終わった。読み終わらなくてもいい気さえしていたのだが、読み終わった。話として十分面白かったのだが、主人公の言語観が、あら、一軒か二軒隣なだけだわねと思うような近しさを示していて、そこが一番の収穫だった。だらだら開高健のエッセイを流し読みしているが、本屋にあれの欠本が入るまでどうしようか、狂おしいほど頭の中が空っぽで、実は段ボールのかなり浅瀬に収納されている事を発見したゴールデンラッキーやえの素でも読み返してやろうかと考えている。ゴールデンラッキーは、永遠に読めるが、永遠に何を得る事もない。ただそれらがそれらのために自足しているため、こちらから入り込む余地も隙間もない。生成と明滅を目の前にして、体育座りしているだけである。どこにあるのか分からないが、生徒会役員共の初めの方十数巻も段ボールの中だ。そらのおとしものもどっかにある。読み返すという事をやっとするようになってきた。

ファビュラス漏電

眠りの浅い時に、手荒れの箇所を激しく掻いたらしく、起きたら左手の人指し指・中指がひどい事になっていた。皮膚の弱った箇所を、いくら木綿とは言え木綿の生地でがしがし擦るわけで、一日中ふとした拍子に痛みが走ってぴょっとなっていた。気温が変わるとこれだけ肌にダイレクトに反映されるのも難儀な話だが、実際直截的に影響が出ているのだから仕方のない話だ。唇ではなく指が荒れる方なのは、どっちがいいとは言い難い。ついでに、指の腹の方も、皮が薄くなってあまりよろしい状態ではないため、母の指を思い出した。万年あかぎれなりなんなり、手荒れと付き合っていたと思うが、近年はどうだろうか。手を取ってまじまじと見る機会がないから、全く失念していた。弟の背中がアトピーですごい事になっているのは、見た覚えがある。兄弟姉妹の中で、皮膚が弱くなかったのは妹だけだったな。考えてみると。年末に帰省しようと考えてはいるが、まだどうなんじゃろうねと思うところもないではない。友人にも会いっぱぐれているため、久しぶりに顔を合わせたら、何の話をされるか知れたものではない。もう一人は、二年以上会い損ねている気がするが、元気だろうか。帰りに本屋に寄り道して、銀河ヒッチハイクガイドの欠本が補充されていないか見に行ったら、まだ全然そんな事はなくて、私が買った分、すこんと抜けていた。気が早すぎたかもしれないが、シリーズ物を目の前に用意されて、ファーストシーズンとファイナルシーズンはないですけど、間は全部ありますよ! と言われたって、ただ悶々とする他ない。本棚の前で妙な踊りを始めそうになったが、心の中だけで我慢した。目的の達成不全に対して、身体的外的出力の経験値がないあまりに、動きが解釈と咀嚼を経ずに不完全な形で、変換に失敗しているのがこの現象なのではないかと思ったが、後々分かる事かもしれないしいつまで経っても気のせいの主観的事実であり続けるかもしれない。でも、主観的現実は大切だ。それは言葉にならないが。消化不良を消化し損ねて、本棚をふらふら見ていたら、まだ持っていない開高健のエッセイ集があったので買った。文体が好きな人のエッセイは読んでいて面白い。同時に、経験の厚みというのか、なぜゆえこれほど現実を主体として掬い取れるのか理解できなくて悲しい気持ちになる事もある。生まれ持ったものはしょうがないというのは、逃げの文句でもなんでもなくて、ひとつの揺るぎない真理だと、私は思うようになった。

コンセント増殖

近くに、八角が嫌いな人がいた。まあ、そんな人もいるだろうと思わざるを得ない香辛料なので、世の理といえば世の理だった。香辛料なのかと一瞬疑ったが、香りが特長なので「香」辛料だろう。香辛料として分類されるものを「香」と「辛」のふたつに分けた場合、総数が多いのはどちらだろう。辛味を追求してただただ辛さが極まったあの辺の唐辛子は、まだ香辛料と呼んでもらえるのだろうか。バニラエッセンスも字面だけで言えば香辛料っぽいが、どの辺が線引き区分けされるポイントなのだろうか。あるいは、AかつB、香にして辛のものはどれくらいあるのか、とか。世界香辛料協会とか、なんとか、世の中にはすぐ協会やクラブができるのだから、そういった団体なりが統計を出しているかもしれない。それを知ったところで別段何にもなりはしないのだが、ふと気になったので書いたまでである。廊下にでっかい段ボールがあって、壁に上手く立て掛けていたのだが、最近一枚さらにでっかい段ボールが増えたため、ほどよいバランスで成り立っていた壁面装飾が崩壊し、縦長の二等辺三角形、天辺の頂点をAとして、そこから左右の順でBCとした時に、CAをAの方に直線を延長した感じになった。ちょうどいいので、延長した直線のところにコートをかけているのだが、あれは春に着るのにいい感じの送ってくれと母に言ってもらったものだから、秋をすっ飛ばした現今の気候では、早速使い道がなくなった。5月くらいには重宝していたようなしていなかったような記憶があるのだが。ちょうどあの時期、あの時に着ていた、はずだ。いい思い出というわけでは、別にないのだが。もう、マックグリドルを食べる事はないのかね。去年は、気に入ったコートのちょうどいいサイズがなくて失意の底に小ジャンプしたが、ユニクロの8000円するかしないかくらいのコートがちょうどいい的な情報を得たので、元気があれば見に行きたいところである。どうせパーカーの上にコートを着るのだから、でっかくてもあまり影響ないのではと思い当たりはしたが。洗うのがめんどくさいという理由でセーターは持っていない。首元まであの素材が迫ってくる事を考えると、それだけで変な踊りを始めそうになる。最近、頭の中で何かしら考えていると、頭の中で変な踊りが始まるようになった。振り付けも何もない、うにょうにょしたよく分からん動きなのだが、何なのだろう。踊りは、教育課程の中で通過した、ソーラン節とフォークダンス、フラダンス、なんか変な体操くらいしか経験した事がない。

予約席

3〜4人用のキムチ鍋の素でキムチ鍋みたいなやつを作った。普段湯を沸かしたり、一回分の煮物を作る鍋だと小さ過ぎて入らなさそうだったし、玄米茶を淹れる時にキムチの香りがすると雑音として嫌なのでフライパンで作った。なみなみに溢れて湛えて、溢れるかと思った。すぐ食べる予定だったのに、1時間以上沸騰させて水気を飛ばす作業に時間を使った。豚肉で作るやつだったのに鶏肉で作った。漬けとくかと思って二枚消費したのにまだ3枚くらい残っている。肉って思ったよりなくならない。いっぱい食えるやろと思っても、もも肉一枚分食べると実際はお腹いっぱいになっていたりする。飯を作っている間に空腹の何パーセントかは満たされている仮説が濃厚になっている。ナスとかピーマンとか、早く使わないといけない野菜も全部入れた。できあがってから2回分に分けたが、元の最小想定人数からしても1.5人分の塩分なりなんなりが含まれているわけで、かなりしょっぱかった。薄めても、結局飲む事になるのだから、摂取が簡単になるか否かくらいの違いしかない。いや、大きな違いかもしれないが。おくすりのめたね。嫌いなものは花をつまんで食えばなんとかなる。ザーメンは飲めるようになる(飲まなくてもよい)。これでおじやとかうどんとかラーメンとかやったら、それはもう……。どうなんだろう。習慣的にやべー食事をすればそれはやべーだろうが、月一くらいだったら問題ないのかね。作り置きという事を普段しないので(めんどくさいから)、冷蔵庫の中に一食分が眠っているという状況にとても居心地が悪い。気持ち悪いな、生が予約されているかのようで。寒かった。寒かった。まあ寒かった。カーテンがないから鎧戸を閉めた。カーテンがあったところで、外気はガラスを乗り越えて侵入してくるのだから、元を断つには鎧戸を閉めるのが最も効果的である。それに加えて、かてて加えて噛んで咥えて、噛んで含めて、雨が降っていた。外の景色が見えなくなっているわけだが、一日中降っていたと思う。ひねもす物干し竿が横っ面を水滴に引っ叩かれ続けていた。寒い上に雨が降るなんて、つまりとても寒くなるわけだが、これを何かに置き換えて喩えようとした時に、別に何も思い浮かばない事に気付いた。亀頭をローションストッキングコキされるようなものだと言おうと思ったがよく分からないし、泣きっ面に蜂がまあ妥当かなと思う。亀頭いじめはセルフでは難しいので、パートナー等に頼みましょうと、だいたいどこにも書いてある。

隣の青い芝は赤い

伊藤計劃虐殺器官』を半分くらい読んだ。今まで、なぜこの本を読んでこなかったのかと思ったのは、今年で何回目、今までで何回目だろうか。これは人生の損失だったとも言えるし、経験値が一定以上に達したからこそそう思えるのかもしれない。この前、森博嗣の本をぱらぱらめくって、まだ読めねえなと思った。適正に育たなければ読めない本は、少なからずある。この本は、全く意図せず、私の人生のテーマをも含んでいた。おいおい触れるとして。表ソデを見て、知らなかったのだが、伊藤計劃の英字表記はProject Itohだった。伊藤計劃だった。西尾維新は回文になり、大暮維人はoh! greatだったはずだが、伊藤計劃はまさに伊藤プロジェクトなのだった。名前に複層のレイヤーで面白みを含ませられるのはすごい事である。タイトルにある通り虐殺器官の話なのだが、その虐殺器官とは何か、という点において、これは何を言ってもネタバレになりそうなので言える事がないんだが、あぁ、探していたピースのひとつはここにあった。真っ当な方形になるかどうかは分からないが、ここにもあった。タイトルで判断していれば、ついぞ読まなかったであろう本だから、本屋に行って、銀河ヒッチハイクガイドが欠品していたのは全くの幸いだったのだろう。出会いとはたまたまだが、それは物理的な偶然によって降ってくるものだ。私はインターネット的なあれこれは好かんからね。たまたまはたまたまなので、しばしばないのもいいところだ。怠惰なだけかもしれないけれど。このタイトルがハヤカワに入っているのが不思議に思えていたが、この本がハヤカワになくしてどこにあればよいのかとも思う。やはりあのレーベルは一角のレーベルである。書く事がなくなったな。八角をちぎってイベリコ豚の味噌ワイン炒めに入れてみたが、加減が難しい。あるいはワインとの相性がそれほどよくなかったのかも。ぼんやりした、靄のような甘みと、胸焼けするような甘い匂いは、パクチーにも匹敵する好き嫌いが存在しそうである。そういえば、この夏、パクチーを食ったが、なにゆえそこまで好悪はっきり分断されるのかよく分からない、それほどでもない野菜という印象だった。当時の私がコロナを食らっていたわけでもなし、味覚を失うほどあんコントローラブルな食生活を送っていたわけでもなし、特に受ける印象がなかったのだが、個々人の受容器官による違い云々みたいな話なのだろうか。

脇で何かを押し潰すように

基礎を忘れないようにしながら歩き続ける事は、なんだか難しい気がしてきた。ひとつ行動指針を立てると、それ以外の事を忘れてしまうため、身に付けたはずのマニュアルを一切忘れていたりする。手の甲に刻んだり、机の前の壁にしたためて張り付けたり、否が応でも目に入るような手段というのは、意外に、意外でもないのかな、効果的なのだ。医療技術がもう少し進化したら、逐次書き換え可能なコンタクトレンズとかが登場して、記憶したい、焼き付けたい情報を常に視界に浮かべ続ける事も不可能ではないかもしれない。これは、邪魔という理由でやらなくなりそうだが。寒い。朝の起き抜けにびっくりする。びっくりするは言い過ぎたが、卵を混ぜる前に、殻が入っているのを見つけた時にビクッとするあれくらいは反応してしまう。秋は、遭難したか、今年の冬が交通法規を守らないアウトロー・クレイジーパーソンだったため轢き殺された可能性がある。春夏冬はスキップされる事はないが、秋はスキップされうる。これは何故であろうか。そして、秋、お前もそれでいいのか。我々人間の、ごく一部の、日本人が切り取って命名した恣意的な区分であるから、natureの尺度からすればどうでもいいかもしれないが。自分で設けたリミットに喧嘩を売っても仕方ないわな。しかし、こんな事をしていると、そのうち3(+1)季とか、3.5季とか表記されて揶揄われるのは私の目にだけ見えている。一年のうちのお得なボーナスパック扱いされてしまう。実際に秋がパージされたところで、どこも困りはしないかもしれない。一年のうちで、衣料品店で並んでいる時間が一番短いのは秋物ではないか? 秋物は、冬と春の境目くらいに、一応もう一回登場チャンスはあるのかな。だとしても、一番ウェイトが低い。この前寄ったスーパーかどこかで、もうおせちの予約が始まっているのには目眩がした。まだクリスマスさえ過ぎてねえ。秋で、そんな勇み足に予約を取るような行事があるだろうか。あるか? 運動会くらいしか思いつかないし、運動会に予約はいらない。昨日くらいに、運動会の嫌な思い出が蘇ったのを思い出した。個人の体験を勝手に感動に変換するなボケという記憶だったが、語るに足りぬので置いておこう。八角を入れて、鶏肉で中華スープを作ってみた。今まで、なんか足りねえんだよなと思っていたピースが綺麗にはまって、あぁ、私が追い求めていた中華っぽさのひとつはこれだったのだなと分かった。それ自体をかじっても美味しくはない。

どの指でヒッチハイクすればいいい?

本屋に行った。伊藤計劃の本を2冊買った。劃の字がかっこいいのでいつか読もうかと思っていたのだが、今日は目当ての本がすんなり見つかる前によろめいたので、手に取った。逝くのが早過ぎたタイプの人ではあるが。大学の同じクラスで、伊藤計劃をめちゃくちゃに好きな人がいた。後々なかなかやべーやつだという事を仄聞したが、今頃どうしているのだろうな。誰とも連絡が取れないが。あまり片手間に読み飛ばせる本ではなさそうなので、移動時間と、家にいて空いた時間とで継いで読んでいかなければ内容を忘れそうである。本来の目当ては、ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイクガイド』全5巻だったのだが、234巻しかなかった。なんでだ!!! おい!!! おいぃぃぃぃ!!!! 在庫検索システムでは1巻があるはずだったのだが、店員に聞いてみたところ、他のところに挿さっているか、お客様がレジを通さずにお持ちになった場合、在庫データと相違する事があるらしい。他の棚にあるのは、図書館やスーパーなんかでもしばしばあるところだけども(ない方がいいのだが世の中にはどうしてもやべーやつがスポーンするのだ、残念ながら)、後者の憶測は面白いなと聞きながら思った。お客様がレジを通さずにお持ちになった場合、とは、それすなわち万引きではなかろうか。万引きをそんな表現するとは、ものすごい迂遠の筆を持った人だった。いつか使う機会が来たら、私もその言い回しを採用してみよう。よって、手元には現在、234巻しかない。シリーズ物が最初から読めず、揃っていない屈辱を久しぶりに味わった。西尾維新刀語も、ふと思った時に全部買って読もうかと思っているのだが、だいたい12巻のうちどこかが抜けているので、ごっそり持っていく事ができない。今だにちらほら売れ続けているのはすごい事だが。伊坂幸太郎の新刊も出ていた。買おうか、どうしようか。文庫ばっかり読むが、ハードカバーで本を読むと、1500円のランチを食ったような気分になる。あれはあれでしか得られない体験だ。1500円のランチなんか食った事ないわと判じようとしたが、イギリスで昼飯食ったら、それくらい払っていたかもしれないな。外貨換算になると、金銭感覚は変貌する。ふりがなをつけるように、そのままコンバートされるのではないから当たり前の話なのだが。宇宙クリケット戦争だか、面白そうなタイトルがついているから、私は早く銀河にヒッチハイクしに行きたいのだ。

oh my nebula

日曜日に、外に出るにはそろそろ上が欲しくなるなと思っていたが、今日はすごかった。一足飛びに、冬の先っちょが頭をめり込ませてこちらを見ている。やあ。ずいぶん早い到来だが、どこかで秋を見なかったか。カメとウサギの話じゃないけれど。見なかった? そうか。今年の冬は、脇道に迷い込んで冷たく野垂れ死にしているのかもしれないな。朝起きると、空気のしんと沁み入るような感じが懐かしかった。喜ぶべきか舌打ちすべきか、今年も季節は巡っているようだ。水道から迸る水の冷たさに、思わず身を引いてしまった。私の家の水道タンクは露天屋外にあるらしく、冬の冷たさは覿面に水に反映される。手荒れの治りが遅くなってきたところだが、これはもう、しばらく数ヶ月は治るんだか治らないんだか分からない、半端なステータスの手で生活する事になりそうだ。洗濯物も冷たかった。突然冬の朝が到来したのもあるが、変に疲れていたのもあって、今日の目覚めは遅かった。半日も干せていない洗濯物が、そろそろ乾いているんだか乾いていないだか分からないようになるだろう。ドラッグストアと、ちょびっとスーパーで買い物をした。ドラッグストアで薬を買った事は、ハンドクリームは薬に含まれるのか、薬用品という括りだと入ったりするのかな、ないため、私の人生でドラッグストアがドラッグストアであった事はなく、色んなものが他所で買うよりちょびっと安いストアであり続けている。ドラッグストアとして顕現した時が、多分私の死に目だろう。そこまでめちゃくちゃに体調を悪くする事がない、あるいはないように生活しているので。最後に薬を飲んだのはいつだろうな、インフルエンザにかかった時、卵型の変なデバイスで粉薬を飲んだ記憶はある。あの薬で自殺する子供がいて、取り沙汰されていたような気がする。アストラゼネカみたいな、語呂のいい名前だったはずだが、思い出せない。あとは、高校最後の方で、受験ストレスのあまり帯状疱疹を発症した時に、抗ウイルス剤みたいなのを飲んだかもしれない。記憶がない。安い歯ブラシのかためを、あの店が置かなくなったのか、需要がないのでメーカーが作らなくなったのか、最近見つからないため、100円くらいいいか、と思ってGUMの高いやつをまた買った。古いのと取り替えると、仕上がりの感じが全然違った。高い歯ブラシは、取り替え時とされるくらい損耗しても、毛が開かないのだ。そんなところで自己判断と自律を試してくるなよ、と思った。